怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
「───見えたぜ。てめえを、あの空(そら)に還してやる方法がな」
血に濡れた顔で、俺、識静馬(しき しずま)がそう言い放った瞬間。
歩道橋の上の空気が、凍った。
俺の言葉が、その意味が、目の前の青白い荒神に正確に伝わったことを、肌で感じる。荒神の身体を構成する無数の光の粒子が、恐怖に震えるように、びり、と微細に振動した。それは、自らの魂の根源を、心の奥底に隠した最も柔らかな部分を、何者かに覗き込まれたことに対する、本能的な戦慄だった。
「■■■■■■■ッ!?」
感情のないノイズの塊だったはずの咆哮に、初めて明確な色が乗る。
動揺。そして、焦燥。
荒神は、俺という存在を、単なる餌や障害物ではなく、自らを脅かす明確な「敵」として再認識したようだった。その矛先が、ハルキから俺へと、完全に向き直る。
「シズマッ!」
背後から、ハルキの切羽詰まった声が飛ぶ。
見れば、荒神の腕が、先ほどとは比較にならない速度と精度で、俺を目掛けて鞭のようにしなり飛んできていた。
だが、今の俺の身体は、立っているのがやっとなほどの虚脱感と、脳を直接かき混ぜられるような激痛に支配されている。避けられない。
───クソッ、大見得切った直後にこれかよ!
俺が奥歯を噛み締めた、その刹那。
俺の目の前を、黒い影が疾風のように駆け抜けた。
「させっかよ、バーカ!」
ハルキだった。
彼は、その美少女の姿からは想像もつかないほどの瞬発力で俺の前に割り込むと、薙ぎ払うように迫る荒神の腕を、内側から自らの腕で強引に受け止め、上へと弾き飛ばした。そして、がら空きになった懐へと、そのまま流れるような動きで深く潜り込んだ。
「お前の相手は、こっちだろが!」
どん、と鈍い音が響く。
ハルキが、その華奢な身体全体をバネのように使った、渾身の体当たりを荒神の胴体へと叩き込んだのだ。
物理的な質量を持たない荒神に、体当たりがどれほどの意味を持つのか。だが、ハルキの身体には、俺が分け与えた黄金の霊力と、そして彼を乗っ取る《啼哭の花嫁》の禍々しい神気が、オーラとなって渦巻いている。
それは、単なる物理攻撃ではない。霊的な質量を叩きつける、魂への一撃。
「■■■■ッ……!?」
荒神の青白い身体が、大きくのけ反った。その光の輪郭が、テレビの砂嵐のように、激しく乱れる。
ハルキの一撃は、確かに効いていた。
「へへっ、見たかよ! これが俺と、まあ、なんだ、同居人の合わせ技ってやつだ!」
ハルキは、体勢を立て直しながら、不敵に笑う。だが、その額には玉のような汗が浮かび、肩で荒い呼吸を繰り返しているのが分かった。彼の霊力も、もはや底が見え始めている。無茶な戦い方だ。
(……馬鹿が。俺を庇いやがって……)
胸の奥が、熱くなる。
だが、今は感傷に浸っている場合ではなかった。ハルキが、命がけで稼いでくれた、この数秒。それを、無駄にするわけにはいかない。
俺は、ふらつく足に力を込め、一歩、また一歩と、荒神へと続く死線の上を、踏みしめるように歩き始めた。
「ハルキッ!」
脳を揺さぶる激痛に耐えながら、俺は叫んだ。それは、もはや普通の声ではなかった。魂そのものを振り絞るような、言霊に近い叫び。
「なんだよ、シズマッ!」
「空だ! 空を見ろッ!」
それだけだった。
主語も、述語も、目的語もない。ただ、単語を叫んだだけ。
だが、それで、十分だった。
俺たちの間には、十九年という、言葉以上に雄弁な時間が流れている。
「…………っ!」
ハルキが、一瞬、息を呑むのが分かった。
そして、次の瞬間には、彼は、俺の意図の全てを、完璧に理解していた。
「へへっ……! なるほどな! そういうことかよ、相棒!」
ハルキの顔に、悪戯が成功する直前の、ガキの頃と少しも変わらない、最高の笑顔が浮かんだ。
彼は、荒神との組み合いを強引に解くと、大きく後ろへ跳躍して距離を取る。そして、荒神が追撃してくるよりも早く、夜空に向かって、その細い指を、まっすぐに突き刺すように掲げた。
「おい、神様よぉ!」
その声は、歩道橋全体に、いや、この静まり返った駅前のロータリー一帯に響き渡るほど、大きく、そして、澄み切っていた。
「星が、綺麗だぜッ!!」
その、あまりにも場違いで、あまりにも唐突な叫び。
荒神の動きが、ぴたり、と止まった。
のっぺらぼうの顔が、ぎこちない動きで、ハルキが指差す方向───夜空へと、向けられる。
そこには、何がある?
