怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第5話 「監視者の視線」ー1

全身が、水を含んだ鉛のように重かった。

瞼(まぶた)の裏側では、まだ青白い光の残像がチカチカと明滅を繰り返している。脳の芯には、まるで錆びついた鉄の杭でも打ち込まれたかのような、鈍く、そしてしつこい痛みが居座り続けていた。

俺、識静馬(しき しずま)は、自室のベッドの上、死体のように沈んだまま、天井の木目をぼんやりと眺めていた。昨夜の激闘……いや、鎮魂というべきか。その代償は、俺の肉体と精神に、容赦なく重くのしかかっている。

 

「……身体中、いてえ……」

 

掠れた声が、自分の喉から漏れた。

特に、無理やりこじ開けた《見鬼の眼(けんきのがん)》の反動は凄まじい。膨大な情報奔流に晒された脳は、もはやショート寸前のポンコツCPUだ。思考しようとするだけで、こめかみの奥で警報のように痛みが迸(ほとばし)る。

 

───もう、二度とやりたくねえ。

心の底から、そう思う。

だが、同時に、脳裏には昨夜の光景が鮮明に蘇っていた。

孤独な神が、本来いるべき場所へと還っていく、あの幻想的な光景。そして、それを見上げた時の、相棒の横顔。

面倒で、厄介で、心底うんざりするような出来事だった。だが、不思議と、胸の中に澱(よど)むような後悔はなかった。あるのは、この鉛のような疲労感と、そして、ほんの少しだけ、本当に、指の先ほどのささやかな達成感だけ。

 

(……まあ、悪くは、なかった、のかもな)

 

そんな、柄にもない感傷に浸っていると、階下からとんとんとん、と軽快な包丁の音が聞こえてきた。それに続いて、味噌の溶ける香ばしい匂いが、階下の居間から漂ってくる。

生活の音。日常の匂い。

その、あまりにも平和な響きに、俺はゆっくりと、軋む身体を起こした。腹が、ぐぅ、と情けない音を立てる。どうやら、あれだけの霊力を消耗すれば、腹も減るらしい。

 

◇◆◇

 

「お、シズマ! おはよー! 見ろよ、今日の俺の力作!」

 

居間のちゃぶ台の前に座ると、目の前にどん、と威勢よく置かれたのは、湯気の立つ白米と、豆腐とわかめが申し訳程度に入った味噌汁、そして、皿の上で黒く炭化した、見るも無惨な魚の残骸だった。

その、あまりにも対照的な光景に、俺の眉間に深い谷が刻まれる。

 

「……ハルキ。これは、なんだ」

「見てわかんねーか? アジの開きだよ! ばあちゃんに教わって、初めて焼いてみたんだぜ!」

 

得意満面に胸を張るのは、俺が貸したぶかぶかのスウェットパーカーを萌え袖気味に着こなし、腰まで届く美しい黒髪を無造使に後ろで一つに束ねた、絶世の美少女。

その正体は、言わずと知れた俺の親友、日野陽輝(ひの はるき)だ。

彼は、昨夜の戦闘での消耗など微塵も感じさせない、ピンピンした様子で、その大きな瞳をきらきらと輝かせている。半人半怪異と化したその身体は、霊力さえ満たされていれば、人間よりも遥かに回復が早いらしい。実に、羨ましいことだ。

 

───羨ましいことだが、この、産業廃棄物レベルの朝食は看過できねえ! なんだこの黒い物体は! アジの化石か何かか!? これを焼けと言ったばあちゃんは、俺に何か恨みでもあるのか!? それとも、美少女の手料理なら、たとえ炭でも美味しくいただけるとでも思っているのか、この極東の島国は!

 

俺の内心の絶叫など知る由もなく、ハルキは「まあ、ちょっと焦げちまったけど、味は保証するって!」などと、自信満々に親指を立てている。その無邪気な笑顔が、今は悪魔のそれにしか見えない。

 

「……俺は、納豆と卵でいい」

「なんでだよ! 食えよ! 俺の愛を食えって!」

「てめえの愛は、発がん性物質の味がしそうだ」

 

そんな、いつも通りの、しかし、状況だけを見れば完全に異常な朝のやり取りを、ちゃぶ台の向かい側で静かに見守っていた祖母、識珠江(しき たまえ)が、ふふ、と皺だらけの顔で笑った。

 

「まあまあ、静馬や。陽輝くんも、あんたのために一生懸命作ってくれたんだ。少しくらい、食べてやりんさい」

「……ばあちゃんが、やらせたのか」

「たまには、陽輝くんにも主婦の喜びを教えてやろうと思ってねぇ」

 

───主婦の喜びを教える前に、魚の焼き方を教えてやってくれ! 頼むから!

