怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第5話 「監視者の視線」ー3

秋の夜は、深く、そして静かだった。

縁側で交わした、声にならない約束の後。俺、識静馬(しき しずま)は、あれから一度も目を覚まさない日野陽輝(ひの はるき)を客間の布団に寝かしつけ、一人、古書店『天逆堂』の居間に戻ってきていた。

 

ちり、と燭台に立てられた和蝋燭の芯が、小さな爆ぜる音を立てる。その頼りない灯りだけが、闇に支配された部屋の中で、唯一の光源だった。壁に掛けられた古時計の、振り子が左右に揺れる音だけが、やけに大きく響いている。

 

(……戻してやる。絶対に、俺が)

 

縁側での誓いが、まだ耳の奥で熱を持っている。

柄にもなく、大見得を切ってしまった。だが、後悔はしていない。あれは、ハルキにではなく、俺自身に言い聞かせるための、覚悟の言葉だったのだから。

机に置いた湯呑みの中では、とっくに冷え切ったほうじ茶が、黒い水面を静かに揺らしている。俺はそれを飲む気にもなれず、ただ、ぼんやりと炎の揺らめきを見つめていた。

 

これから、どうする。

ハルキを人間に戻す。その方法は、まだ、何も分かっていない。

俺が知っているのは、毎晩、唇を通して霊力を分け与え続けなければ、あいつの魂は再び崩壊を始めるということだけ。それは、ただの延命措置に過ぎない。根本的な解決には、ほど遠い。

 

───知識が、必要だ。

ハルキを乗っ取った、あの《啼哭の花嫁(ていこくのはなよめ)》という怪異の正体。その真名を暴き、弱点を見つけ出し、ハルキの魂から安全に引き剥がすための、古の術。

その答えは、きっと、この家のどこかにあるはずだ。

父が遺した、あの禁断の書庫……『天逆文庫(あまのさかぶんこ)』の中に。

 

考えるだけで、胸の奥が冷たく軋む。

父の死のトラウマ。あの場所は、俺にとって、自らの弱さと無力さを突きつけられる、忌むべき領域だった。

だが、もう、逃げてはいられない。

 

俺が、新たな決意を胸に刻み、冷えた茶を一口飲もうと湯呑みに手を伸ばした、その時だった。

 

「───静馬や」

 

背後から、静かに、しかし凛とした声がかけられた。

俺は、驚いて振り返る。

いつの間にか、そこに、祖母の識珠江(しき たまえ)が、音もなく立っていた。昼間の、穏やかな好々爺然とした雰囲気は微塵もない。その背筋は鋼のようにまっすぐに伸び、細められた瞳の奥には、夜の古井戸のように深く、そして鋭い光が宿っていた。

それは、ただの老婆ではない。

識家が代々受け継いできた宿命を、その小さな肩で背負い続けてきた、【審神者(さにわ)】の先代当主としての顔だった。

 

「……ばあちゃん。起きてたのか」

「ああ。ちいとばかし、空気が騒がしくてねぇ」

 

祖母はそう言うと、俺の向かいの座布団に、静かに腰を下ろした。その一挙手一投足に、無駄な動きが一切ない。

彼女は、昨夜の戦いでの俺の消耗を労うでもなく、ハルキの容態を尋ねるでもなかった。ただ、燭台の炎に照らされた俺の顔を、じっと、値踏みでもするかのように見つめている。

 

「……なんだよ」

「静馬」

祖母は、俺の問いには答えず、静かに、しかし重い声で言った。

「昨夜のことだ。……お前さん、あの荒神を、祓わずに天に還したね」

 

その言葉は、疑問形ではなかった。

すべてを、お見通しだと言わんばかりの、断定の響き。

俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

「……視てたのか」

「いいや。だが、分かるさね。この家の周りに渦巻いていた、あの神の気配の残滓が、どう消えたのかくらいは。……あれは、討伐されたものの気配じゃあない。納得して、還っていったものの気配さ」

 

さすがは、先代当主、か。

その力はほとんど失われていると言いながら、その霊的な感覚は、未だに衰えていないらしい。

俺は、観念して、短く答えた。

「……ああ。あいつは、悪い奴じゃなかった。ただ、忘れられて、寂しかっただけだ。だから、還る場所を教えてやった。それだけだよ」

「そうかい」

祖母は、静かに頷いた。その表情からは、俺の行いを肯定しているのか、それとも否定しているのか、まったく読み取れない。

 

