お盆の日、小桜屋敷に集まった空魚、鳥子、小桜、霞。
しかし、奇妙なコンクリートブロックでできたお墓を壊したことをきっかけに、屋敷で不可解な怪異が起こり始める。
やがて三人を襲ったのは、身体を拘束し、本人の意思とは無関係に「猥談」を語らせ続けるという、あまりにも嫌な怪異だった。
話しても、話しても終わらない。
果たして、この奇妙な怪異から逃れる方法はあるのか──。
私と鳥子がゲートを潜って裏世界から小桜屋敷の玄関前に出ると、空気の層を突き破ったような感覚とともに、高温で湿り気を帯びた空気が全身にまとわりついてきた。
立ち止まった途端、全身から一気に汗が噴き出す。背負っていた探索用のリュックと背中の隙間に汗が滲み、ユニクロのエアリズムでも捌ききれないほどの汗が流れ出てくる。汗の染みついたインナーが肌にぴたりと張りつく感覚が、えもいえぬ不快感を与えてきた。
八月十六日。真夏の太陽が私たちの頭上で燦々と輝いている。
私はポケットに突っ込んでいたハンカチで、頭から垂れてきた汗を無造作に拭った。
それにしても、表世界は裏世界に比べてあまりにも暑すぎる。体感で五度は違うと思う。裏世界と表世界の気温と湿度が同じだと仮定しても、明らかに裏世界の方が涼しい。
なぜだろう? 大量の植物に囲まれているからだろうか。たしか、そういう現象があると子供の頃に理科の授業で習った記憶がある。
あとは単純に、道路を舗装するコンクリートやエアコン、車などの廃熱、その他諸々の有無が暑さの原因なんだろうな。
私が雑に考えをまとめていると、隣で鳥子が手で顔をあおぎながら言った。
「暑いねー、空魚。大丈夫?」
「うん。平気」
鳥子はそう言うと、バッサバッサと豪快に服の裾を上下に振った。そのたびに薄っすらと割れた腹筋がチラチラと見えて、私は目のやり場に困り視線を上げる。
今日の鳥子は、頭の後ろで長い金髪を一つに括っている。その頭には、シンプルな白い無地のキャップを被っていた。
そっか。キャップの有無や色も、体感温度の上下に関わってくるんだったっけ。金髪の鳥子に比べ、黒髪の私の方が当然日光を吸収しやすく、熱くなりやすい。
今度から夏の間は帽子をかぶることにしよう。
などと考えながら、私も鳥子にならって服をバサバサと振った。
「あー! だめ、無理! 暑い!」
「そうだね」
少しでも汗が引くようにと数秒あおいだのだが、むしろその運動によって滲み出る汗の方が多い気がして、私も鳥子もすぐにやめた。
こんなことをしているより、クーラーの効いた小桜屋敷の中に入れてもらってシャワーを借りた方がずっといい。
私と鳥子が小桜屋敷の玄関の方へ振り向くと、燐光が淡く揺らめくゲートの向こうに、人影があった。
──人!? まずいっ!
とっさに私はマカロフをホルダーから抜いて背後に隠す。
鳥子もAKが少しでも体の陰に隠れるように背負い直した。
……バ、バレたか?
ていうか、誰? 配達員か?
ゲートから出てきたの……見られてた?
どうする? く、口封じ……?
私の物騒な考えをよそに、人影は微塵も動こうとしない。
不思議に思った私は目をすがめ、きらめく燐光に歪むゲートの向こうにいる人影を見た。
立っていたのは………………小桜だった。
ポタポタと顎から汗を垂らし、地面に汗の染みを作りながら、無言で突っ立っている。
「あれ、小桜? どうしたの?」
私より一足先に鳥子が小桜の方へ向かうと、寄り添うように体を屈めて訊いた。
「大丈夫? 汗すごいよ。待っててくれたの?」
「ん……あ」
小桜は鳥子に服の裾で汗を拭かれながらも、生返事するだけで私たちの方を見ようともしない。
その視線は、鳥子の背後の真横あたりに固定されているように動かなかった。
経緯はよくわからないが、これは少しまずいかもしれない。
「小桜さん、平気ですか? 頭痛とか、吐き気とか、何かありませんか?」
「……おう」
当然のように、私の質問にもまともに応えない。
私は自分用に買っておいた、半分以下に減ったスポーツドリンクを取り出し、小桜に差し出した。
「これ、飲めますか?」
「……ん」
生気のない反応しかしないので、私は小桜の手に無理やりペットボトルを持たせ、そのまま口元へ近づける。
「飲んでください。小桜さん」
「んん……」
私は手を離して様子を見た。
もしこれで手が震えてペットボトルを取り落としたり、キャップを開けることすらできないような状態なら、救急車を呼ぶ必要があるかもしれない。
できればスマホで脱水症や熱中症、日射病なんかの判断基準をスマホで調べたいが、正直、医療に詳しくもない私には冷静な判断なんてできそうになかった。
……いや、そもそも私の勝手な独断なんかじゃなく、もうさっさと救急に電話した方がいいのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、小桜は問題なくボトルのキャップを開け、飲み口に口をつけるとゴクゴクと中身を飲んでいった。
その姿を、私と鳥子は息を詰めて見守る。
そうして、入っていたジュースをすべて飲み干すと、私たちの間で安堵のため息が漏れた。
とりあえず、これはできるようだ……。
「飲めましたね、小桜さん」
「……当たり前だろ。飲める」
さっきより口調もまともになった。
私は両手で小桜の頬を持ち上げ、グニグニと揉みあげる。
前に小桜がおかしくなった時も、こうして元に戻してやった記憶があったのだ。
実際そうしていると、最初は曖昧な反応しか返さなかった小桜が、徐々に眉間に皺を寄せ、持っていたペットボトルを手放して私の手を掴んだ。
「何すんだ……離せ」
小桜は私の手を振り払う。
私は小桜に確認するために訊いた。
「平気ですか? 小桜さん」
「平気……? なにが?」
小桜が仏頂面で言う。
ついさっきまでの自分の状態を理解していないのか?
「小桜さん、ここにずっと立ってたんですよ。覚えてないですか?」
「ここ?」
そう言うと、小桜は足元を見つめた。
釣られて私も小桜の足に目をやる。
いつものクロックスも履いておらず、素足だった。
小桜は不思議そうに首を傾げると、顔を上げてさらに首を傾げた。
「なんで……?」
「それはこっちが知りたいですけど」
どうしよう。
やっぱり熱中症とかで記憶障害が出てるんじゃないか、これ……? もしそうならマズい……!?
い、119番って何番だっけ?
私がやや焦りながら救急の電話番号を思い出そうとしていると、小桜が自分の顎に手を当てて、ぽつぽつと何やら話し始めた。
「たしか……あたしが部屋で仕事してたら、外からおまえらの騒ぐ声が聞こえてきたんだよ」
「騒ぐ?」
私はついさっきまでの自分と鳥子の行動を思い出す。
確かに帰ってきてから少しは声を出しはしたが……そんなにやかましく喋っていた覚えはない。
仮にうるさかったとしても、その声だけでどうしてこんなことになるんだろう?
私が頭に疑問符を浮かべていると、小桜は段々と勢いがついてきたように早口で喋り始めた。
「だから、あたしさ、いいから入ってこいよ。近所迷惑だろってマイクごしに何回も言ったんだよ。なのに、おまえらぜんぜん入ってこなくて、こっちに来てくれ、こっちに来てくれって、しつこいからさ……仕方ないから玄関開けて外に出たら──おまえたちにこうされてた。……結局なに? なにを見て欲しかったんだよ?」
……なんだか、よくわからない。
小桜の話す内容にも身に覚えがなかった。
念のために私は質問した。
「……小桜さん、それ何時ごろかわかりますか?」
訊かれて、小桜の瞳がヒョイと左上に動く。
「少なくとも……十三時半以降だったはずだけど」
「十三時半……」
私は小桜の言葉を繰り返しながら、自分のスマホを見る。
……十三時四十二分。
私は少し安堵した。
素人判断ではあるが、炎天下の中、何時間もここに立っていた、というわけではないなら平気そうだ。
「空魚、どう?」
「うん。十分から長くても二十分くらい外にいたみたい。軒の下だから直射日光も浴びてないみたいだし、平気だと思う」
「よかった……」
鳥子は安堵の息を漏らしながら、持っていた探索用のリュックサックを地面に置いて、小桜の両肩を手で掴んだ。
「でも調子悪そうだったら、すぐに病院に行くからね?」
言われた小桜はいぶかしげな表情で鳥子を見ている。
どうやら、自分が何をしていたのか、まだ曖昧にしか理解できていないようだ。
かくいう私も、小桜の言動に納得できていない。
熱中症などでなければ、さっきの小桜は一体なんだったのか?
私たちに呼ばれて小桜が玄関まで来ていた、という話の核は時間的にも内容的にも食い違っている。
小桜は十三時半に私たちに声をかけられたと言っていたが、そもそもその時間、私たちはまだ裏世界にいたはずだ。帰ってきてからも、小桜を玄関から呼び出すようなことはしていない。
つまりこれは、小桜が酷い寝ぼけをかましていたわけじゃない限り、また裏世界が私たちにちょっかいをかけてきているのかもしれない──という可能性が否定できない。
だがまあ……その小桜もひとまず正気に戻ったことだし、話だけなら屋内でもできる。
全員が本物の熱中症にならないように、屋敷の中に入れてもらうとしよう。
私は小桜が落とした、空になったスポーツドリンクのペットボトルを拾って小桜に言った。
「とりあえず中に入りませんか。ここだと暑い──」
「お盆も今日で終わりだなと思ったんだよ」
「え?」
私は小桜に話を被せられて、戸惑いつつ応える。
「……ああ、はい?」
……確かに今は盆休みの季節だ。
だからこそ私たちは大学に行く必要もなく、裏世界での探索をすることができている。
…………だけど、どうして今その話をするんだ?
またおかしくなったのか?
