怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第2章 開かずの書庫と鋼鉄の巫女」
第1話 「秩序の執行者、橘桔梗」ー1


あれから、数週間が経った。

季節は、秋の盛りを少しだけ過ぎて、冬の気配がすぐそこまで忍び寄ってきている。古書店『天逆堂(あまのさかどう)』の磨りガラス越しに差し込む陽光も、心なしか以前より白く、そして弱々しくなったように感じられた。

 

ちりん、と店の扉に付けられた真鍮のベルが、乾いた音を立てる。

「いらっしゃいませー」

カウンターの奥、指定席である使い古された木製の椅子に深く腰掛けたまま、俺、識静馬(しき しずま)は、顔も上げずに気のない声を発する。

視線の先にあるのは、埃をかぶった専門書の背表紙。ページをめくるでもなく、ただぼんやりとそれを眺めているだけ。

 

───と、ここまでは、数週間前の俺の日常と、何一つ変わらない光景だ。

だが、今の俺には、もう一つ、やらなければならないことが増えていた。

俺は、本の背表紙を眺めるふりをしながら、意識のアンテナを、店の外、そして、この古書店全体を取り巻く空間へと、最大限に張り巡らせていた。

 

(……三時の方角、電信柱の上。カラスに擬態した低級霊が一。……店の裏手、路地裏のゴミ捨て場。澱んだ気に引き寄せられた餓鬼が二匹。……そして、向かいのビルの屋上。相変わらず、だな)

 

そこには、いる。

あの日以来、ずっと俺たちを監視し続けている、あの鋼のような気配。

黒塗りの車はもうない。だが、形を変え、場所を変え、その粘着質な視線だけは、一日たりとも途切れることなく、この天逆堂に突き刺さり続けていた。まるで、獲物の首筋に牙を突き立てる寸前の、蛇のように。

 

「……ほんと、ご苦労なこった」《b》

 

口の中で、誰に聞かせるともなく呟く。

客として店に入ってきた近所の婆さんが、俺の独り言にびくりと肩を震わせたが、知ったことか。こちとら、四六時中、プライベートを覗き見されている気分なんだ。これくらいの愛想の悪さは、許されて然るべきだろう。

 

───いや、誰に許しを請うてるんだ俺は! そもそも、こんな状況になったのは、元を辿れば全部、隣の部屋で今頃呑気に昼寝でもこいているであろう、あのトラブルメーカーのせいだろうが! なのに、なんで俺がこんな、国家レベルのストーカーに怯える日々を送らにゃならんのだ! プライバシーの侵害で訴えるぞ! どこの部署に言えばいいんだ! 神祇庁か!? いや、そいつらが犯人だよ!

 

脳内で、もはや日課となったフルスロットルのツコミを展開していると、店の奥、居住スペースへと続く廊下から、ぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。そして、ひょこり、とカウンターの陰から顔を覗かせたのは。

 

「おーい、シズマ。なんか面白いこと、起きた?」

 

濡れたような艶のある、腰まで届く長い黒髪。

磨りガラス越しの日差しを受けて、透けるように白い肌。

大きな、潤んだ黒い瞳。

その完璧な造形を持つ少女が、俺の貸した、ぶかかのスウェットパーカー(胸元に『I ♥ 書道』とプリントされた、高校時代の遺物だ)をワンピースのように着こなし、こてん、と首を傾げている。

その、あまりにもアンバランスで、あまりにも心臓に悪い光景に、俺の胃が習慣的にきりりと痛んだ。

 

「……ハルキ。てめえ、客がいるかもしねえんだから、あんまり店の方に出てくんなって言ってるだろ」

俺は、できるだけ平静を装い、低い声で言った。

そう。この、現実離れした容姿の持ち主こそ、俺の日常を粉砕した張本人であり、唯一無二の親友であり、そして、現在進行系で俺の頭痛の種である、日野陽輝(ひの はるき)その人だった。

 

「えー、だって暇なんだもん。それに客なんて、ばあちゃんしか来てねえじゃん」

「そのばあちゃんが、お前のその姿見て、どんな顔してるか考えろ。孫の友人が、いきなりこんな姿になって家に居候してんだぞ。心労で倒れられたらどうする」

「大丈夫だって! ばあちゃん、昨日なんか俺に『陽輝ちゃん、これ着てみないかい』って、自分の若い頃の着物、引っ張り出してきたし!」

「マジかよあのばあさん!」

 

