怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
祖母との気まずい夕食を終え、俺はそそくさと自室に逃げ帰った。
二階にある俺の部屋は、六畳一間の、本と埃に埋もれた城だ。ベッドの上にも、机の周りにも、床にさえ読みかけの本が平積みになっている。もはや、どこまでが本棚で、どこからが生活スペースなのか判然としない。だが、この雑然とした静寂が、今の俺には何よりも落ち着く場所だった。
ばたん、と少し乱暴に襖を閉める。
(……親父みたいには、なりたくもない)
先ほど、祖母の前で吐き捨てた言葉が、自分の声で脳内に蘇る。強がってはみたものの、その言葉はブーメランのように俺自身の胸に突き刺さっていた。
──じゃあ、お前は何になりたいんだよ。このまま、古書の番人として一生を終えるのか? それが、お前の望みなのか?
自問自答は、いつもの癖だ。そして、その問いに答えられないのも、またいつものことだった。
答えなんて、ない。考えたところで、面倒なだけだ。
俺は思考を振り払うように頭をかきむしり、ベッドにどさりと身を投げ出した。軋むスプリングの音が、やけに大きく部屋に響く。
窓の外は、すでに完全な夜の闇に支配されていた。街灯の頼りない光が、向かいの家の壁をぼんやりと照らしている。変化のない、見慣れた光景。それなのに、今夜は妙に胸がざわついて落ち着かなかった。祖母との会話が、心の表面をさざ波立たせている。
その、時だった。
ふと、視界の端、窓の外の路地裏に、黒い染みのようなものが蠢いたのを、俺は確かに捉えた。
それは、物理的な影ではない。もっと濃く、深く、まるで空間そのものに空いた穴のような、異質な闇。常人には決して見えない、この世ならざるモノの気配。
「……ッ!」
瞬間、俺の瞳の奥が、カッと熱を持った。
自分でも制御できない、血に刻まれた本能。淡い金色の光が、黒い瞳の奥で複雑な紋様を描く。
──見鬼の眼(けんきのがん)。
閉じたはずのその眼が、勝手に『視て』しまう。
闇の染みは、明確な輪郭を持ち始めた。それは、数十本の細い腕を持つ、蜘蛛のような形をした低級な怪異だった。アスファルトを這い、電柱にまとわりつき、まるで獲物を探すように、その身をくねらせている。人間の負の感情や、淀んだ霊気を求めて彷徨う、ただの霊的捕食者。普段なら、気にも留めない雑魚だ。
だが、今の俺にとっては、毒だった。
関わってはいけない。視てはいけない。気づいてはいけない。
審神者の力は、俺から父を奪った忌まわしい力だ。
「……気のせいだ」
俺は呟き、強く、強く瞼を閉じた。そして、もう一度目を開けたときには、意識してその路地裏から視線を逸らす。
──見るな、俺。関わるな。お前はただの古本屋だ。あんなものは、お前の世界には存在しない。いいね?
必死に自分に言い聞かせる。自己暗示にも等しい、これはもはや儀式だった。能力を無理やり捻じ伏せ、その存在ごと自分の認識から追い出すための。
数秒後、恐る恐るもう一度路地裏に視線を向けると、そこに蠢いていたはずの怪異の影は、どこにも見えなくなっていた。本当に消えたのか、それとも俺が『視る』ことを拒絶しただけなのか。それは、分からない。分かろうとも思わない。
俺はぜえぜえと荒い呼吸を繰り返していた。額には、じっとりと嫌な汗が滲んでいる。たかが低級怪異を一体、認識から追い出すだけで、これだけの精神力を消耗する。
やはり、俺に才能なんてない。審神者の力は、俺を蝕むだけの呪いでしかない。
俺はベッドから起き上がると、逃げるように窓に背を向けた。心臓が、まだドクドクと嫌な音を立てていた。
◇◆◇
胸のざわめきが収まらないまま、ベッドの上で意味もなくスマホをいじっていると、不意にけたたましい着信音が静寂を破った。画面には、見慣れた名前が表示されている。
『日野 陽輝(ひの はるき)』
出た。俺の平穏な日常を脅かす、最大にして唯一の脅威。
俺の唯一無二の親友であり、そして、致死量を超えるほどの好奇心を持つ、オカルトマニアのトラブルメーカー。
こんな深夜にかけてくる時点で、ろくな用件でないことは確定していた。
「……もしもし」
「おっ、シズマ! やっぱ起きてると思ったぜ!」
電話口から聞こえてきたのは、こちらの気鬱など吹き飛ばすような、底抜けに明るい声だった。ハルキだ。
その声を聞いて、少しだけ強張っていた肩の力が抜けるのを、俺は自覚する。
「……当たり前だろ。お前と違って、夜更かしは読書家の嗜みなんだよ」
「へーへー、ご立派なことで。で、聞いてくれよ! 超ヤバいネタを見つけちまったんだ!」
──ほら、始まった。
俺は内心でため息をつく。こいつの言う「ヤバいネタ」は、十中八九、心霊スポットやら都市伝説やらのことだ。そして、そのどれもが、ただの噂話では済まない、本物の怪異が絡んだ危険地帯だったりするから、本当に質が悪い。
「興味ない。切るぞ」
「ちょ、待て待て待て! 今回のはマジだって! 俺たちの地元で、最強の心霊スポットと言われてる場所、知ってるか?」
「……ああ、裏山の廃神社だろ。立ち入り禁止になってるはずだが」
正式名称は、確か『啼哭森(ていこくのもり)神社』。
地元では有名な肝試しスポットだが、その実態は違う。識家の古文書によれば、そこにはかつて、この土地一帯の穢れを一身に引き受けていた、名もなき強力な女神が封印されているという。その力はあまりに強大で、下手に刺激すれば大災害を引き起こしかねない、正真正銘の特級危険区域。もちろん、そんな真実はハルキには話していない。
「そう、そこ! なんか最近、SNSで『あそこの封印の祠を開けると、神隠しに遭う』って噂が流れててさ。面白そうじゃん?」
「……」
──面白そうじゃん、じゃねぇよ! なんでこいつの思考回路は、危険と聞くとブレーキじゃなくてアクセルを踏み込む構造になってんだ! 生存本能という大事なパーツを、母親の腹の中に忘れてきたのか!?