「……静馬や。そのやり方は、確かに、我ら審神者が本来目指すべき、理想の形の一つさ。力で捻じ伏せるのではなく、その魂の本質を裁定し、あるべき場所へと導く。……お前さんの父親も、そうあろうとしていた」

「……親父の話はするな」

俺は、反射的に、低い声で遮った。

だが、祖母は、そんな俺の抵抗など意にも介さず、冷徹なまでの静けさで続けた。

 

「だがね、静馬。その、あまりにも優しく、そしてあまりにも傲慢なやり方は。……この現代(いま)においては、命取りになるやもしれんよ」

「……どういう、意味だ」

「お前さんが戦う相手は、なにも、闇に蠢く怪異どもだけじゃないということさ」

 

祖母は、そこで一度、言葉を切った。

そして、俺の魂の奥底を、まっすぐに見据えるように、言った。

 

「神祇庁の連中が、お前さんのやり方をどう見るかねぇ」

「……神祇庁……?」

その単語に、俺は眉をひそめた。聞き覚えがないわけではない。父が遺した蔵書の中に、何度かその名は出てきたはずだ。確か、国のための祓魔師を集めた組織、だったか。だが、俺にとっては、これまで縁も興味もなかった、遠い世界の言葉だった。

「……親父の本で、名前くらいは見たことがある。国の機関、だろ? あいつらが、何か関係あるのか」

 

「関係あるどころの話じゃないさ」

祖母は、俺の無知を責めるでもなく、ただ静かに、事実を告げ始めた。

それは、俺がこれまで必死に目を逸らし続けてきた、この世界の、もう一つの真実の姿だった。

 

「奴らは、我らのような古の血統とは違う。近代的な霊的理論と、科学技術を融合させた、新しい祓魔の形。……そして、奴らにとって、荒神とは、対話や救済の対象じゃない」

祖母の瞳が、すう、と細められる。

その奥に、刃のような、鋭い光が宿った。

 

「奴らにとって、荒神とは、世界の秩序を乱す〝害獣〟であり、システムの〝バグ〟でしかないのさ。見つけ次第、速やかに、そして効率的に〝駆除〟すべき対象。……それが、神祇庁、特にその中でも最大派閥である〝天照派〟の、絶対の正義だよ」

 

ぞくり、と背筋に悪寒が走った。

害獣。バグ。駆除。

その、あまりにも無機質で、あまりにも冒涜的な単語。

昨夜、俺が魂の奥底で感じた、あの孤独な神の悲哀とは、あまりにもかけ離れた価値観。

だが、それが、この国を裏から支配する者たちの「常識」だというのか。

 

「……だとしたら」

俺は、掠れた声で言った。

「俺がやったことは……あいつらにとって、どう映るんだ」

「決まっているだろう」

 

祖母は、きっぱりと言い切った。

 

「〝異端〟であり、〝危険思想〟さね」

 

その言葉は、宣告だった。

俺の、これからの未来を予言する、残酷な宣告。

 

「害獣を、憐れむ。バグと、対話する。あまつさえ、それを救おうなどと、奴らにとっては、到底、理解の及ばない狂気の沙汰だよ。……お前さんのやり方は、神だけでなく、最も厄介な、人間をも、敵に回すことになる

 

居間に、重い沈黙が落ちる。

古時計の、カチ、コチ、という音だけが、やけに大きく響いていた。

俺は、何も言えなかった。

ハルキを助けると決めた、あの覚悟。

その道が、自分が想像していたよりも、遥かに険しく、そして、遥かに多くの敵意に満ちていることを、今、思い知らされたのだから。

 

「……どうしろって言うんだよ」

絞り出した声は、自分でも情けないほどに、弱々しく震えていた。

「俺は、ただ、ハルキを助けたいだけだ。そのために、昨夜は、ああするしかなかった。……俺のやり方が、間違ってるとでも言うのか」

「間違っているとは、言っとらんよ」

 

祖母は、静かに首を横に振った。

そして、その険しい表情を、ふっと緩め、いつもの、ただの優しい祖母の顔に戻っていた。

 

