怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第5話 「監視者の視線」ー4

結局、その夜は一睡もできなかった。

 

いや、正確には、意識を失うことが怖くて、眠ることを自ら拒絶していた、と言うべきか。

自室のベッドに横たわったまま、俺、識静馬(しき しずま)は、闇に溶け込んだ天井の木目を、ただひたすらに見つめ続けていた。昨夜、あの黒塗りの車の中に視た、二対の鋼のような視線。その残像が、瞼の裏に焼き付いて離れないのだ。

 

監視されている。

その事実は、じわじわと、しかし確実に、俺の精神を蝕んでいた。それは、得体の知れない怪異に囲まれているのとは、また質の違う恐怖だった。相手は、人間。冷徹で、強固な意志を持った、プロフェッショナル。その視線は、まるで手術台の上の患者を観察する外科医のように、無機質で、感情がなかった。

 

(……いつからだ?)

 

思考が、堂々巡りを始める。

俺たちが、あの《久方ノ神》を鎮魂した時からか? いや、もっと前から? ハルキが、この家に転がり込んできた、あの日から?

分からない。分かるはずもなかった。

確かなのは、俺たちが築き上げた、このささやかな砦『天逆堂』は、もはや安全な場所ではないということだけ。俺たちは、闇に蠢く怪異だけでなく、光の当たる場所で秩序を司る人間からも、同時に狙われる存在になってしまったのだ。

 

───最高に、面倒くさい。

心の底から、そう思う。

だが、不思議と、昨夜感じたような、腹の底から湧き上がる冷たい闘志は、今はもう凪いでいた。代わりに胸を満たしていたのは、奇妙なほどの静けさ。そして、諦念にも似た、一つの覚悟だった。

 

(……ああ、そうかよ)

 

俺は、ゆっくりと息を吐いた。

(……どっちみち、俺はもう、逃げられねえんだ)

ハルキを助けると決めた、あの瞬間に。

審神者の力を使うと決めた、あの瞬間に。

俺の平穏な日常は、とっくの昔に終わっていたのだ。ならば、今さら敵が一人や二人、あるいは一つの組織が増えたところで、やるべきことは何も変わらない。

 

俺は、隣の客間で静かな寝息を立てているであろう、相棒の顔を思い浮かべた。

縁側で見せた、あの迷子の子供のような、悲痛な涙。

『……俺、本当に、人間に、戻れんのかな』

その声が、今も耳の奥で響いている。

 

(……戻してやる)

 

俺は、暗闇の中で、誰に言うでもなく、強く、強く誓った。

(お前を、絶対に、元の身体に。……神様だろうが、国の機関だろうが、邪魔する奴は、全員、叩き潰してでもな)

 

その、柄にもない決意を固めた時。 窓の外が、わずかに白み始めていることに、俺は気づいた。 長い、長い、悪夢のような夜が、終わる。 そして、これから始まる、もっと面倒で、もっと厄介な、新しい一日の始まりだった。

 

◇◆◇

 

階下から漂ってくる、香ばしい匂いで、俺は完全に覚醒した。

それは、炊き立ての白米と、味噌がふつふつと煮える、日本の朝を象徴する匂い。そして、その二つに混じって、なぜか、バターと醤油が焦げる、食欲を暴力的に刺激する香りまでが、俺の鼻腔をくすぐっていた。

 

「……なんだ、このカオスな匂いは」

 

寝不足と《見鬼の眼》の反動でガンガンと痛む頭を押さえながら、俺は寝間着代わりのスウェットのまま、居間へと続く襖を開けた。

そして、そこに広がっていた光景に、俺はしばし絶句することになる。

 

ちゃぶ台の上には、すでに朝食の準備が整えられていた。

湯気の立つ白米。豆腐と油揚げの入った、完璧な味噌汁。小鉢に盛られた、みずみずしい胡瓜の浅漬け。

そして、その中央。

大皿の上に鎮座していたのは、分厚く切られた食パンの上に、これでもかとバターが塗られ、その上に、なぜか、大量の釜揚げしらすと刻み海苔が乗り、さらにその上から醤油が豪快にぶちまけられた、見るからに創造主の正気を疑う〝何か〟だった。

 

「…………」

 

俺は、言葉を失い、その、あまりにも冒涜的なトーストもどきと、その隣で、エプロン姿のまま、なぜか満面の笑みで仁王立ちしている、絶世の美少女を、交互に見比べた。

 

「おっ、シズマ! おはよう! 見ろよ、今日の朝食! 俺が全部作ったんだぜ! 名付けて、『和洋折衷! 男のしらすバター醤油トースト・改』だ!」

 

得意満面に胸を張るのは、もちろん、日野陽輝(ひの はるき)だ。

俺の貸した、くたびれたパーカーに、なぜか祖母の戸棚から引っ張り出してきたのであろう、花柄のフリル付きエプロンという、壊滅的にミスマッチな出で立ち。その美しい黒髪は、邪魔にならないように、高い位置で無造作なお団子にまとめられている。

その、あまりにも家庭的で、あまりにも美少女な光景。

だが、その彼女(?)が生み出した、目の前の茶色い悪魔とのギャップが、俺の脳を激しくバグらせていた。

 

───いや待て待て待て待て! 情報量が多すぎる! なんで朝っぱらから、美少女(♂)の手作り(という名のテロ)朝食を食わなきゃならんのだ! しかもなんだそのネーミングセンスは! 『改』ってなんだ、『改』って! 改良前は、一体どんな地獄絵図が広がっていたんだ! それと、そのエプロンはどこから出した! 似合いすぎてるのが、逆に腹立たしい!

