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私と鳥子がゲートをくぐって裏世界から小桜屋敷の玄関前に出ると、空気の層を突き破ったような感覚と共に高温で湿り気を帯びた空気が全身にまとわり付いてきた。
立ち止まると全身から一気に汗が噴き出てくる。背負っていた探索用のリュックと背中の隙間に汗が滲み、ユニクロのエアリズムでも捌ききれないほどの大量の汗が流れ出てくる。汗の染み付いたインナーが肌にピタリと張り付く感覚が、えもいえぬ不快感を与えてきた。
八月十六日。真夏の太陽が私たちの頭上で燦々と輝いている。
私はポケットに突っ込んでいたハンカチで頭から垂れてきた汗を無造作に拭った。
それにしても、表世界は裏世界に比べて余りにも暑すぎる。体感五度は違うんじゃないだろうか。裏世界と表世界の気温と湿度が同じだと仮定しても、明らかに裏世界の方が涼しい。
なぜだろう? 裏世界は大量の植物に囲まれているからだろうか。たしかそう言う現象があると子供の頃理科の授業で習った記憶がある気がする。
あとは単純に道路を舗装するコンクリートやエアコン、車などの廃棄熱、その他諸々の有無が暑さの原因なんだろうな。
私が雑に考えをまとめていると、隣で鳥子が手で顔をあおぎながら言った。
「暑いねー、空魚、大丈夫?」
「うん。平気」
鳥子はそう言うとバッサバッサと豪快に服の裾を上下に振った。その度に薄っすらと割れた腹筋がチラチラと見えて私は目のやり場に困り視線を上げる。今日の鳥子は頭の後ろで長い金髪を一つに括っている。その頭にはシンプルな白い無地のキャップを被っていた。
──そういえば、キャップの有無や色も、体感温度に影響するって聞いたことがある。
金髪の鳥子と違って、黒髪の私は日光を吸収しやすいぶん、頭が熱くなりやすいはずだ。
……次からは、私も帽子をかぶるようにしよう。
そんなことを考えながら、私も鳥子にならって服の裾をバサバサと振ってみた。
「だめ、暑い!」
「そうだね」
数秒ほど、なんとか風を起こそうとあおいでみたものの、動けば動くほど汗が滲み出てくる気がして、結局すぐにやめた。
──こんなことしてるより、クーラーの効いた小桜屋敷の中に入れてもらって、ついでにシャワーでも借りた方が早い。
私と鳥子が玄関の方へと振り向いたそのとき。
背後──ゲートの向こうに、揺らめく燐光の中から人影が見えた。
反射的に、私は腰のホルスターからマカロフを抜き取り、手の後ろに隠す。
鳥子も、私にならって背負っていたAKを少しでも身体に隠すように慌てて持ち替えた。
……配達の人?
いや、違う。バレた? ていうか、さっきゲートから出たの、見られてた?
くっ、口封じ……?
私の思考が物騒な方向に突き進むなか、その人影は微動だにしない。
気配もなければ、物音もない。
不気味な静けさの中、私は目を凝らして、ゆらめく燐光の奥に視線を向けた。
立っていたのは──────小桜だった。
顎から汗をポタポタと滴らせ、足元のアスファルトに濃い染みを作りながら、ただ黙って突っ立っている。
「小桜? どうしたの?」
私よりも一足先に、鳥子が駆け寄る。
そっと体を屈めて、小桜の顔をのぞき込むようにして声をかけた。
「大丈夫? 汗、すごいよ……待っててくれたの?」
「ん……ああ」
小桜は鳥子に服の裾で汗を拭われながらも、生返事を返すだけで、私たちの方を見ようともしない。
その視線は、まるで何かに縫い留められたように、鳥子の肩越し――その真横の空間に固定されている。まったく動かない。
なにこれ、様子がおかしい。
私は鳥子の隣まで歩み寄り、ややかがみ込みながら、小桜の顔を正面から覗いた。
「小桜さん、平気ですか? 頭痛とか、吐き気とか、ないですか?」
「……おう」
当然というべきか、私にもろくに反応してくれない。
そのぼんやりとした返事も、聞き取れるかどうかのギリギリの声だった。
私はポケットから、さっきまで飲んでいたスポーツドリンクのボトルを取り出した。中身はもう半分も残っていないけれど、それでも今の小桜には何か口に入れた方がいい。
「これ、飲めますか?」
「……ん」
生気のない返事。だが頷いたことを良しとして、小桜の手に強引にペットボトルを握らせる。
そのまま彼女の口元まで、ぐいとボトルを近づけた。
「小桜さん、飲んで。しっかりしてください」
「んんん……」
かすれた声が漏れた。けれど、小桜はそれでも抵抗せず、ゆっくりとペットボトルに口をつけた。
私はそっと手を離して、様子を見守った。
もしこのまま手が震えてペットボトルを落としたり、キャップすら開けられなかったりしたら──その時は、もう救急車を呼ぶべきかもしれない。
できればスマホで「脱水症状」「熱中症」「日射病」なんかの違いを調べたいところだが、そもそも私は医療に詳しいわけじゃない。冷静な判断なんて、たぶん無理だ。
いや、むしろ。
こんなふうに迷ってる場合じゃなくて、今すぐ救急に連絡した方が正しいのかもしれない。
そんなふうに考えが堂々巡りしはじめた頃、小桜は自力でボトルのキャップを開け、飲み口に口をつけると――
ごく、
ごく、
ごく、と喉を鳴らしながら、中身を確実に飲んでいった。
私と鳥子は、息を詰めてその様子を見守っていた。
最後の一滴まで飲み干し、小桜が一息ついた瞬間、私たちの口から自然と安堵のため息が漏れた。
とりあえず、水分補給はできるらしい。
「飲めましたね、小桜さん」
「……当たり前だろ。飲める」
さっきよりも口調がはっきりしてきた。わずかだが、言葉に生気も戻ってきている。
私は安心したように笑って、両手で小桜の頬を包み込むようにして、グニグニと揉み上げた。
前に小桜の様子がおかしくなったとき、こうやって頬をいじってたら元に戻った記憶がある。だから今回も――という、半ばジンクスめいた行動だった。
最初はぼんやりと受け入れていた小桜だったが、やがて眉間に皺を寄せ、不快そうに顔をしかめると、持っていたペットボトルをポロリと手から落とし、私の手をつかんで抵抗した。
「……何すんだ、離せよ」
ぐい、と私の手を振り払った小桜を前に、私は少し身を引きながら訊いた。
「平気ですか? 小桜さん」
「平気? ……なにが」
小桜は不機嫌そうな顔でそう答える。
──どうやら、さっきまで自分の状態がどうだったのか、まったく覚えていないらしい。
「小桜さん、ここにずっと立ってたんですよ。覚えてないですか?」
「……ここ?」
そう言って、小桜は自分の足元を見下ろした。
釣られて私も視線を落とす。すると、小桜の足はいつものクロックスすら履いておらず、まるで何も気にしていないかのように、地面に素足をつけていた。
小桜は不思議そうに首を傾げ、それから顔を上げて、もう一度、今度は反対側に首を傾けた。
「なんで……?」
「それはこっちが聞きたいですけど」
私の口調は少しだけきつくなった。
でもそれは怒っていたわけじゃない。ただ、正直──焦っていた。
……本当に、これって熱中症で記憶に障害が出てるってやつじゃないの?
い、119番って……何番だったっけ?
頭が変な風にぐるぐる回り始めていると、小桜が顎に手を当てて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「たしか……あたしが部屋で仕事してたらさ、外からおまえらの騒ぐ声が聞こえてきたんだよ」
「騒ぐ?」
私は、自分と鳥子が帰ってきてからのことを思い出す。
確かに、多少は声を出したかもしれない。でも、わざわざ小桜を外に出させるほど騒いでいた覚えはない。
それに、たとえうるさかったとして……どうしてそんなことでこんな状態に?
私が首を傾げていると、小桜の語気が次第に強まり、早口になっていく。
「だから、あたし、『いいから入ってこいよ』って、マイクごしに何回も言ったの。けどおまえら全然入ってこないし、こっちに来てくれとか、見てほしい物があるとか言い出してさ……それで、仕方なくドア開けて外に出たら──おまえたちにこうされてたんだよ」
……何それ?
小桜の言っていることに、私たちの側にはまるで覚えがなかった。少なくとも、マイク越しの呼びかけなんて、一言も聞いてない。
何かの記憶違い? それとも幻聴?
念のため、私は訊いてみた。
「……小桜さん、それ、何時ごろの話かわかりますか?」
質問に対して、小桜の視線がヒョイと左上に動く。
「少なくとも……十三時半以降、くらいだったと思うけど」
「十三時半……」
私はその言葉を繰り返して、自分のスマホを取り出す。
表示された時刻は──十三時四十二分。
……よかった。ほんの十数分前の話だ。
素人判断だけど、何時間も炎天下にさらされていたわけじゃないなら、大事にはならなさそうだ。
「空魚、どう?」
「うん。十分から、長くても二十分くらい外にいたみたい。それに軒の下だったから、直射日光は避けられてたっぽい。たぶん、大丈夫だと思う」
「よかった……」
鳥子は安堵の息を漏らし、手に持っていた探索用のリュックを地面に置くと、小桜の両肩に手を添えて軽く握った。
「でもね、少しでも調子悪かったら、すぐ病院に行くから。わかった?」
真剣な口調でそう告げる鳥子を、小桜はいぶかしげな目で見返す。どうやら自分が何をしていたのか、まだ曖昧にしか理解できていないようだった。
……というより、私だって納得できていなかった。
小桜の話す内容と、実際の私たちの行動がまるで噛み合っていない。
小桜は、十三時半ごろに私たちに呼ばれて玄関に出たと言っていた。
でもその時間、私たちはまだ裏世界にいたはずだし、帰ってきてからも小桜に声なんてかけていない。
つまり、あれは寝ぼけていたとかそういう次元ではない。
……また裏世界が、何かしらの形で干渉してきたのかもしれない。
ほんとうに、困ったことに。
とはいえ、いま小桜はひとまず正気に戻っているように見える。話をするくらいなら、屋内でもできるだろう。なにより、これ以上ここにいると、私たち全員が本当に熱中症になりかねない。
私は地面に転がっていた、空になったスポーツドリンクのペットボトルを拾い上げ、小桜に向かって声をかけた。
「とりあえず中に入りませんか? ここだと暑い──」
「お盆も今日で終わりだな、って思ったんだよ」
「……え? ああ……はい?」
小桜が突然話をかぶせてきて、私は一瞬戸惑いながら返事をした。
言われてみれば、たしかに今はお盆休みの最中だ。
だからこそ、私たちは大学にも行かず、裏世界の探索に時間を割けている。
……けれど、どうして今、そんな話が出てくるんだろう?