「むしろ、婆(わし)は、誇らしいとさえ思っているさ。お前さんは、あの父親ですら、なかなか辿り着けなかった境地に、その初陣で、足を踏み入れたんだからねぇ」

その、あまりにも意外な言葉に、俺は目を見開いた。

 

「だがね、静馬」

祖母は、立ち上がると、俺の肩に、その皺だらけの小さな手を、ぽん、と置いた。

その手は、驚くほどに、温かかった。

 

「道は、お前さんが、自分で選ぶんだ。誰かに言われたからじゃない。お前さんの魂が、正しいと信じる道を、ただ、まっすぐに、進みなさい」

「…………」

「ただし、だ。その道が、茨の道であることだけは、忘れるんじゃないよ。……お前さんの覚悟が、本物かどうか。この世界は、これから、何度も、何度も、お前さんに問いかけてくるだろうからねぇ」

 

祖母は、それだけ言うと、静かに居間を出ていった。

後に残されたのは、俺一人と、揺らめく燭台の炎だけ。

祖母の言葉が、その温かさが、そして、その厳しさが、ずしりと重く、俺の心にのしかかってくる。

 

(……人間が、敵、か)

 

上等じゃねえか。

相手が神だろうが、人間だろうが、関係ない。

俺がやるべきことは、一つだけだ。

 

俺は、冷え切ったほうじ茶を、一気に飲み干した。

ぬるくなった液体が、乾いた喉を、静かに潤していく。

その苦い後味は、まるで、俺がこれから歩むであろう、宿命の味そのもののようだった。

 

◇◆◇

 

祖母との重い対話の後、俺は、もはや眠れるはずもなく、店の戸締まりの確認という名目で、一人、玄関へと向かった。

ぎしり、と古い木製の引き戸に手をかける。店のシャッターはすでに下ろしてあるが、昔ながらのこの古書店は、防犯という概念が現代とは少しだけズレているのだ。

 

(……神祇庁、か)

 

頭の中で、その単語を反芻する。

世界の秩序を守る、影の執行者。

その存在は、これまで俺が必死に目を逸らし続けてきた、この世界の、もう一つの側面だった。

祖母の警告が、脳の奥で警鐘のように鳴り響いている。

『お前さんのやり方は、人間をも、敵に回すことになる』

 

(……考えすぎ、だよな)

 

俺は、自分に言い聞かせるように、小さく息を吐いた。

いくらなんでも、たかが街角で起きた、小さな怪奇事件一つ。そんなものに、国の機関がいちいち首を突っ込んでくるはずがない。

祖母は、俺の覚悟が鈍らないように、少し大袈裟に言っただけだ。

きっと、そうだ。

そうに、違いない。

 

俺は、引き戸に付けられた捻締錠(ねじしまりじょう)が、きちんと閉まっていることを確認し、最後に、郵便受けの口を内側から塞いだ。これで、戸締まりは完了だ。

さあ、部屋に戻って、少しでも頭を休めよう。明日からは、本格的に『天逆文庫』の調査を始めなければならないのだから。

俺が、そう思って、踵(きびす)を返そうとした、まさにその瞬間だった。

 

ふと、磨りガラスの向こう側。

店の前の、夜の闇に沈んだ通りの風景に、何か、強烈な違和感《b》を覚えたのだ。

 

(……なんだ?)

 

それは、言葉で説明するのが難しい、本当に些細な感覚のズレだった。

いつもと、同じ風景のはずだ。

向かいの建物の壁。頼りなく灯る街灯。その下に置かれた、自動販売機の明かり。

何も、変わったところはない。

ない、はずなのに。

 

───いや、違う。

一つだけ、いつもと違うものが、《b》ある《b》。

 

俺は、息を殺し、磨りガラスに、そっと顔を近づけた。

ガラスの、模様の入っていない、ほんの小さな隙間から、外の様子を窺う。

 

そして、見つけてしまった。

店の、真向かい。

街灯の光が、ちょうど届かない、深い闇の中に。

一台の、黒塗りのセダンが、音もなく、そこに、停まっていた。

 

(……車?)

 

こんな時間に、こんな場所に、誰が。

近所の住民の車ではない。見慣れない車種だ。それに、この古書店が軒を連ねる古い商店街は、夜間は車両の進入が制限されているはず。

タクシーが、客を待っているのか?

