怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第3話 「魂を繋ぐキス」ー3

どれくらい、そうしていただろうか。

まるで泥の底に沈んでいたかのような、深く、重い眠り。意識がゆっくりと浮上してくる感覚は、溺れていた人間が、ようやく水面に顔を出せた時のそれに似ていた。

 

「…………ん」

 

掠れた呻きが、自分の喉から漏れたことに気づき、俺、識静馬(しき しずま)はゆっくりと瞼(まぶた)を開いた。

目に映ったのは、見慣れた自室の、染みの浮いた天井。窓の外はまだ暗く、夜の底にいるような静寂が、部屋を支配している。だが、先ほどまでの喧騒が嘘のように、今はただ穏やかな時間が流れていた。

 

(……夢、じゃ、ないんだな)

 

ベッドから身体を起こすと、全身の関節が悲鳴を上げた。まるで数日間、飲まず食わずで走り続けたかのような、凄まじい疲労感。魂の奥深くまで搾り取られたかのような、根源的な虚脱感。それが、俺が現実と引き換えに支払った代償だった。

唇に、まだ微かに残る感触を思い出し、顔が熱くなるのを慌てて首を振ってごまかす。隣の客間からは、何の物音も聞こえてこない。ハルキは……日野陽輝(ひの はるき)は、今は静かに眠っているのだろう。俺が繋ぎ止めた、その存在を、この世界に留めたまま。

 

(……助け、られた。のか……?)

 

まだ、現実感がない。

あの消えかかっていた儚い身体が、俺の力で、確かに実体を取り戻した。その事実だけが、唯一、この悪夢のような一夜が現実であったことを証明していた。

安堵、と呼ぶにはあまりにも多くのものを失いすぎたが、それでも、胸の奥で燻っていた焦燥感は、今は少しだけ凪いでいた。

 

「……水」

 

喉が、カラカラに乾ききっていることに気づいた。霊力を根こそぎ持っていかれたせいか、身体が水分を欲していた。

俺は、軋む身体に鞭打ってベッドから抜け出すと、音を立てないようにそっと襖を開け、階下へと続く階段を下りていった。

 

真夜中の古書店は、昼間とは違う顔を見せる。

月の光が磨りガラスを通して射し込み、天井まで届く本棚の列を、巨大な墓標のようにぼんやりと照らし出していた。インクと古紙の匂いが、闇の中でより一層濃密になっている。しん、と静まり返ったその空間は、まるで世界の終わりに取り残された、最後の避難所のようだった。

 

───俺が、守りたかった、静寂。

もう、ここには、あの頃の平穏はない。

 

そんな感傷を振り払うように、俺は台所へと向かう。その途中、居間の前を通りかかった、その時だった。

居間の襖が、わずかに開いている。そして、その隙間から、ぼんやりとした灯りが漏れていた。

こんな時間に、誰だ?

 

俺は、警戒しながら、抜き足差し足でその灯りに近づいた。

隙間から中を覗き込むと、そこにいたのは、小さな背中を丸め、一人で静かに湯呑みを傾ける、祖母の姿だった。

ちゃぶ台の上には、古びた燭台が置かれ、その小さな炎が、祖母の顔に深い陰影を刻んでいる。

 

「……ばあちゃん?」

「おや」

 

俺の声に、祖母、識珠江(しき たまえ)は、ゆっくりと振り返った。その顔には、驚いた様子はない。まるで、俺がここに来ることを、最初から分かっていたかのような、穏やかな表情だった。

 

「目が覚めたのかい、静馬。喉でも渇いたんだろ。こっちへ来て、お茶でも飲みなさい」

その、あまりにも普段通りの口調に、俺は少しだけ毒気を抜かれた。促されるままに居間へ足を踏み入れると、祖母はすでに用意してあったらしいもう一つの湯呑みに、急須から温かいほうじ茶を注いでくれた。

 

「……なんで、起きてるんだよ」

「年寄りってのはね、眠りが浅くなるもんさ。それに……」

祖母は、そこで一度言葉を切り、湯呑みの茶を静かに一口すすった。燭台の炎が、その瞳の奥で揺らめいている。

「……今夜は、ちいとばかし、空気が騒がしくてねぇ」

 

その言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。

ただ、祖母の横顔が、いつものただの老婆のものではない、識家の先代当主としての、険しいそれに変わっていることに気づいただけだった。

 

「……ハルキは、眠ってる。あんたが言った通り、あれから容体は安定してるみたいだ」

「そうかい。それは良かった」

祖母は、俺の報告に静かに頷いた。

「静馬。お前さん、よくやったね。初めての儀式にしては、上出来すぎるくらいさ。あの父親でも、お前さんの歳じゃ、あそこまではできなかっただろうよ」

「……親父の話はするな」

 

俺は、吐き捨てるように言った。

親父と比べられるのは、もううんざりだった。憧れと、憎しみと、そして、どうしようもない無力感。あの人の存在は、いつだって俺の心をかき乱す。

 