ふと、胸の奥に冷たいものが差し込む。
「霞の教育のために、精霊馬でも作らせようかと思ったんだけどな……」
「精霊馬ってなに?」
鳥子が、まだ小桜の異変に気づいていない様子で、無邪気に尋ねる。
私は目を閉じ、少しだけ考えてから、その問いに答えることにした。
「お盆のときに作るお供え物。ナスとキュウリに割り箸とか刺して、馬とか牛の形にするの。知ってる?」
鳥子は顎に指を当て、数秒ほど記憶を探るように黙り込んだあと、小さくコクコクと頷いた。
「昔、おかあさんが見せてくれたかもしれない。……あれって、なんのために作るの?」
「キュウリの馬は、霊が早くこっちに来られるように。ナスの牛は、帰るときはゆっくり帰るようにって意味があるんだって」
「誰が、こっちに来たりあっちに行ったりするの?」
「……霊よ。お盆って、霊が生きてる人たちに会いに来るイベントみたいなものだから」
「へえー」
鳥子は顎を引いて感心したようにうなずくと、今度は小桜に向き直って訊いた。
「それを霞に作らせるの?」
「ああ」
「それ、いいね。素敵な行事だし、やってみたら?」
「……そうだな」
小桜はうなずいたものの、その声に覇気はなかった。自分から言い出したはずなのに、なぜか気乗りしていないように見える。
気になった私は、小桜の顔をのぞき込みながら訊いた。
「なにか、できない理由があるんですか?」
「いや……ない。ないんだが──」
小桜は口の中でもごもごと言葉を転がしていたが、やがてゆっくりと言葉を継いだ。
「呼べる霊がいるあたしが作るならともかく、霞は……誰のために、そんなもの作るんだろうって。どんな生い立ちか、はっきり知らないけどさ。あたしの勝手で、そんなもの作らせるのって、どうなんだろうなって……ちょっと考えちゃって」
思いのほか重たい言葉に、私は驚いてしまった。そして、考えるより先に口が動いていた。
「……小桜さんって、そういうの気にするタイプだったんですね」
言ってしまってから、「あっ」と思って手で口を押さえる。だが、小桜の反応は怒りでも呆れでもなく、ただ、少し寂しそうに視線を落とすだけだった。
「そうだな。昔のあたしだったら、そんなの気にもせず、霞にやらせてたと思う。でも……なんでかな。最近、妙にいろいろ考えすぎる。……冴月が、死んだからかもしれないな。身近な人間が、いなくなったから」
小桜の目が伏せられる。
ふと気づけば、鳥子までがどこか寂しげな表情をしていた。
重たい沈黙が、じわじわと場を覆っていく。
私はその空気に耐えきれず、なにか言葉を発さずにはいられなかった。理由なんて、うまく説明できない。ただ、この沈黙を続けたくなかった。
「精霊馬……そんなに深く考えなくてもいいと思いますよ。誰が来るとか来ないとか、そういうの、あまり厳密に考えるイベントじゃないし。ああいうの、ただの飾りみたいなもんですから。たぶん」
「……うむ」
私の、どこか無責任な言葉に、小桜はうなずくでも否定するでもなく、視線だけを遠くにやった。
その目線の先は、私たちが裏世界から帰ってきたとき、小桜がじっと見つめていた方角。
私もつられてその方向を見る。
屋敷の玄関の軒下。日差しの届かないその影のなかに、コンクリートブロックが二つ、静かに置かれていた。
横倒しになったブロックの上に、もう一つが縦に積まれている。そして、横のブロックの上には、一輪の白い花が、そっと添えられるようにして置かれていた。
それは、誰が置いたのかもわからない、ささやかな供養の形に見えた。
これって……。
私がその意味を考えていたとき、小桜を挟んだ隣で、鳥子がぽつりと声をあげた。
「お盆や精霊馬って、冴月のことも……呼んであげられたり、するのかな」
「……は?」
鳥子の言葉に驚いた私は、思わず首をひねり、大きな声を出してしまった。
すると鳥子は、慌てたように両手を上げて言い訳を始める。
「ほ、ほら、この行事って、亡くなった人を呼ぶものでしょ? だから、もしそうなら──誰が冴月を呼んであげられるのかなって思ったの。小桜は、冴月のお父さんとかお母さんのこと、知ってる? 冴月のお墓ってどうなってるのか、とか……」
「いや……知らない、な?」
小桜は、自分でも不思議そうに首をかしげた。
なんで小桜まで知らないんだ、と口を挟みたくなったけれど、いまは鳥子の話のほうが重要だった。
「じゃあさ、私と小桜で作らない? 精霊馬。あ、もちろん空魚は作らなくてもいいからねっ」
ワタワタと慌てながら、そんなことを言う鳥子。私は何も言わずに、鳥子の目をじっと見つめた。
「さ、冴月ももう、きっと何かしてきたりはしないと思うし……ダメかな」
「いや、別に構わないんだけど」
「……ほんとに?」
鳥子は不安げに、私の顔をうかがうような表情で尋ねてくる。私は鳥子の目を見ながら、ゆっくりとうなずいた。
「本当に。ただ、急に変なこと言うからビックリしただけ」
「そうなの? それじゃあどうしてさっき『は?』って言ったの?」
「……だから、びっくりしたんだってば」
正直に言えば、「閏間冴月なんかを」と思わなかったわけではない。
けれど──完全に亡くなった人。……この言い回しも奇妙だけれど、ともかく除霊されて無害化された存在にまで、腹を立てるのは大人気ない気がして、ためらわれた。
……いや、それでも。
さっき小桜が裏世界からの干渉を受けたらしいという話もあったのだ。
なら、冴月の霊を呼ぶようなことは避けた方がいい──そう伝えるのも一つの選択だと思い直す。
私はその言葉を探しながら、息を吸い込んだ。
と、その瞬間。
鳥子が腰を屈め、いたずらっぽい笑みを浮かべながら私に言った。
「……私が冴月の話したから、嫉妬したんじゃなくて?」
「してない!!!!」
吸い込んだ空気を一気に使い切って、私は大声で否定した。
……それがあまりにも子どもっぽくて、思わず奥歯をぎゅっと噛みしめる。
ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ図星だったことは、否定できなかった。
「してたよー!」
そう言って笑いながら、鳥子が私を冗談っぽく追いかけてきて、抱きつこうとする。
私は反射的に逃げ出して、軒を支える太い柱の後ろに隠れた。
鳥子はまるで子供か、飼い主に遊んでもらえると察した大型犬のように、両手をワシワシと動かしながら、軽やかにステップを踏んで私を追い込もうとしている。
「もう、なにやってるの……暑いから中、入ろうよ!」
「えー、やだー!」
私の言葉をぴしゃりと切り捨てるように言って、鳥子は柱を回り込もうとした──その瞬間。
「あっ!」
私たちの声が重なった。
鳥子が足元のコンクリートブロックにつまずいてしまったのだ。
バランスを崩して転んだが、うまく受け身を取ったようで、大きな怪我はなさそうだ。私はあわてて近寄り、呆れまじりに手を差し伸べる。
「もう……大丈夫?」
鳥子はバツが悪そうに手の土埃を払ってから、私の手を取って立ち上がった。
「えへへ、ごめん。ちょっと調子に乗りすぎちゃった……」
「何してんだ!!!!」
不意に背後から大声が響き、私と鳥子は揃って目を見開いた。
そこには、無言で立ち尽くしていた小桜。
いつもの怒鳴り声よりもずっと大きな声だった。
怒鳴った本人も驚いたのか、手を握って口元を隠し、気まずそうな表情を浮かべている。
「ごめんね、小桜……私、ほんとに調子乗っちゃって……」
「ごめんなさい、小桜さん」
鳥子に続いて私も謝ると、小桜はほんのわずかに眉をひそめ、低く抑えた声で言った。
「……危ねえだろ。怪我したらどうすんだよ」
そう言って、鳥子の転んだ先──倒れたコンクリートブロックに視線を向けた。
「これって、大切なものなの?」
鳥子が視線を追いながら小桜に問いかける。
小桜は一度うつむき、首を横に振った。
「……いや。ただのコンクリートだ」
なら、どうしてあんなに怒ったんだろう?
本当に怪我が心配だったのかもしれないけど……にしては、ただならぬ声だった気がする。
私が脳内で疑問符を浮かべていると、鳥子がブロックを指差して言った。
「こんなもの、前からここにあったっけ?」
「……いや、知らん。いつの間にか、置かれてた」
「お花なんか添えて……なんか、お墓みたいですよね」
そう言うと、小桜が私の顔をふいに覗き込んできた。
しまった、また言葉選びを間違えたかと、私は身構える。
けれど、小桜は怒りもせず、視線をまたコンクリートへと戻した。
「そうなんだよ……墓みたいで、さ」
「……気持ち悪くないんですか? どこかに置いてきましょうか?」
私は小桜の顔色をうかがいながら提案する。
小桜はしばらく黙った後、軽く首を振った。
「いや、大丈夫だよ。ありがと、空魚ちゃん」
そう言って、小桜は手で顔をあおぎ始めた。
こめかみのあたりから、一筋の汗が頬を伝い、あごの先で止まる。
「中、入るぞ。汗でびちょびちょだ」
小桜が玄関のドアを開け、屋敷の中へ入っていく。
私と鳥子も、そのあとに続いて、小桜屋敷へと足を踏み入れた。
裸足の小桜を除いて、私と鳥子は靴を脱ごうと三和土に立った。
小桜屋敷の中は、外とは打って変わって涼やかだった。まさか屋敷全体に冷房を効かせているとも思えないが、どうやってこの快適な室温を保っているのだろう。うちのボロアパートなんて、エアコンをつけても暑いくらいなのに。
私が蒸し風呂と化した我が家を思い浮かべていると、どこからともなく黒髪の小柄な影が現れた。霞だ。中間領域を経由してシフトしてきたのだろう。
「ただいま。霞」
小桜が声をかけると、霞はこくりと頷く。
霞は日によってよく喋ることもあれば、ほとんど無口なときもある。今日はどうやら省エネモードの日らしい。
「おかえりだよ、霞? お・か・え・り〜」
鳥子が冗談めかして挨拶を促すが、霞は額の汗を不快そうに袖で拭いただけで、何も言わなかった。
外から帰った私たちには涼しく感じる玄関も、屋敷の中にいた霞にとっては暑いのかもしれない。
そのとき、ふと私の脳裏にある考えが浮かんだ。
──外にあった、あのコンクリートブロックのお墓のようなもの。あれ、もしかして霞が作ったんじゃないだろうか?
DS研で第四種の患者たちがTさんにやられたときも、霞は彼らの部屋と思われる場所に花を手向けていた。霞は、そういう子だ。
私は腰を折って、霞の視線の高さに合わせて訊いてみる。
「ねえ、外にあったアレ、霞が作ったの?」
霞は私の方を見て、コテンと首を傾げた。ちょっと情報が足りなかったかもしれない。
「コンクリート組み合わせてたやつ。すごいね。あれ、お墓? 誰かのための……?」
霞は首を傾げたまま、目を細めた。どうも不可解な質問に聞こえたらしい。
「コンクリート」って単語が通じなかったのかもしれない。難しいな、この子との会話は。
──まあ、いいか。あんまり無理に聞くのもよくない。
私はポケットに手を突っ込んで、携帯食として持ってきていたお気に入りの塩羊羹を取り出した。
「これ、あげるよ」
霞は相変わらず無言だったが、差し出された羊羹を受け取ると、すりガラス越しの陽光にかざしてじっと眺めた。
数秒経っても、食べるでもなく、しまうでもなく。
──もしかして、開け方がわからないのかな。
私はもうひとつポケットから取り出し、見やすいように開け方を実演してみせた。
「ここをピーって引っ張って、こうやってギュッて押すと……ほら」
私は開けたばかりの塩羊羹を一口、口に含む。探索で汗をかいたせいか、いつもより甘みが際立って感じられた。
霞も黙ったまま、私の動きを真似して包装を開け、ひと口でパクリと食べた。
──飲み込みが早い。意外と賢いかも、この子。
霞はしばらく私と一緒に口をモチョモチョ動かしてから、満足そうに飲み込んだ。どうやら味は気に入ったようだ。
「食いしん坊だ」
隣で様子を見ていた鳥子が、優しい声でそう言った。
小桜も何も言わずに、ただ静かにこちらを見守っていたようだった。
私は口元を手で覆い、羊羹を慌てて飲み込むと、一言だけ詫びた。
「すみません、時間とっちゃって」
「いや、いい。ありがとな」
小桜はそう言って軽く手を振ると、三和土で裸足の足裏を軽くはたいてから、屋敷の奥へと入っていった。
そのときだった。
いままでずっと無言だった霞が、ぽつりと口を開いた。
「ありがとナス」
そして、もっと寄こせと言わんばかりに、霞は無言で私に手を差し出してきた。
一方の私はその仕草に驚いて、思わず体を固めてしまう。
──今、この子……なんて言った?
