怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第4話 「SNSに棲む神様」ー6

夜の底が、ようやく本来の静寂を取り戻し始めていた。

駅前のロータリーを支配していた終電間際の喧噪は、まるで蜃気楼だったかのように遠く闇に溶け、今はただ、忘れたように点灯を続ける街灯のオレンジ色の光だけが、アスファルトの濡れた染みをぼんやりと照らしている。

 

その光景を、数百メートル離れた雑居ビルの屋上から、一人の男が覗き込んでいた。

 

男は、最新鋭の暗視機能付き双眼鏡を構え、その焦点を、全ての始まりであり、そして終わりを迎えた一つの場所に合わせている。

古びた、コンクリートの歩道橋。

そこに、二つの人影があった。

一人は、見るからに消耗しきった様子で、覚束ない足取りの少年。

もう一人は、そんな少年をかいがいしく支える、夜闇にさえ鮮烈に映えるほどの美貌を持つ、黒髪の少女。

 

双眼鏡のレンズは、二人の姿を寸分の狂いもなく捉えている。少年の、鼻から流れた血が乾いてこびりついた痛々しい顔も。少女の、戦いの名残である衣服の擦り切れや、頬についた煤の汚れさえも、まるで目の前にいるかのように鮮明に映し出していた。

 

「……対象A、対象B、活動停止を確認。荒神《久方ノ神》の霊的反応、完全に消失……」

 

男は、誰に言うでもなく、淡々と、感情の乗らない声で呟いた。

その声は、インカム式の特殊通信機を通じて、どこか遠い場所へと送信されている。

男の服装は、夜の闇に溶け込むような、黒一色の特殊繊維でできた戦闘服だった。華美な装飾は一切ない。ただ、機能性のみを追求した、冷たいシルエット。腰には、ホルスターに納められた、儀式用の短刀を近代的に改良したような武具が下げられている。

彼は、ただの人間ではない。

世界の裏側で、人知れず秩序を守るためだけに存在する、影の執行者。

その瞳には、眼前の光景に対する、いかなる感想も浮かんでいなかった。ただ、観測すべき「事象」として、目の前で起きている全てをデータとして記録しているだけだ。

 

双眼鏡に付属した高感度の集音マイクが、歩道橋の上の、疲弊しきった二人の会話を拾い上げる。

 

『……見たかよ、ハルキ』

『……おう。……すげえ、綺麗だったな』

 

少年と少女が、空を見上げている。

そこにはもう、神の姿はない。ただ、都会の光害に霞んだ、まばらな星が瞬いているだけだ。

だが、二人の表情には、確かにやり遂げた者だけが浮かべることのできる、疲労と、安堵と、そして、ほんの少しの誇りが滲んでいた。

 

「……感傷、か。非合理的極まりない」

 

男は、小さく鼻を鳴らした。

彼の所属する組織───神祇庁・天照派において、感情は、任務を遂行する上で最も不要なノイズとされている。

怪異とは、世界の秩序を乱すバグ。

荒神とは、修正不可能なエラー。

それらは、対話や共感の対象ではない。ただ、速やかに、そして効率的に「討伐」し、「削除」すべき対象。

それが、彼らが信奉する絶対の正義。揺るぎない秩序の形だった。

 

しかし、今夜、この場所で起きた事象は、その常識を、根底から覆すものだった。

 

「……こちら1番。本部、応答願う」

男は、通信機のチャンネルを切り替え、冷静な声で報告を開始した。

「こちら本部。状況を報告せよ」

通信機の奥から聞こえてきたのは、同じように感情の温度を感じさせない、合成音声のような女性の声だった。

 

「対象A、識別名識静馬(しき しずま)は、Cクラス荒神《久方ノ神》との交戦において、我々のデータベースにない、特異な対処法を実行しました」

男は、双眼鏡から目を離さないまま、観測した事実を、正確に、淡々と述べていく。

「荒神を、討伐せず。……いえ、祓うという概念ですらない。対象は、荒神の魂の根源に直接干渉し、その存在理由を書き換えることで、本来いるべき場所……幽世(かくりよ)へと、強制的に送還。……これを、彼の家の言葉を借りるなら、『鎮魂』と呼ぶべきでしょう」

 

『鎮魂』。

その単語を口にした瞬間、通信機の向こう側で、ほんのわずかな、しかし確かな沈黙が流れた。

それは、本部のオペレーターですら、その報告内容の異常さに、一瞬、思考を停止させた証拠だった。

 