 

結局、俺は黒い炭を箸で慎重に削ぎ落としながら、なんとか可食部を探し当てて口に運ぶ羽目になった。味は、まあ、ただの塩辛い魚だった。

そんな、奇妙で、平和で、そして、どこか新しい日常に馴染みつつある、朝の食卓。

その穏やかな空気を破ったのは、居間の隅に置かれた、古めかしいテレビから流れてきた、アナウンサーの涼やかな声だった。

 

『───続いてのニュースです。昨夜遅く、〇〇駅前の歩道橋付近で、原因不明の、大規模な電波障害が発生しました。付近の住民からは、「スマホが突然使えなくなった」「テレビの映りが悪くなった」などの声が多数寄せられましたが……』

 

ぴたり、と俺とハルキの箸が止まった。

画面に映し出されているのは、昨夜、俺たちが死闘を繰り広げた、あの見慣れた歩道橋の、昼間の映像だった。

 

『……警察と専門家が調査にあたりましたが、障害の原因は特定できず、今朝未明には、電波状況は完全に正常へと復旧したとのことです。専門家は、「大規模な太陽フレア、あるいは、近隣の違法電波を発する施設が、一時的に影響を及ぼした可能性も考えられる」と話しており……』

 

当たり障りのない、どこにでもあるようなニュース。

世間の人々は、これを「まあ、そんなこともあるか」と、数時間後には忘れてしまう、ありふれた情報の一つとして消費するのだろう。

だが、俺たちは知っている。

その「原因不明」の正体が、なんだったのかを。

 

「……だってよ」

俺は、炭と化した魚の骨を皿の隅に寄せながら、ぽつりと言った。

「太陽フレア、ねえ。ずいぶんと、便利な言葉があったもんだ」

その声には、自分でも自覚できるほどの皮肉が、たっぷりと滲んでいた。

これが、世界の真実。

俺たちがどれだけ命を懸けて戦おうと、どれだけ奇跡的な鎮魂を成し遂げようと、それは表の世界では「原因不明の電波障害」の一言で片付けられてしまう。

誰にも知られず、誰にも感謝されず、ただ、人知れず、世界の歪みを修正する。

それが、祓魔師という存在。

それが、俺が足を踏み入れてしまった、世界の裏側の住人の、宿命。

 

「へへっ」

そんな俺の感傷を、隣からの間の抜けた笑い声が吹き飛ばした。

見れば、ハルキが、自分の武勇伝を語りたくてうずうずしている子供のように、目を輝かせながら俺の顔を覗き込んでいる。

 

「すげえよな、シズマ! あれ、絶対俺たちのことだよな! 『原因不明』だってよ! 俺たち、もはや自然現象レベルってことじゃん!」

「馬鹿言え。俺たちの存在が、公になってみろ。真っ先に精神病院にぶち込まれるのは、てめえだ」

「まあ、それはそうかもだけど! でも、すげえじゃんか! 俺、昨日のシズマ、マジで痺れたぜ!」

 

ハルキは、箸を置くと、身振り手振りを交えて、昨夜の俺の活躍(?)を、勝手な脚色を加えて語り始めた。

 

「あのさ、荒神が『■■■■ッ!』って襲ってきた時、シズマが『ハルキ、空を見ろ!』って叫んだだろ! あそこ! あそこ、マジで鳥肌立ったわ! 俺、もう、完全に理解したもんね! 『ああ、シズマは俺の力を信じて、未来を託してくれたんだな』って!」

 

───いや、託したのは未来じゃなくて、ただの目眩し役だ。あと、そんな少年漫画の主人公みたいなキラキラした目で俺を見るな。

 

「で、俺が『星が綺麗だぜ!』って叫んで、神様の注意を空に向けさせた隙に、シズマがすっと、こう、背後に回ってさ!」

ハルキは、なぜか立ち上がると、無駄にスタイリッシュな動きで、架空の敵の背後に回り込む動作を再現してみせる。その長い黒髪が、ふわりと舞った。

 

───やめろ。その見た目で、そんな中二病みたいな動きをするな。心臓に悪い。あと、俺は背後には回ってない。普通に、正面から堂々と歩いていった。

 

「そして、言ったんだよな! 『お前の還る場所は、その、空の上だろ』って! くぅーっ! カッコ良すぎだろ、シズマ! 俺、あの瞬間、お前に惚れ直したね! まあ、元から惚れてるけど!」

「聞かなかったことにする」

 

俺は、ずず、と味噌汁を啜って、その熱烈な告白をスルーした。

だが、ハルキの興奮は、留まるところを知らない。

 

「なあ、シズマ! 俺たち、最強のコンビじゃね!? 俺が前衛でガンガンかき乱して、シズマが後衛から《見鬼の眼》で弱点見抜いて、ズバッとトドメを刺す! このフォーメーション、完璧だろ!」

「かき乱す、っていうか、お前のはただの自殺行為だ。あと、俺は後衛じゃねえ。それと、コンビでもない。ただの、腐れ縁だ」

「照れるなって!」

「照れてねえ!」

 

ぎゃいぎゃいと騒ぐ俺たち。

それは、数日前までの古書店では、考えられないほどに、賑やかで、そして、どこか温かい光景だった。

だが、そんな俺たちの、初勝利に浮かれた空気に、冷水を浴びせるような、静かな声が、響いた。

 

「───お前さんたち」

 