私は戸惑いのまま鳥子の方を振り向いた。鳥子は小さく首を振る。
「ごめん。今日は私、携帯食ぜんぶ食べちゃったから、持ってないや」
いや、そうじゃなくて。
私は再び霞に目を戻す。
すると霞は、ふてくされたように口をすぼめ、不満げな表情のまま、ふっと目の前からシフトして消えてしまった。
霞が消えたその場所に視線を落とし、そこから自然と隣にいた小桜へと目を移す。
目が合った小桜は、苦々しげに顔を歪めていた。
「……とりあえず、風呂だ。汗だくで気持ち悪いからな」
それだけ言い残して、小桜はくるりと背を向け、風呂場のほうへと足を運んでいった。
2
「霞がな……ネットの影響で〈語録〉を覚えて、使い始めちまったんだよ」
風呂から上がった私たち三人がリビングの椅子に腰を下ろしたちょうどそのタイミングで、小桜がぽつりと口を開いた。
白木のテーブルを挟み、斜め右に座る小桜は深刻そうな表情で、先ほどの霞の言動について悩みを打ち明ける。
小桜の隣には、さっきと同じように、いつのまにかシフトして戻ってきたらしい霞が、子ども用の背の高い椅子にちょこんと腰かけていた。
私と小桜が自分の話をしているというのに、霞は相変わらず無表情のまま、我関せずといった顔をしている。
「それは……大変ですね」
私は真正面に座る霞をちらりと見ながら、霞の隣で悩ましげに手を組んでいる小桜にそう言った。
「ねえ、それってどう大変なの?」
鳥子が不思議そうに訊ねてくるが、私と小桜は顔を見合わせ、答えに詰まってしまう。
「〈語録〉って、なに?」
さらに追い打ちをかけるように鳥子が訊いてきた。
「……お前は知らなくていいんだよ」
私の代わりに、小桜がぶっきらぼうに答える。それに鳥子が唇を尖らせた。
「ひどい。二人だけで秘密作るの?」
「違えよ」
「私だけ仲間はずれってこと?」
「だから違えって」
小桜は組んでいた手を解き、指先でこめかみをトントンと叩く。
「脳の容量を無駄にすんなって、お前のために言ってやってんだよ。マジでこの手のネットミームはろくでもねぇからな」
その言葉に、私も静かに同意した。
「そうだよ鳥子。余計な知識だし、卑猥なネタも多いから、知らないほうがいいって」
すると、鳥子は私の方をじっと見つめる。
「余計って……そんなにダメなの?」
「ていうか、鳥子が変なこと知っちゃうのがやなんだよ」
「それは空魚のワガママじゃん……」
鳥子はさらに唇を尖らせて、むくれたように言う。けれど私は頑として譲らない。
「空魚と小桜は、もうその『変なこと』知ってるんでしょ?」
そう言われて私はしぶしぶ頷く。
「うん……私と小桜さんは、もう脳みそ丸洗いしない限り手遅れだから」
鳥子が小桜の方に視線を向けると、小桜も無言で頷いた。
「マジやめとけ」
それを聞いた鳥子は不満げな顔で、片肘をついてテーブルにぺたりと倒れ込んだ。
「なんかやだなぁ、こういうの……寂しい」
そして、私の方をじとっと恨めしげに睨んでくる。
私はばつが悪くなって、鳥子の視線から逃げるように肩をすくめた。
「……性的な要素も多いから、正直話しづらいのよ」
「私と空魚なら、いまさらじゃない?」
「ちょっ!」
逃げの一手で放った言い訳に、鳥子が豪速球の暴投で返してきた。私は思わず声を上げ、とっさに小桜の方へ視線を向ける。
斜め向かいの小桜は、なんとも言えない顔でため息まじりに言った。
「……痴話喧嘩はすんなよ」
話題を振った本人だからだろうか、小桜はそれ以上何も言わなかった。
私はなんとか場の空気を変えようと、頭の中から無理やり言葉を捻り出して口を動かす。
「お、お盆の時期にこんな話してると、バチが当たりそうだよね〜……誰が何聞いてるかわかんないし……あはは」
私の言葉に、小桜は呆れたような顔でこちらを見る。それしか話すことないのかよ──そんな台詞が顔に書いてありそうだった。面目ない。
小桜は左手で頬杖をつきながら視線を外し、右手をヒラヒラさせて、他人事のように適当なことを言う。
「……バチが当たったら、空魚ちゃんが〈びっくりするほどユートピア〉でもして追い払えよ」
「いやですよ」
「ねえ、その〈びっくりするほどユートピア〉って、訊いちゃダメなやつなの?」
小桜の発言に、肘を枕にして横になっていた鳥子が、顔だけこちらに向けて訊いてきた。
私はほんの少し迷ってから、小さく頷く。
「うん……ギリ、オーケーかな」
「やった!」
鳥子は途端に機嫌を直して、大袈裟に喜びながらパチパチと手を叩く。
私はその様子が妙に可笑しくて、思わず首を傾げて訊ねた。
「そんなに話したかったの? そういう、エッチな話」
私の問いに、鳥子は少し照れくさそうに目を逸らし、小首をかしげて言った。
「うーんと……ちょっとだけ? 友達同士で、そういう下ネタの話とかしてみたかったり……したの、かも?」
そう言って、鳥子はへらっと笑った。
そんなやりとりを見ていた小桜が、横目で私に言う。
「『語録』がダメで『ユートピア』がオーケーって、判断基準どこよ」
「なんとなくですよ。『ユートピア』のほうは、まあ、ただのネタだから。笑って済ませられるやつ。でも〈語録〉のほうは……元ネタがちょっと……ですね」
「……そうだな。いえてる」
私の言わんとしていることが伝わったのか、小桜は軽く頷いて、アイスコーラの入ったマグカップを傾けた。
いわゆる〈語録〉と呼ばれるものに関しては、元ネタとなったミーム自体が、同性愛者を茶化すような、悪意に近い意図で作られたものだという評価を見たことがある。
私はそれを目にしても、特に強く思うことはなかったけれど──でも、鳥子が聞いたらどう感じるか。それを思うと、やっぱり無闇に話す気にはなれなかった。
もしそうなる可能性があるのなら──鳥子には、あの一連のミームをわざわざ見せたくなんてなかった。
それに、万が一鳥子があれを面白がって日常的に使い出したら、それはそれで……かなり嫌だ。
……そういう意味では、霞の状況はかなり厄介だ。
私は正面に座る霞へと視線を向ける。
霞はといえば、特に何をするでもなく、少し俯き気味にテーブルの真ん中あたりをじっと眺めている。
この子は、覚えた言葉がどういう意味かなんて気にせず、ただ使ってしまう。
まあ、それは普通の子供でも同じかもしれないけれど──それでも、そういう言葉の「事故」が起きるたびに、保護者はきっと毎回肝を冷やしているのだろう。そう思うと、大人の苦労が少し見える気がした。
「……なんだよ?」
「え?」
いつの間にか私は、小桜のことをじっと見つめていたらしい。
不可解そうにこちらを見る小桜と目が合って、言葉が出てこない。数秒間、何も言えずに黙ってから──
「ああ、いえ、お疲れ様です……霞の教育」
言ってから少し間があって、小桜は一瞬ポカンとした顔になったが、すぐに取り直して笑った。
「まさか空魚ちゃんから、そんな言葉が聞ける日が来るとは思わなかったな」
「なんですか、それ。これくらい普通に言えますって」
小桜は「はいはい」と軽く頭を振って言う。
「わかった、ありがとさん。……じゃあ良かったらさ、霞にも『教育にいい言葉』でも話しかけてやってよ」
教育にいい言葉、ってなんだろう。
小桜に言われて、私は頭の中から〈教育に良い言葉〉らしきものを探そうとするが、思いつかない。
少し唸りながら肘をつき、霞の方へ身を寄せた。
「さっき私が……お菓子あげたとき、『ありがとナス』って言ってたよね。……『ありがとう』が正しいんだよ。『ナス』はいらない。わかるかな?」
とっさに出た言葉にしては、なかなか良い修正だったかもしれない。
私は霞の反応を待った。
……が、十数秒経っても、霞はこちらを振り返ることもなく、相変わらず静かに、何もない場所をじっと見つめたままだ。
なんだろう。今日は特別に無口な日なのか。それとも、さっき塩羊羹を一つしかもらえなかったことを根に持っているのか。
──いや、でもこの子、こんなに無反応だったっけ?
……まあ、うん。子供の気持ちはよくわからない。
それだけは、はっきりわかった。
私は小さく息をついて、身を引き、姿勢を戻した。
そんな私に、小桜が苦笑混じりに声をかけてくる。
「そこで諦めんなよ」
「……私には向いてないことが、今ので分かりましたから」
「あたしだって、向いちゃいねえよ」
テーブルに肘をつき、頬杖をつきながら言った小桜に、鳥子が無邪気に言った。
「でも小桜はもう、立派なシングルマザーだよね。私のママが仕事でいなかったときの、お母さんみたい」
「お母さん、ねえ……」
感慨深げに呟いた小桜は、隣に座る霞の髪に手を伸ばし、そっと撫でた。
指通りの良さそうな、細くて毛量の多い髪が、サラサラと小桜の指の間をすり抜けていく。
「何が正解かもわかんねえまま育ててるからな……日本語の子育てサイトだけじゃ物足りないし、ちょっとスピリチュアルっぽいノイズも混じってるから、海外の論文とかも読み漁ってる。……使えそうなとこだけ拾って、試してみてはいるけど、それでも霞にはいろいろ不便な思いさせてるだろうし、実際足りてねえよ」
「さっきの、精霊馬作るっていうのも……教育の一環なんでしょ?」
小桜は霞から視線を外さず、鳥子に小さく頷いてみせた。
「常識を教えるって意味でも、季節の行事は知ってて損はないだろ?」
「……そういうものですかね?」
私は小桜の言葉に首を傾げながら尋ねた。
自分は季節の行事を特に知らずに生きてきたが、それで困った記憶もない。だからと言って、霞にも同じでいいのかはわからない。
小桜は柔らかな表情のまま、ゆっくりと私の方を見て言った。
「せめて、クリスマスがいつかくらいは覚えさせてやりたいんだよな。次の目標だ」
「う……ぐぅ……」
それを言われると、ちょっと痛い。
私は素直に引き下がることにした。
「ねえ、今からみんなで精霊馬作らない?」
私の胸の奥の傷を知ってか知らずか、鳥子が唐突に小桜へと提案した。
小桜は腕を組み、むーん……と唸る。
「キュウリもナスもねえぞ」
「なら買いに行こ?」
「……面倒だが、そうするか。霞も一緒に行くか?」
小桜が鳥子から霞へと視線を移して尋ねる。
すると、霞が膝の上にでも隠していたのか──緑色の物体を、スッとテーブルの中央に差し出した。
その瞬間、私たち三人の目が自然とその物体へと引き寄せられる。
………………キュウリ、だった。
だが、そのキュウリには、細い枝のような木の棒や葉っぱが、十本以上、荒々しく突き刺さっている。
しかもまるで、何かに怒りをぶつけるような勢いで──親の仇かと思うほどに、激しく。
これ……精霊馬のつもりなのだろうか?
作ったのは、たぶん霞だ。
だとしたら、なかなかに禍々しいシルエットをしている。
まるで異界から来た乗り物みたいに。
私がそんなことを考えていると、小桜が戸惑いの混じった声で呟いた。
「キュウリ……うちにあったっけ……?」
どこか上の空のような口調だった。
そしてそのとき、霞が口を開いた。
ずっと閉ざしていた唇から、ぽつりと零れた一言。
「──着いた」
瞬間、部屋の空気が一変した。
まるで室温が急激に下がったかのような、ぞっとする寒気が走る。
私は条件反射のように、ぶるりと身を震わせた。
……なんだ、これは。
冷え? それとも別の、もっと得体の知れない何か?
頭の奥が薄い膜に覆われたようにぼやけていき、思考がうまく回らない。
さっきまでの違和感──霞の異様な精霊馬も、キュウリの出所も、すべてが頭の隅に追いやられて、読み取れなくなっていった。
3
………………寒いな。
リビングに設置されたエアコンが壊れでもしたのだろうか?
震えるほどではないが、私は腕をさすってその寒さをごまかした。
もしかして、私の見ていない間に小桜が温度を下げた?
だとしたら、いくら今日が真夏日とはいえ、ちょっと寒すぎる。
エアコンの温度を上げてもらおうか──そう思ったとき、不意に鳥子が「……あ」と小さく声を漏らした。
見ると、鳥子は唖然とした表情のまま、何を見るでもなく目を見開いている。
「鳥子、どうしたの?」
私は訊ねた。だが、鳥子は私の問いかけに応えるというより、自然に言葉をこぼした。
「この匂い……」
鳥子は正面を見たまま、小桜に確認するように言った。
「小桜、わかる?」
「……わかる」
応じた小桜の顔にも、なにかを警戒する色が浮かんでいた。眉間にシワを寄せ、口を固く結んでいる。
二人の反応を受けて、私も遅れて鼻を鳴らす。
──言われてみれば、ほんのりと花の香りが漂っている気がする。
けれど、私には二人のような険しい顔を作れるほどの実感はない。
芳香剤を変えたとか、そんな話じゃないのはわかるけど……でもそれだけで、なぜそんな顔に?
状況をつかみかねている私だったが、花の香りを前にした鳥子と小桜の表情を見ているうちに、じわじわと落ち着かない気分になってきた。
……なんだろう、この感じ。
記憶の底をさらうように、私は思い出す。──そういえば、前にも似たようなことがあった。
「……あの、それって、もしかしてですけど」
私は無意識に、黒衣の女の姿を脳裏に思い浮かべていた。
私の問いかけに、小桜はしばし黙ったのち、まぶたを閉じて数秒沈黙した。そして、苦いものを噛みつぶすような顔で頷いた。
「冴月だな……あのバカ野郎」
鳥子は視線を落とし、小さく呟く。
「そっか……お盆だから、会いに来てくれたのかな?」
その声はどこか優しく、どこか寂しげだった。
そして鳥子は、私の方を向いて訊いてきた。
「……空魚、どうしたらいいと思う?」
「そんなの……また成仏させるに決まってるけど?」
私は口を曲げて答える。すると、鳥子の表情が曇った。納得がいかない──という顔。
「でも、なにも悪いことしてないよ? 冴月、もうきっと『いい霊』になってるんじゃ……」
まるで、冴月をかばうような口ぶりだった。
その様子に、私は胃のあたりに熱のような感情が湧き上がるのを感じた。
なんでまた庇うんだよ、あんな女。
……そう、内心で毒づいたが、それを言葉にはしなかった。
「それは、『まだなにもしてない』ってだけでしょ。さっさと追っ払わないと……」
私は言いながら、小桜の方を見た。
「小桜さんも、黙ってないで。一緒に考えてくださいよ」
「ん、ああ。……いや、でもな……」
小桜は頭をかいた。
その顔には、どうにも歯切れの悪いものが浮かんでいた。
小桜はどこかうろたえたような顔をしている。その様子に、私は小桜にまで腹が立ってきた。
「でも、も、なにもないですよ。小桜さん、裏世界に連れていかれてもいいんですか?」
「嫌に決まってんだろ……でも、そういうんじゃなくてさ」
語尾を濁す小桜に、私はじりっと詰め寄るように訊いた。
「なんですか?」
私の追及に、組んでいた腕を解いた小桜がようやく口を開いた。視線を私と鳥子に交互に向けながら、ゆっくりと言った。
「空魚ちゃんも鳥子も、いまの冴月から……嫌な『空気』って、感じるか?」
空気?
