HappyHalloween!
何もない。
風もない。音も、重力もない。
ただ、白。
無限に広がる白の空間が、己の存在すら疑わせるほどの“静”を支配していた。
そこで、メルエムは目を覚ました。
肉体の輪郭は曖昧で、呼吸という概念も希薄。
だが“思考”だけは、かつてよりも鮮明だった。
――ここはどこだ。
問いは無意味だった。
生も死も区別できない場所。
だが、彼の目の前にはたしかに「盤」があった。
白と黒の格子が並ぶ盤。
そして、その向こうに――ひとりの老人。
あの顔。
あの目。
『……』
いや、違う。
ここは“生”の続きではない。
老人はもう、息などしていない。
だが確かに、そこに“在る”。
老人はゆるやかに微笑んだ。
『ようやく来られましたね、王。 ――続きを指しましょうか。』
メルエムはその呼称に、微かに笑った。
「王ではない。 もはや、そう名乗る意味はない。」
老人は頷き、盤を整える。
二人の間に、音もなく空気が満ちていく。
駒を握る感触は、かつてのまま。
だが、違う。
その一手一手に、血の匂いも征服の欲も宿していない。
あるのは、理解への希求。
「始めるぞ。」
メルエムの指が駒を押し出す。
コツン。
音が響いた瞬間、白い世界に波紋が広がった。
それは鼓動にも似て、確かに“生”を感じさせた。
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数手が過ぎる。
老人の指は静かに、迷いなく動く。
それに呼応するように、メルエムもまた駒を進める。
決着をつけるための対局であり、互いが理解に近づくための道でもある。
老人の言葉が、空気のように落ちた。
「以前の貴方なら有り得ない程穏やかな気配。何があったのです?」
「……あの頃の余は、勝つことしか知らなかった。」
メルエムの瞳が淡く光る。
「“負ければ死ぬ”と信じ、“生きる”を支配と同義にしていた。」
老人は黙って頷く。
「だがそれもお前との出会いで揺らぎ……」
「そして、ある女に出会った。」
その声は、空間全体をわずかに震わせた。
「名はコムギ。
そやつは、弱く、脆く、愚かだった。
だが、盤上で余に"喜び"を教えた。
そしてその敗北は……何よりも甘美だった。」
老人の目が穏やかに細められる。
「なるほど――あなたは“理解”を得られたのですね。」
メルエムは笑った。
その笑みは、かつての冷笑ではない。
ただの“人”の笑み。
「理解か。……そうかもしれん。
あの女の手を握ったとき、初めて心臓というものを感じた。」
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対局は進む。
駒が減るたびに、白の世界が色づいていく。
影。風。音。
少しずつ“現実”の欠片が戻ってくる。
――思考は鮮明。
――感情は静謐。
それでも、確実に鼓動があった。
老人の手がほんの一瞬止まる。
その眼差しに、微かな焦りが宿る。
メルエムは気づいた。
(……この流れ、勝てる。)
だが、それは“征服”の歓喜ではなかった。
胸に去来するのは、穏やかな“祈り”だった。
駒を進める。
老いた手が追い、止まる。
光が盤を包む。
駒の列が崩れ、そして――
「チェックメイト。」
老人は静かに息を吐き、笑った。
「……ようやく、勝たれましたな。」
メルエムは首を振る。
「違う。余は勝ってはいない。
其方がいたから、余は成長した。
そして……学べた。」
老人はその言葉を聞きながら、目を閉じた。
「ならば、あなたはもう王ではない。
“ひとりの者”として、完成されたのです。」
「……余の名は『メルエム』。そう呼ぶことを許す。」
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光が満ちていく。
背景が溶け、盤が崩れ、世界が消えていく。
「行かれるのですね。」
「ああ。コムギを待たせている。」
メルエムは振り返らずに歩き出した。
その背に、老人は静かな微笑みを残す。
「お待ちください。」
立ち止まる王。光の奔流の中、振り返ることなく耳を傾ける。
老人は淡く滲む輪郭の中で、最後の言葉を紡ぐように唇を動かした。
「私の名は───────」
光がすべてを呑み込み、声が消えた。
ただ静寂だけが、永遠の余韻として残った。
「またな。」