怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第5話 「監視者の視線」ー2

昼下がりの古書店『天逆堂』は、まるで時間の流れから取り残されたかのように、静まり返っていた。

秋の柔らかな陽光が、磨りガラスの窓を通して店内に射し込み、空気中を舞う無数の埃を金色にきらめかせている。その光景は、ひどく穏やかで、数日前の悪夢のような一夜がまるで嘘だったかのように、俺、識静馬(しき しずま)の心を微睡(まどろ)みへと誘っていた。

 

「……ん」

 

俺は、店の奥にある居住スペースの、古びた縁側で目を覚ました。

どうやら、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。身体の節々が軋むような痛みを訴え、昨夜の戦いで酷使した《見鬼の眼(けんきのがん)》の反動である鈍い頭痛が、まだ脳の芯に居座り続けている。

手にした湯呑みの中では、とっくに冷え切ったほうじ茶が、茶渋の浮いた水面を静かに揺らしていた。

 

(……最悪の寝覚めだ)

 

内心で悪態をつきながら、俺はゆっくりと上半身を起こす。

目の前に広がるのは、手入れが行き届いているとは到底言えない、雑草の生い茂る小さな庭。その隅では、盛りを過ぎた金木犀(きんもくせい)が、最後の力を振り絞るように、甘く、そしてどこか物悲しい香りを漂わせている。

ちりん、と店の入り口でベルが鳴る気配はない。

今日も、この古書店は平和そのものだ。

 

───いや、平和、ねえ。どの口が言うんだか。

俺は自嘲気味に鼻を鳴らした。

今の俺の日常は、薄氷の上でタップダンスを踊っているようなものだ。一歩踏み外せば、待っているのは冷たく暗い、人ならざるモノが蠢く世界の深淵。

その元凶は、今頃、俺の代わりにカウンターの奥で店番をしているはずだった。

 

「……サボり、ばっかだな、俺も」

 

ぽつりと、誰に言うでもなく呟く。

ハルキに店番を押し付けて、こうして縁側で日向ぼっこをしているのは、なにも本当に怠けたいわけじゃない。単純に、身体が限界だったのだ。《見鬼の眼》の最大解放は、俺の魂そのものを燃料にする。その消耗は、ただ寝て治るような生易しいものではなかった。

それに、と俺は思う。

カウンターに立つのが、少しだけ、怖かった。

いつ、あのベルの音と共に、人間ではない〝何か〟が客として訪れるかと思うと、気が気ではなかったのだ。

俺とハルキが放つ、甘美なまでの生命の香り。それは、この街の闇に潜む、飢えた荒神どもにとって、極上のご馳走の匂い以外の何物でもない。

今のこの静けさは、嵐の前の静けさに過ぎない。

 

(……覚悟を、決めなきゃな)

 

分かっている。

いつまでも、こうして感傷に浸っているわけにはいかない。

俺は、戦うと決めたのだ。この馬鹿な親友を、絶対に人間に戻すと。

そのために、俺は、もっと強くならなければならない。

父が遺した古文書を読み解き、この忌まわしい力を、正しく制御する方法を学ばなければ。

 

そんな、柄にもない殊勝な決意を固めていると。

背後で、ぎしり、と廊下の床板が軋む音がした。

振り返るよりも早く、頭上から、底抜けに明るい声が降ってくる。

 

「おーい、シズマ。生きてるかー?」

 

そこに立っていたのは、俺が貸したぶかぶかのスウェットパーカーをワンピースのように着こなし、その美しい黒髪をポニーテールに揺らす、絶世の美少女。

その正体は、言わずと知れた俺の親友、日野陽輝(ひの はるき)だ。

 

「……見ての通りだ。かろうじてな」

「うわ、顔色悪っ。昨日のダメージ、まだ抜けてねえの?」

「誰のせいだと……。それより、店番はどうした」

「ん? 誰も来ねえから、飽きた」

「飽きた、じゃねえよ!」

 

ハルキは、悪びれる様子もなくそう言うと、俺の隣に、とん、と軽やかに腰を下ろした。その拍子に、ふわりとシャンプーの甘い香りが風に乗って運ばれてきて、俺の心臓が不規則に跳ねる。

 

───近い近い近い! なんでこいつは、男だった頃の距離感のまま、平然と隣に座ってくるんだ! パーソナルスペースという概念を、いい加減インプットしろ! 見た目はか弱い美少女なんだぞ! 少しは警戒心を持て!