「感じない! それ、それ私も思ってた!」
私が疑問符を浮かべている間に、鳥子が小桜に勢いよく同調する。
「鳥子……」
「空魚は? 嫌な感じ、する?」
鳥子に訊かれ、私は一歩、気持ちが引くのを感じた。
空気……言われてみれば、葬式の時のような、あの生命の危機を感じさせる恐怖や緊張感、脅威──そういったものは、確かに今は湧いてこない。けれど、不快感はある。それは、おそらくこの場にいる中で私だけが感じている感情だ。
だとしても。
私は苛立ちまぎれに鳥子を睨んだ。けれど鳥子は、私の不機嫌さに気づくこともなく、続ける。
「ねえ、もしかしたら今回の冴月は、なにか──良い方向に働くかもしれないよ?」
「………………」
「ね? 空魚もそう思わない?」
思案するように目を瞑って沈黙する小桜に相槌をもらえず、鳥子は私に向き直って同意を求める。
私は眉を歪め、思いきり睨みつけた。
──この子は、なぜ学ばないのだろう?
私が冴月に良い感情を持っていないことくらい、知っているはずなのに。あるいは、わざとやっている? ……そうは思いたくないが、それでもあまりにも、私への配慮に欠けている。
「……最初は良い顔して、あとで足元をすくう。悪い奴ってそういうもんだと思うけど?」
「それは、そうかもだけどぉ……」
私の語気に鳥子は押され、声を濁らせる。
「そもそも鳥子は、冴月さんとはもう『サヨナラ』したんじゃないの? なんでまた、そんなに会いたがるのよ」
「それは……そうなんだけど、でも、そうじゃなくってっ」
必死に抗議する鳥子を、私は苛立ちを抑えきれずに首を振って、小桜の方へ視線を向ける。
「小桜さん。どう思いますか」
「……空魚ちゃんの懸念は、よく分かるよ。あいつなら、いきなり牙をむいてきてもおかしくない」
その言葉に、私は少し顎を上げた。
「やっぱり、そうですよね」
「……最後まで聞け」
小桜が私を一瞥して、ぴしゃりと続けた。
「空魚ちゃんの言い分はもっとも。でも、鳥子の気持ちも、わからなくはないんだ」
「鳥子が言ってるのって、『なんとなく良くなりそう』とか、そんな曖昧なやつですよ?」
「わかってる。鳥子の考えは甘い。だから、空魚ちゃんの意見を採用する。……じゃあな、冴月ってな」
「えぇ……」
小桜の言葉に、鳥子は肩を落とし、悲しげに首をすくめた。その姿に、私はますます胃のあたりがむかむかしてくる。
「良かったです。小桜さんまで変なこと言いだしたら、どうしようかと思いました」
「あたしが言いたかったのはな、今の冴月からは、ちゃんと『人間の気配』がする。悪意も、感じない。だから鳥子の気持ちも、わかるってだけだ」
「小桜ぁ……」
小桜に援護されたことで、鳥子は気を取り直そうとしたのか、甘ったれたような声を出す。
私は──もう、鳥子にも小桜にも腹が立って仕方なかった。誰に対しても怒りが湧く自分が情けなくもある。
「……小桜さんも、ちゃんと『サヨナラ』したくせに」
「うっせぇな……それでも、もしアイツがちゃんと『人間として』振る舞うなら、あっちから引き戻せるなら、そうしてやりたいって思ったんだよ。一瞬だけ、な」
「できるんですか? そんな都合よく」
私の言葉に、小桜は静かに首を横に振った。
「無理だって思ったから、空魚ちゃんに賛成したんだ」
「ええ、どんなに『人間らしさ』出してても、お盆に合わせて来てる時点で──それ、もう『霊』ですから」
「ああ。だから何をしても、人間には戻れない」
小桜はそう言うと、俯いている鳥子に、あらためて告げた。
「そういうわけだ、鳥子。潔く諦めろ。今のパートナーは、空魚ちゃん一人なんだろ?」
「………………」
黙って俯く鳥子に、小桜ははっきりと言い聞かせた。
「割り切れよ。不義理はすんな」
私だけでなく小桜にまで反対表明を食らってしまった鳥子は、しょんぼりと項垂れている。
私も小桜も、鳥子の返事をじっと待っていた。
長い沈黙が落ちる。小桜のマグカップから、氷がカラリと音を立てて崩れ落ちた。
やがて、鳥子が顔を手で拭いながらぽつりと言う。
「……そうだよね」
それから、私のほうを向いた。涙でにじんだ下まぶたから、アイラインが崩れている。
私は動揺しそうになるが、それを悟られないように、無理に顔に力を入れた。
「ごめんね、空魚……もう変なこと言わないから」
「……うん。わかった」
私と鳥子のやりとりを見届けてから、小桜は深く息を吸い、どこにいるとも知れない閏間冴月へと語りかけた。
「おい、冴月。悪いけど、やっぱお前の居場所、ここにはねぇわ。なんで出てきたのかは知らねえ。マジでお盆だからなのか? それとも、さっきお前の話したせいか? どっちでもいいけど──」
小桜は声を低くし、じわりと威圧感をにじませる。
「今のあたしは霞のことで手一杯だし、空魚ちゃんも鳥子も、お互いのことで精一杯なんだわ。だから、もう帰ってくれ。……ああ、それと、一応言っとくけどな」
一拍置き、小桜は鋭い口調で言い切る。
「また、るなの奴にまで手ぇ出したら──今度こそマジで軽蔑する。大人しく帰れよ」
言いたいことを言い切ったのか、小桜は椅子に深く身を沈める。
……静寂。
三人分の沈黙が、リビングを満たしていた。
それぞれの息遣いだけが、静かな空気に微かに混じっていた。
鳥子と小桜は、もう一度閏間冴月との別れを済ませた。
私は、それを静かに見届けていたのだった──。
4
──十分後。
「………………」
小桜は眉をしかめ、天井のあたりを睨みながら、無言で腕を組んでいる。
あれから少し時間が経ったが、私たちは相変わらずリビングに座ったままだった。
特に会話があったわけでも、笑い合っていたわけでもない。状況は、何一つ変わっていなかった。
「……ねえ、小桜」
「ああ」
鳥子が尋ね、小桜が苦々しげに答える。
「冴月、まだいるよね?」
「……ああ」
小桜は返す言葉を変えず、同じ語調で不愉快そうに返答した。
あの言葉にしがたい存在感は、ますます濃密になっていた。花の香りも濃く、むしろ悪化している。部屋の寒さも相変わらずだ。
私のイライラは頂点に達しかけていた。なんなのだ、閏間冴月という女は。聞き分けのない子供か。こどもおばさんかよ。
そんなことを頭の中で罵っていると、小桜が怒鳴った。
「冴月よお、マジでいい加減にしろよ? これで夜、あたしの枕元に出たら、ほんとにぶん殴るからな!」
静寂。
言い終えた小桜が黙り、リビングには耳鳴りのような沈黙が残った。
小桜は腹立たしげに拳を握り、テーブルを控えめに小突く。
「くっそ、返事がねぇから分かんねぇ……空魚ちゃん、悪いけど、またコックリさんやってくんない?」
小桜の提案に、私は少し考えてから首を振る。
「やめたほうがいいと思います。あれ、霊とのコミュニケーション目的ですし。下手に構うと、調子に乗るかもしれませんよ。この人。お葬式のときみたいに、ろくなことにならない予感しかしません」
「あー、そうか……マジで糞めんどくせぇわ」
私と小桜が同時にため息を吐いたそのとき、鳥子が前のめりになって訊いてきた。
「ねえねえ、空魚」
「……どうしたの?」
さっきまで泣いていた鳥子は、まるで何事もなかったような顔をしている。私ももうあんな空気はうんざりなので、なるべく普通に返す。
鳥子が言葉を続けた。
「前にさ、空魚が、幽霊は『空気』を変えれば払えるって言ってたじゃない? だから……」
「おお、ファブリーズならあるぞ。空魚ちゃん、後ろの棚にあるから取って」
鳥子が言いかけたところで小桜が口を挟む。でも、言いたいことは伝わった。
要するに、小桜の言う通り、ファブリーズで霊を祓ってみようってことだ。効果があるかは知らないが、やってみる価値はある。
「わかりました」
私は頷いて椅子から立ち上がろうとした。
「あ、ちょっと待って、違うの」
鳥子が私を引き止めた。小桜が怪訝そうに訊く。
「なんだよ。他に方法でもあるのか?」
鳥子は小さく頷く。
「物理的な空気だけじゃなくって、他の方法でも空気は変えられる……でしょ? 空魚」
「うん? まあ……そうね?」
鳥子はもごもごと言いよどみ、視線を落として表情を隠す。
何が言いたいのか分からず、私は困惑して鳥子の顔を覗き込んだ。
鳥子は胸の前で指をモジモジと合わせながら、喋ろうとしてはやめ、やめてはまた喋ろうとして……を繰り返している。
その不審な動きに私は心配になり、鳥子の目の前で手を振ってみた。
鳥子は驚いたように私に視線を寄越す。よかった。裏世界の影響とかじゃなさそうだ。
「大丈夫? 鳥子」
「う、うん。平気」
……全然平気じゃなさそうだ。顔は真っ赤に染まって、慌てて自分でパタパタ扇いでいる。
私は我慢できず、率直に訊いた。
「鳥子は、ファブリーズ以外に除霊方法を知ってて、それをやりたいってことなんだよね?」
訊かれた鳥子は目を泳がせ、きょろきょろと視線をさまよわせる。
私はその動きをじっと見つめながら、鳥子の答えを待った。
やがて鳥子は、覚悟を決めたように私をまっすぐ見て、こくりと頷いた。
藍色の瞳が、私の目をまっすぐ覗き込んでいる。
「空魚が前に言ってた話なんだけどね……?」
「うん」
「霊って……性的な話をすると逃げていくっていう──」
「小桜さん。私、急用思い出したので今日は帰ります」
「待て! 空魚ちゃんは待て! 鳥子は黙れ!!」
私がさっさと椅子を蹴って立ち上がるのを、小桜が手を伸ばして制止する。
だが、構わず鳥子が続けた。
「やっぱダメかな? 猥談」
「するわけないでしょ。なんでそんなことしたがるの?」
「ちょっと待って、それじゃあ私が猥談したがってるみたいな言い方じゃん!」
「違うの?」
「……私だって、したいわけじゃないよ!」
鳥子のおバカな提案に、私は猛然と首を振った。なんで効果のほども怪しい猥談なんかに頼らなきゃいけないの。ファブリーズがあるのに。
「でも、性的な話題で冴月とバイバイするの、効果的かもしれないんでしょ?」
「それは……」
鳥子に言われ、私は言い淀んだ。たしかにネットロアでは、猥談や性的な行動が霊を遠ざけたって話は少なくない。だから、できるかできないかで言えば──「できるかもしれない」になる。
だけど……。
「猥談なんて、何を話せばいいかもわからないよ……私」
なにより、恥ずかしいし……。
私がそう言うと、鳥子は真っ赤になりながら、そっと身を寄せてきた。私は反射的に耳を向ける。鳥子が、恥じらうように囁いた。
「その、私と空魚の話をする……とか」
……私は言葉を失った。
無言で鳥子の顔を見ると、鳥子も私を見ていた。不安や困惑、それだけじゃない。どこか、期待めいた色がその表情に滲んでいた気がした。
「ざけんなよおまえら、それあたしも聞くことになるじゃねえかよ。知り合いの性事情なんざ一ミリも知りたくねえぞ!」
鳥子の囁きが聞こえていたらしく、小桜が吠えた。すると鳥子は顎に指を当てて、神妙な顔でこう返した。
「じゃあ小桜は……喋る担当?」
「ぶっころすぞっ!!」
怒声をあげる小桜にお構いなく、鳥子は両手で親指を立てて、真っ赤な顔のまま言った。
「私は……いいよ? 小桜の話とか聞いても、絶対笑ったりしないから……」
「うっせぇバーカ!」