「霞の教育のために、精霊馬でも作らせるのもいいかと思ったんだけどな……」
「精霊馬ですか」
「ねえ空魚、ショウリョウウマってなに?」
小桜の異変にまだ気づいていないらしい鳥子が、無邪気に訊いてくる。
私は目を閉じると、どうしようかと迷って、とりあえず鳥子の問いに答えることにした。
「お盆の季節に作るお供物で、ナスとキュウリに割り箸とか細い木の棒を刺して作るやつなんだけど、知ってる?」
鳥子は記憶を探るように顎に指をやり、数秒ほど静かになってから、コクコクと頷いた。
「昔、おかあさんが見せてくれたかもしれない。懐かしいなあ……あれってなんのためにやるの?」
「キュウリは足の速い馬を表していて、『あの世から早く家に帰って来てね』っていう意味。ナスはのんびり歩く牛を表していて、『帰るときはゆっくりでいいからね』っていう意味があるらしい」
「へえー」
鳥子は興味深そうに深く顎を引くと、小桜に向かって訊いた。
「それを霞に作らせようか考えてたの?」
「ああ……」
「それ、いいね。素敵な行事だし、やってみたら?」
「……そうだな」
そう言ったが、小桜は気乗りしない態度だった。
自分から言い出したのにおかしな気がして、私は小桜の顔を覗き込んで言った。
「なにかできない理由があるんですか?」
「いや、それはない。ないんだが……」
小桜はためらうようにモゴモゴと言葉を回していたが、しばらくしてゆっくりと話し出した。
「呼べる霊がいるあたしが作るならともかく、霞は誰のためにそんなもの作るのかと思ってさ。霞がどんな生い立ちなのかわからんが、あたしのエゴで霞にそんなもの作らせるのはどうなのか……とか思ってた」
予想よりも重たい言葉に驚いて、思わず私は考えたことを口からポロッと出してしまった。
「小桜さん、そういうの気にするタイプだったんですね」
言ってしまってから余計なことを言ったと思い、手で口を押さえた。
だが、小桜の反応は予想と違った。
なぜだか寂しそうに目を伏せた。
「そうだな。昔のあたしだったら、深く気にしないで霞にやらせてたと思うんだ。だけど、なんでだろうな……変なこと考えちまってさ。冴月が──身近な人間が死んだからかな」
そう言って小桜は目を伏せた。
視線を動かすと……鳥子まで、なんだか寂しそうにしている。
急にその場の雰囲気が重たく、暗いものになったように感じた。
私は口を開いた。
この空気が続くことが、言葉にしがたいほど嫌だったからだ。
「精霊馬、そんなに深く考えなくてもいいと思いますよ。誰が来るとか、誰が来ないとか、難しく考えるイベントでもないですし。飾りみたいなものですよ。きっと」
「うむ……」
私の無責任な言い様に応えて、小桜はまた視線を誰もいない方へと向ける。
私たちが裏世界から帰ってきた時にも向いていた方角だ。
私も小桜の視線の先を目で追うと、屋敷の玄関の軒下に、日差しから隠れる形でコンクリートブロックが二つ置いてあった。
横に倒れたブロックの上に、同じブロックが縦に積まれている。
横倒しになっているブロックの上には、どこかから摘まれてきたのか、一輪の白い花が置かれていた。
そっと添えられているようにも見えた。
コレって……。
私がコンクリートブロックを観察していると、小桜を挟んだ隣で鳥子が声を上げた。
「お盆や精霊馬って、冴月のことも呼んであげられたりするのかな……」
「は?」
鳥子の言葉を聞いて驚いた私は、首を捻って大きな声を出してしまった。
すると鳥子は、言い訳するように両手を上げた。
「ほ、ほら。この行事って亡くなった人を呼ぶものじゃない? もしそうなら、誰が冴月を呼んであげられるのかなって、そう思ったの……小桜は、冴月のお父さんとかお母さんの話、知ってる?」
「いや、知らない……な?」
小桜は自分で言っていて不思議そうに首を捻った。
なんで小桜すら知らないんだ? と口を挟みたくなったが、今は鳥子の話の方が重要だった。
「なら、私と小桜で作らない? 精霊馬。あ、もちろん空魚は作らなくてもいいからねっ」
ワタワタ、オタオタとしながら鳥子がそんなことを言う。
私は何も言わず、そんな鳥子を目をすがめてジッと見つめ続けた。
「さ、冴月ももう、きっと何かしてきたりしないからさ……ダメかな」
「いや、別に構わないんだけど」
「……本当に?」
鳥子が私の顔色を伺うように不安そうな顔で訊いてくるので、私は鳥子の目を見ながらゆっくりと頷いた。
「本当に。急に変なこと言うからビックリしただけ」
「そうなの? それじゃあ、どうしてさっき『は?』って言ったの?」
「……だから、ビックリしたんだってば」
正直に言うと、「閏間冴月なんかを」と思うところがなかったわけではない。
だけど、完全に亡くなった人──というのも変な表現だが、除霊して無害化した人間にまで腹を立てるのは、大人気がないような気がして気が引けた。
……いや、ていうかよく考えると、たったいま小桜が裏世界からの干渉を受けたらしいという疑惑があるのだから、素直にそう苦言を呈するのもありなのかもしれない。
鳥子は喜ばないだろうが、死者を招くような風習を閏間冴月にまで行うのは避けた方がいい気がする。
そう説得の言葉を考えて私が息を吸うと、鳥子が腰を屈めてイタズラっぽい笑みを浮かべ、私に問うてきた。
「……私が冴月の話したから、嫉妬したんじゃなく?」
「してなあい!!!」
私は吸い込んでいた空気を全部使い切り、大声で否定した。
それがあまりにも子供っぽくて、私は歯を食いしばる。
ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、図星だったことを否定できなかったのだ。
「してたよー!」
そう言って笑いながら、鳥子が冗談っぽく私を追いかけ、抱きついてこようとする。
私は反射的に逃げ出して、軒を支える太い柱の後ろに隠れた。
鳥子はまるで子供か、飼い主が遊んでくれるのを察知した大型犬のように両手をワシワシとしながら、私を追い込もうと右に左に軽やかにステップを踏んでいる。
私は柱越しに鳥子に向かって言った。
「もう、なにやってるの……暑いから中入ろうよ!」
「えー、やだ!」
私の言葉をそう言って切り捨てると、鳥子は柱を回り込んで私を追いかけようとして──何かに蹴躓いた。
「あっ!」
私と鳥子の声が重なる。
鳥子が足元にあったコンクリートブロックに足を引っ掛けてしまったのだ。
鳥子はバランスを崩して転んでしまったが、うまく受け身を取ったようで平気そうだ。
私は慌てて近寄ると、呆れながら鳥子に手を差し伸べた。
「もう……大丈夫?」
鳥子はバツが悪そうに両手の土埃を払うと、私の手を取って立ち上がった。
「えへへ、ごめん。調子に乗りすぎちゃっ──」
「何してんだ!!!!!」
私と鳥子は驚いて目を剥いた。
私たちの背後に無言で立っていた小桜が、いつもの怒鳴り声よりもずっとずっと大きな声で怒鳴ったのだ。
小桜の顔を見ると、小桜自身もそんな自分の大音声に驚いているらしい。
手で拳を作って口を隠し、気まずそうな顔をしていた。
「小桜……私、調子乗りすぎちゃった。ごめんね」
「ごめんなさい。小桜さん」
鳥子に続いて私が謝罪すると、小桜は怒りの残り香を掴むように軽く眉をひそめ、ワントーン低い声で言った。
「……危ねえだろ。怪我したらどうすんだ」
小桜は鳥子を見ると、そのまま鳥子が倒したコンクリートブロックを見つめて言う。
「これって大切なものなの?」
小桜の視線を追っていた鳥子が訊くと、小桜は首を振った。
「いや……ただのコンクリートだけど」
なら、なぜそんなに怒ったんだろう?
私は疑問を覚えた。
本当に怪我しかねないからとか……?
にしても、ただ事じゃない怒鳴り声だったような気がする。
私が脳内の疑問符を追いかけているうちに、鳥子がコンクリートブロックを指差して小桜に訊ねる。
「ここにこんなものあったっけ?」
「知らん。いつのまにかここにあった」
「お花なんて添えて、お墓みたいですよね」
言うと、小桜が顔を上げて私を覗き込んできた。
私はまた言葉選びを間違えたのかと、小桜からの怒声に備えた。
だが、小桜は怒りもせず、顔を再びコンクリートに向けた。
「そうなんだよ。なんか墓みたいでさ……」
「気持ち悪くないんですか? どこかに置いてきましょうか?」
私は怒らせてしまった手前、なにか機嫌でも取ろうかと小桜の顔色を伺ってみる。
小桜は少し迷うように沈黙すると、首を振った。
「いや、大丈夫だよ。ありがと、空魚ちゃん」
言って小桜は、暑そうにパタパタと手で顔をあおぐ。
小桜のこめかみのあたりから、つーっと一筋の汗が頬を伝って顎で止まった。
「中入るぞ。汗でびちょびちょだ」
小桜が玄関のドアを開けて屋敷に入っていく。
私と鳥子は小桜に続いて、小桜屋敷にお邪魔させてもらった。
2
私と鳥子が靴を脱ごうと三和土に立つ。小桜だけは裸足だった。
小桜屋敷の中は、外とは打って変わって涼しかった。屋敷全体を冷房で冷やしているわけでもないだろうに、どうやってこんな快適な室温を保っているのだろう。
うちもこれくらい涼しくできたらいいのにな。
エアコンをつけてもなおサウナと化しているボロアパートの我が家に思いを馳せていると、どこからともなく黒髪の小柄な影が現れた。
霞だ。
どこかで中間領域を経由してシフトしてきたのだろう。
「ただいま、霞」
「………………」
小桜の言葉に、霞はこくりと頷いた。
霞はよく喋るときと、ほとんど喋らないときがある。今日は後者だ。省エネの日なのかもしれない。
「おかえりだよ、霞。ね?『お、か、え、り』」
鳥子が一音ずつ区切りながら挨拶を言わせようとする。
しかし霞は答えない。
額に浮かんだ汗を、不快そうに袖で拭うだけだった。
外から戻ってきた私たちには涼しく感じられても、ずっと屋敷の中にいた霞にとっては、玄関でもまだ暑いのかもしれない。
そこで、ふと思った。
外にあった、コンクリートブロックを積み上げた墓のようなもの。
あれは、もしかしたら霞が作ったものではないだろうか。
DS研で第四種の患者たちがTさんにやられたときにも、霞は被害に遭った患者たちの部屋と思われる場所に花を供えていた。
霞は、死んだ人間に何かを供える習慣があるのかもしれない。
私は腰を折り、霞の視線に合わせた。
「外にあるアレ、霞が立てたの?」
霞は私を見ると、コテンと首を傾げた。
……情報が足りなかったか。
「コンクリートを組み合わせて作ったアレのことね。すごいね。もしかして、お墓なの? 誰のお墓か訊いてもいい?」
霞は相変わらず首を傾げたままだった。
不可解な質問をされた、とでも言いたげに目を細めている。
もしかして、「コンクリート」という言葉を知らないのかもしれない。
難しいし、めんどいな、この子との会話。
もういいか。
余計なことを訊くのは諦めよう。
私はポケットに手を突っ込み、携帯食として持っていたお気に入りの塩羊羹を取り出した。
「これ、あげるよ」
霞はやはり何も言わなかった。
ただ、差し出された塩羊羹を受け取ると、すりガラス越しの日光にかざして、まじまじと眺め始めた。
数秒経っても食べるでもなく、しまうでもない。
……もしかして、開け方がわからないのか?
私はポケットから、もうひとつ塩羊羹を取り出した。
霞から見えるように持ち、開け方を実演する。
「ここの飛び出たところをピーッて引っ張って、ギュッて両端を押すだけだよ。……ほら」
包装を開けた私は、そのまま羊羹を口に含んだ。
今日の探索で大量に汗をかいたせいか、羊羹に含まれている薄い塩気はほとんど感じない。
むしろ、いつもより甘く感じる。
霞は私の動きを眺めていたが、やがて見よう見まねで包装を開けた。
そして、パクリ。
意外と飲み込みが早い。この子、もしかすると賢いのかもしれないな。
霞は私と並んで、口をモチョモチョと動かしている。
やがて、満足そうにごくんと飲み込んだ。
どうやら気に入ってくれたらしい。
「食いしん坊だ」
隣で私と霞のやりとりを見ていた鳥子が、優しい声で言った。
小桜も何も言わず、私たちを眺めている。
……どうやら、待っていてくれたらしい。
私は慌てて口の中の羊羹を飲み込んだ。
「すみません。時間取っちゃって」
「いや、いい。ありがとな」
小桜は軽く手を振ると、裸足の足裏を三和土でパッパッと叩くようにしてから、室内へ上がっていった。
そのときだった。
今まで黙っていた霞が、私に向かって口を開いた。
「ありがとナス」
…………。
私は固まった。
霞はもっと寄越せと言わんばかりに、私へ手を差し出している。
──今、この子なんて言った?
