怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
夜の闇は、街の光が届かない山道において、その純度を増す。
俺、識静馬(しき しずま)の跨る、古びたバイクのヘッドライトだけが、まるで頼りない一本の剣のように、前方の暗闇を切り裂いていた。背後からは、しがみつくように俺の腰に腕を回す、華奢な身体の感触と、シャンプーの甘い香りが伝わってくる。その、あまりにも場違いな状況に、俺の精神はとうの昔に思考を放棄していた。
「うひょー! シズマ、飛ばせ飛ばせ! 風が気持ちいーぜ!」
俺の後部座席で、ヘルメット越しにも分かるほど興奮した声を上げているのは、もちろん日野陽輝(ひの はるき)。絶世の美少女の皮を被った、俺の唯一無二の親友であり、そして、これから向かう地獄への案内人(トラブルメーカー)だ。
「……うるせえ。振り落とされたいのか」
「えー、でもこのスリルがたまんねえじゃんか! なんか、こう、二人で夜の闇に駆け出していく感じ! 青春って感じしねえ!?」
「俺たちの行き先は、甘酸っぱい青春の1ページじゃなくて、陰惨な怪奇事件の現場だ。履き違えるな」
───青春だと!? どの口が言ってやがるんだ、この万年発情期のサルが! こっちは、てめえのその軽すぎる体重のせいで、バイクのバランスを取るのに神経すり減らしてんだぞ! それに、なんだその腰に回す腕の力は! 妙に密着度が高いだろうが! これがもし普通の男女なら、ただのリア充爆発しろ案件だが、俺たちの場合は中身が男同士という、地獄の煮凝りみたいな状況なんだぞ! 少しは自重しろ!
俺の内心の絶叫も、唸りを上げる旧式のエンジン音と、背後からの呑気な鼻歌にかき消されていく。
市街地の喧騒は、とうの昔に背後の闇へと溶け落ちていた。ハンドルのスマホホルダーに表示されたナビアプリが示すルートは、アスファルトの舗装も途切れ途切れの、寂れた旧国道。ガードレールの向こうは、木々が鬱蒼と生い茂る、底の見えない崖だ。
空気が、変わった。
山道に差し掛かってから、明らかに。
ひんやりと、肌にまとわりつくような湿気。それは、ただの山の夜気とは違う。もっと粘り気のある、澱んだ何かが、空気中に飽和しているのだ。
「……おい、シズマ」
それまで呑気にはしゃいでいたハルキの声のトーンが、わずかに低くなった。
「なんか、この辺、空気まずくねえか?」
「……ああ。とっくに気づいてる」
半人半怪異と化したハルキの霊的センサーは、俺の想像以上に鋭敏になっているらしい。
この空気は、俺たちがこの数週間で〝お掃除〟してきた、チンケな地縛霊や低級な怪異が放つものとは、明らかに密度が違う。
例えるなら、古い井戸の底に溜まった、淀んだ水の匂い。
死と、腐敗と、そして、忘れ去られたものの怨念が、長い年月をかけて発酵したかのような、魂に直接まとわりつく、不快な匂い。
───クソッ、あのオカルトサイトの記事、誇張じゃなかったってわけか。
俺は、バイクのスロットルを少しだけ緩め、より一層、警戒を強めた。
あの品の良い老人の顔が、脳裏をよぎる。
『あまり、派手な〝お掃除〟は、お勧めいたしません』
その警告が、今になって、じわじわと現実味を帯びてきた。俺たちは、自分たちが思っている以上に、厄介な領域に足を踏み入れようとしているのかもしれない。
どれくらい、そうして闇の中を走り続けただろうか。
やがて、カーナビの画面が、目的地への到着を告げた。
俺は、古びたバイクを路肩に停め、エンジンを切る。瞬間、世界から音が消えた。後に残されたのは、風が木々の葉を揺らす音と、どこか遠くで鳴く、夜鳥の不気味な声だけ。
そして、目の前には。
闇の中に、巨大な口をぽっかりと開けたかのように、それは、あった。
「……ここが、『鳴神(なるかみ)トンネル』……」
ハルキが、息を呑むのが分かった。