「……鎮魂、だと? 対象は、荒神と対話したとでも言うのか」

「対話、というよりは……『裁定』に近いかと。彼は、《見鬼の眼》を用い、荒神の真名を看破。その上で、神としての本来の在り方を突きつけ、存在そのものを納得させて、還した。……まるで、出来の悪い子供を、諭すかのように」

 

男の言葉には、わずかな嘲笑が混じっていた。

神を、子供扱いする。

なんという傲慢。なんという、不遜。

そして、なんという、圧倒的な力の行使。

天照派の術師たちが、何十人というチームを組んで、ようやく討伐できるかどうかのCクラス荒神を、たった一人で、しかも、傷つけることなく、完全に無力化してしまったのだ。

それは、彼らが信奉する近代祓魔術の、その根幹を揺るがしかねない、異端の秘術だった。

 

「対象B、日野陽輝(ひの はるき)の動向は?」

「依然として、特A級危険指定荒神《啼哭の花嫁》の憑依体であることに変化なし。しかし、戦闘中は対象Aとの見事な連携を見せ、おとり役として機能。その身体能力は、強化された神祇官のそれに匹敵、あるいは凌駕します。そして……」

男は、そこで一度、言葉を切った。

集音マイクが、歩道橋の上でふらつく少年を、少女が力強く支える音を拾っていた。

 

『おい、シズマ! 大丈夫か!?』

『……ああ……。問題、ない……』

 

「……戦闘後、対象Aは極度の霊力消耗状態に陥っています。これは、対象Bの存在を現世に繋ぎ止めるための、定期的な霊力供給に加え、今回の《見鬼の眼》の酷使が原因かと。……対象Bは、もはや、対象Aなしでは存在を維持できない、共依存関係にあると推測されます」

 

「結論を」

本部の声は、どこまでも冷徹だった。

 

男は、ゆっくりと息を吐いた。そして、この長い監視任務の、最終的な結論を、報告する。

「結論。対象A、識静馬は、我々が長年捜索してきた、審神者の一族の、正当な後継者である可能性が、98パーセント。彼が行使した力は、我々の理解と、そして、管理能力を、完全に超えています」

 

再び、通信機の向こうで、数秒の沈黙が流れた。

やがて、聞こえてきたのは、オペレーターではない、別の、もっと階級が上であろう、重々しい男の声だった。

 

『……そうか。ようやく、見つけたか』

 

その声には、安堵とも、あるいは、厄介なものを見つけてしまったという溜息ともつかない、複雑な響きが込められていた。

 

『古の血統が、まだ、この東京に生き残っていたとはな。……厄介なことだ』

 

「今後の指示を」

男は、上官の感傷など意にも介さず、ただ、次の命令を待つ。

 

『監視を続行せよ。レベルをAに引き上げる。ただし、決して接触はするな。我々の目的は、あくまで対象B……《啼哭の花嫁》の器を確保し、その上で、対象Aを、無力化、あるいは、我々の管理下に置くことだ。審神者の力は、我々が扱うには、あまりにも危険すぎる』

 

「了解」

 

『奴は、我々が数百年かけて築き上げてきた、人と神の秩序を、根底から覆しかねない、最大のイレギュラーだ。……決して、見失うな』

 

その言葉を最後に、通信は一方的に切られた。

男は、双眼鏡を静かに下ろすと、通信機を懐にしまい込んだ。

彼の任務は、終わらない。

これからが、本当の始まりなのだ。

 

男は、もう一度、歩道橋に視線を向けた。

少年と少女は、互いの肩を支え合いながら、ゆっくりと、こちらに背を向けて、闇の中へと続く階段を下りていくところだった。

その小さな、あまりにも無防備な背中。

彼らは、まだ知らない。

自分たちの最初の勝利が、同時に、より巨大で、より冷徹な、逃れられない運命の視線を、その身に集めてしまったということを。

怪異よりも、荒神よりも、もっと厄介で、もっと質の悪い敵。

同じ、人間という名の、秩序の番人たちを、敵に回してしまったということを。

 

男は、闇に溶け込むような黒い戦闘服のフードを深く被った。

そして、何の物音も立てずに、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、ビルの屋上から、その姿を、完全に消した。

 

後に残されたのは、冷たい夜風と、まだどこかで微かに残る、神の気配の名残だけ。

シズマとハルキが勝ち取った、束の間の平穏。

そのすぐ隣で、巨大な組織の影が、静かに、そして、確実に、動き始めていた。

 

物語は、まだ、始まったばかりだった。

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