都会の、分厚い光害のフィルター越しでは、まばらな星しか見えない。街灯りの方が、よっぽど明るい。
だが、問題は、そこではない。
ハルキの、その純粋な叫びと、その指先が、荒神の魂の奥深くに眠る、古の記憶の扉を、強制的にノックしたのだ。
星。
かつて、自らがそれであった、本来の姿。
人々を見守り、その道を照らしていた、誇り高き神であった頃の、記憶。
「■■……■……?」
荒神の身体の明滅が、明らかにそのリズムを変えた。怒りや敵意ではない。困惑。そして、郷愁。
数千年ぶりに思い出した、自らの故郷の光景に、その意識が、一瞬、完全に引きずられていた。
───今、この時しか、ない。
俺は、最後の力を振り絞り、荒神の目の前までたどり着いていた。
距離は、わずか一歩。
手を伸ばせば、その冷たい光の身体に触れられる。
激痛で明滅する視界の中、俺は荒神の、その空虚な魂の奥底を見据えた。
脳裏に、再び、神の記憶が逆流してくる。
忘れ去られた、永い、永い孤独。
誰かに見てほしい、気づいてほしいという、悲痛なまでの叫び。
(……ああ、そうかよ)
(お前は、ただ……寂しかっただけ、なんだな)
同情はしない。こいつが、罪のない人々の記憶を奪ったことは事実だ。
だが、理解は、できる。
その、魂の渇きだけは。
俺は、ゆっくりと、息を吸った。
それは、これから始まる、鎮魂の儀式のための、最初の祝詞。
俺の肺を満たす夜の空気が、体内で黄金の霊力と混じり合い、言霊としての力を帯びていく。
頭痛に耐えながら、俺は、その神の前に、静かに、しかし、はっきりと告げた。
忘れられていた、その真の名を。
「───《久方ノ神(ひさかたのかみ)》」
びくん、と。
荒神の身体が、雷に打たれたかのように、大きく跳ねた。
光の粒子が、嵐のようにその身体の表面を駆け巡る。
真名を呼ばれる、ということ。
それは、神にとって、自らの存在そのものを、その根源から定義され、縛られることと同義。
俺の言葉は、呪いとなって、その魂を、捕らえた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
荒神が、これまでで最も激しい、絶叫にも似た咆哮を上げた。
それは、苦痛の叫び。
忘れ去っていた自分を、無理やり思い出させられたことへの、魂の拒絶反応。
青白い光が、断末魔のように激しく明滅し、その場に凄まじい霊的な圧力をまき散らす。
だが、俺は、もう怯まなかった。
その魂の痛みも、悲しみも、孤独も。
俺の《見鬼の眼》が、すでに、すべて受け止めていたからだ。
俺は、もう一歩、踏み込んだ。
そして、その神の、空虚な胸の中心に、そっと、自分の掌を、置いた。
物理的な感触はない。ただ、氷のように冷たい、霊的なエネルギーの奔流を感じるだけ。
俺は、その冷たい魂に語りかけるように、静かに、しかし、揺るぎない意志を込めて、言霊を紡いだ。
「お前の還る場所は、ここじゃない」
俺の掌から、黄金の霊力が、穏やかな光となって、荒神の身体へと流れ込んでいく。
それは、ハルキに注ぎ込んだ時のような、生命力を分け与えるためのものではない。
ただ、温もりを伝えるための、鎮魂の光。
「液晶の、偽りの星の中じゃない」
流れ込んだ黄金の光は、荒神の内側で荒れ狂う、人々の負の感情のヘドロを、ゆっくりと、浄化していく。孤独が、癒されていく。嫉妬が、洗い流されていく。承認欲求が、満たされていく。
「お前が、本当にいたかった場所は」
俺は、掌を置いたまま、ハルキと同じように、夜空を、見上げた。
「───その、空の上だろ」
最後の言霊が、静寂の中に、溶けていった。