俺はこめかみがズキズキと痛むのを感じながら、できるだけ冷静な声を装って言った。
「……やめとけ。馬鹿なことはするなよ。そういう場所は、本当にヤバいのが出る」
「それだよ、シズマ! それを待ってたんだ! お前がそう言うってことは、本物なんだろ!?」
「話を聞け!」
思わず声を荒らげてしまった。だが、電話の向こうのハルキは、俺の焦りなどどこ吹く風だ。
「ははっ、心配してくれてサンキュ! でも、もう神社の前に着いてんだわ。ツレと二人で、これから突入するところ!」
「……は?」
こいつ、行動が早すぎる。
俺の制止など、最初から聞く気がなかったのだ。
「……そうか。まあ、せいぜい呪われないように気をつけろよ。じゃあな」
俺は、それだけ言うのが精一杯だった。これ以上、何を言っても無駄だ。こいつの好奇心は、一度火が点いたら誰にも止められない。
──気をつけろよ、じゃねえだろ俺! なんで止めないんだ! いや、止めて聞くような奴じゃないことは俺が一番知っている! くそっ、あいつの好奇心は致死量を超えてるんだよ! 明日の朝、俺はきっと警察か、あるいは神主か、どっちかに電話をかけることになるんだ……胃が痛い!
「おう! なんかあったら、一番に報告してやっから! じゃな!」
一方的な宣言と共に、通話はぷつりと切れた。
部屋に、再びしんとした静寂が戻ってくる。スマホを握りしめたまま、俺はしばらく動けなかった。
これが、俺が知る『人間』としてのハルキと交わした、最後の会話だった。
◇◆◇
電話が切れた後も、俺の胸のざわめきは一向に収まる気配がなかった。
それどころか、まるで警鐘のように、心臓がドク、ドクと嫌な音を立てて脈打っている。空気が鉛のように重く感じられ、呼吸が浅くなる。
(……考えすぎだ)
俺は自分に言い聞かせる。
ハルキの無謀な行動は、今に始まったことじゃない。いつも、なんだかんだで無事に帰ってくる。今回だって、きっとそうだ。ただの肝試しで、何も起こらずに、朝日が昇る頃には「何も出なかったぜ、つまんねーの」と呆気らかんとしたメッセージでも送ってくるに違いない。
そう、信じたかった。
信じようとすればするほど、胸騒ぎは大きくなっていく。
無意識に、視線が机の隅へと向いた。
そこに置かれている、一枚の写真立て。十年以上もずっと、同じ場所に置かれている、少し色褪せた写真だ。
そこに写っているのは、まだ小学生だった頃の俺とハルキ。
泥だらけの顔で、悪戯が成功したとでもいうように、にかりと歯を見せて笑うハルキ。その隣で、俺は呆れたような、でも、どこか楽しそうな、自分でも見たことのないような複雑な顔をして立っている。近所の神社の境内で、二人で秘密基地を作っていた時のものだ。
この頃から、ハルキはいつもそうだった。
俺が一人で本を読んでいると、どこからともなく現れて、「シズマ、面白いことしようぜ!」と俺の手を引いて外に連れ出す。退屈を嫌い、常に新しい刺激を求める太陽のような男。俺みたいな、日陰でじっとしているのが好きな人間とは、正反対。
だからこそ、俺たちは親友でいられたのかもしれない。
写真の中のハルキが、俺に語りかけてくるような気がした。
『心配すんなって! 俺は大丈夫だ!』
「……ああ、そうだな」
俺は誰に言うでもなく呟き、写真立てから視線を外した。
だが、胸の奥で渦巻く黒い予感は、どうしても消えてはくれなかった。あの廃神社は、ダメだ。あそこだけは、本当に。
「早く帰ってこいよ、馬鹿」
ぽつりと、自分でも驚くほど弱々しい声が口から漏れた。
それは、普段の俺が決して他人には見せない、素直な本心だった。
俺は立ち上がり、部屋の明かりを消した。
ベッドに潜り込み、無理やり目を閉じる。
夜の静寂が、いつもよりずっと重く、深く、俺の体にのしかかってくるようだった。
遠くで、救急車のサイレンの音が聞こえた気がした。