怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
全身が、水を含んだ鉛のように重かった。
瞼(まぶた)の裏側では、まだ青白い光の残像がチカチカと明滅を繰り返している。脳の芯には、まるで錆びついた鉄の杭でも打ち込まれたかのような、鈍く、そしてしつこい痛みが居座り続けていた。
俺、識静馬(しき しずま)は、自室のベッドの上、死体のように沈んだまま、天井の木目をぼんやりと眺めていた。昨夜の激闘……いや、鎮魂というべきか。その代償は、俺の肉体と精神に、容赦なく重くのしかかっている。
「……身体中、いてえ……」
掠れた声が、自分の喉から漏れた。
特に、無理やりこじ開けた《見鬼の眼(けんきのがん)》の反動は凄まじい。膨大な情報奔流に晒された脳は、もはやショート寸前のポンコツCPUだ。思考しようとするだけで、こめかみの奥で警報のように痛みが迸(ほとばし)る。
───もう、二度とやりたくねえ。
心の底から、そう思う。
だが、同時に、脳裏には昨夜の光景が鮮明に蘇っていた。
孤独な神が、本来いるべき場所へと還っていく、あの幻想的な光景。そして、それを見上げた時の、相棒の横顔。
面倒で、厄介で、心底うんざりするような出来事だった。だが、不思議と、胸の中に澱(よど)むような後悔はなかった。あるのは、この鉛のような疲労感と、そして、ほんの少しだけ、本当に、指の先ほどのささやかな達成感だけ。
(……まあ、悪くは、なかった、のかもな)
そんな、柄にもない感傷に浸っていると、階下からとんとんとん、と軽快な包丁の音が聞こえてきた。それに続いて、味噌の溶ける香ばしい匂いが、階下の居間から漂ってくる。
生活の音。日常の匂い。
その、あまりにも平和な響きに、俺はゆっくりと、軋む身体を起こした。腹が、ぐぅ、と情けない音を立てる。どうやら、あれだけの霊力を消耗すれば、腹も減るらしい。
◇◆◇
「お、シズマ! おはよー! 見ろよ、今日の俺の力作!」
居間のちゃぶ台の前に座ると、目の前にどん、と威勢よく置かれたのは、湯気の立つ白米と、豆腐とわかめが申し訳程度に入った味噌汁、そして、皿の上で黒く炭化した、見るも無惨な魚の残骸だった。
その、あまりにも対照的な光景に、俺の眉間に深い谷が刻まれる。
「……ハルキ。これは、なんだ」
「見てわかんねーか? アジの開きだよ! ばあちゃんに教わって、初めて焼いてみたんだぜ!」
得意満面に胸を張るのは、俺が貸したぶかぶかのスウェットパーカーを萌え袖気味に着こなし、腰まで届く美しい黒髪を無造使に後ろで一つに束ねた、絶世の美少女。
その正体は、言わずと知れた俺の親友、日野陽輝(ひの はるき)だ。
彼は、昨夜の戦闘での消耗など微塵も感じさせない、ピンピンした様子で、その大きな瞳をきらきらと輝かせている。半人半怪異と化したその身体は、霊力さえ満たされていれば、人間よりも遥かに回復が早いらしい。実に、羨ましいことだ。
───羨ましいことだが、この、産業廃棄物レベルの朝食は看過できねえ! なんだこの黒い物体は! アジの化石か何かか!? これを焼けと言ったばあちゃんは、俺に何か恨みでもあるのか!? それとも、美少女の手料理なら、たとえ炭でも美味しくいただけるとでも思っているのか、この極東の島国は!
俺の内心の絶叫など知る由もなく、ハルキは「まあ、ちょっと焦げちまったけど、味は保証するって!」などと、自信満々に親指を立てている。その無邪気な笑顔が、今は悪魔のそれにしか見えない。
「……俺は、納豆と卵でいい」
「なんでだよ! 食えよ! 俺の愛を食えって!」
「てめえの愛は、発がん性物質の味がしそうだ」
そんな、いつも通りの、しかし、状況だけを見れば完全に異常な朝のやり取りを、ちゃぶ台の向かい側で静かに見守っていた祖母、識珠江(しき たまえ)が、ふふ、と皺だらけの顔で笑った。
「まあまあ、静馬や。陽輝くんも、あんたのために一生懸命作ってくれたんだ。少しくらい、食べてやりんさい」
「……ばあちゃんが、やらせたのか」
「たまには、陽輝くんにも主婦の喜びを教えてやろうと思ってねぇ」
───主婦の喜びを教える前に、魚の焼き方を教えてやってくれ! 頼むから!