私は、ここまでしつこく猥談に食いついてくる鳥子の動機が気になって、思わず訊いた。
「鳥子はどうして、そこまで猥談にこだわるの?」
「こだわってるわけじゃないんだけど……」
鳥子は赤くなった両頬を手で隠して、ぽつりと答えた。
「あえて言うなら、さっきの〈語録〉?」
その言葉で、私は合点がいった。
鳥子は、仲間外れにされたことを根に持っているのだ。私と小桜だけの会話から出てきた〈語録〉が、卑猥な文脈だったと勝手に解釈し、それに食いついてきた、というわけだ。
……なるほどねぇ。なんというか……鳥子って。
「おまえ、もしかしなくても、ものすごいバカなんじゃないか?」
私の代わりに、小桜がばっさりと言い捨てた。不服そうな鳥子の顔を見て、もう構うのもやめたのか、それとも相手にするだけ無駄だと判断したのか──小桜は私の方へ向き直り、叫んだ。
「空魚ちゃん、とにかくファブリーズだ! ファブれ、ファブれ! 使い切ってもいいから!!」
小桜が私の背後の棚を指差す。そこに、雑に置かれたスプレーボトルがあった。
「わかりました」
私は椅子の上で身を捻り、ファブリーズを手に取ると、座ったまま部屋のあちこちへシュッシュと満遍なく噴射した。
「ああー、待ってよ〜……」
私も小桜も、鳥子の無駄に悲痛な声を見事にスルーした。私はただ、ファブリーズをシュカシュカしまくったのだった。
──十分後。
閏間冴月の気配は、消えるどころか、むしろその存在感をより濃くしていた。まるですぐ目の前に本人がいるかのような錯覚すら覚えるほどだ。
花の香りはいつの間にか消えていたが、それはテーブルの上に転がった空のファブリーズスプレーの力だろう。今この部屋に満ちているのは、もはや暴力的とも言える人工的な芳香で、鼻がバカになってしまっている。ファブりまくったせいで、みんな肌がしっとりしているし、空気の湿度も上がっているのか、ムシムシと蒸し暑く感じられた。
「……あたしさ」
ファブリーズの薬液が入らないよう、両手でマグカップに蓋をしていた小桜が、それを一口あおる。喉を鳴らしてアイスコーラを飲み下すと、遠い目で虚空を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「初めて、本気で人を殺したいと思ったよ」
「もう死んでるのがポイント高いですよね」
「それなぁ……」
小桜はしばし俯いたまま黙り込み、何かを思い詰めるように、やがて顔を上げて私に問いかけてきた。
「なあ、これ、何もしないままお開きにしたらどうなると思う?」
「正直、想像もつきません。でも……なにかしら区切りをつけないと、良くないことが起きそうな気がします。根拠はありませんが」
「そうか……そうだよな。私もそう思う……」
小桜が苛立たしげに頭をガシガシとかいた。
「空魚ちゃんか鳥子、急で悪いんだけどさ。今日、あたしと霞のこと、泊めてくんない?」
「え……」
私はとっさに返事ができなかった。予想外だったのもあるが、それ以上に、たとえ小桜であっても、自分の家に人を泊めるということに、まだ抵抗があった。でも……小桜には前に泊めてもらった恩もある。どうしよう。
「いいよ。私のところに泊まって、小桜」
私が返事を迷っていると、鳥子があっさりと引き受けた。小桜は彼女に小さく頭を下げる。
「悪い。ちょっと今回は甘えさせてもらうわ。一日でも日を跨げば、事態が好転してるかもしれないからな」
「そんな簡単にいくでしょうか」
「いくことを祈るしかないだろ……はあ」
小桜は深いため息をひとつつくと、目尻を少し下げ、申し訳なさそうに私たちを見た。
「悪いついでに頼むけど、空魚ちゃんか鳥子、ちょっとついてきてくんない? 泊まる準備、したいんだけどさ」
「別に構いませんけど、……なんでですか?」
「一人で家の中歩き回るのが、こえーんだよ」
そう言って、小桜は椅子を引く。そしてそのまま立ち上がろうとするが──
前のめりになった姿勢のまま、なぜかぴたりと動かなくなった。私は頭に疑問符を浮かべながら見ていたが、次の瞬間、小桜が突然ジタバタと暴れだした。
「ど、どうしたの、小桜?」
不自然な動きに、鳥子が慌てて声をかける。
「し、尻が! 椅子から離れないっ、なんだこれ!?」
「え、うそ!?」
そう言って、鳥子が立ち上がろうと椅子を引き、体を前後左右に揺らしてみる。私もつられて動こうとしたが……。
本当だ。お尻が椅子に貼りついている。いや、貼りついているというより──椅子ごと下半身がコンクリートで固められたような感覚だ。腰回りが一切動かせない。
私たちはしばし、椅子から抜け出そうと必死にもがいたが、どうにもならないと判断して、ついに諦めた。部屋に私たちの荒い息だけが響く。
その中で、小桜が沈黙の末、ゆっくりと顔を上げて言った。
「……やるぞ、猥談」
「えっ!?」
鳥子が声を上げる。
「本気ですか、小桜さん……」
「だって他に方法ねえだろ。そう望まれてるのかは知らんが、そういう意図があるならやるしかないじゃん、仕方ねえだろ、クソッタレがよ」
荒っぽい口調だが、誰に向けられた怒りでもない。小桜の目は、すわっていた。
「クソッ、クソッ、クソッ!! 冴月のクソバカ陰険根暗女!! これで帰らなかったら、こいつら使って引きずり出して、表でクレーンにつるしてやっからな!!」
「……そこ、人任せなんですね」
「そうだよ! 悪いか!?」
「ええ、まあ……それなりに。ていうか、まだ一応コックリさんとかありますけど?」
「あれ、紙とペンが要るだろ」
「どこにあります?」
私が訊ねると、小桜はへらっと笑って肩をすくめた。
「隣の部屋。外開きの扉だし、障害物が多い。椅子ごとじゃ、たぶん無理だろうな」
「でも、行ける可能性があるなら……私、行ってみます」
そう言って、私は椅子の肘掛けをつかみ、ぐっと力を込めて引きずろうとした。
………………。
「あれ?」
「どうしたの、空魚?」
「椅子が、動かなくなった……」
「………………」
「………………」
「………………」
私はため息をつき、腹を括った。
「……しようか、猥談」
「そもそも、なんで猥談なんだよ、ちくしょう……」
「だよね。冷静に考えたら、今の状況って、幽霊側の冴月が私たちに──なんていうか、性的な方法で除霊を強制してる、みたいな、すごい変な構図だよね?」
「………………」
鳥子と小桜があーでもないこーでもないと語り合っている間、私は一人で思考を巡らせていた。
──帰宅直後、鳥子が蹴り倒したコンクリートブロック製の墓石のような何か。
──小桜が悩み、鳥子が駄々をこねた「語録」と呼ばれる性的な要素。
──そして、強制的に四人が着席させられた、この奇妙な状況。
裏世界には、私たちの思考を読み取り、それを反映するような性質がある。もしその仮定が成り立つなら、今のこの事態も──何か似たような現象が、裏世界のどこかに存在するのかもしれない。
そんな風に考えていると、小桜の声が私の思考を引き戻した。
「空魚ちゃん、なんか知らない?」
「え? あ、いえ……正直まだ、よく分からないですね」
私は、ありのままのことを答えた。
確かに点はいくつも浮かんでいる。けれど、それらを線で結ぶルールや意味が、まだ見えない。
実話怪談にも、性的な要素が紛れ込むことはある。だけど、こんなふうに「椅子にお尻が貼りつく」系の話なんて、私は記憶にない。
「そっか……まあ、分かったところで、どうにかできるってわけでもないか」
小桜がふぅっとため息をつくと、隣に座る霞へと視線を向けた。
「……霞もいるしさ。あんまり変な単語、これ以上覚えさせたくないんだよな……」
三人の視線が霞に集まる。
以前の霞なら、こうして複数人に注目されるだけで動揺していたはずだ。けれど今は、私たちに見られることをまるで気にしていない。無表情のまま、小桜の真横に──
……立っていた。
いや、立ってんじゃん。
何立ってんの???
霞は、いつの間にか椅子から降りて、小桜の隣に立っていた。
驚いて霞を見つめる私たちをよそに、霞はすっと小桜の耳元に顔を寄せ、口元を両手で覆う。
……耳打ちをしたいようだ。
「ど、どうした、霞?」
小桜は動揺しつつも、少しだけ身を屈めて霞の言葉を聞こうとする。背丈が足りない霞にあわせた、不自然な姿勢だ。
「………………」
私と鳥子はその様子を黙って見守っていた。室内は静まり返り、四人の呼吸の音さえ聞こえるほどだったが、肝心の霞の声だけが、まるで届いてこない。
その沈黙に、私はふとした違和感を覚えた。
……もしかしてだけど、耳打ちがしたかっただけで、何も喋ってないのでは?
そんな私の予感を裏づけるように、身を屈めたままの小桜の顔に、じわじわと困惑の色が浮かんでいく。
私と鳥子は、思わず顔を見合わせて、そろって首を傾げた。
いま、これ、何の時間?
私と鳥子のそんな疑問をよそに、時間だけは過ぎていく。
……数十秒が経っただろうか。霞はふっと小桜から身を離すと、何事もなかったかのように自分の椅子によじ登り、再び石のように固まって座面におさまった。
頭の上に大量の疑問符を浮かべながら、私は小桜に訊いた。
「霞、なんて言ってたんですか?」
小桜は首をひねりながら私の方を見る。彼女自身も何が起きたのか分かっていない様子で、首を傾けつつ口を開いた。
「……いや、何にも言われなかった。なんか言いたいことあるのかと思って、ずっと聞いてたんだけど……結局、黙ったままだった」
「……何にも?」
私は内心でさらに深く首をひねる。霞は確かに謎の多い子だ。でも、こんな状況で意味のない悪戯をするような子では──なかった、と思う。いや、断言はできないけど。
でも、小桜が本気で困惑してる以上、いまの霞の行動は本人にも読み取れないほど意味不明だったのだろう。
小桜は私と同じように首をひねりながら、椅子からすっと立ち上がる。
そして、テーブルを回り込んで、こちら側に歩いてきた。
………………。
いや、だから立ってんじゃん。
てか歩いてんじゃん!!!
「小桜、立ててるよ!」
鳥子が大きな声で指摘すると、小桜はハッとした顔になり、その場で跳ねるように驚いた。
「な、なんだこれ! なんだこれ!?」
叫びながら、小桜は確かな足取りで鳥子に歩み寄る。
そして、さっき霞にしたのと同じように、鳥子の耳元に顔を寄せ、口元を両手で覆った。
「ええっ!?」
今度は鳥子が悲鳴を上げた。
鳥子の身体が、小桜の方へと引っ張られるように、グッと動いたのだ。
……もしかしなくても、小桜も鳥子も、謎の力に体を操られている。
私は咄嗟に鳥子の肩に手を伸ばしたが──意味がない。
なすすべもなく、ただ目の前の二人を見ているしかなかった。
成り行きを見守っていると、先ほどとは違って、小桜が何かを喋っている声が聞こえてきた。
微かで内容は判然としないが、霞のときとは違い、明らかに何かを言っている。
そして次の瞬間、小桜の顔が、ぶわっと赤く染まった。
見開かれた目、開いた瞳孔。
部屋着の首元からのぞく生白い肌まで、一気に真っ赤に上気していく。
その話を聞いている鳥子もまた、焦点の合わない目で小桜を見つめながら、徐々に頬が朱に染まっていく。
も、もしかして……!