 

俺が内心で、嵐のようなツコミを繰り広げていると、ハルキは「まあ、突っ立ってないで座れって」と、俺の腕をぐいぐいと引っ張って、ちゃぶ台の前に座らせた。その、見た目に反した強引さと、やけに元気な様子に、こいつを動かす生命力の源が、普通の人間とは違うことを改めて思い知らされる。

 

「ほら、食ってみろって! これ、マジで美味いんだぜ! ネットのレシピ見て、俺なりにアレンジ加えてみたんだ!」

「……どの辺を、アレンジしたんだ」

「ん? バターとしらすの量を、三倍にした」

「ただのカロリー爆弾じゃねえか!」

 

俺は、目の前の〝それ〟を、箸で恐る恐る突いてみた。じゅわ、とバターが染み出し、醤油の香ばしい匂いが立ち上る。

……匂いは、悪くない。むしろ、美味そうだ。それが、余計に腹立たしい。

 

「……いただきます」

俺は、観念して、そのトーストもどきを一口、かじった。

瞬間。

口の中に、バターの暴力的なまでのコクと、醤油の塩気、そして、しらすの持つ磯の風味が、渾然一体となって広がった。

……美味い。

……いや、正直に言おう。

……めちゃくちゃ、美味い

 

「…………っ!」

「ど、どうだ……?」

ハルキが、期待と不安が入り混じった顔で、俺の反応を窺っている。その姿は、初めての手料理を恋人に食べさせる、健気な少女そのものだった。

……中身は、男だけど。

 

「……まあ、食えなくは、ない」

俺は、そっぽを向きながら、ぶっきらぼうにそう答えるのが精一杯だった。美味い、なんて素直に認めたら、こいつがどこまでも図に乗るのは、目に見えている。

だが、俺のそんな捻くれた反応も、ハルキにはお見通しだったらしい。

 

「へへっ、だろ!?」

彼は、ぱあっと、満開の向日葵のように笑った。

その、あまりにも眩しい笑顔に、俺は思わず目を細める。

監視されている、という重圧。

これから始まる、先の見えない戦いへの不安。

そんな、俺の心に溜まった黒い澱が、この、底抜けに明るい笑顔の前では、ほんの少しだけ、軽くなるような気がした。

 

◇◆◇

 

俺たちが、奇妙な朝食を囲んでいると、やがて、起きてきた祖母も合流し、三人の、いつも通りで、いつも通りじゃない、朝の時間が過ぎていった。

ハルキの作った、カロリーの化け物は、意外にも祖母には好評だった。「たまには、こういう若者らしい味も悪くないねぇ」と、皺だらけの顔で笑っている。

その光景は、どこにでもある、ありふれた家族の食卓、そのものだった。

俺たちの正体を知る者がいなければ、誰も、この家に、美少女の姿をした少年と、その親友である審神者の末裔が同居しているなどとは、夢にも思うまい。

 

食事が終わり、俺が食器を片付けていると、ハルキが、そわそわとした様子で、俺の隣にやってきた。

そして、声を潜めて、こう言ったのだ。

 

「なあ、シズマ」

「なんだよ」

「食い終わったら、行くだろ?」

「……どこにだよ」

「決まってんだろ」

 

ハルキは、まるでこれから、秘密の冒険にでも出かける子供のように、その大きな瞳を、キラキラと輝かせた。

 

「〝パトロール〟だよ! 俺たちの、街のな!」

 

その、あまりにも無邪気で、あまりにも正義感に溢れた言葉に、俺は、洗っていた茶碗を取り落としそうになった。

 

───パトロール!? どの口が言ってるんだ、どの口が! お前は、自分の立場を、一ミリでも理解しているのか!? 俺たちは、街を守るヒーローでも、警察官でもない! むしろ、怪異どもからすれば、最高級のステーキ肉が、無防備に街を練り歩いているようなもんだぞ! パトロールどころか、〝餌やり〟だ、それは!