私は思わず鳥子を見る。
鳥子は困ったように首を振った。
「ごめんね。今日は私、おかし全部食べちゃったから、もう持ってないや」
「…………」
違う。
そうじゃない。
私はもう一度、霞を見る。
霞は私の反応が気に入らなかったのか、少し不満そうに眉を寄せた。
そして──。
ふっ、と私たちの目の前から消えた。
「…………」
霞が消えた場所から視線を横へ滑らせる。
小桜と目が合った。
小桜は、なんとも言えない苦々しい顔をしていた。
「……とりあえず風呂だ」
小桜はそれだけ言うと、汗でびしょびしょになった服をつまみながら風呂場の方へ歩いていった。
私はその背中を見送った。
……なんだったんだ、今の。
いや、考えても仕方がない。
とりあえず私も、汗を流したい。
私と鳥子は小桜がシャワーから出てくるのを待つことにした。
3
「霞がな……ネットの影響で〈語録〉を覚えて、使い始めちゃったんだよ」
私たち三人が風呂から上がり、リビングの椅子にそれぞれ腰を下ろしたところで、小桜が口を開いた。
白木のテーブルを挟んで、私から見て斜め右に座っている小桜は、深刻そうな顔をしていた。
その隣には、いつの間にか再びシフトしてきた霞が、子供用の背の高い椅子にちょこんと座っている。
私と小桜が自分の話をしているというのに、霞は我関せずといった様子で、無表情のままテーブルの中央を眺めていた。
「それは……大変ですね」
私は真正面に座る霞を横目に見ながら、小桜に同意した。
「ねえ、それってどう大変なの?」
鳥子が訊いてくる。
私は小桜と顔を見合わせた。
どう説明すればいいのか、二人ともすぐには言葉が出てこなかった。
「〈語録〉ってなに?」
鳥子がもう一度訊く。
「お前は知らなくていいんだよ」
私に代わって、小桜がぶっきらぼうに答えた。
「え、ひどいっ。二人だけで秘密作るの?」
「違えよ」
「私だけ仲間はずれってこと?」
「だから違えって」
小桜は組んでいた手を解き、指先で自分の頭をトントンと叩いた。
「脳の容量を無駄にしないよう、お前のために言ってやってんだよ。マジでこの手のネットミームはろくでもねえからな」
小桜の言葉に、私は頷いた。
「そうだよ、鳥子。余計な知識だし、卑猥な情報だから知らない方がいいよ」
「余計って……そんなにダメなの?」
鳥子が私の方を向く。
「ていうか、鳥子が変なこと知っちゃうのが嫌なの」
「そんなの空魚のワガママじゃん……」
鳥子はさらに唇を尖らせた。
それでも私が譲らないのを見ると、少し不満そうな顔のまま続ける。
「空魚と小桜はもう、その変なことは知ってるんでしょ?」
私は頷いた。
「私と小桜さんは、もう脳みそ丸洗いしない限り手遅れかな」
鳥子が小桜を見る。
小桜も私と同じように頷いた。
「マジでやめとけ」
それを聞いた鳥子は、ムッスリとむくれた。
そして片肘を枕にして、ペタンとテーブルへ倒れ込む。
「なんかやだなあ。こういうの……寂しい」
そう言って、鳥子が恨めしげな目を私に向けてくる。
私はなんとも居心地が悪くなり、鳥子の視線から逃げるように身を縮めた。
「性的な要素が多いことだから……ちょっと話しにくいんだ」
「……私と空魚なら、今さらじゃない?」
「ちょっ!」
逃げの一手として投げたボールを、鳥子がとんでもない方向へ打ち返してきた。
私は思わず声を荒げ、とっさに小桜へ目を向ける。
斜め向かいに座る小桜は、なんとも決まりの悪そうな顔をしていた。
「……痴話喧嘩はすんなよ」
話題を持ち出した本人だからなのか、小桜はそれだけ言うと、こちらには構わずアイスコーラの入ったマグカップに手を伸ばした。
私もなんとか話の流れを変えようと、頭の中から言葉を捻り出す。
「お、お盆の真っ最中にこんな話してると、バチが当たっちゃいそうだよね。不謹慎だし……ははは」
自分でも苦しい話題転換だと思う。
小桜も呆れたような顔で私を見た。
それしか話すことないのかよ。
そんな言葉が顔に書いてありそうだ。
面目ない。
小桜は左手で頬杖をついて私から視線を外すと、右手を上下に振りながら、他人事のように言った。
「……バチが当たった時は、空魚ちゃんが〈びっくりするほどユートピア〉でもして追っ払えよ」
「いやですよ」
「……その〈びっくりするほどユートピア〉っていうのがなんなのかも訊いちゃダメなの?」
肘枕から頭を半分だけ持ち上げた鳥子が訊ねてくる。
私はほんの少し迷ってから頷いた。
「まあ……ギリ、オーケー?」
「やった!」
途端に鳥子が機嫌を直し、大袈裟に喜んで手を叩いた。
私は少し不思議に思って訊ねる。
「そんなに話したかったの? そういう、エッチな話?」
そう訊くと、鳥子は目を逸らして、照れたように小首を傾げた。
「うーんと……ちょっとだけ? 友達同士で、そういう話とかしてみたかったりしたの……かも?」
そう言って、鳥子はへらっと笑った。
その顔を横目に見ながら、小桜が私に言う。
「〈語録〉がダメで〈ユートピア〉は良いって、判断基準どこよって感じだけどな」
「なんとなくですよ。〈ユートピア〉の方は、まあ、問題ないただのネタですから。笑い話にできます。でも〈語録〉はちょっと……元ネタがあれなので」
「……そうだな。言いたいことはわかる」
小桜は軽く頷くと、アイスコーラの入ったマグカップをあおった。
いわゆる〈語録〉と呼ばれているものについては、私もネットで何度か見かけたことがある。
元になったミーム自体が、同性愛者をからかうものとして受け取られかねないのだ。
ただ私はそういうネタを見かけても、特に何かを感じるわけではない。けれど、鳥子が同じように受け流せるとは限らない。
もし鳥子がその手の話に傷ついたり、変な影響を受けたりするのは避けたかった。
ましてや、面白がって日常会話で使い始めたりしたら、それはそれでかなり嫌だ。
……そういう意味では、霞の状況はもっと厄介なのだろう。
私は正面に座る霞へ目を向けた。
霞は相変わらず何をするでもなく、少し俯き加減でテーブルの中央あたりを眺めている。
この子は、覚えた言葉がどういう意味なのかも、それを使っていいのかどうかもわからないまま、覚えたものをそのまま使ってしまう。
普通の子供だって、言葉を覚え始めた頃には似たようなことをするのだろう。
そう考えると、子供を育てるというのは、こういう小さなトラブルのたびに頭を抱えることなのかもしれない。
……保護者というのは、大変なんだな。
「……なんだよ?」
「え?」
声をかけられて、私は顔を上げた。
いつの間にか小桜のことを見つめていたらしい。
不可解そうな顔をした小桜と目が合う。
特に言うことも思いつかなかった私は、数秒黙ってから、
「ああ、いえ。お疲れ様です……霞の教育」
と、言った。
小桜は一瞬、何を言われたのかわからないような顔をした。
やがて少しだけ目を丸くしてから、苦笑する。
「まさか空魚ちゃんから、そんなこと言われる日が来るとは思わなかったな」
「なんでですか。これくらいいくらでも言えますよ」
小桜は、はいはい、と頭を振った。
「わかったよ。ありがとさん。……良かったら霞にも、教育に良い言葉で話しかけてやってくれや」
教育に良い言葉……?
小桜に言われて、私は頭の中から〈教育に良い言葉〉なるものを探した。
しかし、なかなか思いつかない。
私は唸りながら肘をつき、霞の方へ少しだけ身を寄せた。
「さっき私がお菓子あげた時に、〈ありがとナス〉って言ったよね」
霞は反応しない。
私は構わず続けた。
「〈ありがとう〉だけで良いんだよ。〈ナス〉はいらない。わかるかな?」
とっさに出てきた言葉だったが、我ながら悪くない修正だった気がする。
私は霞の返事を待った。
……待った。
十秒。
二十秒。
それでも霞は私の方に目も向けず、相変わらず何もない場所を静かに眺めている。
なんだろう。
今日は特別無口な日なのだろうか。
それとも、塩羊羹を一つしかもらえなかったから不機嫌なのだろうか。
この子、こんなに無反応だったっけ?
私はしばらく待ってから、諦めて身を引いた。
うん……。
子供の気持ちはわからない。
それだけは、よくわかった。
そんな私を見て、小桜が苦笑する。
「諦めんなよ、そこで」
「私には向いてないことがわかりましたから」
「あたしだって向いちゃいねえよ」
テーブルに肘をつき、頬杖をついている小桜に、鳥子が言った。
「でも小桜は、もう立派なシングルマザーだよね。私のママが仕事でいなかった時のお母さんみたい」
「シングルマザーねえ……」
小桜は感慨深そうに呟いた。
それから隣に座る霞へ手を伸ばし、その髪を撫でる。
指通りの良さそうな、細く毛量の多い髪が、小桜の指の間からさらさらとこぼれていく。
「何が正解なのかも、これからどうなっていくのかもわからないまま育ててるからな……」
小桜は霞の髪を撫でながら、ぽつりぽつりと話した。
「日本語のハウツー系の子育て書籍やウェブサイトだけじゃ足りないんだ。しかもそういうのって若干スピリチュアルなノイズが入ったものも多いからな。海外の論文とかも読み漁って、使えそうなものは使ってるんだが……」
小桜はそこで一度言葉を切った。
「それでも霞には、不便な思いをさせてるかもしれない。……実際、不十分なんだろうな」
「さっきの精霊馬を作るっていうのも、教育の一環だよね?」
小桜は霞から視線を動かさず、鳥子に首肯だけを返した。
「常識を教えるのに、季節の行事は教えておいて損はないだろ?」
「そういうものですかね?」
私は首を傾げた。
私は特に季節の行事を知らないことで、不利益を被った記憶がない。
だから、いまひとつピンとこなかった。
小桜はそんな私を見て、柔らかな顔つきで言った。
「何月何日がクリスマスなのかくらいは覚えさせてやりたいってのが、次の目標だな」
「う……」
そこを刺されると、少々痛い。
私はすごすごと大人しく引き下がった。
「ねえ、今からみんなで精霊馬作らない?」
私の胸の痛みを知ってか知らずか、鳥子が小桜に提案する。
しかし小桜は腕を組み、少し考えるように唸った。
「キュウリもナスもないぞ」
「なら買いに行かない?」
「ああ……面倒だが、そうするか。クソ暑いけど」
小桜はそう言ってから、霞へ視線を移した。
「霞も一緒に行くか?」
その瞬間だった。
霞が、膝の上にでも置いていたのか、唐突に緑色の物体をテーブルの中央へスッと乗せた。
私たち三人は、一斉にそれを見た。
よく見ると、それは──────キュウリだった。
キュウリには、足として棒が刺さっていた。しかし、四本ではない。
十本くらいの木の棒や、葉っぱのついたままの細い枝が、親の仇かというくらい突き刺さっている。
もはや野菜としての面影すら怪しい。
もしかして……この禍々しいブツは、精霊馬のつもりなのか?
……作ったのは霞だろうか。
だとすると、随分と邪悪なシルエットをしている。
私がキュウリを凝視していると、戸惑ったように呟いた。
「キュウリ、ウチにあったっけ……?」
そんな小桜の疑問を無視するように、霞が口を開いた。
そして、ぽつりと呟く。
「──────着いた」
瞬間。
室温が急激に下がったかのような寒気に襲われた。
私は反射的に、ぶるりと身震いする。
……なんだろう?
これは。
頭の中にあった思考が、薄い膜に覆われたような感覚に襲われる。
急な寒さへの疑問も。
霞がいつの間に作ったのかわからない、禍々しい精霊馬への疑問も。
そのほか、この場にあったはずのあらゆる思考が、頭の隅へ押しやられていく。
考えようとしても、うまく掴めない。
まるで、何かが私の思考を覆い隠しているようだった。
4
………………寒いな。
リビングに設置されているエアコンが壊れでもしたのだろうか?
震えるほどではないものの、私は腕をさすって寒さを誤魔化した。
私が見ていない間に小桜がエアコンの温度を下げたのだろうか?
だとしたら、いくら今日が真夏日だとはいえ、少々寒すぎる。やりすぎだ。
私が小桜にエアコンの温度を上げてもらえるよう交渉しようかと考えていると、不意に鳥子が声を漏らした。
「……あ」
見ると、鳥子は唖然とした表情で、何を見るでもなく目を見開いている。
「鳥子、どうしたの?」
「この匂い……」
私の問いに応えたというより、思ったことがそのまま口からこぼれたようだった。
鳥子は私ではなく正面を向く。
そして、目の前の小桜に確認するように訊いた。
「小桜、わかる?」
「……ああ、わかる」
訊かれた小桜も何かに反応していた。
眉間にシワを寄せ、口をへの字に曲げている。
二人が言うので、私も鼻を鳴らして部屋の匂いを嗅いでみる。
……そう言われてみれば、何かの花のような香りがかすかにする気がした。
けれど、私は二人のように険しい顔にはならない。
まさか部屋の芳香剤を変えた、なんて話ではないだろうし。
なんなのだろう。
状況を理解できていない私だったが、この花の匂いを嗅いで、そんな顔をする二人を見ていると、じわじわと落ち着かない気分になった。
なんでだろう。
割と最近、こんな感じになった二人を見た気がする。
あれは、たしか……。
「……あの、それって、もしかしてですけど」
私は無意識に、黒衣の女を脳裏に思い浮かべていた。
私が二人に訊くと、小桜はまぶたを閉じて数秒黙った。
それから、苦いモノを噛んだような顔で頷いた。
「冴月だな……あのバカ野郎」
鳥子は視線を下げた。
「そっか……お盆だから、会いに来てくれたのかな?」
声を僅かに柔らかくして鳥子が言う。
そのまま私に問いかけてきた。
「……空魚、どうしたらいいと思う?」
「そんなの……また成仏させるに決まってるけど?」
言って、私は口を曲げる。
私の答えが不服なのか、鳥子は表情を険しくした。
「でも、なにも悪いこともしてないよ? 冴月もきっと、良い霊になったんじゃ……」
鳥子が閏間冴月を庇うようなことを言う。
そんな鳥子の様子に、私は胃のあたりに熱を感じ始めていた。
なんでまた庇うんだよ、あんな女。
そう内心で毒づいたが、言葉にはしない。
「それは、まだなにもしてないってだけでしょ。さっさと追っ払わないと……小桜さんも黙ってないで、一緒に考えてくださいよ」
「ん、ああ。いや、でもな……」
小桜はうろたえたような顔をしている。
私は小桜にまで、なんだか腹が立ってきた。
「でももなにもないですよ。小桜さん、裏世界に連れ去られてもいいんですか」
「嫌に決まってんだろうが……そういうんじゃなくて」
語尾を濁すような小桜の言い方に、私は訊いた。
「なんですか?」
私の言葉に、小桜は組んでいた腕を解いた。
そして、私と鳥子の両方を目で見ながら言った。
「空魚ちゃんも鳥子も、いまの冴月から嫌な空気感じるか……?」
空気?
「感じない……! それ、私も思ってた!」
私が疑問符を頭に浮かべている間に、鳥子が小桜に同調した。
「鳥子……」
「空魚はどう? 嫌な感じする?」
テンションの高い鳥子に訊かれて、私は気持ちが後ずさる。
空気。
……言われてみれば、あの閏間冴月の葬式の時のような、生命の危機を感じるほどの恐怖や緊張感、脅威のようなものは湧いてきてはいない……かもしれない。
不快感はすごいが。
けれど、それは今この場において、私だけが感じているものだろう。
だけど……。
腹立たしげに、私は鳥子へ視線を向ける。
だが鳥子は、私の様子にまるで気付かず続けた。
「ねえ、もしかしたらこれ、なにか良い方向に働くかもしれないよ。この冴月とは!」
「………………」
「ね? 空魚もそう思わない?」
思案するように目を瞑り、黙りこくる小桜にスルーされて、鳥子は私に向き直って同意を求めてきた。
私は思い切り眉を歪ませ、鳥子を睨みつけた。
この子は、なぜ学ばないのだろう?