どうやら、俺が知らないところで、祖母はこの異常事態を、最高に楽しんでいるらしい。たくましすぎるだろ、昭和一桁生まれは。

 

そんな俺たちの小声でのやり取りを聞いていた近所の婆さんが、「あらあら、静馬ちゃん。可愛いお孫さんがいたんだねぇ」などと、致命的な勘違いを口にしながら、店を出ていった。ちりん、とベルが鳴る。

 

「……見たか。全部てめえのせいだ」

「俺は悪くねえ! 俺に言わせりゃ、この見た目が罪なだけだ!」

「どの口が言ってやがる……」

 

俺は、大きく、深いため息をついた。

《久方ノ神》の事件から、数週間。

俺たちの日常は、こんな感じで、奇妙な平穏の中にあった。

監視者の視線は感じるものの、彼らが直接、実力行使に出てくる気配はない。おそらく、俺たちを、特に審神者の力を持つ俺を、どう扱うべきか、組織内で決めかねているのだろう。

そして、もう一つの懸念材料であった、怪異どもの襲来。

俺とハルキが放つ「甘い餌の香り」に引き寄せられていた低級な荒神たちは、実を言うと、ここ最近、その数をめっきり減らしていた。

 

理由は、簡単だ。

俺たちが、自主的に〝お掃除〟を始めたからである。

 

「なあ、シズマ。今夜あたり、どっかパトロール行かねえ?」

ハルキが、カウンターに身を乗り出し、まるでこれから遊びにでも行くかのように、目を輝かせながら言った。その仕草は、完全に少女のそれだが、言葉の端々に滲む、やんちゃな少年っぽさが、奇妙なアンバランスさを醸み出している。

このギャップに、未だに俺の心臓は慣れない。

 

「……却下だ。昨夜も行っただろうが。駅裏の、人が消えるっていう公衆トイレ」

「あれはノーカンだろ! ただの配管の故障じゃねえか! 俺のオカルトセンサーも、たまには間違うことだってある!」

「お前のセンサーは、ここ最近、三回連続で間違ってる。一昨日は『丑の刻参りの藁人形』じゃなくて、ただの小学生の夏休みの工作だったし、その前は『誰もいないはずの音楽室のピアノ』じゃなくて、普通に音楽教師の残業だった」

「うっ……。い、いや、でも、その前の『人を惑わす踏切の幽霊』は、マジモンだったじゃねえか!」

「まあな」

 

あれは、確かに本物だった。

踏切事故で亡くなった女性の地縛霊が、寂しさから、夜な夜な通行人の足を止めていただけの、哀れな怪異。

俺は、その女性の未練を聞き届け、簡単な鎮魂の儀式を行って、光へと還した。戦闘にもならない、本当に、ささやかな〝お掃除〟だった。

だが、あの時、地縛霊が消える間際に見せた、安らかな微笑みと、「ありがとう」という声にならない声は、確かに俺の心に、何かを残した。

面倒だ、という感情とは別に、審神者の力が、誰かの魂を救うこともあるのだと、実感させられた瞬間だった。

 

そう。俺たちは、夜な夜な、ハルキがネットや噂話で見つけてくる怪奇スポットへと繰り出し、そこに巣食う低級な怪異たちを、人知れず鎮めるという、奇妙な自警団活動のようなことを始めていたのだ。

もちろん、俺がそんな面倒なことを好き好んでやっているわけではない。

これには、二つの、極めて実利的な目的があった。

 

一つは、俺自身の、審神者としての能力の訓練。

《見鬼の眼》を、脳が焼き切れない範囲でコントロールする術。怪異の本質を、より速く、より正確に見抜くための洞察力。そして、最も重要な、言霊を、相手に届くように紡ぐための、精神力。これらは、実践の中でしか、磨くことはできない。

《久方ノ神》との一件で、俺は自分の無力さを、骨身に染みて理解した。もう二度と、あんな風に、大切なものを失いかける無力感は、味わいたくない。

 

そして、もう一つの目的。

それは、《b》ガス抜き《b》だ。

 

「いいか、ハルキ。俺たちが、こうやって、チンケな幽霊退治をして回ってるのはな。あくまで、俺たちの周りに、これ以上ヤバいのが寄り付かないようにするための、予防措置なんだ。分かるか? いわば、ゴキブリホイホイを、家の外に設置してるようなもんだ。決して、ヒーローごっこじゃねえ」