 

俺は、こめかみに浮かんだ血管を、必死に押さえつけた。

昨夜の戦いを経て、こいつの中で、何かが、致命的に、ポジティブな方向へと振り切れてしまっているらしい。自分たちが、街の平和を守る、秘密のガーディアンか何かにでもなったと、本気で思い込んでいるのだ。

 

「……馬鹿言え」

俺は、できるだけ、冷たい声で言った。

「俺たちは、どこにも行かん。今日は、一日、この家でおとなしくしてるんだ。分かったな?」

「なんでだよ! 昨日みたいに、困ってる奴らがいるかもしんねえだろ!」

「お前が、その元凶を、ホイホイ呼び寄せてるんだってことに、いい加減気づけ!」

「む……。でも、シズマがいれば、大丈夫だろ?」

 

その、あまりにも純粋な、絶対的な信頼を込めた眼差し。

それが、俺にとって、一番の、弱点だった。

俺は、ぐっと言葉に詰まる。

そんな俺の葛藤を見透かしたように、ハルキは、さらに畳み掛けてきた。

 

「それに、昨日の夜、いたんだろ? あの、黒い車」

「…………っ!?」

 

その言葉に、俺は、今度こそ、心臓が跳ね上がるのを感じた。

なんで、こいつが、そのことを。

 

「……なんで、知ってる」

「気配で、分かったんだよ。なんか、店の前が、ずっとピリピリしてたからな。……シズマも、気づいてたんだろ?」

ハルキの瞳から、いつもの快活さが消えていた。そこにあるのは、俺と同じ、敵意の匂いを敏感に嗅ぎ分ける、戦士の目だった。

半人半怪異と化したことで、彼の霊的な感覚は、俺の想像以上に、鋭敏になっているらしい。

 

「……ああ」

俺は、観念して、短く頷いた。

「昨日の夜だけじゃねえ。たぶん、今もだ。この近くのどこかから、俺たちのことを見てる奴がいる」

「……だよな」

ハルキは、静かに頷いた。そして、ぎゅっ、と自分の拳を握りしめる。

「だからこそ、だろ、シズマ」

その声には、先ほどまでの子供っぽい響きはない。

俺の、相棒としての、覚悟に満ちた声だった。

 

「籠城してても、ジリ貧なだけだ。いつか、あいつらは、絶対に仕掛けてくる。なら、こっちから、動くしかねえだろ。……俺はもう、ただ守られてるだけの、お荷物でいるのは、ごめんなんだ」

 

その、あまりにも真っ直ぐな瞳。

その、あまりにも、こいつらしい、前向きな覚悟。

俺は、もう、何も言えなかった。

ただ、大きく、本当に、大きく、ため息をつくだけだった。

 

「……はぁ~~~~~~~~~~……」

「なんだよ、その、クソ面倒くせえって顔は」

「事実だからだ」

 

俺は、濡れた手をタオルで拭くと、覚悟を決めて、言った。

「……分かったよ。だが、パトロールなんかしねえ。今日は、まず、この家の周りを、徹底的に調べる。敵の正体も、目的も分からんうちは、動けん」

「おう!」

「それと、だ。もし外に出ることがあっても、お前は絶対に、一人で行動するな。必ず、俺と一緒だ。いいな?」

「分かってるって! 俺は、シズマの〝錨〟がなきゃ、存在もできない、か弱いヒロインなんだからな!」

ハルキは、そう言うと、わざとらしく、しなを作って、俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。

その、美少女にしか許されない、あざとい仕草と、そこから伝わってくる、柔らかな感触に、俺の心臓が、再び、悲鳴を上げる。

 

「……その言い方は、やめろ。あと、ひっつくな」

「照れるなって!」

「照れてねえ!」

 

ぎゃいぎゃいと、いつものやり取りをしながら、俺たちは、店の玄関へと向かった。

これから始まる、途方もない戦い。

その、ほんの、第一歩。

 

俺は、古びた引き戸に手をかけ、店のシャッターを上げるための、重いハンドルを握りしめた。

そして、隣に立つ、最強で、最悪で、そして、最高に、かけがえのない相棒に、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぽつり、と言った。

 

「……行くぞ」

「おうよ」

 

ガラガラガラガラガラッ、と。

重い金属のシャッターが、けたたましい音を立てて、ゆっくりと上がっていく。

隙間から、朝の、眩しい光が、ナイフのように鋭く、店の中へと差し込んできた。

 

光の中に、見慣れた商店街の風景が、少しずつ、その姿を現していく。

俺は、目を細め、その光景を、睨みつけるように見つめた。

そこに、あの黒塗りの車の姿は、もう、なかった。

 

だが、分かる。

気配は、消えていない。

闇に溶けるように、ただ、そこに潜んで、俺たちのことを、じっと、観察している。

その、見えざる敵の視線を、俺は、肌で、確かに感じていた。

 

シャッターが、完全に、上がりきる。

朝の光が、俺とハルキの、二人の姿を、まるで舞台の上の主役のように、鮮やかに照らし出した。

それは、いつもと同じようで、しかし、決定的に何かが変わってしまった、「新しい日常」の、始まりの合図。

 

俺は、これから始まるであろう、数々の面倒ごとを思い、内心で、本日何度目か分からない、深いため息をついた。

だが、その口の端に、いつの間にか、不敵な笑みが浮かんでいるのを、俺は、自覚していた。

 

「……うるせえな」

隣で、これから始まる冒険に、期待で目を輝かせているハルキが、何かを言おうとするのを、俺は、先回りして、ぶっきらぼうに遮った。

 

「まずは、店番だ。それが終わってから、考えてやる」

 

俺たちの、戦いは、始まったばかりだ。

太陽の光が、そんな俺たち二人を、ただ、静かに、照らしていた。

 

(第一章 完)

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