私が閏間冴月に対して良い感情を抱いているわけがないのに。
それとも、わざとやっているのだろうか?
そうは思いたくない。
けれど、あまりにも私への配慮に欠けているように感じた。私は咳払いをひとつすると、腕を組んで鳥子に向き直った。
「最初はよく見せておいて、後から人の足元掬うって、悪党の常套手段だと思うんだけど?」
「それは、そうかもだけど……」
不機嫌さを隠さず言う私に、鳥子は言葉を濁らせた。
「第一さ、鳥子は冴月さんとは、もうサヨナラしたでしょ? なんでまたそんな会いたがってるのよ」
「そうなんだけど……そうじゃなくってっ」
必死になって抗議する鳥子の姿に、私は苛立ち紛れに首を振った。
そして、小桜へ視線を移す。
「小桜さん。どう思いますか」
「……空魚ちゃんの懸念はよく分かる。アイツなら、いきなり牙向いてきてもおかしくないからな」
言われて、私は顎を上げる。
「やっぱりそうですよね」
「違う。最後まで聞けよ」
小桜は私に一瞥をくれると、ぴしゃりと言った。
「……空魚ちゃんの意見は理解しつつ、あたしは鳥子の主張も分からなくもない」
「……鳥子が言ってるのって、なんとなく良くなりそう、とか曖昧なやつですよ?」
「わかってるよ。鳥子の主張は甘い。だから空魚ちゃんの意見を採用する。じゃあな冴月、ってな」
「えぇ……」
小桜の言葉に、鳥子が悲しそうに首をすくめる。
鳥子の物言いに、私はいよいよ胃のあたりがムカムカとして気分が悪くなってきた。
「良かったです。小桜さんまで変なこと言いだしたらどうしようかと思いましたよ」
「あたしが言いたかったのは、この冴月からはちゃんと人間の気配がして、悪意を感じないから鳥子の意見もわかるって言いたかっただけだ」
「小桜ぁ……」
小桜から援護を受けたことで気を持ち直そうとしているのか、鳥子が甘ったれた声を出す。
私は鳥子だけでなく、小桜にも腹を立て始めていた。
あっちにもこっちにも怒りが湧いて……ああ、だめだ。もう、しんどい。我ながら自分のことが嫌になった。
それでも、言わずにはいられなかった。
「……小桜さんも、ちゃんとサヨナラしてたクセに……」
「うっせぇな……大人しくアイツが人として振る舞うなら、あっちから引き戻せるかもしれないなら、そうしてやりたいって思ったんだよ……一瞬だけな」
「できるんですか? そんな都合よく」
私の指摘に対して、小桜は首を振った。
「無理だと思ったから、空魚ちゃんに賛成したんだ」
「ええ。どんなに人間っぽく振る舞ってても、お盆に合わせて来てるなら、もうそれ霊ですから」
「ああ。だから何をしても、人間としては帰って来れない」
言うと小桜は、俯く鳥子に確認するように言った。
「そういうわけだ、鳥子。潔く諦めろ。今のパートナーは空魚ちゃん一人なんだろ?」
「………………」
俯き、黙りこくる鳥子に、小桜は厳しく言い聞かせた。
「割り切れ。不義理はすんな」
私だけでなく、小桜にまで反対表明を食らってしまった鳥子は項垂れている。
私も小桜も、鳥子の答えを待っていた。
長い沈黙が落ちる。
小桜のマグカップから、カラリと氷が溶け落ちる音がした。
そのころになって、鳥子が顔を手で拭って言った。
「……そうだよね」
言うと、鳥子は私に顔を向ける。
涙で下まぶたのアイラインが崩れていた。
私はにわかに動揺したが、それが表に出ないよう顔に力を入れた。
「ごめんね? 空魚……私、もう変なこと言わないから」
「……うん。わかった」
私と鳥子のやりとりを見届けると、小桜は深く息を吸った。
そして、どこにいるともしれない閏間冴月に向かって言った。
「おい、冴月。わりぃけど、やっぱお前の居場所、ここにはねえんだわ。なんで出てきたのかは知らねえが……マジでお盆だからか? それともさっきお前の話したからか?」
小桜は一度言葉を切る。
「とにかく、あたしは霞の世話で手一杯。空魚ちゃんも鳥子も、互いの相手で手一杯なんだわ。だからさっさと帰んな──ああ、それと、一応言っとくけどよ」
小桜が声を低くして、威嚇するように言う。
「またるなの奴にまで手ぇ出したら、今度こそマジで軽蔑するからな? 大人しく帰れよ」
小桜は言いたいことを言い切ったのか、椅子に深く座り直した。
「………………」
三人分の沈黙が部屋を満たす。
それぞれの息遣いがリビングにこだました。
鳥子と小桜は、再び閏間冴月との別れを済ませた。
私はそれを見届けたのだった。
5
十分後。
「………………」
小桜は眉をしかめ、天井のあたりを睨みつけながら無言で腕を組んでいる。
あれから僅かに時間が経っていたが、私たちは変わらずリビングに座ったままだった。
特に何かやりとりしていたわけでも、談笑していたわけでもない。
状況が変わっていないのだ。
「……ねえ、小桜」
「ああ」
鳥子が訊き、小桜が苦々しげに答える。
「冴月、まだいるよね?」
「……ああ」
鳥子の質問に言葉を変えず、小桜は再び不愉快そうに答えた。
あの言葉にし難い存在感は、より密になっている。
花の香りも濃厚になっている。
変わっていないというより、ハッキリ言って悪化していた。
部屋もまだ寒いままだ。
私のイライラは頂点に達しようとしていた。
なんなのだ、この閏間冴月という女は。
聞き分けのない子供か。
こどもおばさんじゃん。
私が脳内で閏間冴月を罵っていると、小桜が吠えた。
「冴月よお、おめえマジでいい加減にしろよ? もしこれで夜にあたしの枕元にいたら、マジでぶん殴るからな!」
言い終わり、小桜が黙る。
シーンという耳鳴りだけが場に残った。
小桜が腹立たしいと言わんばかりに拳を作り、テーブルを控えめに小突いた。
「くっそ、返事がねえから分かんねぇわ……空魚ちゃん、悪いけどまたコックリさん作ってくんない?」
小桜からの提案に、私は少し考えてから首を振った。
「やめた方がいいと思います。あれ、一応は霊とのコミュニケーションを目的としてるんで。構うと調子に乗るんじゃないかと思いますよ、この人。お葬式の時みたいに、碌なことにならない気がします」
「あー、そうか……マジでクソめんどくせぇわ」
私と小桜が同時にため息を吐くと、鳥子が前のめりになった。
「ねえねえ、空魚」
「……どうしたの?」
鳥子は先ほど涙していた雰囲気の影も見せず、普段通りに振る舞っている。
私ももう、あんな空気はごめんだった。
なるべく普段通りに返事をする。
鳥子が言葉を続けた。
「前にさ、空魚が幽霊は空気を変えれば払えるって言ってたじゃない? だから……」
「おお、ファブリーズならあるぞ。空魚ちゃん、後ろの棚にあるから取って」
鳥子がそこまで言って言葉を区切っている間に、小桜が話に割り込んだ。
だけど、大意はわかる。
小桜の言う通り、ファブリーズで祓ってみようということだろう。
効果があるかどうかはわからない。
けれど、やるだけやってみてもいいだろう。
「わかりました」
私は頷いて、椅子から立ち上がろうとした。
「あ、ちょっと待って、違うの」
鳥子が私を引き留めた。
小桜が眉をしかめて鳥子に訊く。
「なんだよ。他に方法があるのか?」
小桜に訊かれて、鳥子がゆっくりと頷いた。
「物理的な空気だけじゃなくって、他の方法でも空気は変えられる──だよね? 空魚?」
「うん? まあ……そうね?」
鳥子はなんだかモジモジしながら、頭を低くして表情を隠す。
私は鳥子の言葉の意味を飲み込めなくなっていた。
何が言いたいのか、よくわからない。
疑問と困惑を込めて鳥子を見やると、鳥子は胸の前でモジモジと指と指を合わせている。
喋り出そうとしては止まり、止まってはまた喋ろうとする。
鳥子は言葉に迷っているのか、不審な動きを繰り返していた。
にわかに私は心配になった。
鳥子の顔の前で手を振ってみると、鳥子は驚いたように私の顔へ焦点を合わせた。
よかった。
裏世界の影響でおかしくなったわけじゃなさそうだ。
「大丈夫? 鳥子」
「う、うん。平気」
ぜんぜん平気じゃなさそうな鳥子は、私から視線を逸らすと、パタパタと自分の顔をあおいだ。
顔が日焼けしたみたいに赤くなっている。
私は我慢できず、率直に訊いた。
「鳥子は何か、ファブリーズ以外での除霊方法を知ってて、それをやりたいっていうことなんだよね?」
訊かれた鳥子は目を泳がせた。
キョロキョロと忙しなく動く眼球を追うように、私は鳥子の顔を見つめ続ける。
なんなんだ、一体。
しばらくそうして鳥子の言葉を待っていると、鳥子は心を決めたようにまっすぐ私の方を向いて、首を縦に振った。
藍色の瞳が、私の両目を覗いている。
鳥子が言った。
「空魚が前に言ってた話なんだけどね……?」
「うん」
「霊って、性的な事をすると逃げていくっていう──」
「小桜さん。私、急用思い出したので今日は帰ります」
「待て! 空魚ちゃんは待て! 鳥子は黙れ!!」
私がさっさと椅子から立ち上がろうとすると、小桜が手をかざして止めた。
それでも構わず、鳥子が続けた。
「やっぱダメかな? 猥談」
「するわけないでしょ。なんでそんなことしたがるの?」
「ちょっと待って、その言い方だと私が猥談したがってるみたいに聞こえる!」
「違うの?」
「私だってしたいわけじゃないよ!」
鳥子のおバカな提案に、私は猛然と首を振った。
なんで、効果の程は不明とはいえファブリーズという手段があるのに、そんなアホな真似をしなくちゃならないんだ。
「でも、性的な話題で冴月とバイバイするの、効果的かもしれないんでしょ?」
「それは……」
鳥子に言われて、私は言い淀む。
確かにネットロアでは、猥談を話すことや性的な行動を起こすことによって窮地を脱する話は少なからずある。
なので、できるかできないかで言われれば、「できるかもしれない」というのが答えだ。
だけど……。
「猥談なんて、何を話せばいいかわからないよ……私」
なにより恥ずかしいし……。
そう言うと、鳥子は顔を真っ赤にしながら、おずおずと私へ耳打ちしようと上半身を傾けた。
私は無意識に耳を鳥子へ寄せる。
鳥子は、やや恥じらうように囁いてきた。
「その、私と空魚の話をする……とか」
……私は言葉を失った。
私が無言で鳥子の顔を見ると、鳥子も私の顔を見ていた。
不安と困惑。
そのほかにもいろんな感情が隠れた表情の中に、薄っすらと何かを期待するような色が見えた気がした。
「ざけんなよおまえら、それあたしも聞くことになるじゃねえかよ。知り合いの性事情なんざ一ミリも知りたくねえぞ!」
鳥子の囁きが聞こえていたらしく、小桜が吠えた。
すると鳥子は顎に指を当てて、神妙な顔をする。
「小桜は……喋る担当?」
「ぶっころすぞっ!!」
怒声を上げる小桜に構わず、鳥子は両手で親指を立てた。
赤らんだ顔のままで言う。
「私は……いいよ? 小桜の話とか聞いても、絶対笑ったりしないから!」
「うっせぇバーカ!」
私は、先ほどからしつこいほどに猥談に執着する鳥子が気になって、疑問を投げかけた。
「鳥子はどうして猥談にこだわるの?」
「別にこだわってるわけじゃないんだけど……」
鳥子は赤らんだ両頬を手で隠して言った。
「あえて言うなら、さっきの〈語録〉?」
それを聞いて、私は合点がいった。
鳥子は仲間外れにされたことを根に持っているのだ。
そして私と小桜の会話から、〈語録〉は卑猥な文脈で使われるものだという話を聞いて、性的なものなのだと連想したのだろう。
……なるほどねえ。
なんというか、鳥子って……。
「おまえ、もしかしなくても、ものすごいバカなんじゃねえか?」
私の代わりに、小桜が辛辣に鳥子へ言った。
不服そうな顔をする鳥子。
小桜は鳥子を構うのを諦めたのか、はたまた相手にするだけ無駄だと判断したのか、私に向き直って叫んだ。
「空魚ちゃん、とにかくファブリーズだ! ファブれ、ファブれ! 使い切ってもいいから!!」
小桜が、私の背後にある棚を指差す。
すぐそこにファブリーズのスプレーボトルが雑に置いてあった。
「わかりました」
私は椅子の上で体を捻ると、ボトルを掴んだ。
そして座ったまま、部屋のあらゆる方向に向かって満遍なく薬液を撒いた。
シュッ、シュッ、シュッ。
「ああー、待ってよ~……」
鳥子の無駄に悲痛な声が聞こえる。
私も小桜も、それをガン無視した。
私はファブリーズを、シュカシュカしまくったのだった。
6
十数分後。
閏間冴月の気配は、消えるどころか薄れることもなく、その存在感をさらに増していた。
まるで、すぐ目の前に本人が立っていると錯覚してしまうほどに。
花の香りこそしなくなっていたが、それはテーブルの上で空になったファブリーズのスプレーボトルのせいだろう。もはや暴力的とすら言えるほど強烈な芳香が室内に充満していて、鼻がすっかり馬鹿になってしまっているのだ。
ファブリーズを撒き散らしまくったせいで、私たち三人の肌もしっとりしている。部屋の湿度まで上がったのか、さっきよりもずっと蒸し暑く感じられた。
「あたしさ……」
ファブリーズの薬液がカップの中に入らないよう、両手でマグカップを覆っていた小桜が、ようやく片手を離した。