「ふん。まあ、いいさ」

祖母は、それ以上は追及しなかった。

ただ、湯呑みをちゃぶ台に置くと、その皺だらけの両手を膝の上で組み、まっすぐに俺の目を見た。その瞳は、夜の闇よりも深く、俺の魂の奥底まで見透かしているかのようだった。

 

「静馬や。覚悟は、決まったかい?」

「……覚悟?」

「とぼけるんじゃないよ。お前さんは、今夜、自らの意志で、その力を使った。もう、後戻りはできない。お前さんが捨てたつもりの宿命に、自ら足を踏み入れたんだ。……その覚悟だよ」

 

祖母の言葉が、杭のように俺の胸に突き刺さる。

そうだ。俺は、もう逃げられない。逃げることを、自らやめたのだ。

ハルキを助ける、と決めた、あの瞬間に。

 

「……覚悟なんて、大層なもんじゃねえよ」

俺は、視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに答えた。

「俺はただ、あいつが目の前で消えるのが、気に食わなかっただけだ。それだけだ」

「そうかい。……まあ、動機なんて、なんだっていいさね」

 

祖母は、ふっと息を吐くと、少しだけ、その険しい表情を緩めた。

「だがね、静馬。これだけは、肝に銘じておきな」

 

その声のトーンが、再び変わる。

それは、孫を諭す老婆の声ではなく、弟子に奥義を伝える、師の声だった。

 

「お前さんが今夜やったことは、始まりに過ぎない。いや……これから始まる、本当の戦いの、引き金を引いたに過ぎないのさ」

 

「……どういう、意味だよ」

「お前さんが、陽輝くんに注ぎ込んだ、その力。あれが、何だか分かっているのかい?」

祖母の問いに、俺は言葉を詰まらせた。霊力だ。識家の血に流れる、特別な力。それ以上のことは、考えたこともなかった。

 

「あれはね、ただのエネルギーじゃない。神の血の因子そのものさ。生命の根源であり、魂の輝きそのもの。そして……」

祖母は、燭台の炎をじっと見つめながら、続けた。その声は、ひどく冷ややかに響いた。

 

「そして、その純粋で、あまりにも芳醇な生命の香りは……闇をさまよう、飢えた連中にとって、何よりも魅力的なご馳走なのさ」

 

ご馳走。

その言葉が、俺の脳に不穏な響きを残した。

 

「飢えた連中……?」

「そうさね。荒神(あらがみ)だよ」

祖母は、きっぱりと言い切った。

「信仰を失い、神としての理性を失い、ただ飢えと渇きに突き動かされるだけの、哀れな神々の成れの果て。奴らは、人間の負の感情を啜って生き永らえているがね、そんな残飯よりも、もっと極上の餌があることを、今夜、知ってしまったのさ」

 

祖母の視線が、ゆっくりと俺に向けられる。

その瞳の奥に、憐憫(れんびん)とも、嘲笑ともつかない、複雑な色が浮かんでいた。

 

「お前さんが陽輝くんの魂に繋いだ、あの黄金の錨。あの輝きは、この街に蠢く、全ての荒神どもにとって、これ以上ないほどの〝狼煙(のろし)〟になった。───『ここに、極上の餌アリ』、とね」

 

ぞくり、と背筋に悪寒が走った。

祖母の言っている意味が、ようやく、最悪の形で、俺の脳に叩きつけられた。

 

「考えてもごらん。真っ暗闇の、何も見えない夜の海を、腹を空かせた得体の知れない深海の魚たちが、当てもなく彷徨っている。そんな中、たった一艘の小舟が、煌々(こうこう)と、真昼のように明るい光を灯したら、どうなる?」

 

どう、なるか。

決まっている。

光に、餌に、ありとあらゆる捕食者たちが、我先にと、殺到する。

 

「……まさか」

「その、まさかさ」

祖母は、残酷な事実を、淡々と告げた。

 

「お前さんたちは、今この瞬間から、〝歩く灯台〟になっちまったのさ。この街の、いや、もっと広範囲の闇に蠢く、あらゆる餓鬼どもを引き寄せる、甘い、甘い、極上の餌の香りを、四六時中振りまきながらね」

 

頭を、鈍器で殴られたかのような衝撃。

安堵しかけていた俺の心を、新たな、そして、より根源的な絶望が、真っ黒に塗りつぶしていく。

なんだ、それは。

なんだよ、その、救いのない話は。

俺は、ハルキを助けたはずじゃなかったのか。消滅の淵から、引き戻したはずじゃなかったのか。

それなのに。

その行為そのものが、俺たちを、より危険な、比較にならないほど多くの敵意の真っ只中に、放り込むことになったというのか。

あまりの皮肉に、乾いた笑いさえも出てこなかった。

 

「……どうすりゃ、いいんだよ……」

絞り出した声は、自分でも情けないほどに、弱々しく震えていた。

虚脱感と、疲労と、そして、新たな絶望。もはや、俺の心は限界だった。

そんな俺の弱音を、祖母は「甘ったれるんじゃないよ」と、一刀両断にした。

 

