怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
あの、得体の知れない老人が古書店『天逆堂』を訪れてから、数時間が過ぎた。
店のシャッターをガラガラと下ろし、居住スペースへと戻っても、俺、識静馬(しき しずま)の頭の中には、あの男が残していった言葉の残響が、まるで古い鐘の音のように、いつまでも、いつまでも鳴り響いていた。
『───あまり、派手な〝お掃除〟は、お勧めいたしません。……何かと口うるさい、お上のお役人様の、目に留まりますぞ』
夕食の席についても、その重苦しい予感は晴れるどころか、より一層、鉛のように俺の胃にのしかかってくる。ちゃぶ台の上には、祖母が作ったのであろう、湯気の立つ肉じゃがと、ほうれん草のおひたし、そして白米が並んでいる。日本の家庭の、ありふれた、穏やかな食卓の風景。
だが、俺にはそのすべてが、嵐の前の静けさをことさらに強調するための、悪趣味な舞台装置のようにしか思えなかった。
「ん、んー! ばあちゃんの肉じゃが、やっぱ世界一だな! じゃがいもに味が染みまくってる!」
俺の向かい側。
そんな俺の心労など、この世のどんな現象よりもどうでもいいとでも言うように、一人の絶世の美少女が、茶碗を片手に、凄まじい勢いで肉じゃがをかき込んでいた。
濡れたような艶のある、腰まで届く長い黒髪。それを、邪魔にならないように、器用にも箸一本でくるりとまとめ上げている。白い肌、大きな瞳。その完璧な造形と、行儀など欠片も気にしないその食べっぷりのギャップが、もはや芸術の域に達していた。
「……ハルキ。口の中にもの入れたまま喋んな。あと、箸の持ち方がなってない。それじゃ、じゃがいもがいつかお前の喉に詰まって死ぬぞ」
「ぶっ!? ごほっ、ごほっ! なんだよシズマ、いきなり縁起でもねえこと言うな!」
俺の指摘通り、慌てた拍子にハルキ──日野陽輝(ひの はるき)は、口に含んでいたじゃがいもを喉に詰らせかけたらしい。涙目で胸を叩き、お茶で無理やり流し込んでいる。その姿は、傍から見れば、ただのドジな少女にしか見えない。中身が、どうしようもない十九歳の男子大学生でなければ。
───いや、死んだら死んだで、ある意味、俺の平穏は戻ってくるのかもしれん。こいつを乗っ取ってる《啼哭の花嫁》も、宿主を失えば、またどこぞの祠にでもお帰り願えるだろう。……いや、ダメだ。そんなことになったら、俺の寝覚めが悪すぎる。それに、あの世で親父に会った時、なんて言い訳すればいいんだ。「お前の息子、親友一人も見殺しにする甲斐性なしでした」とでも報告しろってのか。冗談じゃない。
「……何、一人でブツブツ言ってんだよ。気味悪いな」
「うるせえ。てめえの未来の死因について、考察してやってたんだ」
「余計なお世話だ!」
ぎゃいぎゃいと、いつも通りのやり取り。
だが、俺の意識は、その半分以上が、別の場所にあった。
お上のお役人様───神祇庁。
あの老人の言葉と、数週間前から続く監視者の気配が、俺の中で一つの、明確な像を結びつつある。
奴らは、俺たちのことを、ただ見ているだけではない。値踏みしているのだ。俺が持つ【審神者】の力を、自分たちの「秩序」にとって、有益なものか、あるいは、排除すべき異物なのかを。
そして、あの老人は、そのどちらでもない、第三の勢力からの警告。
俺とハルキは、自分たちが思っていた以上に、厄介で、巨大な渦の中心に、足を踏み入れてしまっている。
「……ごちそうさま」
結局、肉じゃがは半分も喉を通らなかった。
俺は箸を置くと、自分の食器を持って、台所へと向かう。背後から、ハルキの「え、もう終わり? シズマ、小食すぎだろ。女の子かよ」という、致命的なまでに無神経な声が聞こえてきたが、今はそれにツッコむ気力さえもなかった。
お前が言うな、という言葉を、俺は冷たい水と共に、無理やり腹の底へと飲み込んだ。
◇◆◇
食後の片付けを終え、俺が古書の整理でもして気を紛らわそうかと考えていた、その時だった。
居間で、ゴロゴロと畳の上を転がりながら、スマホをいじっていたハルキが、不意に、ガバッと上半身を起こした。
その顔には、獲物を見つけた肉食獣のような、あるいは、発売日を待ちわびたゲームの新作を発見したオタクのような、とにかく、面倒ごと以外の何物でもない匂いを放つ、爛々とした輝きが宿っていた。
───出た。
俺の第六感が、けたたましい警報を鳴らす。