「分かってるって! でも、楽しいじゃんか! それに、少しは、誰かの役に立ってるってことだろ?」

ハルキは、少しだけ、唇を尖らせた。

「俺は、微塵も楽しくない」

俺は、ぶっきらぼうに答える。だが、ハルキの言うことも、分からないではなかった。

こいつは、根っからの、お人好しで、世話焼きなのだ。たとえ、相手がこの世の者でなくても、困っていると知れば、放ってはおけない。

その性分は、その身体が変わっても、何一つ、変わっていなかった。

 

俺たちが放つ「餌の香り」は、あまりにも強力すぎる。それを放置しておけば、いずれ、《久方ノ神》クラスか、それ以上の大物が引き寄せられてくるのは、目に見えていた。

だからこそ、その前に、自ら出向いて、街に澱む小さな「穢れ」を掃除し、霊的な環境をクリーンに保つ。そうすることで、大物の出現を、少しでも遅らせることができるのではないか。

それが、俺の立てた、苦肉の策だった。

 

───まあ、半分は、こいつの有り余る好奇心とエネルギーを、安全な形で発散させるための、苦紙紛れの口実なんだがな。

俺は、隣で「次は、絶対にデカいのを当てる!」と息巻いているトラブルメーカーを、じろり、と睨んだ。

こいつを、この家に閉じ込めておくだけの方が、よっぽど危険だ。いつ、一人で勝手に飛び出して、とんでもない厄ネタに首を突っ込むか、分かったものではない。

事実、先日も、俺が少し目を離した隙に、近所の「開かずの蔵」に忍び込もうとして、蔵の持ち主の爺さんに、本気で箒で追い回されていた。その時の、涙目で俺に助けを求める姿は、どんな男でも庇護欲をかき立てられるだろう光景だったが、事情を知っている俺からすれば、ただの自業自得だ。

ならば、俺の目の届く範囲で、適度にガス抜きをさせてやる方が、まだマシだ。

 

そんな、綱渡りのような、奇妙な平穏。

それが、俺たちの、新しい日常になっていた。

いつ、その綱が切れるか、分からない。

監視者の視線。ハルキの中に眠る《啼哭の花嫁》。そして、いつ現れるか分からない、新たな、強力な荒神。

爆弾を抱えたまま、それでも、俺たちは、日常を、続けていくしかなかった。

 

「───そうだ、シズマ。お腹すかねえ? なんか作ってくれよ」

緊張感の欠片もない言葉に、俺はこめかみが引き攣るのを感じた。

「お前なあ……。さっき、ばあちゃんの作ったおはぎ、三つも食ってただろ」

「あれは別腹! なんかさー、この身体になってから、やたらと甘いものが食いたくなるんだよな。これって、女の子ホルモンの影響か?」

「知るか。自分で作れ」

「えー! 前にやってみたら、炭の塊ができたじゃねえか! やっぱりシズマの作った、あの、ふわふわの卵焼きが食いたい!」

そう言って、ハルキは、俺の腕に、するり、と自分の腕を絡めてきた。

柔らかく、そして、ほのかに甘い香りのする肢体が、俺の体温を奪っていく。

毎晩、儀式のように繰り返される唇からの霊力供給とは、明らかに質の違う、不意打ちの、そして無防備な密着。それが、俺の中で懸命に保っていた「こいつは男の親友だ」という理性の壁を、いとも容易く揺らがした。

全てが始まってしまった、あの最初の夜の記憶が、不意にフラッシュバックする。

 

《b》「っ……! ば、馬鹿野郎! 気安く、ひっつくんじゃねえ!」《b》

 

俺は、悲鳴に近い声を上げ、勢いよくその腕を振り払った。

「いった! なんだよ、急に! ケチ!」

「け、ケチじゃねえ! 男同士で、気色悪いことしてんじゃねえ!」

「はあ? 俺、今、どう見ても美少女なんですけど?」

ハルキは、むっ、と頬を膨らませ、豊かとは言えない自分の胸を、わざとらしく張って見せた。そのスウェットパーカーの下で、確かに、少女としての柔らかな膨らみが、存在を主張している。