数十秒ほど経ったあと、小桜はふっと力を抜いたように体勢を解き、呆けたまま俯いて、ブルブルと震えながら席へと戻っていった。
そして、椅子に腰を下ろす。
「小桜、その……」
鳥子が、憐れむような声で声をかける。
「黙れ……」
一言で斬り捨てられたが、それでも鳥子は言う。
「私は、別にいいと思うよ?」
「言うな、黙れ……私を殺すか、おまえが死ぬかしろ」
「……ごめんね」
「謝んなよぉ」
どうやら──除霊のための猥談は、霞を発端に、妙な流れで始まってしまっていたようだった。
「え? ああっ、うそっ、だめだよっ!」
突然、鳥子が悲鳴混じりに立ち上がった。椅子がガタッと音を立てる。
鳥子と私の距離は、せいぜい人間ふたり分程度。
すぐに鳥子がこちらを振り向き、目が合うと、懇願するような声で叫んだ。
「空魚、お願いっ、耳塞いで!」
「わ、わかった!」
呆けていた私はハッとして、急いで両手で耳を塞ぐ。
……が、次の瞬間。
鳥子が耳元に顔を寄せようと身をかがめたとたん、私の手がふいに膝の上へと降りてしまった。
「あれっ!?」
自分の動きが理解できず、思わず声を上げる。
鳥子は私のそんな様子も知らず、涙声で訴える。
「空魚っ、お願いだから耳塞いでよ! 意地悪しないでぇ!」
「してないよ!」
まるで、自分の意思でそうしたみたいに──腕が勝手に降りた。
おかしなことに、椅子に固定された下半身とは違って、腕を持ち上げる筋力はまだ残ってる。
けれど、「持ち上げよう」という意志が、湧いてこない。
そして気づけば、その感覚が、じわじわと全身に及んでいた。
私は、ただ見ていることしかできない。
鳥子は両手で私の耳元を包むと、震えながら、絶望的な声を上げた。
「ああ、そんな、嘘でしょっ……!」
ブンブンと頭を振っていたが、やがてその動きも止まり、鳥子はゆっくりと手の中に口を寄せた。
「空魚、お願い、なにも聞かないで!」
「わ、わかった、わかった……!」
私には、頷くことすらできない。
ただ固まった体のまま、鳥子の最後の願いを、聞くしかなかった。
──鳥子の猥談が始まった。
「空魚、ごめんね、許してぇ」
「いや、別にいいよ。仕方ないでしょ」
すんすんと涙を垂らしながら、鳥子が懇願するように謝ってくる。私の返事は一応、同情的なものだったけど──内心は違った。自分でもわかるくらい、私は不機嫌になっていた。
……鳥子は、閏間冴月をネタにして一人で致したときのエピソードを話したのだ。
時期についての言及はなかったから、詳細は不明だけど──たぶん、私と出会う前の話なんだろう。知らんけど。
「ごめんねぇ、空魚、嫌いにならないでぇ……」
「ならないよ。こんなことで」
「でも、いま怒ってるじゃん!」
「怒ってない」
「怒ってるよお!」
猥談を終えた鳥子は席に戻り、しゃくりあげながら泣いていた。体はまだ完全には自由じゃないのか、手で顔を隠すこともできず、泣き顔をさらしたまま、真っ赤になった目元を私たちにさらしている。
私はそのレアな鳥子の顔を横目に眺めながら、自分の番がどうなるのかを考える。順番的に、次は私が霞に囁く番だ。だけど──。
していいのか、こんなこと。小学校低学年くらいの子に猥談なんて。いや、普通に考えてダメに決まってる。
私は霞の隣に座っている小桜に視線を送った。小桜は苦い表情で口元をゆがめていて、私と同じ懸念を抱いているらしいことが、ひしひしと伝わってくる。
「……どうしたらいいんでしょう」
「………………」
訊ねると、小桜はさらに顔をしかめ、視線を逸らした。
「……どうしようもねえだろ。こんなの」
「……ですよね」
ゴトン──椅子が引かれる音とともに、固まっていた私の腰が、じわじわと動き始める。もう、どうやら順番が回ってきたらしい。誰かの意志が、私の体を勝手に動かしている。
止まろうとしても、腕や足に力は入らず、意思の火が灯る前に消されてしまう。ただ従うことしかできない。
私は、霞に向かって歩き出す。
霞は相変わらず、真っ直ぐ前を見据えている。私が近づいても、目を合わせようとしない。さっきからずっとそうだ。この子はいったい、今なにを考えてるんだろう。
それなりに接触を重ねてきたはずなのに、私は未だに、霞の考えていることが読めない。
私の身体は、霞の耳元にかがみ込む。そして、髪の間からのぞいた小さな耳に、手で作った音の筒を押し当てる。
私の猥談が──始まった。
──私は渾身の力で目を瞑る。両手で顔を覆いたい。けれど、まだ体は自由にならない。
顔が、暑い。──恥ずかしい。
私が霞に語ったのは、鵼となった鳥子との初体験の一部始終だった。
鳥子との性行為を、子供に語って聞かせる。霞はたぶん、そういう知識とは無縁だろうと思って、少しは羞恥が薄れるかと考えていた。でも……全然だった。油断していた。しっかり恥ずかしかった。
屈んでいた姿勢のまま拘束されていた体がようやく動き出し、私はゆっくりと元いた椅子に戻る。腰を下ろしてから、両手で顔を扇いだ。
そのとき、いつの間にか泣き止んでいた鳥子が、黒くにじんだマスカラの涙跡を頬に残したまま、掠れた声で訊いてきた。
「……なに話したか、訊いてもいい……?」
正直に答えるべきか、それともぼかすか。かなり迷った。でも私は、なぜか変に真面目な気分になって、素直に答えてしまった。
「……鳥子との、初めて」
その瞬間、鳥子は「たまらん……!」という顔でプルプルと身を震わせると、両手でバッと顔を覆った。
「死にたい……」
そう呟いたまま、鳥子は動かなくなった。肩をポンポン叩いても反応なし。……鳥子さん、閉店です。
そんな私と鳥子のやりとりの間に、霞は椅子を降りて、小桜のところへ行っていた。コソコソと、小声でなにかを話しかけている。
それを聞いた小桜の顔が、みるみるうちに険しくなっていく。
どうしたんだろう? と呆けて見ているうちに、私はふと、ある違和感に気づく。
……あれ? 霞、しゃべってる?
さっきまで一言も発さなかったのに。
嫌な予感が、背中を走った。
霞の語りが終わったらしく、彼女はひょいと自分の椅子に戻っていく。私はそっと小桜に視線を向けた。すると、小桜もこちらを見ていて、なんとも言えない表情で私を凝視していた。
「あの、訊きたいんですけど……」
私は恐る恐る口を開いた。
「霞、何の話してました……?」
──だいたいの予想はついていた。
小桜は顔を引きつらせながら答えた。
「空魚ちゃんと鳥子の……やつ」
バタン。
私は音を立てて、テーブルに突っ伏した。
やっぱりかーーーー!!
霞は、私から聞いた猥談をそのまま小桜に伝えた。まあ、薄々気づいていた。霞にはおそらく、自分の性体験がない。だから彼女の「番」では、聞かされた猥談をそのまま「引用」したのだ。
霞は、私のスピーカー代わりにされてしまった。
重い気持ちで顔を上げて鳥子を見れば、鳥子はずっと伏せたまま、両手で顔を覆っている。髪の隙間からのぞいた左耳は、真っ赤に染まっていた。
「酷いよぉ……そんなのってないよぉ……冴月のバカぁ〜」
そう力なく言うと、鳥子もテーブルに突っ伏す。が、すぐに体を起こし、姿勢よく座り直した。今度は小桜の番なのだ。聞く側の鳥子も、体を操られてしまうのだろう。
小桜は椅子を降り、テーブルの周りを回って鳥子のほうへと歩いていく。足音はペタペタと柔らかいけれど、その顔は怒りと羞恥を足して二で割ったようなものだった。
私と目が合った瞬間、小桜は八つ当たりのように私を睨みつけてくる。私はすぐに視線を外した。
……私が悪いわけじゃないのに……!
数分後──。
顔を真っ赤にした小桜が、これまた顔を赤くした鳥子の元から、ドスドスと足音を立てながら距離を取って、自分の椅子に戻ってきた。
そして、私たちのときと同じように、机にバッタリと倒れ込む。
首元からのぞく小桜の肌は、まるで日焼けでもしたかのように真っ赤だ。
「うぅ〜……」と呻きながら、小桜が私に訊いてきた。
「空魚ちゃん、なにか……この異変を解決する方法とか、知らないのぉ……?」
「……ええと」
私は口ごもった。すべてを把握しているわけではない。でも、原因と仕組みに、うっすらと心当たりがあったのだ。
私の迷うような態度に、小桜は顔を上げる。珍しく、半泣きになりながら必死に訴えてくる。
「なんでもいいんだ、思いつくことがあれば教えてくれ。こんなの、何周もするのは耐えられないぞ……!」
縋るような小桜の目線を受けきれず、私はそっと視線を外した。
「……わかりました。とりあえず、次は鳥子と私の番なので。そのあいだに、空いてる時間で話しましょう」
私がそう言うと、すでに椅子から立ち上がっていた鳥子が、身をかがめるようにして私に訊いた。
「空魚、もしかして……これを止める方法、知ってるの?」
「う、うーん……」
答えに詰まる。正直、断言できない。私の推測が合っていれば、確かに解決はするかもしれない。でも、それと引き換えに、全員が火傷して終わる可能性も高い。
躊躇する私の右耳に、鳥子の手がそっと添えられた。
そして、鳥子の猥談が始まった。
私はそのわずかな「クールタイム」を利用し、霞に語った自分の猥談の続きを抑え込むようにしながら、鳥子と小桜に声を潜めて話し始める。
「これ、……だいぶアレンジはされてるけど、〈スクエア〉っていう降霊術に似てる気がするんです」
〈スクエア〉──。
それは1970年代、日本各地で一時的に流行した降霊術ごっこだ。
暗くした部屋の四隅に、四人の参加者を一人ずつ配置して、儀式は始まる。
参加者をA・B・C・Dとした場合、まずAが隣のBのもとへ移動し、肩を叩く。そしてAはBの位置に収まり、押し出されるようにBがCの場所へ向かって同じように肩を叩く。以後、CがDへ、DがAへと動き、ぐるぐると順に場所を入れ替えていく──という儀式だ。
……これのどこが降霊術なのかというと。
本来、この儀式は四人では成立しない。最後にDがAの肩を叩こうとしても、Aはすでにその場にはおらず、Bの場所に移動してしまっている。つまり、Dが叩こうとしたとき、そこに「叩かれるべきA」はいないはずなのだ。
にもかかわらず、儀式が延々と続いてしまった場合、その空間には存在するはずのない「第五の人物」が紛れ込んでいる──すなわち、霊の降臨が成立したというわけだ。
実話怪談というよりは、どちらかといえば都市伝説に近い話。
この怪談にはさまざまなバリエーションがあり、もともとは〈スクエア〉という名前ではなく、座敷わらしを呼ぶ儀式として〈大道めぐり〉と呼ばれていた時期もある。たとえば、十人の子どもが部屋をぐるぐる回っていると、いつの間にか十一人目が混ざっている――なんて話もあるが、それは今の状況にそぐわないので割愛する。
いずれにせよ、いま行われているこの奇妙な「順番儀式」は、〈スクエア〉との類似性があるように、私には感じられた。
説明を終えると、小桜が険しい顔で言った。
「それで、その〈スクエア〉とかいう儀式は、どうやって終わらせればいいんだ?」
「それが……」
私は息を吸い、重たく吐き出した。
「ないんですよね、終わらせ方」
私の言葉に、鳥子と小桜はぽかんとした顔を見せた。
コックリさんのように「おかえりください」からの「はい」で終わらせる決まりがあるわけでもない。あえて言えば、〈スクエア〉は大抵暗い部屋で行われるので、部屋を明るくすれば人数が明確になり、強制的に中断させることはできる。だが、今いるのは昼光色の蛍光灯で明々と照らされた小桜屋敷のリビングルーム。照明による“儀式中断”は通用しない。
「つまりなに? あたしたち、ここで干からびて死ぬまで猥談させられるってこと?」
「トイレとか、ご飯食べたくなったらどうすればいいの……?」
二人の問いに、私は一つだけ答えることができた。
それは、照明のような外的手段ではないけれど、〈スクエア〉らしき儀式を終わらせる可能性のある、ある行動。
ただし、あまりに本末転倒で、提案するのも気が進まない。
「一応……方法はあるにはあります。確定じゃないし、根本的に意味があるのかどうかも微妙なんですが」
「「それでもいいから!」」
二人の声が、ぴったり重なった。勢いに押され、私は覚悟を決める間もなく口を開いた。
「……全員が手持ちの猥談を全部話せば、終わると思います。たぶん」
「「は?」」
呆気に取られたように、鳥子と小桜が互いを見つめ合う。信じられないものを聞いたような、半ば放心したような顔だ。
やがて小桜が私に向き直って、ぽつりと呟いた。
「……それ、意味なくないか?」
「まあ……だから本末転倒ですね」
話したくないから、終わらせたい。
けれど、終わらせるには話さなければならない。
しかも、それで本当に終わるという確証はどこにもない。