 

「ほらよ」

俺の内心の葛藤などお構いなしに、ハルキはどこから持ってきたのか、新しい湯呑みを俺の前にことりと置いた。中からは、湯気と共にほうじ茶の香ばしい香りが立ち上っている。

「……どうも」

「どーいたしまして。病人には、優しくしてやんねえとな」

「誰が病人だ」

憎まれ口を叩きながらも、その温かい湯呑みを両手で包み込む。指先に伝わる熱が、ささくれ立っていた神経を、少しだけ解きほぐしてくれるようだった。

 

俺たちは、しばらくの間、何も話さなかった。

ただ、並んで縁側に座り、時折、湯呑みに口をつけながら、移ろいゆく昼下がりの光と影を、ぼんやりと眺めていた。

聞こえるのは、どこか遠くで鳴く鳥の声と、時折、風が庭の木の葉を揺らす音だけ。

それは、あまりにも穏やかで、平和な時間だった。

昨夜の死闘が、まるで遠い世界の出来事だったかのように。

 

沈黙を、最初に破ったのは、ハルキだった。

「……なあ、シズマ」

「なんだよ」

「昨日の、あの神様。今頃、どうしてんのかな」

 

その声は、いつものような軽薄さではなく、どこか遠くを見つめるような、静かな響きを帯びていた。

俺は、湯呑みを傾けながら、答える。

 

「……さあな。ちゃんと、空に還れてるんじゃねえか。仲間たちのいる場所に」

「そっか。……なら、良かった」

 

ハルキは、そう言うと、ふっと、安心したように息を吐いた。

その横顔は、とても綺麗で、そして、どこか儚げに見えた。

俺は、そんなハルキの様子に、少しだけ違和感を覚える。いつものこいつなら、「俺たち、マジで神様助けちまったよな! 最強じゃん!」くらいは、はしゃいでいてもおかしくないはずだ。

 

「……どうした。らしくもねえな」

「え? あ、いや、別に……」

ハルキは、俺の指摘に、少しだけ慌てたように視線を彷徨わせた。そして、何かをごまかすように、わざと明るい声で言った。

「いやー、でも、昨日のシズマはマジでカッコ良かったぜ! 俺、惚れ直した!」

「その話は、朝にも聞いた」

「だって、マジなんだもん! あの、神様の名前呼んでさ、『お前の還る場所は、空の上だろ』って! くぅーっ、思い出すだけで鳥肌立つわ!」

 

身振り手振りを交えて、昨夜の俺の台詞を熱っぽく語るハルキ。

その姿は、確かに、いつものハルキだった。

だが、その瞳の奥に、一瞬だけ、どうしても隠しきれない、深い翳(かげ)りのようなものが過(よ)ぎったのを、俺は見逃さなかった。

 

「……お前、本当にそう思ってんのか」

「へ? 何がだよ」

「だから、俺が、カッコ良かった、とか」

「おう! 思ってる思ってる! 超リスペクトしてる!」

 

その、あまりにもあっけらかんとした肯定に、俺は一つ、深いため息をついた。

そして、冷え切った自分の湯呑みを見つめながら、ぽつり、と言った。

 

「……俺は、思わねえよ」

「え?」

「俺は、昨日の自分が、カッコ良かったなんて、一ミリも思ってねえ」

 

俺の、静かだが、有無を言わせぬ響きを持った声に、ハルキの饒舌が、ぴたりと止まった。

俺は、続ける。

 