その、視覚情報と、俺の脳内にこびりついた「こいつは男だ」という認識との激しい衝突が、俺の思考回路をショートさせる。

 

「う、うるせえ! 中身は男だろうが! とにかく、俺に触るな!」

「ちぇー。シズマのケチ。ドケチ。朴念仁。毎晩やってることのくせに、今さら照れてんじゃねーよ」

「て、照れてねえ! これは儀式と不意打ちの違いの問題だ!」

 

俺のしどろもどろな反論に、ハルキはきょとんとした顔で、数回、ぱちぱちと瞬きをした後、何かを理解したように、にひひ、と悪戯っぽく笑った。その表情は、まだ少年だった頃の面影を、色濃く残している。

こんな調子だ。

平穏、とは言ったが、俺の精神は、一日たりとも、休まる暇がなかった。

 

そんな、気の抜けた、いや、俺の気だけが張り詰めきった、昼下がりだった。

 

ちりん、と。

その日、初めての、客を告げるベルの音が、やけに澄んだ響きで、店内にこだました。

俺とハルキは、弾かれたように、入り口の方を向く。

 

そこに立っていたのは、一人の、老人だった。

年は、七十を過ぎているだろうか。

背筋は、好々爺然として少し丸まっているが、その立ち姿には、どこか、鍛え上げられた武道家のような、揺るぎない芯のようなものが感じられる。

何より、目を引いたのは、その服装だった。

高価そうな、鈍い光沢を放つ、鼠色の紬(つむぎ)の袷(あわせ)。きちんと結ばれた角帯。足元は、磨き上げられた桐の下駄。

この、埃っぽい古書店には、あまりにも、場違いなほど、品の良い、上等な和装だった。

 

「……いらっしゃいませ」

俺は、カウンターから立ち上がり、警戒を最大限に滲ませながらも、営業用の声を張り上げた。

ハルキは、ただならぬ客の気配を察したのか、さっと身を隠すように、カウンターの陰に屈み込んだ。その動きは、野生の小動物のように、素早かった。

 

老人は、にこり、と穏やかな笑みを浮かべた。その顔に刻まれた深い皺が、人の好さを物語っているように見える。

だが、俺は、その笑顔の奥に隠された、底知れない何かを、感じ取っていた。

 

───なんだ、この爺さん。

《見鬼の眼》を使わずとも、分かる。

この老人の魂は、常人のそれとは、明らかに格が違う。

それは、向かいのビルから感じる、あの監視者のような、無機質で、管理された鋼の鋭さではない。もっと、深く、広く、そして、どこまでも凪いだ、古井戸の水面のような、静かな魂。

だが、その静けさの底には、俺のちっぽけな魂など、一瞬で呑み込んでしまいそうなほどの、途方もない霊力が、眠っている。

まるで、休火山だ。穏やかな山の姿をしているが、その地下深くでは、全てを焼き尽くすマグマが、静かに、その時を待っている。

 

敵意は、感じられない。

悪意も、ない。

だが、それゆえに、不気味だった。

 

老人は、店内にずらりと並んだ古書には、一切、目もくれなかった。

ただ、まっすぐに、カウンターに立つ俺だけを見つめている。

そして、その薄い唇を、ゆっくりと開いた。

 

《b》「……若君。少し、よろしいかな」《b》

 

その、呼び方に、俺の背筋を、冷たいものが走った。

若君。

それは、俺が、これまで、誰からも呼ばれたことのない、呼び名。

 

「……人違いでは? 俺は、ただの、この店の店番ですが」

俺は、とぼけてみせた。心臓が、警鐘のように、どく、どくと脈打っている。

老人は、俺のそんな見え透いた嘘を、楽しむかのように、目を細めた。

 

「ほう。これは、失礼仕った。……てっきり、この店のご当主かと、早とちりしてしまいましたわい」

その言葉は、敬語でありながら、明確な、こちらの正体を知っているという響きを、隠そうともしていなかった。

 

───こいつ、何者だ? 神祇庁の、監視者とは、明らかに気配が違う。だとしたら、一体……。別の派閥か? それとも、全くの、第三勢力か?