トラブルメーカーの、トラブルの匂いを嗅ぎつける、超高性能センサー。
今すぐこの場から逃げ出せ、と本能が叫んでいた。
「シズマ──ーッ!!」
だが、俺の逃走本能よりも早く、ハルキの、やけに弾んだ声が俺の名を呼んだ。
時すでに遅し。
ハルキは、スマホを片手に、ハイエナのような速度で俺に駆け寄ると、その画面を、俺の目の前に、これでもかと突きつけてきた。
「見ろよコレ! 超、ヤバいネタ見つけちまった!」
「……見ん。興味ない。却下だ」
「まあまあ、そう言わずに! 今回のは、マジで、これまでとはレベルが違うぜ!?」
俺の、即座の拒絶反応など、ハルキの前では豆腐のように脆い。彼は、俺の肩をがっしりと掴むと(その見た目に似合わぬ強引さは、昔のままだった)、強制的にスマホの画面を視界にねじ込んできた。
表示されていたのは、いかにもなデザインの、オカルト系まとめサイトの記事だった。
そのタイトルに、俺は思わず眉をひそめる。
【閲覧注意】マジでヤバい心霊スポット『鳴神トンネル』…そこで聞こえる“女の声”の正体とは?
「……また、トンネルか。芸がねえな」
「いや、普通のトンネルじゃねえんだって! ほら、この記事読めよ!」
ハルキが指し示す記事の内容は、確かに、これまで俺たちが手を出してきたチンケな怪奇現象とは、一線を画す悪質さを、これでもかと煮詰めたような代物だった。
場所は、市街地から車で三十分ほど離れた、旧国道沿いの山中にある、今はもう使われていない古いトンネル。通称、『鳴神(なるかみ)トンネル』。
噂の発端は、数ヶ月前。肝試しに訪れた大学生グループが、面白半分に撮影した動画が、SNSに投稿されたことだった。
その動画には、不気味なほど静まり返ったトンネル内部で、どこからともなく、女の、すすり泣くような声が聞こえてくる様子が、はっきりと記録されていたという。
それだけなら、よくある話だ。
だが、このトンネルの本当の恐怖は、そこからだった。
『……動画がバズった後、面白がってトンネルを訪れる奴らが続出したんだ。で、目撃証言が、どんどんヤバくなってきてる』
ハルキが、記事を読み上げながら、興奮を隠しきれない様子で唾を飛ばす。
「まず、定番の『女のすすり泣く声』。これは、深夜零時を過ぎると、ほぼ百パーセント聞こえるらしい。しかも、それは反響とかじゃなくて、まるで耳元で囁かれているかのように、生々しく聞こえるんだと」
「……」
「次に、『壁から染み出す、謎の液体』。トンネルの、ちょうど中央あたりの壁から、水じゃない、何か、生温かくて、鉄錆のような匂いのする、赤い液体が、じわじわと染み出してくるらしい。触った奴によると、まるで人間の血みたいだったって……」
───ありがちだが、悪趣味な演出だ。だが、荒神が自らの領域『常世(とこよ)』を形成する際、その土地に染み付いた記憶や伝承を元に、こういう現象を引き起こすことは、確かにある。
「で、極めつけがこれだ」
ハルキは、ごくり、と喉を鳴らした。その瞳は、もはや恐怖よりも、純粋な好奇心で、ダイヤモンドのように輝いている。
「『血塗れの車』。トンネルを車で通り抜けた奴らの証言だ。トンネルに入る前は、何ともなかったはずの車が、出口から出た時には、まるで事故を起こしたみたいに、ボンネットやフロントガラスが、べったりと、赤い手形や、血のような液体で汚されていた、っていうのが、何件も報告されてる。もちろん、車の中には、運転手以外、誰も乗ってないのに、だ」
記事には、証拠として、数枚の写真が添付されていた。
夜の闇の中、ヘッドライトに照らし出された、白いワンボックスカー。そのフロント部分に、べったりと、無数の、赤黒い手形が、まるで助けを求めるように張り付いている。およそ、悪戯で片付けられるレベルのものではなかった。
「……どう思うよ、シズマ?」
ハルキが、俺の顔を覗き込んでくる。
俺は、大きく、深いため息をついた。
どう思うも、こう思うもない。
「……クロだな」
「だよな!?」
「それも、相当に厄介で、悪質な部類だ。これまでの、寂しがり屋の神様や、踏切の地縛霊みてえな、話せば分かる相手じゃねえかもしれん」
壁から血が染み出す、という現象。
それは、その土地が、かつて多くの血を吸った場所であることの証左だ。トンネル工事の際の事故か、あるいは、もっと別の、陰惨な事件か。いずれにせよ、この荒神は、人間の「死」と「無念」を、その力の源泉としている可能性が高い。