蔦に覆われた、古びたコンクリートの塊。トンネルの入り口は、半円形の、まるで巨大な墓標のようだ。扁額(へんがく)には、かろうじて『鳴神隧道』という文字が読み取れるが、そのほとんどは苔と汚れに覆われている。入り口の前には、色褪せた『立入禁止』の看板と、申し訳程度の単管バリケードが置かれているだけ。
だが、そんな物理的な威圧感など、どうでもよかった。
問題は、その、ぽっかりと開いた暗闇の奥から、絶え間なく溢れ出してきている、霊的な瘴気だ。
それは、もはや「気配」などという生易しいものではない。
明確な、悪意と怨念の塊。
まるで、トンネルそのものが、巨大な一つの生命体として、ゆっくりと呼吸しているかのようだ。
吐き出す息は、死者の無念。
吸い込む息は、生者の恐怖。
その瘴気に当てられて、周囲の木々は、まるで栄養を吸い取られたかのように、醜くねじ曲がり、枯れ果てていた。
「うひょー……」
俺の隣で、ヘルメットを脱いだハルキが、感嘆と恐怖が入り混じったような、間の抜けた声を上げた。
「これだよこれ! 見ろよシズマ、このオーラ! 間違いなく一級品の心霊スポットじゃねえか!」
その絶世の美貌に、満面の笑みを浮かべて。
その瞳は、これから始まる恐怖体験への期待で、星のようにきらきらと輝いている。
───こいつ、マジで、大物だな……。色んな意味で。
俺は、この期に及んでもブレることのない相棒の鋼のメンタルに、もはや尊敬の念さえ抱き始めていた。
俺は、バイクのキーを抜くと、ジャケットの内ポケットに手を突っ込み、護符の感触を確かめる。そして、意識を集中させ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
───《見鬼の眼(けんきのがん)》、限定解放。
カッ、と、瞳の奥に淡い金色の紋様が浮かび上がる。脳を針で刺すような、慣れた痛みが走る。
瞬間、俺の世界から色彩が剥れ落ち、万物が持つ魂の輪郭と、霊的な本質だけが浮かび上がった。
「…………ッ!」
思わず、息を呑む。
目の前のトンネルから溢れ出している瘴気は、俺が視てきた中でも、群を抜いておぞましいものだった。
それは、ただの一つの怨念ではない。
何十、いや、何百という、無数の、人間の苦痛と絶望が、まるでコールタールのようにどろどろに混ざり合い、一つの巨大な集合体と化した、呪いの奔流。
その奔流の中心、トンネルの奥深くに、ひときわ大きく、そして昏い、霊的な核のようなものが視える。
あれが、本体か。
「……ハルキ、気をつけろ」
俺は、《見鬼の眼》を閉じて、走り出した頭痛をこめかみを押さえてこらえながら、低い声で言った。
「こいつは、ただの地縛霊の集まりじゃねえ。もっと強い、明確な意志を持った〝何か〟が、この土地に根付いちまってる」
「おうよ。望むところだぜ」
ハルキは、こきり、と楽しげに首の骨を鳴らした。
俺たちは、単管バリケードを軽々と跨ぐと、いよいよ、その呪われた領域へと、足を踏み入れた。
トンネルの入り口に立った瞬間、ひやり、と外気とは明らかに質の違う、氷のような冷気が、俺たちの身体を撫でつけた。
闇の奥から、微かに、本当に微かに、女の、すすり泣くような声が聞こえてくるような気がした。
───クソッ、やっぱり、気分が悪い。
俺は、唾を飲み込んだ。
行くしかない。
俺たちが、この事実を知ってしまった以上、もう、引き返すという選択肢は、なかったのだから。
「行くぞ、ハルキ」
「おう!」
俺たちが、覚悟を決めて、その暗黒の口の中へと、第一歩を踏み出そうとした。
まさに、その瞬間だった。
「───そこまでです」
しん、と静まり返った山中に、凛、と。
鈴を振るような、涼やかで、それでいて、どこまでも冷たい、鋼のような響きを持った、女の声が、響き渡った。
それは、俺たち以外の、第三者の声だった。