カップを一口あおる。
ごくり、と喉を鳴らしてアイスコーラを飲み下すと、小桜は遠い目をして、何を見るでもなく前方を眺めながら呟いた。
「初めて、本気で人を殺したいと思ったよ」
「もう死んでるのがポイント高いですよね」
「ああ、それな……」
小桜はしばらく俯いたまま黙っていた。
やがて何かを決心したように顔を上げ、私に向かって訊いてくる。
「なあ。これ、何もしないままお開きにしたらどうなると思う?」
「正直、想像がつきませんね」
私は部屋の中を見回す。
既に消えた花の香り。
説明のつかない寒気。
そして、そこにいるはずなのに姿の見えない閏間冴月。
私は一度、状況を噛み砕くために目を閉じ、再び開いた。
「でも、なにかしら区切りをつけないと、良くないことが起きそうだとは思います。根拠はありませんけど」
「そうか……そうだな。あたしもそう思う……」」
小桜は頭をガシガシと掻いた。
「空魚ちゃんか鳥子。急で悪いんだけど、今日あたしと霞のこと泊めてくんない?」
「え……」
私はとっさに答えられなかった。
予想外だったということもある。
それに、小桜とはいえ、正直まだ自分の家に人を泊めることには少し抵抗があった。
でも、小桜には以前泊めてもらった恩もある。
どうしよう。
「いいよ。私のところに泊まって、小桜」
私が考え込んでいる間に、鳥子があっさりと答えた。
小桜は鳥子に小さく頭を下げる。
「悪い。今回はちょっと甘えさせてもらうわ。一日でも日を跨げば、事態が好転してるかもしれないからな」
「そんな簡単にいくでしょうか」
「行くことを祈るよ……はあ」
小桜は憂鬱そうにため息をついた。
それから、申し訳なさそうに目尻を下げる。
「悪いついでに、空魚ちゃんか鳥子。ちょっとあたしについてきて、そばにいてくんない? あたしと霞の泊まる準備がしたい」
「別に構いませんけど、なんでですか?」
「一人で家ん中歩き回るのがこえーからだよ」
そういって小桜は前のめりになる。
そのまま立ち上がろうとした──のだが。
前のめりになったところで、妙な姿勢のまま動きを止めた。
そして次の瞬間、ジタバタともがき始める。
「ど、どうしたの、小桜?」
鳥子が慌てて訊く。
「し、尻が! 椅子から離れないっ! なんだこれ!?」
「え、うそ!?」
鳥子も立ち上がろうとして椅子を引き、身体を前後左右に揺すった。
私も試してみる。
……本当だ。
お尻が椅子から離れない。
張り付いている、という感覚ではない。
座った姿勢のまま、お尻から腰にかけて椅子と一緒にコンクリートで固められてしまったような感覚だ。
腰回りを動かすこともできない。
私たちはしばらく椅子から逃れようと格闘した。
けれど、どうにもならない。
やがて私たちは諦め、荒い息を吐きながら動きを止めた。
しばしの沈黙。
その中で、小桜が逡巡するように黙り込んでいる。
やがてゆっくりと顔を上げた。
「……やるぞ」
「えっ?」
鳥子が目を丸くする。
「猥談」
「本気ですか、小桜さん……」
「だって、他に方法ねえんだろ。ならやるしかねえじゃん。仕方ねえだろ。クソッタレがよ」
乱暴な口調だった。
でも、それは私たちに向けた言葉ではない。
小桜の目は完全に据わっていた。
「クソクソクソッ! クソッタレ! 冴月のクソバカ陰険根暗女! これで帰らなかったら、こいつら送り込んで表に引きずり出して、クレーンで吊し上げてやるからな!」
「そこ人頼りなんですね」
「そうだよ! 悪いか!?」
「ええ、まあ、それなりに……」
私は少し考えてから続ける。
「というか、まだ一応コックリさんとかありますけど……?」
「あれは紙とペンが必要なんだろ?」
「どこにありますか?」
私が訊くと、小桜は自嘲するようにへらっと笑った。
「隣の部屋。外開きの扉だし、障害物も多いから、ケツが椅子とくっついてる状態じゃ行くのは難しいだろうけどな」
「でも、行ける可能性があるなら私、行きますよ」
私は椅子の肘掛けを掴み、力を込めた。
椅子ごと引きずって隣の部屋へ行こうとする。
………………。
「あれ?」
「どうしたの? 空魚」
「椅子が、動かなくなった」
「………………」
「………………」
「………………」
私たちは三人とも黙った。
どうやら椅子からお尻を離せないだけではない。
椅子そのものまで動かせなくなっているらしい。
私は深いため息をついた。
そして、腹を括る。
「……しようか、猥談」
「そもそも何で猥談なんだよ、ちくしょう……」
小桜がぼやく。
「だよね。今の状況って、冷静に考えるなら、幽霊側である冴月が、私たちに除霊を強制してるみたいな変な状態になるんだよね?」
「………………」
二人があーでもないこーでもないと話している間、私は一人で考え込んでいた。
私たちが帰ってきてすぐ、鳥子が蹴り倒してしまったコンクリートブロック製の墓石と思われる物体。
小桜が悩み、鳥子が知りたいと駄々をこねた〈語録〉。
そこから繋がった、性的な要素。
そして、四人が強制的に着席させられている今の状況。
裏世界には、私たちの思考を読み取って、それを何らかの形で現実に反映するような機能がある。
もしそれを仮定するなら。
この状況に似た何かが、裏世界のどこかに存在しているのかもしれない。
「空魚ちゃん、なんか知らない?」
小桜の声で、私の思考が途切れた。
「え? ああ、いえ。正直、まだよく分からないんですよね……」
私は本当のことを言った。
いくつかの要素が点として存在している。
けれど、その点と点を繋ぐ線が見つからない。
実話怪談にも、少なからず性的な要素を持つものはある。
でも、今の状況のように、椅子からお尻が離れなくなる怪談なんて、私は記憶していなかった。
「そうか……まあ、分かったとしても、今のこの状態を打破できるわけでもないだろうしな」
小桜は諦めたように言ってから、隣に座る霞を見る。
「……霞もいるんだから、変な言葉をこれ以上覚えさせたくないんだが」
三人の視線が霞に集まった。
以前は複数人から注目されることを得意としていなかった霞だが、今となっては私たちに見られることなど大したことでもないのか、相変わらず無表情のまま──。
小桜の真横に立っていた。
………………。
いや、立ってんじゃん。
何立ってんの???
霞はいつの間に椅子から降りたのか、小桜の隣に立っている。
驚いて霞を見つめる私たちを尻目に、霞は小桜の耳元へ顔を寄せた。
そして口元を両手で覆う。
……耳打ちをしたいようだ。
「ど、どうした、霞?」
動揺しながらも、小桜は少しだけ身長の足りない霞に合わせて身を屈めた。
「………………」
私と鳥子は黙ってその様子を見守った。
静かなせいか、四人分の呼吸の音まで聞こえてくる。
けれど、肝心の霞の声は聞こえてこない。
私は違和感を覚えた。
もしかして。
耳打ちをしたかっただけで、何も喋っていないんじゃ……?
そんな私の推測を裏付けるように、身を屈めたままの小桜の表情に、困惑の色が広がっていく。
私と鳥子は顔を見合わせ、揃って首を傾げた。
いま、何の時間だろう、これ……?
私たちの疑問をよそに、時間だけが過ぎていく。
数十秒ほど経っただろうか。
霞は小桜から身を離した。
そして自分の椅子によじ登ると、何事もなかったかのように、再び石のように固まって座面に収まった。
頭の上に大量の疑問符を浮かべながら、私は小桜に訊いた。
「霞、なんて言ってたんですか?」
小桜は首を傾げた。
本人も何が起きたのか分からないらしい。
「いや、何にも言われなかった。なんか言いたいことがあるのかと思って聞いてたけど、結局黙ったままだった……」
「何にも?」
私は内心で首を捻る。
霞は確かに謎の多い子供だ。
でも、こんなときに意味のない悪戯をする子供ではなかった……と思う。
いや、言い切れはしない。
ただ、世話をしている小桜自身が困惑しているのだから、今の霞の行動が謎に満ちていることだけは確かだろう。
小桜は私と同じように不思議そうに首を捻りながら椅子から降りた。
そしてテーブルを回り込んで、こちら側へ歩いてくる。
………………。
いや。
だから立ってんじゃん。
てか、歩いてんじゃん!!
「小桜、立ててるよ!」
鳥子が大きな声で指摘すると、小桜はハッとした。
まさに今、初めて気づいたような顔だった。
「な、なんだこれ! なんだこれ!?」
小桜は確かな足取りで鳥子へ近づいていく。
そして先ほど霞にしたのと同じように、鳥子の耳元へ顔を寄せる姿勢になった。
「え!?」
鳥子も悲鳴を上げる。
その瞬間、鳥子の身体が小桜の立つ方向へ引っ張られるように、グッと動いた。
もしかしなくても、小桜と鳥子は謎の力によって身体を操られている。
私はとっさに鳥子の肩へ手を置いた。
けれど、何の意味もない。
なすすべもなく、私は二人を見ていることしかできなかった。
無言で成り行きを見守っていると、先ほどとは違い、小桜が何かを喋っているのが聞こえてきた。
ほんの微かな声だったので、何を言っているのかまでは分からない。
けれど、確かに何かを話している。
そして、それと同時に。
小桜の顔が、ブワッと赤く染まった。
目が見開かれ、瞳孔が大きく開いている。
ぶかぶかの部屋着から覗く小桜の生白い肌まで、みるみる赤くなっていく。
小桜の話を聞いている鳥子も、焦点の合わない目でそれを聞いているようだった。
そして鳥子の顔も、少しずつ朱に染まっていく。
も、もしかして……。
数十秒が経った。
小桜はふと力が抜けたように、耳打ちをする体勢を解いた。
そして呆けたように俯く。
ブルブルと震えながら、来た道を遡るように自分の席へ戻っていき、椅子に座った。
「小桜、その……」
「黙れ……」
鳥子が同情するような、憐れむような声色で声をかける。
だが、小桜は一言で鳥子の言葉を叩き落とした。
それでも鳥子は構わずに続ける。
「私は、別にいいと思うよ……?」
「言うな。黙れ……私を殺すか、おまえが死ぬかしろ」
「……ごめんね」
「謝んなよぉ……」
どうやら、除霊のための猥談は。
霞を先頭に、おかしな方法で始まってしまったようだった。
「え? ああっ、うそっ、だめだよっ!」
今度は鳥子が悲鳴じみた声を上げた。
そして椅子を引いて立ち上がる。
鳥子と私の距離は、人間一人分ほどしか離れていない。
あっという間に鳥子が私の方へ向き直り、私と目が合った。
鳥子は懇願するように言う。
「空魚、お願いっ。耳塞いで!」
「わ、わかった」
一連の流れに呆然としていた私は、鳥子の言葉にハッと気づき、両手で耳を塞ごうとした。
しかし。
鳥子が私の耳元へ口を寄せるために膝を屈めた瞬間、私の手は自然と膝の上へ降りてしまった。
「あれ!?」
私は自分の行動が理解できず、声を上げた。
けれど、そんな私の状況など知らない鳥子が、羞恥の混じった涙声で私を咎める。
「空魚っ、お願いだから耳塞いでよ! 意地悪しないでぇ!」
「してないよ!」
本当にしていない。
まるで自分の意思で動かしているかのように、腕が勝手に降りたのだ。
不思議なことに、椅子に固定されているお尻とは違う。
手を持ち上げること自体はできそうなのに、「持ち上げよう」という意思が湧いてこない。
気づけば、それは少しずつ全身へ広がっていた。
身体が動かせない。
というより。
自分の意思で動かしているという感覚そのものが、少しずつ奪われている。
私が抵抗らしい抵抗もできずにいると、鳥子は両手を私の耳元へ添えた。
「ああ、そんな……嘘でしょっ」
鳥子がブンブンと頭を振る。
けれど、やがてその動きも止まった。
鳥子は私の耳元へ口を寄せる。
「空魚。お願い。なにも聞かないで!」
「わ、わかった。わかった」
鳥子が最後の抵抗とばかりに私へ頼み込む。
私は頷くことすらできず、固まった身体のまま、鳥子の願いを聞くしかなかった。
そして。
鳥子の猥談が始まった。
7
「空魚、ごめんね。許してぇ」
「いや、別にいいよ。仕方ないでしょ」
すんすんと涙を流しながら、鳥子が謝ってくる。
返す私の言葉は同情的なものだった。
……でも、正直に言えば、自分でも分かるくらい不機嫌になっていた。
鳥子は、閏間冴月をネタに一人で致していた時のエピソードを語ったのだ。
いつ頃の話なのか分かる情報は含まれていなかった。
おそらく、私と出会う前の鳥子の話なのだろう。
知らんけど。
「ごめんねぇ、空魚。嫌いにならないでぇ」
「ならないよ。こんなことで」
「でも、いま怒ってるじゃん!」
「怒ってない」
「怒ってるよお!」
囁き猥談を終えた鳥子は、自分の席に戻ってえぐえぐと泣いている。
まだ身体が自由に動かないのか、手で顔を覆うことすらできない。
顔を真っ赤にして、泣き顔を晒したままだ。
……こんな鳥子の顔を見るのは珍しい。
私は横目でその顔を眺めながら、次は自分の番なのだという事実について考えていた。
順番からすれば、次は私が霞に猥談をする番だ。
……していいのだろうか?