そういうタイプの荒神は、対話よりも、捕食と破壊を優先する傾向にある。
「……で?」
俺は、じろり、とハルキを睨んだ。
「その、最高に厄介で、悪趣味で、俺たちの手に余るかもしれねえ場所に、まさかとは思うが、『行こう』なんて、言わねえだろうな?」
俺の、その牽制球。
それを、ハルキは、満面の笑みで、フルスイングのホームランにして返しやがった。
「当たり前じゃんか! こんな、一級品の厄ネタ、見逃す手はねえだろ!」
その、あまりにもあっけらかんとした、ポジティブすぎる返答に、俺の脳の血管が、数本、音を立てて切れたのが分かった。
───こいつ、本当に、分かってんのか!? 《久方ノ神》の時とは、ワケが違うかもしれねえんだぞ!? 下手をすれば、俺たち二人、揃ってあの世行きだ! なのに、なんでそんな、期間限定の激レアスイーツでも見つけたかのような顔をしてやがるんだ! お前の頭の中は、お花畑か! それとも、スクラップ工場か!
「却下だ」
俺は、即答した。
有無を言わせぬ、絶対零度の声で。
「断固として、却下だ。行かん。絶対にだ」
「なんでだよ!」
ハルキが、食い下がる。
「理由は、三つある」
俺は、人差し指を立てた。
「一つ。相手が、俺たちの手に負えるレベルかどうか、現時点では判断できない。無策で突っ込むのは、ただの自殺行為だ」
俺は、次に中指を立てる。
「二つ。あの老人の警告だ。『あまり目立つな』と言われた、その舌の根も乾かぬうちに、こんな派手な事件に首を突っ込んでみろ。神祇庁の連中が、どう動くか分かったもんじゃない」
そして、最後に、薬指を立てた。
「そして、三つ。……面倒くさい」
「最後のだけ、本音だろ!」
ハルキの的確なツッコミが、静かな居間に木霊した。
だが、俺の決意は、固かった。そうだ、面倒なのだ。心の底から、面倒くさい。俺はもう、これ以上の厄介事を、自ら背負い込むのは、ごめんだった。
「いいか、ハルキ。俺たちの最優先事項は、なんだ?」
俺は、諭すように言った。
「お前の身体を、人間に戻すこと。その方法を探すことだ。街の平和を守る、なんてのは、その次、いや、百番目くらいの話だ。優先順位を、間違えるな」
それは、完璧な正論だった。
ぐうの音も出ないほどの、完璧な。
ハルキも、さすがにその言葉には反論できないのか、ぐっと唇を噛み締め、悔しそうに俯いた。
(……よし。これで、諦めるだろ)
俺は、内心で、安堵のため息をついた。
これでいい。これが、正しい判断だ。
俺たちは今、自分たちの身を守ることだけを、考えるべきなのだから。
そう、俺が、この議論の勝利を確信した、その時だった。
俯いていたハルキが、ぽつり、と。
消え入りそうな、しかし、俺の心を的確に抉る、最強のカウンターを、放ってきたのだ。
「……でもさ」
ハルキは、顔を上げないまま、言った。
その声は、震えていた。
「もし、このまま、あのトンネルを放置して……。誰か、死んだら、どうすんだよ」
「…………ッ!」
息が、詰まった。
心臓を、冷たい手で、鷲掴みにされたかのような、衝撃。
「俺たちが、この噂を知ってて、何もしなかったせいで……。面白半分で肝試しに行った、誰かが、あの赤い液体に、なっちまったら……」
ハルキは、ゆっくりと顔を上げた。
その、大きな瞳は、潤んでいた。
そこには、好奇心の色は、もうなかった。
ただ、純粋な、あまりにも真っ直ぐな、正義感と、そして、他人の痛みを、我がことのように感じる、優しさだけが、宿っていた。
「シズマは、それでも、平気なのかよ」
その、問い。
それは、俺が、自分自身に、ずっと問い続けてきた問い、そのものだった。
面倒くさい、と言いながら。
危険だ、と言いながら。
それでも、この数週間、チンケな幽霊退治を続けてきた、その理由。
───見て見ぬふりが、できないのだ。
困っている誰かを、それがたとえ、この世の者でなくても、放置することが、できないのだ。
その、甘っちょろくて、非効率で、どうしようもなくお人好しな性分が、俺の、そして、おそらくはハルキの、根っこの部分に、深く、深く、根を張ってしまっている。
「…………」
俺は、もう、何も言えなかった。
ハルキの、その、あまりにも真っ直ぐな瞳から、逃げるように、顔を逸らす。
ちくしょう。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!