「……ッ!?」
俺とハルキは、弾かれたように、その声がした背後を、同時に振り返った。
誰も、いなかったはずだ。
俺の霊的探知も、ハルキの野生の勘も、俺たち以外の人間、あるいは怪異の気配など、微塵も捉えてはいなかった。
だというのに。
いつの間に。
どうやって。
俺たちがバイクを停めた、その路肩。
月明かりが、雲間から差し込み、まるでスポットライトのように、その場所を照らし出していた。
そこに、一人の少女が、音もなく、佇んでいた。
息を、呑んだ。
それは、ハルキが持つ、人工的で、どこか儚げな美しさとは、また質の違う、完璧な美しさだった。
凛、とした気品。
研ぎ澄まされた、刃のような鋭さ。
そして、一切の穢れを許さない、絶対的なまでの、清浄さ。
切り揃えられた、黒髪のボブカットが、夜風に微かに揺れている。
切れ長の、涼やかな瞳が、感情の色を一切浮かべずに、まっすぐに俺たちを射抜いている。
肌は、月光を反射して、白磁のように滑らかに輝いていた。
そして、何よりも、その服装。
それは、神社の巫女が纏う、白い小袖と緋色の袴。その伝統的な装束を、まるで未来の戦闘服か何かのように、スタイリッシュで、機能的にリデザインしたものだった。生地には、肉眼では見えないほどの、微細な術式が銀糸で織り込まれているのが、俺の《見鬼の眼》には視える。
両手には、これもまた、穢れを嫌うかのように、純白の手袋を嵌めている。
───なんだ、こいつは。
コスプレイヤーか?
いや、違う。
この、全身から放たれる、尋常ならざる霊的な圧力。
それは、あの監視者の二人と同質。いや、それ以上に、純粋で、研ぎ澄まされている。
管理され、訓練され、ただ一つの目的のために最適化された、鋼の魂。
俺が、その正体に思い至り、全身を強張らせた、その時。
少女が、再び、その薄い唇を開いた。
その声は、まるで機械が文章を読み上げるかのように、平坦で、感情がなかった。
「警告は、一度だけです。そこから先は、我が《神祇庁》の管轄領域となります」
やはり、か。
俺は、奥歯を、強く噛み締めた。
神祇庁。
あの老人が口にした、お上のお役人様。
俺たちを監視していた、見えざる敵。
その〝本体〟が、ついに、俺たちの前に、その姿を現したのだ。
少女は、続ける。
その怜悧な瞳は、まず、俺を値踏みするように一瞥し、次に、隣に立つハルキの姿を捉えた瞬間、わずかに、本当に、コンマ数ミリほど、細められた。
「未登録の術者、及び、その同伴する霊的汚染源。あなた方の違法な霊的活動は、これより、神祇庁が定める『特殊祭祀法』に基づき、その行動を制限します」
霊的汚染源。
その、あまりにも無機質で、侮蔑に満ちた言葉に、ハルキの肩が、ぴくり、と震えたのが分かった。
隣に立つ親友の、その美しい顔から、血の気が引いていくのが、痛いほど伝わってくる。
俺は、ハルキの震える肩を、無言で、ぐっと掴んだ。大丈夫だ、と、言葉にならない想いを込めて。
だが、少女は、そんな俺たちの感情の揺らぎなど、意にも介さない。
「速やかに、その場を立ち去りなさい。これは、警告です。……そして、最後の、慈悲でもあります」
その、どこまでも上から目線の、一方的な通告。
それは、俺の中で、かろうじて保たれていた理性の糸を、いとも容易く、ぷつり、と断ち切るには、十分すぎた。
「……おい」
俺は、低い、地の底から絞り出すような声で、言った。
「てめえ、何様のつもりだ」
俺の、明確な敵意を含んだ言葉に、少女の眉が、初めて、わずかに動いた。
不快、と、その表情が、雄弁に物語っていた。
「私は、神祇庁・特殊祭祀対策課、第壱係所属。橘 桔梗(たちばな ききょう)。国家公務員です」
彼女は、淀みなく、自らの所属と名を名乗った。その声には、エリートだけが持つ、絶対的な自負と、揺ぎない自信が、満ち溢れていた。