霞に。
この、小学校低学年くらいにしか見えない子供に。
いや。
普通に考えれば、していいわけがない。
そもそも猥談なんて、子供に聞かせるものではないだろう。
私は霞の隣に座る小桜へ視線を移した。
小桜も苦い顔をしていた。
私と同じことを考えているらしい。
「どうしたらいいんでしょう」
「………………」
訊かれた小桜は、さらに顔をしかめた。
そして私から視線を逸らす。
「……どうしようもねえだろ。こんなの」
「ですよね……」
その瞬間。
ゴトン、と椅子が引かれる音がした。
私の固まっていた腰が動き始める。
……いよいよ、私の番らしい。
何者かの意思によって、私の身体が従順に動き出した。
試しに立ち止まろうとする。
身体を別の方向へ動かそうとする。
けれど、そのたびに「抵抗しよう」という意思そのものが、まるで火を消されるように消えてしまう。
動けないのではない。
動こうと思えない。
それが一番気持ち悪かった。
他に何か対策はないか。
この状況を止める方法はないか。
考えているうちにも、私の身体はゆっくりと霞へ近づいていく。
霞は私のことなど気にしていないように、真っ直ぐ前を見つめている。
視線すら寄越さない。
さっきからずっとそうだ。
……この子は今、何を考えているんだろう?
それなりの期間、この子とは何度も接触している。
それでも私は、未だに霞が何を考えているのか推測できずにいた。
そもそも、この子に私の話が理解できるのだろうか。
理解できたとして、それを覚えてしまったらどうなる?
小桜が心配していたように、また変な言葉を覚えてしまうんじゃないだろうか。
そんなことを考えている間にも、私の身体は止まらなかった。
霞の前まで来る。
身体が勝手に屈む。
そして私は、霞の耳元へ顔を寄せた。
髪の間から覗く、小さな耳。
私はそこへ手で作った筒を押し当てる。
もう逃げられない。
いや。
逃げようとすることすらできない。
霞の耳元で、私は口を開いた。
私の猥談が始まった。
9
──私は渾身の力で目を瞑った。
両手で顔を覆いたい。
けれど、まだ身体は動かない。
顔が、暑い。
恥ずかしい……!
私が霞に語ったのは、鵼となった鳥子との初情事の一部始終だった。
鳥子との性行為を子供に語って聞かせる。
おそらく何も知らないであろう霞になら、比較的羞恥心を抑えられるだろうと、どこかで油断していた。
……そんなことはなかった。
しっかり恥ずかしかった。
むしろ、言っている途中から自分が何をしているのか分からなくなってきて、頭がおかしくなりそうだった。
やがて、屈んだ姿勢で拘束されていた身体が動き始める。
私は霞から離れ、元いた椅子へ戻っていった。
腰を下ろすと、ようやく自由になった両手で顔を仰ぐ。
暑い。
恥ずかしい。
もう何も考えたくない。
そんな私に、いつの間にか泣き止んでいた鳥子が声をかけてきた。
マスカラが涙で流れ、目元には黒い涙の跡が残っている。
「何話したか訊いてもいい……?」
私は正直に言おうかどうか、かなり迷った。
けれど、ここで隠したところで仕方がない。
「……鳥子との初めて」
私が答えると、鳥子はたまらないと言わんばかりにプルプルと身体を震わせた。
そして両手で顔を覆う。
「死にたい……」
そう呟くと、鳥子はピクリとも動かなくなった。
私が肩をポンポンと叩いても反応しない。
鳥子さん、閉店です……。
そんな私と鳥子のやり取りの間にも、霞はいつの間にか椅子から降りていた。
小桜の横に立ち、何かを語りかけている。
今度は、ちゃんと声が聞こえた。
コソコソと、小さな声で何かを喋っている。
すると、小桜の表情がみるみる険しくなっていった。
……どうしたのだろう?
私は呆けたように二人を見ていた。
そして。
ふと、違和感に気づいた。
……あれ?
霞が、喋ってる……?
さっきは何も喋っていなかったのに。
私の背筋を、嫌な予感が走った。
やがて霞は話し終えたらしい。
自分の椅子によじ登ると、何事もなかったかのように座った。
私は小桜を見る。
小桜もまた、なんとも形容し難い顔で私を見ていた。
「あの、訊きたいんですけど……」
私は恐る恐る訊いた。
「霞、何の話してました……?」
なんとなくの推測はできていた。
だからこそ、訊くのが怖かった。
小桜は少しの間黙っていたが、やがて重たそうに口を開いた。
「空魚ちゃんと鳥子の……やつ」
バタン。
私は音を立ててテーブルに突っ伏した。
やっぱりかーーーー!!
霞が私から聞いた猥談を、そのまま小桜に伝えた。
それ自体は、ある程度予想できていた。
おそらく霞自身に性体験がないからなのだろう。
自分の番になった霞は、自分の体験を語ることができない。
だから、直前に聞いた私の猥談を、そのまま次の相手へ伝えた。
まるでスピーカーだ。
……いや。
そんなスピーカーがあってたまるか。
私は重々しく顔を上げ、鳥子を見る。
鳥子は俯いたまま、再び両手で顔を覆っていた。
髪の間から見える左耳が、真っ赤に染まっている。
「酷いよぉ……そんなのってないよぉ……冴月の馬鹿ぁ……」
力なくそう言って、鳥子は私と同じようにテーブルへ突っ伏した。
……と思ったら、すぐに身体を起こした。
姿勢を正して、椅子に座り直す。
次は小桜が話す番なのだ。
聞く側である鳥子も、身体を操られている。
「……」
小桜は自分の椅子から降りた。
そしてテーブルを回り込み、鳥子の方へペタペタと歩いていく。
その顔には、怒りと恥辱が入り混じっていた。
ジッと見ていた私と目が合う。
すると小桜が、八つ当たりするように私を睨みつけてきた。
私はすぐに視線を逸らした。
私が悪いわけじゃないのに……!
10
数分後、顔を真っ赤にした小桜が、同じく顔を赤くした鳥子からドスドスと足音を立てながら離れ、自分の椅子に座り直していた。
そして、先ほどの私たちと同じように、テーブルへバッタリと突っ伏す。首元から覗く小桜の肌は、日焼けしたみたいに真っ赤だった。
小桜は「うぅ〜」と小さく呻くと、うつ伏せのまま訊ねてきた。
「空魚ちゃん、なにかこの異変を解決する方法とか知らないのぉ?」
「……ええと」
私は口籠る。
全てではない。だが、なんとなく原因と、この現象に心当たりがあった。
問題は、それを口にしていいのかどうかだ。
私の煮え切らない態度を見て、小桜が顔を上げる。
珍しく半泣きになった目で、縋るようにこちらを見つめてきた。
「なんでもいいんだ。思いつくものがあれば教えてくれ。こんなの何周もするのは耐えられないぞ……!」
「わかりました……」
私は小桜から目を逸らした。
まだ確信があるわけではない。
もしも私の推測が正しければ、この異変は止まるかもしれない。けれど、その方法を試したところで、結局全員がいま以上に酷い目に遭う可能性がある。
……いや、今以上ってなんだ。
これ以上酷くなることなんてあるのか。
考えたくない。
「次は鳥子と私の番ですから……その間に、考えてみます」
そう答えた直後だった。
ゴトン、と椅子が引かれる。
見ると、鳥子が椅子から立ち上がっていた。
鳥子は体を屈めながら私の方へ近付いてくる。
「空魚、もしかしてこれを止める方法、知ってるの?」
「う、うーん……」
正直、なんとも言えない。
私は鳥子の目を見ながら、どう答えるべきか迷った。
私の推測が当たっていたとしても、それで解決するとは限らない。むしろ、試した結果、私たち全員が火傷を負って終わる可能性の方が高い気がする。
そうしている間にも、鳥子は私のすぐそばまで来ていた。
右耳に、鳥子の手が添えられる。
「……鳥子?」
私が訊くより先に、鳥子の顔が耳元へ近付いてくる。
私は目を閉じた。
鳥子の猥談が始まった。
12
「これ、だいぶアレンジは効いてるんですけど……〈スクエア〉っていう降霊術に似ていると思うんです」
私が霞に自分の猥談を喋り終え、次の猥談が始まるまでのわずかなクールタイム。
私は鳥子と小桜に、自分の推測をところどころ端折りながら説明した。
〈スクエア〉は、七十年代に日本各地で流行した降霊術ごっこだ。
暗くした部屋の四隅に、四人の参加者を一人ずつ配置する。
参加者をA、B、C、Dとすると、まずAがBの肩を叩く。
するとAはBのいた場所に移動し、押し出されるようにBがCの待機している場所へ移動する。
BがCの肩を叩き、CがDの場所へ。
CがDの肩を叩き、Dが最初にAのいた場所へ。
そしてDが、Aの肩を叩く。
……はずなのだ。
ところが、この儀式はそもそも四人では成立しない。
最後にDがAの肩を叩こうとしても、Aはすでにその場所にはいない。Bのいた場所へ移動しているからだ。
DがAを探しても、そこには誰もいない。
にもかかわらず、Dが何者かの肩を叩いて儀式が続いたなら──その部屋には、最初から存在しなかった五人目が紛れ込んでいる。
つまり、降霊術は成功した。……というわけだ。
……実話怪談というより都市伝説に近い話だ。
この怪談にはいくつかのバリエーションがある。
そもそも〈スクエア〉という名前ではなく、座敷わらしを呼び出す遊びとして〈大道めぐり〉などと呼ばれていた例もあるらしい。十人の子供が部屋の中をぐるぐる回っているうちに、いつの間にか十一人になっている……というような話だ。
ただ、それについてまで説明している余裕はない。
いま私たちが置かれている状況は、四人で始まったはずなのに、何者かによって順番を回され続けているという点で、〈スクエア〉を彷彿とさせる。
そう説明すると、小桜が険しい顔で訊いた。
「それで、その〈スクエア〉とかいう儀式は、どうやって終わらせればいいんだ?」
「それが……はぁ〜」
私は息を吸い、重々しく吐いた。
「ないんですよね。終わらせ方」
「…………」
「…………」
鳥子と小桜が、呆気に取られたような顔で私を見る。
〈スクエア〉には、コックリさんのような明確な終了手順がない。
あえて言うなら、〈スクエア〉は暗い部屋で行われることが多いので、部屋を明るくして参加者の人数を確認することで、儀式を強制的に中断させるという考え方はできる。
でも、いま私たちがいる小桜屋敷のリビングは、昼光色の蛍光灯でピカピカに照らされている。
つまり、その方法は最初から使えない。
「……つまりなに?」
小桜がゆっくりと口を開いた。
「あたしら、ここで干からびて死ぬまで猥談させられるってこと?」
「トイレとか、ご飯食べたくなったらどうすればいいの?」
鳥子まで真剣な顔で訊いてくる。
「それは……」
二人の質問に、私はしばらく考え込んだ。
トイレ。
食事。
睡眠。
そもそも、これがいつまで続くのか。
考えれば考えるほど、洒落にならない。
でも──ひとつだけ、思いつく方法はあった。
確実ではない。
むしろ、本末転倒かもしれない。
「一応……方法はあるにはあります」
「本当か!?」
「それでもいいから!」
鳥子と小桜の声がぴったり重なった。
二人の圧に押されて、私は決心する暇もなく口にしてしまった。
「……全員が、手持ちの猥談を全部話せば、終わると思います」
「…………」
「…………」
「……たぶん」
しばらく、誰も何も言わなかった。
鳥子と小桜は、互いの顔を見合わせる。
そして、信じられないものを見るような目で私を見た。
「は?」
小桜が呆然と呟いた。
「それ、意味なくないか……?」
「まあ……」
私は目を逸らした。
「だから、本末転倒ですね」
話したくないから終わらせたい。
なのに、終わらせるためには話さなければならない。
しかも、それで本当に終わるという保証すらない。
……最悪だ。
私たちは完全に手詰まりになってしまった。