「俺は、怖かっただけだ。……お前が、あのまま、どうにかなっちまうんじゃないかと思ってな」

「…………」

「それに、あの神様だってそうだ。あいつは、ただ、寂しかっただけだ。忘れられて、一人ぼっちで。そんな奴を、無理やり、力で捻じ伏せて、言うこと聞かせて。……あんなの、ただの自己満足だ。ヒーローごっこですらねえよ」

 

それは、俺の偽らざる本心だった。

達成感は、あった。だが、それ以上に、自分のやったことの、その傲慢さが、喉に刺さった小骨のように、ずっと引っかかっていたのだ。

 

居間に、再び沈黙が落ちる。

今度の沈黙は、先ほどまでの穏やかなものではなかった。

何か、もっと重く、そして、触れてはいけない核心に、触れてしまったかのような、気まずい空気が、俺たちの間に、澱のように溜まっていく。

 

その、重苦しい空気を、切り裂いたのは。

やはり、ハルキの一言だった。

 

「…………ありがとな」

 

ぽつり、と。

か細い、だが、確かな芯の通った声が、俺の鼓膜を震わせた。

俺は、驚いて、隣に座るハルキの顔を見た。

 

彼は、もう、笑っていなかった。

その大きな瞳で、まっすぐに、俺の目を見つめていた。

その瞳の奥に宿っていたのは、感謝と、尊敬と、そして、俺には計り知れない、もっと複雑で、深い感情だった。

 

「シズマが、そうやって、俺のことも、あの神様のことさえも、本気で考えてくれてるって、分かってるから」

「…………」

「だから、ありがとな」

 

ハルキは、そう言うと、ふい、と顔を逸らして、自分の膝の上を見つめた。

その、あまりにも素直な感謝の言葉に、俺は、どう返していいのか分からず、ただ黙り込むしかなかった。

偽悪者の仮面は、こういう時、本当に役に立たない。

 

ハルキは、自分の、白く、華奢な手を見つめている。

その指を、ゆっくりと、握ったり、開いたり。

まるで、まだ、その身体が自分のものであることが、信じられないとでも言うかのように。

 

「……なあ、シズマ」

「……なんだよ」

「この身体さ。……なんか、まだ、全然、慣れねえんだよな」

 

その声は、独り言のように、静かだった。

 

「軽いし、力も入んねえし。ちょっと走っただけですぐ息切れるし。……昨夜みたいに動けるのは、戦ってる時だけなんだ。中にいる〝あいつ〟が、無理やり動かしてるみてえに。……普段の俺は、全然ダメだ」

「…………」

「……おまけに、こないだ、風呂入ってる時に、鏡見てさ」

 

ハルキは、そこで一度、言葉を切った。その声は、自分に言い聞かせるように、か細く震えている。彼は、俯いて自分の膝の上を見つめた。

 

「……自分の顔なのに、全然、知らない奴の顔で。なんか、すげえ、怖くなっちまって」

「…………」

「俺、本当に、俺なのかな、って。もしかしたら、もう、とっくの昔に、日野陽輝(ひの はるき)は死んじまってて。今ここにいるのは、お前の霊力で動いてる、ただの、美少女の人形なんじゃねえか、って……」

 

その、絞り出すような告白に、俺は言葉を失った。

(……そうか。昨夜のあれは、ハルキ自身の力じゃない。奴の中にいる《啼哭の花嫁》の神気が、火事場の馬鹿力のように無理やりこの身体を動かしていただけなんだ。普段のこの身体は、ハルキ自身の魂にとっては、ただの燃費の悪い借り物の器でしかないのか……)

身体的な弱さ。そして、自分が自分でなくなっていく恐怖。こいつが抱える不安は、俺の想像を遥かに超えていた。

 

いつも、明るくて、強くて、前しか見ていない、太陽のような男。

そんなハルキが、初めて見せた、弱さだった。

半人半怪異として生きる、その孤独と、恐怖。

俺が、想像することしかできない、その途方もない不安。

 