そして、その手には、いつの間にか、一本の、金属製の御幣(ごへい)が握られていた。
それは、神事に使われる、伝統的な祭具の形をしていながら、その素材は、鈍い光を放つ、未知の合金で作られていた。まるで、SF映画に出てくる、近未来の武器のようだ。
紙垂(しで)の部分も、和紙ではなく、何か特殊な、霊力を帯びた繊維でできている。
「あなた方のような、古の因習にすがるだけの、管理されていない〝力〟こそが、この世界の秩序を乱す、最大の害悪。……我々は、それを正すために、ここにいる」
橘桔梗と名乗った少女は、静かに、しかし、有無を言わせぬ響きで、そう、宣告した。
その言葉は、俺の、そして、俺たち一族が背負ってきた全てを、真っ向から否定するものだった。
俺たちの力は、害悪だと?
秩序を乱す、だと?
ふざけるな。
「……秩序、ね」
俺は、鼻で笑った。
「その秩序とやらは、一体、誰のためのもんだ? あのトンネルの中から、声が聞こえねえのか? 泣いてるんだよ。助けてくれって、叫んでるんだ。それを見殺しにするのが、てめえらの言う『秩序』ってやつか!」
「……感傷ですか」
橘は、俺の激情を、まるで冷たい水で洗い流すかのように、一言で切り捨てた。
「個人の、未熟で、制御不能な感傷こそが、これまで幾度となく、より大きな災禍を招いてきました。我々は、感情ではなく、法と規定に従い、霊的災害の拡大を未然に防ぐ。それが、我々の職務であり、正義です」
「法だあ? 正義だあ? ヘドが出るな」
俺は、ジャケットの内ポケットから、数枚の護符を抜き出し、指に挟んだ。
「てめえらにとっちゃ、あの声は、ただの『霊的災害』の兆候に過ぎねえんだろうがな。俺にとっちゃ、違う。ただの、助けを求める、か細い声だ。それを見捨てて帰るほど、俺は、人間を辞めちゃいねえんだよ」
「……シズマ……」
隣で、ハルキが、不安そうな、それでいて、どこか誇らしげな、複雑な表情で俺を見上げていた。
その視線が、俺の決意を、さらに固くさせる。
そうだ。
俺は、もう、逃げないと決めたんだ。
この力から。
目の前で苦しんでいる誰かから。
そして、この、面倒くさい親友から。
「問答は、無用のようですね」
そう呟いた白装束の女は、次の瞬間、掻き消えるようにその姿をくらませた。
「……ッ!?」
速い、とか、そういう次元じゃない。
まるで、最初からそこにいなかったかのように、気配ごと、完全に消失した。
だが、俺の《見鬼の眼》は、見逃さなかった。
空気中に走る、霊力の、微細な流れの乱れを。
「ハルキ、伏せろ!」
俺は、叫ぶと同時に、ハルキの身体を突き飛ばし、自らも地面を転がった。
直後。
俺たちがさっきまで立っていた場所に、ゴウッ、という、空気を切り裂く音と共に、不可視の衝撃波が叩きつけられた。
アスファルトが、まるで巨大なハンマーで殴られたかのように、蜘蛛の巣状に砕け散る。
「……ちっ!」
俺は、舌打ちしながら、体勢を立て直した。
いつの間にか、俺たちの背後、トンネルの入り口を塞ぐように、あの女は音もなく立っていた。
その手に持つ金属製の御幣が、淡い光を帯びて、微かに振動している。
「ハルキ、大丈夫か!」
目の前の女から視線を外さずに、背後の親友に声をかける。
「あの時みたいに、やれるか!?」
ヒサカタノカミと対峙した時の、あの人間離れした力を引き出せれば、こいつ相手でも、活路はあるはずだ。
だが。
返ってきたのは、俺の期待とは、あまりにもかけ離れた、か細い声だった。
「……シズマ……」
その声は、明らかに、おかしい。震えていて、混乱している。
俺が訝しんで、ちらり、とハルキに視線を向けると、彼は、自分の両手を、信じられないものを見るかのように、見つめていた。
「どうした!?」
「……力、が……」
ハルキは、青ざめた顔で、絶望を滲ませた声で、言った。
「……全然、出てこねえ……!」
───なんだと……!?