それでも、他に方法があるわけでもなかった。
私たちは、どうしようもなく手詰まりになっていた。
5
猥談のスクエアが何周目かを迎え、順番はまた鳥子に戻っていた。私は変わらず、鳥子の語る猥談を聞いていた。
どうやら、私と出会ってからは、私を使って致すこともあったらしい。へえ。なるほどね。
もう、表情を変えることもない。
……正直なところ、慣れてきていた。人間に性欲があるのは当然のことだ。仕方がない。動物だもの。仕方ない仕方ない。
けれど鳥子は、そうでもないらしい。ちらりと視線を向けると、彼女の顔はいまだに真っ赤だった。
そろそろ慣れてもよさそうなものだけど──やっぱり、「相手」にしたことを「相手本人」に語るのは、なにか特別にくるものがあるのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えているうちに、私の身体が霞の方へと動き出す。
……今いちばんきついのは、猥談の内容よりも、膝と腰だ。
猥談のたびに霞の耳の位置に合わせて体勢を低くするのは、さすがに堪えてくる。足腰が悲鳴を上げている。
そんな愚痴を脳内で反芻しながら、私は口を開いた。
さて、今度は何の話が出てくるのだろう。
鳥子との初体験から、つい最近のことまで──たしか、もう全部話したはずだった。
そう思いながらも、どこかに残っているのではという興味で、自分の口から出る言葉を注意深く聞いていた。
……が。口が動き始めたその瞬間、私は眉をしかめ、内心で首を傾げることになった。
数十秒後。話を終えた私を、鳥子と小桜が不思議そうに見ていた。
私は椅子に腰を下ろし、ぽつりと言った。
「──私、どうやら話す猥談がなくなったみたいです」
「え?」
「どういうことだ?」
小桜と鳥子の声が重なる。
「いま私、鳥子から聞いた猥談を、そのまま霞に話してたんです」
そう言うと、鳥子が顔を真っ赤にして叫んだ。
「なんでそんなことするのぉ!!」
「い、いや、ごめん。わざとじゃないんだよ」
謝りながらも、私の頭の中はすでに回り始めていた。
……考えてみれば、当たり前のことだったのかもしれない。
鳥子との初めての前に、私は誰かと性的なことをした記憶がないし、一人で何かをするような習慣もなかった。
ならば、語れる猥談なんて限られている。全て語り終えれば、私はもう話すことがなくなる。
つまり私は、これでもう〈スクエア〉から抜けられる。
思い返せば、霞の動きもそうだった。この子は最初から自分の話をしていたわけじゃない。ただ、私の話を小桜に伝えるスピーカーの役目を果たしていただけだ。
そして今、私も霞と同じになった。鳥子の話を受け取り、それを霞に語る。ただの中継役。
その霞がさらに小桜に伝える──そう、最低な伝言ゲームだ。
「つまりこれって……これから先は、あたしと鳥子だけで猥談が品切れになるまで話し続けなきゃいけないわけ? 空魚ちゃんと霞を仲介して?」
「……たぶん、そうなりますね」
「なんだよそれ──おおっ、と」
小桜がピタリと止まった。霞が小桜の耳元で、また何かを囁き始めていた。
小桜は目を閉じてそれをじっと聞き、話が終わるとゆっくりと目を開いた。
「……鳥子の猥談だったな」
「やっぱりそうなりますよね」
「うそでしょお……!」
鳥子がこみ上げる感情を抑えきれない様子で、ぎゅっと拳を握りしめる。
「ひどいよ、どうして私だけ、みんなに話聞かれちゃうの!?」
確かに、小桜は自分の猥談を鳥子にだけ話せば済む。一対一だ。
でも鳥子は違う。私と霞という仲介役を挟んで、最終的には小桜にまで話が伝わる。
まるで、本人の意志に関係なく公開処刑をされているような構図だ。
……はっきり言って、悲惨すぎる。
鳥子がまだ何か言っているあいだに、小桜が立ち上がる。どうやら次は、小桜が鳥子に猥談を話す番らしい。
大きな白木のテーブルをぐるりと回るのにはそれなりに時間がかかる。そのわずかな隙を逃すまいと、私たちは早口で言葉を交わしはじめた。
鳥子が言う。
「そもそも、どうしてこんなことになってるの? 今回、裏世界でも変なことは起きてなかったよね!? なんで冴月はこんな意地悪なことするの!?」
鳥子の声は涙声になっていて、どこか切羽詰まっていた。
……まあ、実のところ、これが閏間冴月の仕業だって確証はない。
裏世界が、彼女の「気配」や「匂い」だけを模倣している可能性だって十分ある。
けれど、そういう曖昧な仕組みを言っても意味はないし、人間は「理由」があった方が、まだ耐えられる。
だから私は答えることにした。
「鳥子、今日……お盆でしょ?」
「それがなに!?」
「それって、冴月さんが『来ている』って、裏世界的には解釈しちゃったんじゃないかな」
「お盆に冴月が来たから、私たちに変なことさせてるって言うの……?」
「……だけだと、ちょっと要素が足りないんだよね」
「じゃあなんでこんな──」
「鳥子さ、玄関の前にあったコンクリートブロックのこと、覚えてる? 鳥子が蹴っ飛ばしたやつ」
訊くと、鳥子はすぐ頷いた。話が早い。
「あれね、たぶん――裏世界が作った冴月さんのお墓だったんじゃないかなって、私は思ってる」
鳥子は言葉を飲み込んだように、険しい顔のまま黙り込んだ。
私の話を聞くモードに切り替えたのはいいけれど、その目のまま私を凝視するのはちょっと怖い。
崩れたアイラインも相まって、すごく睨まれてる気がする。
それでも私は続けた。
「実話怪談的にはね、『お墓を壊す』ってのは、かなりのタブーなんだよ。わざとじゃなかったとはいえ、裏世界的にはそれなりに……響く行為なんじゃないかな。だから、鳥子が……まあ、ちょっと重めにターゲットされてるのかも」
そこまで話すと、鳥子が高い声で「ひゅっ」と呻いた。そして俯いたまま、ぽつりと呟く。
「……お墓だったなんて思わなかったんだもん……!」
「うん、そうだよね……」
私は静かに背中を撫でてやる。すると鳥子が顔を上げて、真っ直ぐに私を見る。
「じゃあさ、私たちが猥談を喋らされてるのって……私のせいなの?」
「それは……確証はないし」
言葉を濁すと、鳥子はさらに畳みかけてくる。
「最初にも話してたけど、そもそも何で『猥談』なの? それも、お墓を蹴っ飛ばしたせい?」
「うーん、それは……たぶん、みんなの責任でもあると思う」
鳥子が涙を浮かべた目で、疑うように細めた。
「……ほんとに?」
「私たち、〈語録〉がどうとか、卑猥な話題を調子に乗っていろいろ言っちゃってたでしょ? そういうのが、裏世界に混じっちゃったんだと思う」
「そう、なんだ……」
少し肩の力が抜けたように、鳥子が安堵の表情を浮かべた。
……これで少しは、この異常な状況も受け入れやすくなるかもしれない。そう思った、その時──。
すぐ隣までやってきていた小桜が、据わった目で鳥子を見下ろして言った。
「でも、猥談しようとか、みんなで猥談大会しようとか言い出したのは……お前だけどな」
「ちょっ!」
「わーーーーーん!!!!」
私が小桜のトゲのある言葉を遮ろうと口を開いたときには、もう遅かった。
鳥子は顔をくしゃくしゃにして、子どもみたいに泣きじゃくり始めていた。わんわんと声を上げて、肩を震わせながら。
どうにかしなきゃ、と私は慌てたが──それよりも早く、鳥子は黙らされた。
小桜が、無言で鳥子に近づき、耳元に顔を寄せる。そう、猥談の番だった。
泣きながら、涙をぽろぽろと流しながら、それでも鳥子は喚くことも許されず、口を塞がれたまま小桜の話を聞かされている。
その姿を、私はただ見つめることしかできなかった。
無力感が胸を押し潰して、私は静かに項垂れたのだった。
6
それから、数時間が経った頃。
霞を除く全員が、ぐったりとテーブルにもたれかかっていた。
想定していた通り、全員の猥談の残数が尽きたことでスクエアは終了となったようで、数時間かけてあらゆる話を絞り出された私たちは、体を拘束していた謎の力からようやく解放されていた。
……とはいえ、誰一人としてその場から動こうとしない。
下半身を固定され続けたことによる身体的な疲労感。
それを差し引いてもなお余りある、精神的なダメージ。
その二つが合わさった結果、特に小桜と鳥子は完全に力を使い果たした様子で、テーブルに崩れ落ちるように身を投げ出していた。
数時間という長丁場。
想定以上に時間がかかってしまった理由は──まあ、鳥子の……その、性欲がちょっと豊かだったからかもしれないし。あるいは小桜の年の功が本領を発揮してしまったのかもしれない。
どちらとも言えないし、言いたくもない。そういうことにしておこう。
ともあれ、全員がひどい火傷を負った一日だった。
「帰ります……」
私はのっそりと身体を起こして、そう告げる。
そろそろ下りの電車が混み始める時間帯だ。今日はもう、これ以上、精神に負担をかけたくない。
椅子から立ち上がり、足元に置いていた探検用のリュックを肩にかける。
それにつられるように、鳥子と小桜も死にたてほやほやのゾンビみたいな動きで起き上がってきた。髪は乱れ、目の焦点も合っていない。
あまりに生気のないその姿に、私は思わず目を奪われた。
古い怪談小説などに出てくる「長い髪を振り乱し──」という描写。なるほど、こういうものなのかと、私は妙に納得してしまった。
鳥子は、私と同じように足元に置いてあった探検用のリュックを背負い、私の後ろについてリビングの出入り口まで歩いてきた。
虚ろな目をした鳥子が、あまりにも悲惨で。私は思わず、手櫛で鳥子の髪を梳いてやった。
鳥子は驚いたように目を見開いたが、すぐに目を閉じて、心地よさそうに私の手を受け入れてくれる。
「空魚、私のこと……嫌いになってない?」
鳥子が訊いてくる。
「なってないよ。なってたら、こんなことしないから」
「気持ち悪いな、とかは?」
「思ってない。さっきも言ったでしょ……あれ? 言ってないかな? とにかく、性欲なんてあって当たり前のものなんだから。いいんだよ」
鳥子が目を開け、藍色の瞳でじっと私を見た。
「じゃあ私、空魚のこと、好きなままでいていい?」
「い、いいよ……」
ストレートにそんなことを聞かれて、私は思わず手を止め、言葉に詰まる。
けれど鳥子は気にする様子もなく、私にきゅっと抱きついてきた。
「空魚、好き」
その言葉に、私はとっさに返す。
「わ、私もだよ……鳥子」
こんな言葉でよかったのか。自問しながら、私は鳥子の背中にそっと腕を回す。
じんわりと、鳥子の体温が手のひらから伝わってくる。
私がその心地よさに目を細めていると──、
「なに……ここでおっぱじめる気? 邪魔なんだけど」
小桜の声が、平坦に割り込んだ。
「し、しませんよ……」
あんまりな言いように、私はそっと小桜のほうを見やる。
鳥子と同じく、小桜も髪が乱れ放題だった。
鳥子が一歩、小桜の方へ近づくと、さっき私がしたのと同じように手櫛でその色素の薄い髪を梳きはじめた。
「やめろ、撫でんな」
小桜は頭を振って抗議するが、鳥子は気にせず手を動かし続ける。
「ごめんね、小桜。私のせいで、変なことに巻き込んじゃって……」
その言葉に、小桜はぴたりと頭を止めた。
言葉を探すように一拍黙ったのち、ぽつりと言う。
「別に、お前だけのせいじゃないだろ。玄関前のコンクリが、冴月の墓に見えてたのはあたしもだし、〈語録〉がどうのって騒いでたのは、あたしも空魚ちゃんもだし……ていうか、そもそも悪いのは全部、冴月のやつ──」
そこで小桜は、ふと何かに気づいたように口をつぐむ。
次の瞬間、目を大きく見開いて叫んだ。
「いや、ていうか冴月は!? あいつ今どこにいやがる! しばき回してやるから出てこいクソ女っ!!」
「ちょ、やめてください、小桜さん!」
私は小桜の両肩を押さえて、なんとか怒りを鎮めようとする。
「ああ!? なんだよ!?」
「閏間冴月が本当に出てきたら、どうするんですか? 最悪、人が死にますよ」
小桜はドスの効いた声でにらみつけてきたが、私は冷静さを崩さず言い聞かせた。
すると小桜は、まるで首を絞められた鳥のように唸ってから、
「クソッ!!!!」
と、一際大きな声で怒鳴った。
──その時、リビングのドアノブがガチャリと回され、私たちの目の前でゆっくりと扉が開いた。
「………………」
三人とも、驚いて声が出なかった。
この家にいる人間は、私たち三人と霞を加えて四人のはずだ。
それなのに──向かい側から、誰かがドアを開けた。
全員この部屋にいるのに、どうして……?
ドアを開けた「何者か」が、小桜屋敷の中にいる──それだけは確かだった。
まさか、閏間冴月……?
小桜が呼んだら、本当に来てしまったとか……?
いや、それともただ単に扉の閉めが甘かっただけ……? それとも、不審者……?