ハルキは、ぎゅっ、と自分のパーカーの裾を握りしめた。

その、小さな、震える拳に、彼の全ての想いが、凝縮されているようだった。

そして、絞り出すように、言ったのだ。

俺が、ずっと、心のどこかで、恐れていた、その一言を。

 

「……なあ、シズマ」

「……俺、本当に、人間に、戻れんのかな」

 

その声は、もはや、問いかけではなかった。

ただ、ひたすらに、救いを求める、迷子の子供の、悲痛な叫びだった。

その叫びが、俺の心の、一番柔らかい部分を、容赦なく抉った。

ズキリ、と、胸の奥が、鋭く痛んだ。

 

俺は、ハルキの顔を見れなかった。

見たら、きっと、泣いてしまいそうだったから。

あるいは、どうしようもない無力感に、押し潰されてしまいそうだったから。

 

俺は、代わりに、目の前の、雑草だらけの庭を見つめた。

秋の、傾きかけた陽光が、長く、長く、影を落としている。

その光景が、なぜか、ひどく、目に染みた。

 

脳裏に、いくつもの光景が、フラッシュバックする。

神の力に喰われ、死んでいった、父の姿。

俺の目の前で、消えかかっていた、ハルキの姿。

そして、昨夜、俺がこの手で、空へと還した、孤独な神の姿。

 

───面倒くさい。

───本当に、面倒くさい。

この世界は、理不尽で、残酷で、そして、どうしようもなく、悲しみに満ちている。

 

だが。

俺は、もう、そこから目を逸らさないと、決めたのだ。

この、面倒くさい世界の、ど真ん中で、戦うと。

この、どうしようもなく手が掛かる、馬鹿な親友を、守り抜くと。

 

俺は、ゆっくりと、息を吸った。

金木犀の、甘い香りが、肺を満たす。

それは、俺の覚悟を、祝福する香りだと、勝手に、そう思うことにした。

 

俺は、庭を見つめたまま、静かに、しかし、一言一句に、俺の魂の、全ての重さを乗せて、言った。

偽悪者の仮面を、かなぐり捨てて。

ただ、一人の、識静馬として。

 

「……戻してやる」

 

凛、と。

自分の声が、澄み切った秋空に、響き渡った。

隣で、ハルキが、息を呑む気配がした。

 

俺は、続ける。

それは、彼への約束であり、そして、俺自身への、揺るぎない誓いだった。

 

「絶対に、俺が」

 

世界から、音が消えた。

風の音も、鳥の声も、何も聞こえない。

ただ、隣にいる、親友の、熱い気配だけを、感じていた。

 

やがて。

ぽつり、と。

俺の、すぐ隣で、何かが、畳の上に落ちる、小さな音がした。

一つ、また、一つと。

 

俺は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、隣のハルキへと、視線を移した。

彼は、俯いていた。

その、美しい黒髪の隙間から、見えたのは。

パーカーの膝の上に、次々と落ちていく、大粒の、涙の雫だった。

 

声は、なかった。

ただ、その華奢な肩が、小さく、小さく、震えているだけだった。

 

それを見て、俺は、ようやく、自分が、本当に、この宿命を受け入れたのだと、理解した。

俺たちの絆は、もう、ただの幼馴染なんかじゃない。

共に戦い、互いの背中を預け合う、唯一無二の、パートナーになったのだと。

 

俺は、何も言わずに、ただ、黙って、そこに座っていた。

そして、震える彼の肩に、そっと、自分の手を置こうとして、───やめた。

今のこいつには、同情も、慰めも、必要ない。

必要なのは、ただ一つ。

俺が、隣にいる、という、その事実だけだ。

 

秋の陽が、静かに、俺たち二人を、照らしていた。

それは、これから始まる、長く、厳しい戦いを前にした、ほんの束の間の、そして、あまりにも、かけがえのない、誓いの時間だった。

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