「どうするも、こうするもあるもんかい。戦うのさ。お前さんが、その手で撒いた餌に群がってくる、全ての厄介者どもとね」

その瞳には、一切の同情はなかった。ただ、審神者としての、厳しい覚悟を問う光だけが宿っていた。

 

「いいかい、静馬。もう、見て見ぬふりは許されない。ハルキくんを本当に救いたいのなら、まずはお前さん自身が、その力を正しく使う術を、そして、その力の本当の恐ろしさを、身をもって学ばなければならない」

「……力の、本当の恐ろしさ……?」

「そうさね。お前さんが力を振るい、陽輝くんに霊力を注ぎ込めば注ぎ込むほど、確かに彼の魂は安定するだろう。だが、それは同時に、諸刃の剣でもある」

祖母は、一度、言葉を切った。そして、俺にとって、最も聞きたくないであろう事実を、容赦なく突きつけた。

 

「審神者の神聖な霊力は、陽輝くんの身体を、より純粋で、より強力な〝神の器(よりしろ)〟へと、少しずつ変質させていくのさ。つまり、お前さんが彼を救おうとすればするほど、彼は、より強力で、より格の高い荒神たちにとって、喉から手が出るほど欲しい、最高の〝器〟になっていく。……分かるかい? この、救いのない螺旋が」

 

血の気が、引いた。

全身の体温が、急速に奪われていく。

救おうとすれば、するほど、彼はより危険な存在になっていく。

俺の優しさが、俺の覚悟が、親友を、人ならざるモノへと、その手で作り変えていく。

そんな、そんな馬鹿げた話が、あってたまるか。

 

「……覚悟をおし、静馬」

立ち尽くす俺に、祖母の声が、静かに、しかし、重く響いた。

「お前さんの退屈な日常は、もう、本当に、二度と戻ってはこないんだからね」

 

その言葉が、俺の心に、最後の止めを刺した。

俺は、もはや何も言うことができず、ただ呆然と、その場に立ち尽くすだけだった。

思考は停止し、感情は麻痺し、ただ、祖母の言葉だけが、頭の中で何度も、何度も、反響していた。

 

◇◆◇

 

どれくらい、そうしていただろうか。

祖母との会話の後、俺がどうやって居間を出て、どうやって階段を上ったのか、記憶が曖昧だった。気づけば、俺は自室の窓の前に、亡霊のように突っ立っていた。

夜は、まだ明けていなかった。

だが、先ほどまでとは、何かが決定的に違っていた。

空気が、重い。

粘り気を帯びた、澱んだ空気が、古書店『天逆堂』の周囲に、まるで濃霧のように立ち込めている。

それは、霊的な気配に敏感な者でなくとも、肌で感じ取れるほどの、異常な密度の〝何か〟だった。

 

俺は、無意識に、その眼に力を込めた。

もはや、抑制しようという気さえ起きなかった。

 

───《見鬼の眼》、解放。

 

瞬間、視界が金色に染まり、世界の〝裏側〟が、その醜悪な姿を、俺の前に現した。

 

「…………あ」

 

声が、漏れた。

それは、驚きでも、恐怖でもなかった。

ただ、目の前の光景を、事実として認識しただけの、乾いた音。

 

視えてしまった。

 

古書店の、その周りに。

俺たちの家を、ぐるりと、何重にも取り囲むように。

〝それ〟が、いた。

 

一つや、二つではない。

十や、二十という数でもない。

百を、優に超えるであろう、無数の、異形の影。

 

闇よりも昏い、黒い染みのような霊体。

いくつもの腕を持つ、蜘蛛のような怪異。

人の顔をした、巨大な獣。

泣き叫ぶ赤ん坊の顔が、無数に張り付いた、泥の塊。

 

その全てが、飢えと、渇望に満ちた、濁った瞳を、この古書店に、俺の部屋に、そして、隣で眠るハルキのいる客間に、貪るように向けていた。

街灯の光が、それらの異形の輪郭を、悪夢のように照らし出している。

 

カタカタ、と店のシャッターが、内側からではなく、外側から揺らされている。

カリカリ、と何かが壁を引っ掻く、不快な音が聞こえる。

ひそひそと、囁き声が、どこからともなく響いてくる。

 

『……イイ匂イダ……』

『……極上ノ……魂ノ香リ……』

『……クレ……ヨコセ……』

 

それは、地獄の釜が開いたかのような、光景だった。

祖母の言葉は、誇張でも、比喩でもなかった。

それは、すでに、この瞬間、この場所に起きている、紛れもない現実だったのだ。

 

俺とハルキは、灯台になった。

そして、その光を嗅ぎつけて、最初の訪問者たちが、もう、こんなにも、集まってきている。

 

平穏な日常は、終わった。

そんな感傷は、もはや生温い。

 

───俺たちの、戦いが、始まる。

 

俺は、窓の外で蠢く、無数の悪意を、ただ静かに、見下ろしていた。

もはや、そこに恐怖はなかった。

あるのは、これから始まるであろう、途方もなく面倒くさい未来に対する、冷たい、冷たい、覚悟だけだった。

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