どういうことだ。あの力は、危機的な状況で、自動的に発動するもんじゃなかったのか?
俺の思考が、一瞬、停止する。
だが、目の前の白装束の執行官は、俺たちの内情など、お構いなしだ。
「……今のは、なんだ」
俺は、動揺を悟られまいと、目の前の女に問いかける。
「《祓戸(はらえど)ノ神気(しんき)》……第一励起」
彼女は、淡々と、その術の名を口にした。
「神祇庁が開発した、霊的エネルギーの指向性解放システムです。あなた方が使うような、原始的な呪符とは、効率も、威力も、次元が違います」
その瞳には、侮蔑の色さえ浮かんでいた。
まるで、最新鋭の戦闘機が、竹槍で戦おうとする原始人を見るかのような、絶対的な優位者の、冷酷な視線。
クソッ、こうなったら、俺一人で、時間を稼ぐしかねえ!
ハルキが立て直すまでの、時間を!
「……なるほどな」
俺は、口の端に浮かんだ血を、親指で拭った。
「効率ねえ。確かに、威力はたいしたもんだ。だがな、お嬢ちゃん。忘れちまったのか? 俺たちの商売は、効率や威力だけで、どうにかなるほど、単純じゃねえんだよ」
俺は、指に挟んだ護符の一枚を、素早く地面に叩きつけた。
印を結び、短く、祝詞を唱える。
「───疾ッ!」
瞬間、護符が閃光を発し、地面に描かれた術式から、土と石くれが意思を持ったかのように隆起し、巨大な壁となって、橘の前に立ち塞がった。
土公神(どくじん)の障壁。簡易的な、防御呪法だ。
「……小細工を」
橘は、表情一つ変えず、再び、金属の御幣を振るった。
ゴウッ!
先ほどと同じ、不可視の衝撃波。
土の壁は、まるでビスケットのように、いとも容易く粉砕された。
だが、それでいい。
時間稼ぎには、十分だ。
俺は、障壁が砕け散る、その一瞬の隙を突いて、懐から取り出した、もう一枚の護符を、空中に放っていた。
「散れ!」
パンッ、と乾いた音を立てて、護符が空中で炸裂する。
中から現れたのは、無数の、小さな紙の人形(ひとかた)。
それらは、まるで生きているかのように、一斉に橘に向かって、襲いかかった。
式神の群れだ。
「……!」
さすがの橘も、その光景には、わずかに目を見開いた。
彼女は、次々と襲い来る式神を、御幣を薙ぎ払い、衝撃波で吹き飛ばしていく。
だが、数が多すぎる。
一体を吹き飛ばしても、次の一体が、その身体にまとわりつき、動きを封じようとする。
その激しい攻防の渦中で、俺は後方に立つ親友の存在を気にかけていた。
ハルキは、ただ、息を呑んで、その光景を見つめているだけだった。
◇ ◆ ◇
その頃、日野陽輝は、燃え上がるような焦燥感と、冷たい絶望の狭間で、焼かれていた。
───なんでだよ……!