14
猥談のスクエアが何周かした頃。
順番が鳥子に回ってきていて、私は変わらず鳥子から猥談を聞いていた。
私と出会ってからは、私で致すこともあったらしい。
へー。
なるほどね。
私はもはや、特に表情を変えることもなくなっていた。
……正直な話、慣れ始めていた。
人間に性欲があるのは当たり前なのだから、仕方ないだろう。人間だって動物だ。仕方ない、仕方ない。
しかし、鳥子はそうでもないらしい。
私が鳥子の方へ視線をやると、相変わらず顔は真っ赤だった。
いい加減慣れてもいいと思うのだが、やはり自分が致した相手に、そのときのことを逐一報告するのは格別に堪えるものがあるのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、今度は私の身体が霞の方へ動き始めた。
そうだな。
いま一番辛いのは、猥談よりも足腰の筋肉かもしれない。
猥談のたびに霞の耳の高さまで屈まなければならないのだ。何周もしていれば、さすがに膝と腰が痛くなってくる。
そんな愚痴を思い浮かべながら、私は霞の耳元へ顔を寄せた。
次は、どんなエピソードが出てくるのだろう。
鳥子との初めての性行為から始まって、つい最近の鳥子との行為まで、もう霞にはかなりのことを語ってしまったように思う。
どうなるのか。
そんな好奇心から、私は自分の口から出てくる言葉を注意深く聞いていた。
しかし、いざ口が動き出すと、私は眉をしかめて首を捻ることになった。
数十秒後。
私の身体が元の椅子へ戻っていく。
その様子を見ていた二人が、不思議そうにこちらを見ていた。
私は椅子に腰掛けながら言った。
「私、話す猥談がなくなったみたいです」
「え?」
「どういうことだ?」
「いま私、鳥子から聞いた猥談を、そのまま霞に話してたんです」
私がそう言うと、鳥子が叫んだ。
「なんでそんなことするのぉ!?」
「い、いや、ごめん。わざとじゃないんだよ」
鳥子に謝りながらも、私は考えていた。
……考えてみれば、当然なのかもしれない。
鳥子との初めてより以前に、私は性的な行為をしたことがなかった。
鳥子みたいに、一人で何かをしたこともない。
なら、私が持っている猥談は、もうすべて話し尽くしてしまったのだ。
そして、霞の挙動も同じだった。
霞は私から聞いた猥談を、そのまま小桜に伝えただけ。
ならば、猥談を語り尽くした私は、霞と同じ「スピーカー」になったということなのだろう。
私が鳥子の猥談を霞に話す。
霞がそれを小桜に話す。
そして──。
「つまりここからは、あたしと鳥子だけで猥談が品切れになるまで話し続けなきゃならない状態なわけ……?」
小桜が、私の考えていたことを口にした。
「空魚ちゃんと霞を仲介して?」
「……たぶん、そうなりますね」
「なんだよそれ――おっと」
小桜が言葉を切った。
霞が、小桜の耳元へ顔を寄せていた。
まただ。
小桜は黙って目を閉じ、霞が話し終わるまで耳を傾ける。
そして、目を開いた。
「……鳥子の猥談だったな」
「やっぱり、そうなりますよね」
「うそでしょお……!」
鳥子が、感情を押し殺せない様子で拳を握りしめる。
「ひどいよ! どうして私だけ、全員に話を聞かれちゃうの!?」
鳥子が嘆いている間にも、小桜が立ち上がった。
次は小桜が鳥子に猥談を話す番だ。
小桜が大きな白木のテーブルを迂回するには、それなりに時間がかかる。
そのわずかな時間を使って、私と鳥子は早口に言葉を交わした。
「そもそも、どうしてこんなことになってるの?」
鳥子が言った。
「私たち、今回、裏世界でも何も変なこと起きてなかったよね? なんで冴月はこんな意地悪なことするの!?」
叫ぶ鳥子の声には涙が混じっている。
……いや。
実は、閏間冴月がこれをやらせているという確証もない。
気配と匂いだけを、裏世界が模倣しているだけかもしれない。
でも──人間、理由がある方が我慢できるものだ。
私は鳥子の質問に答えることにした。
「鳥子、今日、お盆でしょ?」
「それがなに!」
「それって、冴月さんが来ているっていうふうに、裏世界が解釈しちゃったんじゃないかな」
「お盆に冴月が来たから、私たちに変なことさせてるってこと……?」
「それだけだと、要素が足りないんだよね……」
「なら、どうしてこんなっ──」
「鳥子。玄関前にあったコンクリートブロックのこと覚えてる?」
「コンクリートブロック?」
「鳥子が倒しちゃったやつ」
訊くと、鳥子はすぐに頷いた。
話が早い。
「あれ、たぶん裏世界が作った冴月さんのお墓だったんじゃないかなって思うんだよね」
鳥子は険しい顔のまま、何も言わなくなった。
私の話を黙って聞くことにしたらしい。
それはいいけど、その顔のまま私のことを見ないでほしい。
まるで私に睨まれているみたいで怖い。
私は続けた。
「実話怪談の文脈的にはね、『お墓を壊す』って、かなり御法度なの。だから、わざとじゃなかったにせよ……鳥子が比較的重めにターゲティングされてる。のかも……」
そこまで話すと、鳥子が高い声で呻いた。
そのまま俯いて言う。
「お墓だったなんて思わなかったんだもん……!」
「うん、そうだよね……」
私は慰めるように鳥子の背中を撫でた。
すると鳥子が顔を上げた。
「つまり、みんなが猥談を喋らされてたのって、私のせいなの?」
「それは……確証はないし」
私が言葉を濁すと、鳥子はさらに訊いてきた。
「最初にも話してたけど、そもそも何で猥談なの? それも私がお墓蹴っ飛ばしたせい!?」
「いや、それは……みんなにも責任があると思うよ」
鳥子が涙を浮かべながら目を細めた。
「……そうなの?」
「私たちみんなで〈語録〉がどうこうとか、卑猥なことがテーマの話をしてたし。そういうのが、一つの要素として混じっちゃったんじゃないかな」
「そう、なんだ……」
鳥子は、少しだけ肩の荷が下りたような、ほっとした顔をした。
……良かった。
これで少しは安心して、この責苦を受け入れられるかもしれない。
しかし──。
鳥子のすぐ隣まで歩いてきていた小桜が、据わった目つきで鳥子に言った。
「でも、猥談をしようとか、みんなで猥談したいとか言ってたのは、お前だけどな」
「ちょっ!」
私が小桜のトゲのある言葉を遮ろうとした。
だが、間に合わなかった。
「わーーーーん!!!!!」
鳥子は子供のように泣きじゃくり、ワンワンと泣き出してしまった。
私はどうにかしようとあたふたした。
けれど、それよりも早く鳥子は黙らされた。
小桜が耳打ちを始めたからだ。
ポロポロと涙をこぼしながらも、口を塞がれて喚くこともできない。
鳥子は、小桜の猥談を無理矢理聞かされている。
そんな二人の姿を見ながら、私は自分の無力さに項垂れるしかなかった。
15
──────それから、数時間が経った頃。
霞を除く全員がグッタリとテーブルにもたれかかっていた。
想定していた通り、全員の猥談の残数がなくなることでスクエアは終了だったようで、数時間かけて全ての猥談を絞り出された私たちは、体を拘束する謎の力から逃れられることができるようになっていた。
しかし誰一人としてその場から動き出そうとする者はいない。
下半身を固定されていたことによる身体的疲労感、そしてそれを除いてもあまりに大きな精神的な傷。その二つが合わさることによって、特に小桜と鳥子がピクリとも動かないほど脱力してテーブルに身を投げ出していた。
数時間という長丁場。想定以上に時間がかかってしまった理由は、鳥子の、その……性欲が強かったせいか、あるいは小桜の年の功によるものか、そのどちらなのかは私にはわからない。
そういうことにしておこう。
とにかく全員がひどい火傷を負った一日だった。
「帰ります……」
そう言って私がのっそりとテーブルから身を起こす。
そろそろ降りの電車が混みだす頃合いだ。今日はこれ以上精神に負担をかけたくない……。
私が椅子から立ち上がり椅子の足元に置いていた探検用のリュックを取り出して肩に下げると、私に続くように鳥子と小桜が死にたてほやほやのゾンビみたいに髪を乱したまま起き上がってきた。
生気のないその姿がかなり不気味で私は二人の姿に釘付けになる。古い小説などに出てくる「長い髪を振り乱し──」という描写は、なるほどこういうものなのかと私は妙に納得してしまった。
鳥子は私と同じく足元に置いてあった探検用のリュックサックを背負うと私の後ろについてリビングの出入り口まで歩いてきた。
虚ろな目をした鳥子がなんだかあまりにも悲惨で、私は思わず手櫛で鳥子の髪を梳いてやる。
鳥子は驚いたように目を見開いたが、すぐに目を閉じて心地良さそうに私の手櫛を受け入れてくれた。
鳥子が訊いてくる。
「空魚、私のこと……嫌いになってない?」
「なってないよ。なってたらこんなことしないから」
「気持ち悪いな、とかは?」
「思ってない。さっきも言ったでしょ……あれ? 言ってないかな? とにかく性欲なんてあって当たり前のものなんだから。いいんだよ」
鳥子が目を開けて藍色の瞳で私を見た。
「じゃあ私、空魚のこと好きなままでいていい?」
「い、いいよ」
ストレートにそんなことを聞かれてしまい私は思わず手櫛を止めて言葉を詰まらせてしまう。
鳥子はそんなことを気にする様子もなく私をキツく抱擁した。
「空魚、好き」
言われて私はとっさに返す。
「わ、私もだよ……鳥子」
こんな言葉でよかったのか、と自問しながら鳥子の背中に手を回す。じんわりと人肌の体温が鳥子から伝わってきた。
私が心地よさに目を細めていると、小桜が言った。
「なに……ここでおっぱじめる気? 邪魔なんだけど」
「しませんよ」
あんまりな物言いをする小桜に目をやると、ついさっきの鳥子と同じく髪が乱れ放題だった。鳥子が一歩、小桜の方に移動するとさっき私がしたのと同じように手櫛で小桜の色素の薄い髪をなでつけ始めた。
「やめろ、撫でんな」
頭を振って抗議する小桜に構わず、鳥子は小桜の髪を梳きつづける。
「ごめんね、小桜。私のせいで変なことに巻き込んじゃって」
小桜はピタリと振っていた頭を止めると言葉を探すように黙り込んでから言った。
「別に、お前だけのせいじゃないだろ。玄関前のコンクリが、なぜか冴月の墓に見えてたのはあたしもだし、〈語録〉がどうのって騒いでたのはあたしも空魚ちゃんもだし。……ていうかそもそも悪いのは全部、冴月のやつ──」
小桜はそこまで言って言葉を止めたかと思うと、目を大きく見開き叫んだ。
「いや、ていうか冴月は!? あいつ今どこにいやがる! しばき回してやる! 出てこいクソ女っ!!」
「ちょ、やめてください、小桜さん!」
怒り狂う小桜の両肩を抑え、私は小桜の怒りを鎮めようとする。
「ああ!? なんだよ!?」
「閏間冴月が本当に出てきたらどうするんですか? 最悪、人が死にますよ」
ドスの効いた低い声で訊く小桜に、私は小桜を落ち着かせるため冷静な態度を貫いて言い聞かせる。
私に諭されて、小桜は首を絞められた鳥のように唸ると、
「クソッ!!!!」
と一際大きな声で怒鳴った。
──その時だった。
リビングのドアノブが、ガチャリと回った。
「………………」
私たち三人は、声も出せずにドアを見つめた。
ゆっくりと、ドアが開いていく。
……おかしい。
この家にいる人間は、私たち三人と霞の四人だけだ。
その四人は、全員このリビングにいる。
なのに、どうして向かい側のドアが開く?
……誰かがいる。
この家の中に、私たち以外の誰かがいる。
まさか、閏間冴月……?
小桜に呼ばれて、本当に来ちゃったとか?
それとも、単純に扉の閉めが甘かっただけ……?
いや、それとも不審者!?