───なんで、そんな目で、俺を見るんだよ、馬鹿野郎!
───そんなこと言われたら、俺が、行かないわけには、いかなくなるだろうが!
───てめえは、いつだってそうだ! 俺の、固く閉ざした心の扉を、いつも、いつも、その土足で、遠慮なく、こじ開けてきやがる!
「……はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~……」
俺の口から、もはや、ため息という概念そのものを具現化したかのような、長くて、深くて、重い息が、漏れ出た。
それを聞いたハルキの顔が、ぱあっと、暗闇に差した一筋の光を見つけたかのように、輝いた。
「……シズマ?」
「……うるせえ」
俺は、吐き捨てるように、言った。
そして、ガシガシと、頭を、犬みたいに、乱暴にかきむしる。
「……おい、ハルキ」
「なんだよ、シズマ!」
「……俺が行かなかったら、お前、どうせ、一人で行く気だったんだろ」
俺の、確信に満ちた問いに。
ハルキは、一瞬、きょとんとした顔をした後。
悪戯がバレた子供のように、てへ、と舌を出して、笑った。
「……当たり前じゃん?」
その、一言。
それが、すべての答えだった。
俺の脳内で、最後の最後まで抵抗を続けていた、理性と、自己保身と、面倒くさがり精神の連合軍が、その一言の前に、完全な敗北を喫した。
───ああ、そうかよ。
───知ってたよ、畜生。
───お前が、そういう奴だってことくらい、十九年も前から、とっくに、知ってたよ。
俺は、天を仰いだ。 居間の、染みの浮いた天井が、なぜか、ひどく、憎たらしく見えた。
俺は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、立ち上がった。
そして、クローゼットが置かれた、自分の部屋へと、重い、重い、敗残兵のような足取りで、向かい始めた。
「……おい、シズマ! どこ行くんだよ!」
背後から、ハルキの、期待に満ちた声が、追いかけてくる。
俺は、振り返りもせず、ただ、吐き捨てるように、言った。
その声には、諦めと、呆れと、そして、ほんの少しの、どうしようもない親愛の情が、ごちゃ混ぜになって、滲んでいた。
「……準備だよ、馬鹿」
懐中電灯と、護符と、清めの塩。
それから、念のために、あの世の住人とも渡り合える、俺特製の、超高純度の霊力を込めた、水筒入りの聖水を。
「どうせ、俺が行かなきゃ、お前、もっと最悪の事態を、招くに決まってってるからな……!」
俺の、その、負け惜しみにしか聞こえない捨て台詞を、ハルキは、きっと、完璧に、翻訳してくれていることだろう。
『心配だから、一緒に行ってやるよ、相棒』、と。
居間からは、「っしゃあ!」という、その可憐な見た目からは想像もつかない、あまりにも雄々しすぎる勝利の雄叫びが、聞こえてきた。
俺は、聞こえないふりをした。
これから始まる、最高に面倒で、最高に危険な夜のドライブ。
その行き先は、地獄か、あるいは。
俺は、ただ、頭を振って、目の前の厄介な現実と、そして、どうしようもなく手が掛かる、この相棒と、向き合う覚悟を、決めるしかなかった。
秋の夜は、まだ、始まったばかりだった。