私は思考が追いつかず、半ばパニック状態になった。
そのとき──半開きのドアの隙間から、何者かがリビングへと滑り込んでくる。
低い背丈に、黒い長髪の子供。
霞だった。
「え……」
小桜が呆然と霞を見つめ、そしてすぐに安堵のため息を漏らす。
「なんだ、霞か……いつのまにこっちにシフトしてたんだ? そうだよな、変なことに巻き込んじまったし……」
小桜の問いかけに、霞は首を傾げた。眉根を寄せ、何を言ってるのか? とでも言いたげな表情。
それから──間違い探しの「間違い」に気づいた子供のように、霞はすっと私たちの背後を指差した。
そして、はっきりとした口調で言う。
「女」
その一言を聞いた瞬間、私と鳥子の間に走る空気が、ピンと張りつめるのを感じた。
〈女〉
その言葉を霞から聞いたのは、これで二度目だった。
DS研の研究所で閏間冴月が現れたとき、霞は彼女を指して同じ言葉を口にしたのだ。
私は鳥子と目を合わせ、素早く背後を振り返る。
そこには──子供用の椅子に座る霞がいた。
先ほどから、何事にも興味を示さず真っ直ぐ前を見つめていた、あの霞が。
おかしい。だって今、その霞は──。
私はもう一度後ろを見る。
指を下ろした霞が、邪魔そうに私たちを見上げている。
生身の、温かい存在感を持った、間違いなく本物の霞だ。
なら、あの椅子に座っているのは──誰?
私は、椅子に座る霞の形をした「何か」をにらみつけ、右目に意識を集中させた。
霞の姿を模していた「何か」から、表面の「霞のテクスチャ」が剥がれ落ちていく。
同時に、それは霞の姿を保てなくなり、まるで黒い砂のように音もなく崩れ落ちた。
崩れた砂は、床の上で蠢きながら形を変える。
やがてモヤをまとった、人のようなシルエットが立ち上がった。
児童用の椅子の横に、ゆらゆらと立ち上がったその影──私はそれに見覚えがあった。
「なあ、今どうなってるんだ!?」
隣にいた小桜が、混乱を隠せない声で訊いてくる。
……きっと今、小桜には霞が二人いるように見えているはずだ。
私は無用な混乱を避けるため、簡潔に状況を説明した。
「閏間冴月っぽいのがいます。霞に化けて、ずっとそこにいたみたいです」
長い髪がたなびくように、影のシルエットがゆらゆらと揺れている。
私は唾を飲み込みながらバッグの中を探り、マカロフの硬い感触を確認した。
深く息を吸い、そして吐く。
少しだけ落ち着いた思考で、私はこの「閏間冴月を模した影」について考えを巡らせた。
──どうして気づけなかった?
一目見て不気味で、どこか空疎な存在だったはずなのに。
どうして私たちは、あれを本物の霞だと錯覚してしまっていたのか?
──なぜ、忘れていたのだろう。
そもそも猥談が始まったのは、あいつが「おかしなキュウリの精霊馬」を持ち出したのがきっかけだったはずだ。
私は鳥子と小桜を横目で見る。
二人とも、驚きと呆然が入り混じった表情のまま、言葉も動きも失っている。
──なら、私がやらなければ。
私はバッグからマカロフを取り出し、コッキングして構えた。
照準は、閏間冴月のシルエット──その胴体にぴたりと定める。
「ちょ、ちょっと待てよ、空魚ちゃん……!」
小桜がオロオロとした様子で声を上げ、慌てて私を止めに入る。
「はい? ……なんでですか?」
「なんでって、おまえ、霞に見えるモノを撃つ気かよ!」
私は思わず首を傾げる。
あれが霞ではなく、「閏間冴月の形をした何か」だと、ちゃんと説明したはず。
もしかすると──伝え方が不十分だったのかもしれない。
言葉を選ぼうとした私の腕を、小桜がつかんで叫んだ。
「冴月が霞に見えるように錯覚させられるんならさ! 逆もあるかもしれないだろ! ……本物の霞を、冴月に見せかけるくらい!」
──その可能性。
私はすぐに小桜の懸念を理解した。
それでも銃口は下ろさず、冴月のシルエットから照準を外さない。
「違います。あれは人間じゃない。偽物です。
こっちにいる霞が本物。小桜さんはいま、認知を操作されている可能性があります」
「……どうして、そう言い切れる?」
眉をひそめた小桜の問いに、私は視線を逸らさず即答する。
「右目で見ました。あれが『人間』か、それとも『裏世界から来たもの』かくらいは、判別できます。有害な存在かどうかはまだわかりませんが──少なくとも、霞ではありません」
私は言葉に力を込めたあと、ほんの少しだけ声を落として言った。
「……最初から見抜けなくて、すみませんでした。いま思えば、表情も妙に乏しかったし、挙動も変でした。気づけたはずなんです」
小桜は困惑を滲ませながらも、うなずくでも否定するでもなく、私を見つめる。
「……空魚ちゃんがそう言うなら、そうなのかもしれない。言われてみりゃ、確かに何かおかしかった気もするしな……」
それでもまだ、訴えかけるように口を開きかけた小桜を、私は無視して銃口を保ったまま進もうとする。
そのとき、黙っていた鳥子が低く鋭く言った。
「空魚。ここ、住宅街だよ。銃なんか撃ったら、すぐ警察に通報されるよ」
「………………」
正論だ。
返せる言葉が見つからないまま、私は一瞬、口をつぐむ。
「鳥子の言う通りだ。しかも、ここあたしの家の中だぞ? 百歩譲って家具が壊れるのはいいとして……跳弾したら、誰か怪我するかもしれないじゃん」
「……数発くらいなら、爆竹で遊んでたって言えば、誤魔化せます。跳弾は……気をつけて撃ちます。だから、頭を下げておいてください」
言いながら、私はマカロフを下ろさずに構えたまま、ゆっくりとすり足で前へと進んでいく。
黒いシルエットとの距離が、じわじわと詰まっていく──。
いまの距離なら──外すことはない。
そう確信しながらも、私は鳥子から教わった基本に立ち返った。
照門の溝の中央に、冴月の胴を狙った照星がぴたりと重なるよう、構えを整える。
絶対に外さない。誤射して、無関係な誰かを傷つけるなんてことがないように。
私は深く息を吸い、静かに吐いた。
狙いはぶれない。眼を細め、引き金に指をかけた──
──その瞬間、黒いモヤの姿が、忽然と消えた。
「あれ!?」
自分でも間抜けな声が出た。驚きのあまり、思考が空白になる。
なんで? 今、目は逸らしていない。見失うような隙なんてなかったはずだ。
私のそばで動向を見ていた鳥子と小桜も、思わず声を漏らす。
「あれ……?」
「どこ行った……?」
閏間冴月の形をしていた「何か」は、まるで映写機のフィルムが不意に切り替わったかのように、そこから音もなく消えていた。
まるで、次のシーンに入る前に、演者だけが先に舞台袖へと歩き去っていたかのように──。
リビングを後にした私たちは、玄関の前でそれぞれ立ち尽くしていた。
誰も口を開かなかった。それだけ、いまの空気は重たかった。
その沈黙を破るためか、あるいは単に口をついて出たのか──小桜がポツリと呟いた。
「今日話したあたしのクソ猥談、誰かに漏れてたりしたら……おまえら二人とも殺しに行くからな」
疑り深い目を向けられて、鳥子が「心外だ」とばかりに返す。
「私たちがそんなことするわけないじゃん。小桜こそ、汀さんに間違えて話したりしないでよ」
「どんな間違いがあったら、汀におまえらの情事話すことになるんだよ……」
そう言って、小桜は「まあいいや」と肩をすくめ、作り笑いのような表情を浮かべた。
「とにかく、DS研の時みたいに、いきなり裏世界に飛ばされるようなことにならなくてよかったよ」
「それは、そうですね」
私はうなずきながらも、心の中は別のことでざわついていた。
スクエアの中にいた時から抱いていた懸念──それは霞の“話し方”についてだった。
霞は、他人の言葉をそのまま使って喋ってしまう。
もし本物の霞にあの猥談を聞かれていたら、彼女の口を通じて、悪気なく漏洩してしまうんじゃないかと、そればかりが気にかかっていたのだ。
けれど、あれは偽物だった。
私たちが喋っていたのは、霞ではなく、冴月──断定はできないが、おそらくは彼女を模した「何か」だったのだ。
そう思えば、怒りはあっても、致命的なダメージではなかった。
あの女に延々と猥談を喋らされていたと考えれば、腹は立つけれど……少なくとも、霞に筒抜けになっている心配はない。
「まあ、今回は実話怪談的にはオチがついたと思うので、しばらくは心配ないと思いますよ」
「……だといいんだがな」
私たちは玄関の扉を開けて外へ出た。
むわりと湿気を含んだ空気が一気に室内へと流れ込んでくる。肌にじわじわとまとわりつくような感触に、私は思わず顔をしかめた。
目の前には、右目で注視しなくてもはっきりと見える巨大な燐光があった。
三人のおばさんが現れたときに開いた、裏世界へのゲート。私たちはそれを避けるように、玄関をぐるりと回り込んで歩く。
「あ……」
鳥子が小さく声を上げた。振り返ると、小桜も同じ場所で足を止め、立ち尽くしている。
二人の視線の先を追うと、そこには──。
玄関の柱の根元に、鳥子が蹴倒したままのコンクリートブロックが転がっていた。
暑さから逃れるように軒の下へ戻ると、二人はじっとそのブロックを見下ろしていた。表情には、どこか神妙な色が浮かんでいる。
「……冴月のお墓、だったんだよね、やっぱり」
「どうだろうな」
小桜と鳥子が静かに言葉を交わす。
さっきまで声を荒げて怒鳴っていた相手への感情は、どこかへ行ってしまったらしい。
私はその変化を理解しきれず、黙って二人が動き出すのを待った。
やがて鳥子がしゃがみこみ、倒れていたブロックをそっと持ち上げて元の場所に戻す。
そして傾いていた一輪の白い花を直し、私の方へと視線を向けた。
「空魚、少しお祈りしたいんだけど、いい?」
「え……?」
──私たちにあんな強制猥談しかけてきた女に……?
思わず首を横に振りそうになって、寸前で踏みとどまった。
これはきっと、「ダメ」とか、妙なケチをつけてはいけない場面なのだろう。
私は唇を尖らせつつ、仕方なくといった風にカクカクと頷いた。
「いいんじゃないの、好きなだけ」
「ありがとう。ごめんね」
鳥子は私に礼を言ってから、静かに正面へ向き直る。
が、数秒後にまた振り返ってきた。
「……お祈りって、仏教式でいいのかな?」
……知らんがな。
正直そう言いたかったが、この神妙な空気がそれを許してくれなかった。
「何でもいいと思うぞ。あいつ無宗派・無宗教だったと思うし」
隣にいた小桜が言って、半歩前に出ると、合掌した。
鳥子もそれに倣い、静かに手を合わせる。
手持ち無沙汰になった私も、なんとなく真似をして、両手を合わせた。
──こういう時って、何を祈ればいいんだろう?
少し考えてから、私は指先にぐっと力を込めて、腹の底から念を送った。
もう二度と出てくるなよ……!
今回現れたのが閏間冴月本人なのか、それともそれを模した贋物なのか──もはや、どちらでもよかった。
数秒間、手を合わせて目を閉じ、それからそっと目を開けると……鳥子と小桜が、呆れたような目でこちらを見ていた。
「な……なに?」
「空魚ちゃんさあ……」
小桜が言う。バカな子どもを見るような、遠い目だった。
「空魚さあ……」
鳥子までが目を細めて、苦笑いを浮かべながら言う。
な、なにさ。
「普通、そういう場で邪念は飛ばさないの」
「でも……今日、あのせいで三人とも散々な目に遭ったじゃないですか」
「それでも、だよ」
小桜が、できの悪い生徒に説く教師のような口調で言った。
「祈ると決めたなら、ちゃんと祈る。やらないならやらないでいい。でも、途中で茶々入れたらダメなんだよ」
「……別に、邪魔なんてしてませんし」
思わず拗ねたような口調になってしまうと、小桜がくすっと笑って、やさしく諭すように言った。
「こんな怒りマックスな顔した奴が後ろにいたら、落ち着いて祈ってなんかいられないっての。バチ当たるわ」
小桜だってさっきまで怒ってたくせに……。
私は無言でジト目を送ると、今度は鳥子が手を挙げた。
「小桜、冴月のために精霊馬、作ってもいい?」
「別に構わんが、いつ頃だ?」
「お盆、今日が最終日でしょ? せめてナスの牛だけでも用意してあげたくて」
「ああ……まあ、いいんじゃないか? どうせなら馬も牛も。霞に作らせてやりたいから、キュウリも買うか」
「じゃあ、私スーパー行って材料買ってくるね……空魚はどうする? 帰る?」
そう訊かれて、私はとっさに口を開いた。
「帰らないっ。一緒に行くっ」
子どもみたいな口調だった、と自分でも思う。
そのまま駄々をこねるようにザシザシと大股で歩き、鳥子の横を通り過ぎて先に出る。
背後から、鳥子と小桜のくすくす笑う声が、夕暮れの空気に溶けてぴたりとまとわりついてくるような気がした。