結局、俺は黒い炭を箸で慎重に削ぎ落としながら、なんとか可食部を探し当てて口に運ぶ羽目になった。味は、まあ、ただの塩辛い魚だった。
そんな、奇妙で、平和で、そして、どこか新しい日常に馴染みつつある、朝の食卓。
その穏やかな空気を破ったのは、居間の隅に置かれた、古めかしいテレビから流れてきた、アナウンサーの涼やかな声だった。
『───続いてのニュースです。昨夜遅く、〇〇駅前の歩道橋付近で、原因不明の、大規模な電波障害が発生しました。付近の住民からは、「スマホが突然使えなくなった」「テレビの映りが悪くなった」などの声が多数寄せられましたが……』
ぴたり、と俺とハルキの箸が止まった。
画面に映し出されているのは、昨夜、俺たちが死闘を繰り広げた、あの見慣れた歩道橋の、昼間の映像だった。
『……警察と専門家が調査にあたりましたが、障害の原因は特定できず、今朝未明には、電波状況は完全に正常へと復旧したとのことです。専門家は、「大規模な太陽フレア、あるいは、近隣の違法電波を発する施設が、一時的に影響を及ぼした可能性も考えられる」と話しており……』
当たり障りのない、どこにでもあるようなニュース。
世間の人々は、これを「まあ、そんなこともあるか」と、数時間後には忘れてしまう、ありふれた情報の一つとして消費するのだろう。
だが、俺たちは知っている。
その「原因不明」の正体が、なんだったのかを。
「……だってよ」
俺は、炭と化した魚の骨を皿の隅に寄せながら、ぽつりと言った。
「太陽フレア、ねえ。ずいぶんと、便利な言葉があったもんだ」
その声には、自分でも自覚できるほどの皮肉が、たっぷりと滲んでいた。
これが、世界の真実。
俺たちがどれだけ命を懸けて戦おうと、どれだけ奇跡的な鎮魂を成し遂げようと、それは表の世界では「原因不明の電波障害」の一言で片付けられてしまう。
誰にも知られず、誰にも感謝されず、ただ、人知れず、世界の歪みを修正する。
それが、祓魔師という存在。
それが、俺が足を踏み入れてしまった、世界の裏側の住人の、宿命。
「へへっ」
そんな俺の感傷を、隣からの間の抜けた笑い声が吹き飛ばした。
見れば、ハルキが、自分の武勇伝を語りたくてうずうずしている子供のように、目を輝かせながら俺の顔を覗き込んでいる。
「すげえよな、シズマ! あれ、絶対俺たちのことだよな! 『原因不明』だってよ! 俺たち、もはや自然現象レベルってことじゃん!」
「馬鹿言え。俺たちの存在が、公になってみろ。真っ先に精神病院にぶち込まれるのは、てめえだ」
「まあ、それはそうかもだけど! でも、すげえじゃんか! 俺、昨日のシズマ、マジで痺れたぜ!」
ハルキは、箸を置くと、身振り手振りを交えて、昨夜の俺の活躍(?)を、勝手な脚色を加えて語り始めた。
「あのさ、荒神が『■■■■ッ!』って襲ってきた時、シズマが『ハルキ、空を見ろ!』って叫んだだろ! あそこ! あそこ、マジで鳥肌立ったわ! 俺、もう、完全に理解したもんね! 『ああ、シズマは俺の力を信じて、未来を託してくれたんだな』って!」
───いや、託したのは未来じゃなくて、ただの目眩し役だ。あと、そんな少年漫画の主人公みたいなキラキラした目で俺を見るな。
「で、俺が『星が綺麗だぜ!』って叫んで、神様の注意を空に向けさせた隙に、シズマがすっと、こう、背後に回ってさ!」
ハルキは、なぜか立ち上がると、無駄にスタイリッシュな動きで、架空の敵の背後に回り込む動作を再現してみせる。その長い黒髪が、ふわりと舞った。
───やめろ。その見た目で、そんな中二病みたいな動きをするな。心臓に悪い。あと、俺は背後には回ってない。普通に、正面から堂々と歩いていった。
「そして、言ったんだよな! 『お前の還る場所は、その、空の上だろ』って! くぅーっ! カッコ良すぎだろ、シズマ! 俺、あの瞬間、お前に惚れ直したね! まあ、元から惚れてるけど!」
「聞かなかったことにする」
俺は、ずず、と味噌汁を啜って、その熱烈な告白をスルーした。
だが、ハルキの興奮は、留まるところを知らない。
「なあ、シズマ! 俺たち、最強のコンビじゃね!? 俺が前衛でガンガンかき乱して、シズマが後衛から《見鬼の眼》で弱点見抜いて、ズバッとトドメを刺す! このフォーメーション、完璧だろ!」
「かき乱す、っていうか、お前のはただの自殺行為だ。あと、俺は後衛じゃねえ。それと、コンビでもない。ただの、腐れ縁だ」
「照れるなって!」
「照れてねえ!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ俺たち。
それは、数日前までの古書店では、考えられないほどに、賑やかで、そして、どこか温かい光景だった。
だが、そんな俺たちの、初勝利に浮かれた空気に、冷水を浴びせるような、静かな声が、響いた。