私がパニックになっていると、半端に開かれたドアの隙間から、何者かがリビングへと滑り込んできた。
低い背丈。
黒い長髪。
子供だった。
「……霞?」
小桜が呆然と呟く。
その姿を見て、私も思わず息を吐いた。霞だ。いつの間にリビングを出ていたのかはわからないが、戻ってきたらしい。
小桜もすぐに持ち直し、安堵したように息を吐いた。
「なんだ、霞か……。いつの間にこっちにシフトしてたんだ? そうだよな。変なことに巻き込んじまったしな」
小桜が声をかける。
しかし、霞は眉根を寄せた。
何を言っているのかわからない、とでも言いたげに首を傾げる。
そして──ふと、何かに気づいたように私たちの背後を指差した。
その指先は、真っ直ぐに伸びていた。
「──女」
霞が、はっきりとした口調で言った。
「…………」
その一言で、空気が変わった。
私と鳥子は顔を見合わせる。
〈女〉。
この言葉を、霞から聞いたのは二度目だった。
一度目は、DS研の研究所で閏間冴月が現れたとき。
霞は、あの女を指差して、そう呼んだ。
私は鳥子と目を合わせたまま、ゆっくりと振り返った。
そこには──子供用の椅子に座った、霞がいた。
「…………」
先ほどからずっとそうだった。
何事にも興味がないように、真っ直ぐ前だけを見つめている。
私たちの会話にも、騒ぎにも、何の反応も示さない。
私はもう一度、背後を振り返る。
ドアから入ってきた霞は、指を下ろして私たちを邪魔そうに見上げている。
……霞だ。
間違いない。
けれど。
だったら──椅子に座っているあれは、何だ?
私の背筋を、冷たいものが走った。
私は椅子に座る霞の姿を睨みつける。
姿も、服装も、髪型も、何もかも霞そのものだ。
なのに。
私の中で、今まで見過ごしていた違和感が、一気に形を持ち始めていた。
私は右目に意識を集中させる。
霞の姿をしている〈何か〉を、もう一度見る。
──そして。
その瞬間、私にはわかった。
これは、霞じゃない。
霞の姿を模していた〈何か〉から、霞のテクスチャが剥がれ落ちていく。
同時に、〈何か〉は霞の形を保てなくなったように、その輪郭を崩した。
黒い砂のようなものが、椅子の上からザーッと零れ落ちる。
だが、それで終わりではなかった。
床に落ちた砂がウネウネと蠢きながら集まり、ゆっくりと立ち上がっていく。
やがてそれは、人の形を模したシルエットになった。全身に薄いモヤをまとったような、輪郭の曖昧な人影。
私は、その姿に見覚えがあった。
「なあ、今どうなってるんだ!?」
隣に立つ小桜が、状況を理解できない様子で声を上げる。
……おそらく、小桜から見れば、いまこの場には霞が二人いるように見えているのだろう。
私は必要以上に混乱させないよう、鳥子と小桜の二人に現状を一言で伝えた。
「閏間冴月っぽいのがいます。霞に化けて、ずっとそこにいたみたいです」
長い髪がたなびくように、シルエットがゆらゆらと揺れている。
私は唾を飲み込んだ。
バッグの中をまさぐり、指先にマカロフの硬い感触が触れる。
私は深く息を吸い、素早く吐いた。
少しだけ落ち着きを取り戻した頭で、目の前にいる閏間冴月を模した影について考える。
なぜ気づけなかったのだろう?
こんな、一目見ただけでも怪しく不気味な存在を、私たちは本物の霞だと思い込んでいた。
なぜ忘れていたのだろう。
そもそも猥談のスクエアが始まったのは、こいつがおかしなキュウリの精霊馬を持ち出してきたことが原因だったということを。
私は鳥子と小桜を素早く一瞥した。
二人とも、驚きと呆然が入り混じったような表情で固まっている。
なら、私がやらなければ。
私はバッグからマカロフを取り出した。
コッキングし、射撃の姿勢を取る。
銃口を閏間冴月のシルエットへ向け、胴体に照準を合わせた。
「ちょ、ちょっと待てよ空魚ちゃん……!」
小桜がオロオロとした様子で私を止める。
「はい? なんですか?」
「なんですかって、霞に見える物を撃つ気かよ!」
私は首を傾げた。
どういう意味だろう。あれは霞ではなく、閏間冴月の形をした何かだとは言ったはずなのだが……。
言葉が足りなかったのかもしれない。
私が小桜にも伝わるよう言葉を選んでいると、小桜が私の腕を掴んだ。
「冴月を霞だと錯覚させることができるなら、本物の霞を冴月だと錯覚させることくらいできるかもしれないだろってことだよ!」
私は小桜の懸念を理解した。
その上で、閏間冴月に向けた銃口は下ろさない。
「人間じゃありません。あれは偽物です。こっちにいる方が本物の霞です。小桜さんはいま、認知を操られている可能性があります」
「どうしてそう言い切れる?」
眉をひそめて訊いてくる小桜に、私は閏間冴月のシルエットから視線を外さずに答えた。
「右目で見たからです。そうすれば、それが人なのか、裏世界から来た物体なのかくらいは見破れます。あれが裏世界由来の有害な存在なのかどうかはまだわかりません。でも、少なくとも霞ではないことは確かです」
私は一度、息を吐いた。
「最初から気づくことができなくて、すみませんでした。いま思うと、表情も異常に乏しくて、挙動も変だったのに……」
「……空魚ちゃんが言うなら、そうなのかもしれん。言われてみりゃあ、確かに違和感があったかもしれんが」
小桜がまだ何かを訴えようとする。
だが私は、それを聞くより先にトリガーへ指をかけた。
途端に、黙っていた鳥子も私に意見する。
「空魚、ここ住宅街だよ? 銃なんて撃ったら警察に捕まっちゃう」
「………………」
正論だ。
私は反論できる言葉を探した。
「鳥子の言う通りだ。しかもここ、あたしの家の中だぞ? 百歩譲って傷がつくのはいいとして、跳弾して怪我したりしたらどうすんだ」
「……数発ぐらいなら、爆竹で遊んでたとか言えば大丈夫だと思いますよ。跳弾は……気をつけて撃ちます。頭を下げておいてください」
「そういう問題じゃねえよ!」
小桜が叫ぶ。
私はマカロフを構えたまま、閏間冴月との距離をすり足で詰めていく。
いまの距離なら外すことはないと思う。
私は改めて、鳥子から教わった基本通りに照門の溝の間へ照星を収め、閏間冴月の胴体に狙いを定めた。
絶対に外さないよう、慎重に狙いをすます。
深く息を吸う。
そして、ゆっくりと吐く。
引き金にかけた指に力を込めようとした、その瞬間──。
閏間冴月の影が、消えた。
「あれ!?」
思わず、間の抜けた声が出る。
なんで?
一瞬も目を離していなかったのに……。
私の行動を見守っていたらしい鳥子と小桜も、ほとんど同時に声を上げた。
「あれ?」
「どこいった……?」
閏間冴月は、まるで映画のフィルムが切り替わる瞬間に、その場から歩き去った演者のように──。
私たちの目の前から、跡形もなく姿を消していた。
16
リビングを後にした私たちは、玄関の前に立っていた。
誰も何も言わない。
それくらい、今の空気は重たかった。
そんな空気を打破しようというわけでもなさそうだが、小桜がぽつりと呟いた。
「今日話したあたしのクソ猥談、誰かに漏れてたりしたら、おまえら二人とも殺しに行くからな」
疑り深い目でこちらを見る小桜に、鳥子が心外だとばかりに反論する。
「私たちがそんなことするわけないよ。小桜こそ、間違って汀さんとかに私たちの話しちゃダメだよ」
「どんな間違いがあったら、汀におまえらの情事なんて話すことになるんだよ」
小桜は「まあいい」と首を振ると、疲れ切った顔に無理やり笑顔を貼り付けたような表情を浮かべて、私たちに言った。
「とりあえず、DS研のときみたく、いきなり裏世界に飛ばされるようなことにならなくてよかったよ」
「それはそうですね」
小桜の言葉に頷きながら、私は別のことを考えていた。
それは、スクエアの最中にも抱いていた懸念だった。
霞は他人の言葉を使って喋ってしまう。その霞の口を経由して、この子は悪気なく私と鳥子のあれやこれやを漏らしてしまうのではないかと、気が気でなかったのだ。
しかし、偽物の霞を相手に話していただけならば、閏間冴月に──モヤついていて、はっきりと姿が見えたわけではないため確定ではないけど──あの女に延々と猥談を喋らされたという怒りはあれど、そこまでのダメージを私は受けていなかった。
「ただ、今回は実話怪談的にはオチがついたと思うので、しばらくは心配ないと思いますよ」
「……だといいんだがな」
私たちは玄関の扉を開けて外に出る。
むわりと湿度の高い空気が室内へと入り込み、じわじわと肌が湿り気を帯びてくる。私はその不快感に顔をしかめながら歩みを進めた。
目の前には、右目に意識を割く必要もないほど視界を覆い隠す巨大な燐光が見える。三人のおばさんが来たときに開いた、裏世界へのゲートだ。
私たちはゲートを迂回するために、玄関を回り込んだ。
「あ……」
鳥子が小さく声を上げる。
私は振り返って鳥子を見ると、鳥子だけではなく小桜も立ちすくんでいた。
二人の視線を追う。
……玄関の柱の根元に、鳥子が蹴り倒したコンクリートブロックが倒れたままになっていた。
二人がその場から動こうとしないため、私はまだ暑い夕暮れの太陽光から逃れようと軒の下に入る。
二人は神妙な面持ちで、コンクリートブロックを眺めていた。
「……冴月のお墓、だったんだよね、やっぱり」
「どうだろうな」
鳥子と小桜が呟き合う。
ついさっきまで怒鳴っていた閏間冴月への感情は、どこにいったのだろうか。
私がなんとも理解し難い思いで二人が動き出すのを待っていると、鳥子がしゃがんだ。
倒れていたコンクリートブロックをそっと持ち上げ、元の位置に戻す。
そして、半端な位置で落ちそうになっていた一輪の白い花を供え直すと、ついっと私に視線を寄越して言った。
「空魚、少しお祈りしたいんだけど、いい?」
「え……?」
私たちに強制猥談を仕掛けてきた女に……?
私は首を横に振ろうとして……とどまった。
これはきっと、「ダメ」と言ったり、変なケチをつけたりしてはいけないところだろう。
私は唇を尖らせ、首をカクカクと縦に振りながら応えた。
「いいんじゃないの、好きなだけ」
「ありがとう。ごめんね」
鳥子は私に感謝の言葉を口にすると、前に向き直った。
しかし、数秒固まると再び私に訊いてきた。
「お祈りって仏教式でいいのかな?」
「……」
私は答えに窮した。
正直に言えば、「何でもいいだろう。そんなもん」という感じなのだが、この神妙な空気が私にその言葉を言わせないようプレッシャーをかけてきていた。
「何でもいいと思うぞ。あいつ、どっかの宗教に縁があったわけじゃなさそうだったし」
鳥子の隣にいた小桜がそう言って、半歩前に出ると両の手を合わせた。
「……そうだね」
鳥子も両手を合わせて祈る。
何だか手持ち無沙汰になった私も、二人を真似るように手を合わせた。こういう時、何を祈るものなんだろうかとしばし考えてから、合わせた両手にグッと力を込め、私は腹の底から念を送った。
もう二度と出てくるなよ……!
数秒そう拝んでから私が目を開けると、鳥子と小桜が呆れたような目で私を見ていた。
「な……なに?」
「空魚ちゃんさあ……」
小桜が言う。バカな子供を見るような呆れた表情だ。
「空魚さあ……」
鳥子までもが目を細めて笑いながら私を見て、そう言った。
な、なにさ。
「普通こういう場では、そういう邪念は飛ばさないんだよ」
「でも……今日は冴月さんのせいで散々な目にあってましたよね? 三人とも」
「それでもだろ」
小桜が、できの悪い生徒に言って聞かせるように、ゆっくりとした声で言った。
「祈ると決めたならちゃんと祈る。やらないならやらないで自由なんだから、邪魔はしないんだよ」
「……邪魔なんてしてませんし」
私が思わず拗ねたような口調で言ってしまうと、小桜が笑って諭すように返した。
「こんな怒りマックスな顔した奴が後ろにいるのに、落ち着いて両手なんか合わせてられっかよ。バチが当たるわ」
小桜だってさっきまで怒りまくってたのに……。
私が無言の抗議をしていると、鳥子が手を挙げた。
「小桜、冴月のために精霊馬作ってもいい?」
「別に構わんが、いつ頃だ?」
「お盆は今日で最後でしょ? なら、せめてナスの方の精霊馬は作ってあげておかないと」
「ああ……まあ、いいんじゃないか? どうせなら馬も牛も霞に作らせてやりたいから、キュウリも買うか」
「じゃあ、私はスーパーに材料買いに行ってくるね……空魚はどうする? 帰る?」
訊かれて、私はとっさに答える。
「帰らないっ、一緒に行くっ」
私は、自分でも自覚できるほど子供のような口調で鳥子に返事をした。
駄々をこねるようにザシザシと歩幅を広くして鳥子の傍を通って先を歩くと、背後から鳥子と小桜のクスクスという笑い声が、ペッタリくっついてくるように聞こえる気がしたのだった。