声の主は、それまで黙って湯呑みを傾けていた、祖母だった。

その声には、いつものような穏やかさや、からかうような響きはない。ただ、鋼のように冷たく、そして、重い何かが、宿っていた。

俺とハルキは、はっと我に返り、祖母の方へと向き直る。

祖母は、その細い目を、まっすぐに俺たちに向けていた。その瞳の奥は、夜の古井戸のように深く、俺たちの浮ついた心を、簡単に見透かしているかのようだった。

 

「初勝利に、浮かれているんじゃないよ」

その言葉は、静かだった。

だが、それゆえに、ずしり、と重く、俺たちの胸にのしかかってきた。

 

「お前さんたちの戦いは、いつだって世間には知られないのさ」

 

祖母は、テレビの画面に視線を移しながら、静かに言った。そこではもう、次のコーナーの、のどかなグルメレポートが始まっている。

 

「誰かに褒められることもない。感謝されることもない。歴史に名が残ることもない。ただ、人知れず、闇に生まれ、闇に消えていくモノたちを、人知れず、あるべき場所へ還してやる。それが、我ら祓魔師の宿命。……決して、ヒーローごっこじゃないんだよ」

 

その言葉の一つ一つが、釘のように、俺の心に打ち付けられていく。

そうだ。分かっていたはずだ。

俺は、誰かに認められたくて、この道を選んだわけじゃない。

ただ、目の前で消えかかっていた、この馬鹿な親友を、救いたかっただけ。

その原点を、この数日の、奇妙な日常と、初めての勝利の余韻の中で、少しだけ、忘れかけていたのかもしれない。

 

「それにね」

祖母は、湯呑みを置くと、その視線を、今度はまっすぐに、俺に、そしてハルキに向けた。

「今回のお相手は、まだ、ほんの序の口さね」

その声の冷たさに、俺は背筋に悪寒が走るのを感じた。

 

「あの《久方ノ神》は、元は人を想う、優しい神だった。だからこそ、お前さんの言霊(ことだま)も、素直に届いた。だがね、世にいる荒神は、そんな生易しいものばかりじゃない。人の悪意に染まり、ただ破壊と捕食を繰り返すだけの、対話の余地すらない、本物の〝化け物〟も、掃いて捨てるほどいる」

「…………」

「そして、忘れたわけじゃないだろうね。お前さんたちが、今、どういう状況にあるのかを」

祖母の言葉が、俺たちに、厳しい現実を、再び突きつける。

そうだ。俺とハルキは、今、この街に蠢く、全ての怪異どもを引き寄せる、『歩く灯台』なのだ。

 

「今回の戦いで、お前さんたちは、さらに強い光を放っちまった。それは、より広く、より遠くの闇にまで届くだろう。……つまり、次に来るお相手は、今回のような、寂しがり屋の神様じゃ、済まないかもしれないよ」

 

祖母の最後の言葉は、明確な警告だった。

それは、これから始まる戦いが、決して生半可な覚悟で乗り越えられるものではないことを、俺たちに、改めて、強く、強く、刻みつけるための。

 

居間に、沈黙が落ちる。

テレビから流れる、能天気なBGMだけが、やけに空々しく響いていた。

勝利の余韻は、完全に消え去っていた。

代わりに、俺たちの肩にのしかかるのは、これから向き合うであろう、途方もない宿命の、重さ。

 

そんな重苦しい空気を、再び、ぶち壊したのは。

やはり、この男だった。

 

「……そっか」

ぽつり、と呟いたハルキの顔には、意外にも、悲壮感はなかった。

それどころか、その美しい顔には、いつもの、不敵な笑みが、再び浮かんでいた。

 

「つまり、なんだ。もっとヤバくて、もっと面白い奴らが、これから俺たちの前に現れるかもしんないってことだろ?」

その瞳は、恐怖に怯えるどころか、未知なる強敵との出会いを、心待ちにしているかのように、爛々と輝いていた。

 

「……面白くなってきたじゃねえか」

 

その、あまりにもポジティブすぎる、というか、能天気すぎるというか、とにかく、常人には到底理解できない反応に、俺は、全身の力が抜けていくのを感じた。

 

───駄目だこいつ。早くなんとかしないと。

いや、もう、手遅れか。

 

俺は、大きく、本当に、心の底から、深いため息をついた。

そして、目の前の、黒い炭と化した魚の残骸を、睨みつける。

 

(……ああ、そうかよ)

(面白くなってきた、ねえ)

 

俺は、箸を手に取った。

そして、炭の中から、まだ食べられそうな、白い身を、丁寧に、ほじくり返す。

 

(上等じゃねえか)

(ヤバいのが来るなら、来やがれってんだ)

 

俺は、その白い身を、白米の上に乗せた。

そして、覚悟を決めて、それを、口の中へと、一気にかき込んだ。

 

(てめえを、絶対に、人間に戻す。……俺が、そう決めたんだからな)

 

味は、やっぱり、ただの塩辛い魚だった。

だが、なぜか、今朝の、一番最初の、あの一口よりは。

ほんの少しだけ、マシな味がしたような、気がした。

窓の外では、何も知らない世界が、いつも通りの、穏やかな朝の光に、満ち溢れていた。

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