瞬間。
荒神の身体から、すべての力が、抜けた。
あれほど激しく明滅していた青白い光が、ふっ、と、まるで蝋燭の火が消えるかのように、穏やかな光へと変わる。
身体を苛んでいたノイズが消え、その輪郭は、滑らかで、どこまでも澄み切った、純粋な光の集合体へと変質していた。
のっぺらぼうだったはずの顔に、おぼろげながら、穏やかな表情が浮かんだように見えた。
『…………あぁ……』
脳内に、直接、声が響いた。
それは、もう、ノイズ混じりの咆哮ではなかった。
永い眠りから覚めたかのような、安らかで、どこまでも優しい、神の声。
『…………そう、だった……。我は……星、だった……』
久方ノ神は、ゆっくりと、自らの掌を見つめている。
その身体から放たれる光は、もはや、スマートフォンの液晶のような、冷たい青白さではない。
遥かなる夜空で、確かに瞬く、本物の星々が放つ、温かく、そして、どこか懐かしい、黄金色の光だった。
『…………ありがとう、審神者の子よ……。そして……空を、教えてくれた、人の子よ……』
その声は、感謝に満ちていた。
彼は、ゆっくりと、俺と、そして、少し離れた場所で呆然と立ち尽くすハルキに、その光の頭を下げたように見えた。
そして、次の瞬間。
彼の身体は、ふわり、と、まるで体重を失ったかのように、宙に浮かび上がった。
その身体は、少しずつ、その輪郭をほどき、無数の、きらきらと輝く光の粒子へと、変わっていく。
それは、およそこの世のものとは思えないほど、幻想的で、美しい光景だった。
光の粒子は、まるで天の川のように、螺旋を描きながら、ゆっくりと、夜空へと昇っていく。
地上に満ちる、偽りの光を抜け、もっと高く、もっと、高く。
本来、彼がいるべきだった、静寂と、闇と、そして、仲間たちの光が待つ、宇宙(そら)へと。
俺とハルキは、ただ、黙って、その光景を、見上げていた。
やがて、最後の光の粒子が、夜の闇に溶けるように消えていくと。
歩道橋の上には、再び、元の静寂が戻ってきた。
あれほど濃密に立ち込めていた、霊的な圧力も、人々の負の感情の澱も、すべてが、嘘のように、綺麗に消え去っていた。
後に残されたのは、街灯の頼りない光と、俺たち二人だけ。
「…………行った、か」
俺は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
その言葉と同時に、俺の身体を支えていた、最後の緊張の糸が、ぷつり、と切れた。
凄まじい疲労感と、激しいめまいに襲われ、俺の身体は、ぐらり、と大きく傾いた。
「うおっ!?」
倒れ込む寸前、その身体を、温かい何かが、力強く支えてくれた。
ハルキだった。
「おい、シズマ! 大丈夫か!?」
「……ああ……。問題、ない……」
嘘だ。問題しかない。
頭はまだガンガン痛むし、立っているだけで精一杯だ。
だが、それでも、俺の心は、不思議なほど、晴れやかだった。
「……見たかよ、ハルキ」
「……おう。……すげえ、綺麗だったな」
俺たちは、どちらからともなく、もう一度、夜空を見上げた。
そこには、相変わらず、都会の明るい夜空が広がっているだけ。
だが、俺たちの目には、確かに見えていた。
たった今、還っていった、一つの、新しい星の輝きが。
「……帰るぞ」
「……おう」
俺は、ハルキの肩に体重を預けながら、ゆっくりと歩き出した。
これが、俺たちの、最初の戦い。
そして、最初の、鎮魂。
面倒で、厄介で、ろくなことにはならない、そんな日常。
だが、その闇の中に、今、確かに、一つの、小さな星の光が灯ったのを。
俺は、知っていた。