「───お前さんたち」
声の主は、それまで黙って湯呑みを傾けていた、祖母だった。
その声には、いつものような穏やかさや、からかうような響きはない。ただ、鋼のように冷たく、そして、重い何かが、宿っていた。
俺とハルキは、はっと我に返り、祖母の方へと向き直る。
祖母は、その細い目を、まっすぐに俺たちに向けていた。その瞳の奥は、夜の古井戸のように深く、俺たちの浮ついた心を、簡単に見透かしているかのようだった。
「初勝利に、浮かれているんじゃないよ」
その言葉は、静かだった。
だが、それゆえに、ずしり、と重く、俺たちの胸にのしかかってきた。
「お前さんたちの戦いは、いつだって世間には知られないのさ」
祖母は、テレビの画面に視線を移しながら、静かに言った。そこではもう、次のコーナーの、のどかなグルメレポートが始まっている。
「誰かに褒められることもない。感謝されることもない。歴史に名が残ることもない。ただ、人知れず、闇に生まれ、闇に消えていくモノたちを、人知れず、あるべき場所へ還してやる。それが、我ら祓魔師の宿命。……決して、ヒーローごっこじゃないんだよ」
その言葉の一つ一つが、釘のように、俺の心に打ち付けられていく。
そうだ。分かっていたはずだ。
俺は、誰かに認められたくて、この道を選んだわけじゃない。
ただ、目の前で消えかかっていた、この馬鹿な親友を、救いたかっただけ。
その原点を、この数日の、奇妙な日常と、初めての勝利の余韻の中で、少しだけ、忘れかけていたのかもしれない。
「それにね」
祖母は、湯呑みを置くと、その視線を、今度はまっすぐに、俺に、そしてハルキに向けた。
「今回のお相手は、まだ、ほんの序の口さね」
その声の冷たさに、俺は背筋に悪寒が走るのを感じた。
「あの《久方ノ神》は、元は人を想う、優しい神だった。だからこそ、お前さんの言霊(ことだま)も、素直に届いた。だがね、世にいる荒神は、そんな生易しいものばかりじゃない。人の悪意に染まり、ただ破壊と捕食を繰り返すだけの、対話の余地すらない、本物の〝化け物〟も、掃いて捨てるほどいる」
「…………」
「そして、忘れたわけじゃないだろうね。お前さんたちが、今、どういう状況にあるのかを」
祖母の言葉が、俺たちに、厳しい現実を、再び突きつける。
そうだ。俺とハルキは、今、この街に蠢く、全ての怪異どもを引き寄せる、『歩く灯台』なのだ。
「今回の戦いで、お前さんたちは、さらに強い光を放っちまった。それは、より広く、より遠くの闇にまで届くだろう。……つまり、次に来るお相手は、今回のような、寂しがり屋の神様じゃ、済まないかもしれないよ」
祖母の最後の言葉は、明確な警告だった。
それは、これから始まる戦いが、決して生半可な覚悟で乗り越えられるものではないことを、俺たちに、改めて、強く、強く、刻みつけるための。
居間に、沈黙が落ちる。
テレビから流れる、能天気なBGMだけが、やけに空々しく響いていた。
勝利の余韻は、完全に消え去っていた。
代わりに、俺たちの肩にのしかかるのは、これから向き合うであろう、途方もない宿命の、重さ。
そんな重苦しい空気を、再び、ぶち壊したのは。
やはり、この男だった。
「……そっか」
ぽつり、と呟いたハルキの顔には、意外にも、悲壮感はなかった。
それどころか、その美しい顔には、いつもの、不敵な笑みが、再び浮かんでいた。
「つまり、なんだ。もっとヤバくて、もっと面白い奴らが、これから俺たちの前に現れるかもしんないってことだろ?」
その瞳は、恐怖に怯えるどころか、未知なる強敵との出会いを、心待ちにしているかのように、爛々と輝いていた。
「……面白くなってきたじゃねえか」
その、あまりにもポジティブすぎる、というか、能天気すぎるというか、とにかく、常人には到底理解できない反応に、俺は、全身の力が抜けていくのを感じた。
───駄目だこいつ。早くなんとかしないと。
いや、もう、手遅れか。
俺は、大きく、本当に、心の底から、深いため息をついた。
そして、目の前の、黒い炭と化した魚の残骸を、睨みつける。
(……ああ、そうかよ)
(面白くなってきた、ねえ)
俺は、箸を手に取った。
そして、炭の中から、まだ食べられそうな、白い身を、丁寧に、ほじくり返す。
(上等じゃねえか)
(ヤバいのが来るなら、来やがれってんだ)
俺は、その白い身を、白米の上に乗せた。
そして、覚悟を決めて、それを、口の中へと、一気にかき込んだ。
(てめえを、絶対に、人間に戻す。……俺が、そう決めたんだからな)
味は、やっぱり、ただの塩辛い魚だった。
だが、なぜか、今朝の、一番最初の、あの一口よりは。
ほんの少しだけ、マシな味がしたような、気がした。
窓の外では、何も知らない世界が、いつも通りの、穏やかな朝の光に、満ち溢れていた。