 

俺が、思考を巡らせ、言葉に詰まっていると、老人は、さらに、畳み掛けるように、言った。

その声は、先ほどまでの穏やかなものとは違う。

どこまでも、静かでありながら、有無を言わせぬ、重い響きを、帯びていた。

 

《b`》「して、若君。……近頃、この街が、ちいとばかし、騒がしいようでございますな」

 

「…………」

俺は、もう、何も答えられなかった。

ただ、目の前の、得体の知れない老人を、睨みつけることしか。

全身の毛が、逆立つような感覚。目の前にいるのは、紛れもなく、人間のはずなのに、まるで、古の神と対峙しているかのような、圧倒的な存在感があった。

 

老人は、続ける。

その言葉の一つ一つが、俺の、そして、カウンターの下で息を殺しているハルキの、心の臓を、冷たい手で鷲掴みにするかのようだった。

 

「なんでも、夜な夜な、街に巣食う〝穢れ〟を、人知れず掃き清めておられる、奇特な方がおられるとか。……まことに、頭の下がるお話でございます」

その、〝穢れ〟という単語。〝掃き清める〟という、表現。

それは、間違いなく、この世界の裏側の住人だけが使う、隠語。

この老人は、俺たちが、この数週間、何をしていたのか、完全に、把握しているのだ。

 

「……何が、言いたいんです」

俺は、絞り出すように、そう言った。

もう、とぼけていても、無駄だと悟ったからだ。

「我々は、ただ、静かに暮らしたいだけだ。誰の邪魔もしていない」

 

すると、老人は、それまでの底知れない雰囲気を、ふっ、と霧散させ、再び、人の好い笑顔に戻った。

そして、まるで、世間話でもするかのような、軽い口調で、こう言ったのだ。

その、言葉こそが、この男が俺に伝えに来た、たった一つの、本題だった。

 

「いえいえ、深い意味はございませんとも。ただの、老婆心でございますよ」《b》

 

老人は、店の入り口の方へ、ゆっくりと向き直る。

そして、去り際に、俺の方を振り返りもせず、ただ、ぽつり、と。

警告を、置いていった。

その声は、ひどく穏やかで、だからこそ、心の芯まで凍りつかせるような、冷たい響きを、持っていた。

 

「───若君。あまり、派手な〝お掃除〟は、お勧めいたしません。……あまり目立ちすぎると、何かと口うるさい、《b》お上のお役人様の、目に留まりますぞ。彼らは、秩序を、何よりも重んじますのでな。たとえ、それが、誰かの善意によるものであっても、規格外の力は、管理したがるものでございます」

 

その言葉を残し、老人は、静かに店を出ていった。

ちりん、と。

乾いたベルの音が、やけに大きく、静まり返った店内に、響き渡った。

 

後に残されたのは、俺と、カウンターの下から、恐る恐る顔を出したハルキと。

そして、あの老人が残していった、あまりにも不穏で、あまりにも、意味深な、警告だけだった。

 

「……おい、シズマ。今の、爺さん……」

ハルキが、青ざめた顔で、俺を見上げる。その美しい顔から、血の気が引いているのが、分かった。

俺は、何も答えられなかった。

ただ、老人が消えていった、磨りガラスの向こう側を、呆然と、見つめるだけだった。

 

お上のお役人様。規格外の力。管理。

その言葉の一つ一つが、俺の頭の中で、ジグソーパズルのピースのように、組み合わさっていく。

監視者の、あの鋼のような視線と、今の、老人の、底なし沼のような視線が、俺の中で、一つに繋がっていく。

神祇庁。

彼らは、俺たちを、ただ監視しているだけではない。

俺の、審神者としての力を、「管理」すべき対象として、値踏みしているのだ。

そして、今の老人は、その神祇庁とは、また別の立場から、俺たちに接触してきた。

警告という名の、牽制。

 

平穏は、やはり、薄氷の上に成り立っていたのだ。

そして、その氷に、今、間違いなく、最初の一本の亀裂が、入った。

 

「……面倒な、ことになってきたな」

俺は、誰に言うでもなく、呟いた。

「ああ……」

ハルキも、力なく頷く。

 

俺たちの、新しい日常は。

俺たちが思っていたよりも、ずっと速いスピードで、次の、より厄介なステージへと、その駒を、進めようとしていた。

俺は、これから始まるであろう、途方もない面倒ごとを思い、本日何度目か分からない、深いため息をつくしかなかった。

秋の陽光が、そんな俺たちの不安を、嘲笑うかのように、ただ、静かに、店内を照らしていた。

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