いや、それにしては、様子がおかしい。

エンジンは、かかっていない。ヘッドライトも、テールランプも、完全に消灯している。

まるで、闇そのものに擬態するかのように、その車は、ただ、そこに《b》いる《b》のだ。

その存在が放つ、異様なまでの「気配のなさ」が、逆に、俺の審神者としての本能を、鋭く刺激した。

 

───クソッ、なんなんだよ、あれは。

胸が、嫌な音を立てて脈打つのを感じる。

祖母の警告が、脳裏をよぎった。

 

俺は、意を決し、その車の内部へと、意識を集中させた。

そして、これまで決して、自らの意志では使おうとしなかった、あの呪われた力を、静かに、そして慎重に、解放する。

 

───《b》《見鬼の眼(けんきのがん)》。

 

カッ、と、瞳の奥が、淡い金色の光を帯びた。

脳を針で刺すような、鈍い痛みが走る。

視界から、色が消え、世界の霊的な輪郭だけが、モノクロの線画のように浮かび上がった。

 

俺は、その霊的視界で、黒塗りの車の内部を、透かし視た。

そこには、二つの人影があった。

運転席と、助手席に、一人ずつ。

ただ、まっすぐに、こちらの古書店の方を向いて、微動だにせずに座っている。

 

そして、俺は、戦慄した。

その二つの人影から、俺が警戒していたような、禍々しい怪異のオーラは、一切、放たれていなかったのだ。

紫黒の怨嗟も、鉛色の負の感情も、何もない。

そこにあるのは、ただ、純粋な、人間の魂のオーラだけ。

 

───だが。

その魂のオーラは、常人のそれとは、あまりにも、かけ離れていた。

 

普通の人間の魂が、揺らぐ蝋燭の炎のような、曖昧で、温かい光を放つのに対し。

彼らの魂は、まるで、極限まで鍛え上げられ、研ぎ澄まされた、二本の鋼の刃《b》のようだった。

一切の揺らぎがない。

一切の感情のノイズがない。

ただ、冷徹で、強固で、そして、絶対に折れることのない、恐ろしいまでの《b》「霊的な意志」の光だけが、その魂の中心から、静かに、しかし力強く、放たれている。

 

それは、厳しい訓練を積み、自らの感情を殺し、ただ、任務を遂行するためだけに存在する、プロフェッショナルの魂の色だった。

そして、その、研ぎ澄まされた意志の切っ先は。

寸分の狂いもなく、ただ、一点。

この、古書店『天逆堂』に、そして、その中にいる俺とハルキに、まっすぐに、向けられていた。

 

「…………」《b》

 

息が、詰まった。

声も出ない。

脳を殴りつけるような、衝撃。

 

───監視、されている。

 

その事実が、理屈ではなく、情報として、俺の脳へと、直接流れ込んでくる。

彼らは、怪異ではない。

人間だ。

そして、俺たちのことを、明確な意志をもって、監視している。

 

祖母の警告は、大袈裟などではなかった。

それは、すでに、この瞬間、この場所に起きている、紛れもない、現実だったのだ。

敵は、「いつか来る」のではない。

 

───《b》「もう、そこにいる」。

 

俺は、ゆっくりと《見鬼の眼》を閉じた。

脳の痛みが、現実の痛みとして、ずきり、と脈打つ。

背中に、嫌な汗が、一筋、流れ落ちた。

 

だが、不思議と、恐怖はなかった。

あるのは、むしろ、腹の底から湧き上がってくる、冷たい、冷たい、闘志のような感情。

(……上等じゃねえか)

俺は、心の中で、そう吐き捨てた。

相手に、気づかれたことを、悟られてはならない。

俺は、何事もなかったかのように、平静を装い、ゆっくりと踵を返した。

そして、いつもの、面倒くさそうな、気怠い足取りで、店の奥へと続く廊下を、歩き始める。

背中に、二対の、鋼のような視線が突き刺さっているのを感じながら。

 

それは、言葉のない、視線だけの、静かな、静かな、宣戦布告だった。

俺の、新しい日常は、もう、始まっている。

怪異だけでなく、人ならざる人間をも、敵に回す、そんな、面倒くさい日常が。

 

俺は、闇に沈んだ廊下を歩きながら、口の端に、不敵な笑みを、浮かべていた。

震えは、いつの間にか、完全に、止まっていた。

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