シズマの言う通りだった。
ヒサカタノカミと戦った時みたいに。
また、命の危険が迫れば、あの、得体のしれない力が、内側から勝手に溢れ出してきてくれるはずだ。
心のどこかで、そんな甘い、楽観的な考えをしていた。
だが、現実は違った。
橘の攻撃は、すべてシズマに向けられている。俺自身に、直接的な危険が迫っているわけではないからか、身体の奥底でとぐろを巻く〝何か〟は、沈黙を保ったままだ。
自分の意志では、あの力を、指一本、動かすことすらできない。
───見ているだけかよ、俺は!
───シズマが、あんなに頑張ってるのに!
悔しい。
情けない。
自分の甘さが、腹立たしくて、どうしようもなかった。
その時だった。
「お前は、もう、ただの人間じゃねえだろ!」
闘いの最中から、シズマの叱咤が、雷のように、俺の魂を撃ち抜いた。
「その身体に宿った〝力〟を、感じろ! 敵は、あいつだけじゃねえ! あのトンネルの奥にいる、本体だ!」
───ああ、そうか。
そうだよな。
俺は、ずっと、待っていただけだったんだ。
力が、勝手に出てきてくれるのを。
誰かが、何かをしてくれるのを。
違う。
そうじゃない。
───自分から、向き合うんだ。
───たとえ、こいつに喰われて、俺が俺でなくなってしまうとしても。
───シズマが信じてくれた、この〝力〟と!
ハルキは、ぎゅっと、目を閉じた。
そして、意識を、自らの内側へと、深く、深く、沈めていく。
それは、嵐の海へと、自ら飛び込むような、無謀な行為だった。
あった。
魂の、中心。
心臓の、すぐそばに。
冷たく、禍々しく、それでいて、途方もないエネルギーを秘めた、巨大な渦が。
これが、俺に憑いた怪異の、力の源。
───触れるな……
渦の中心から、声が聞こえた。
それは、言葉にならない、意思の塊。
拒絶と、警戒と、そして、底知れない、孤独の匂い。
───うるせえ!
ハルキは、心の中で、絶叫した。
───俺は、日野陽輝だ! この身体の、持ち主だ!
───てめえが誰だろうと知ったことか! 全部よこせとは言わねえ! その力の、ほんの一部でいい! 今、この時だけ、その力を、俺に貸せ!
それは、祈りではなかった。
懇願でもない。
この身体の支配権を主張する、魂の宣言だった。
渦が、抵抗するように、激しく脈動する。
ハルキの全身を、内側から引き裂くような、激痛が走った。
「ぐ……あ……っ!」
だが、ハルキは、歯を食いしばり、その魂の手綱を、決して、離さなかった。
シズマを守る。
その、たった一つの、純粋な想いが、心を、鋼鉄の楔のように、支えていた。
ハルキは、荒れ狂う力の奔流の中から、その流れの、ほんの一筋だけを、無理やり掴み取り、自分の意志の方向へと、ねじ曲げた。
冷たい奔流が、身体の、隅々へと、駆け巡っていく。
それは、自分のものでありながら、自分のものではない、異質で、強大な力。
◇ ◆ ◇
ハルキの身体から、空気が、変わったのを、俺は感じた。
目の前で起きている、信じられない変化に、息を呑む。
以前の暴走しかけた時とは、違う。
あれは、ただの、力の氾濫だった。
だが、今、ハルキの身体から発せられている気配は、荒削りながらも、明確な意志によって、かろうじて、制御されている。
ハルキは、ゆっくりと、瞼を持ち上げた。
その瞳の奥に、爛々と、淡い金色の光が宿っていた。
全身からオーラが立ち上っているわけではない。
だが、その存在感は、先ほどとは比べ物にならないほど、強大で、鋭利なものへと、変貌していた。
それは、恐怖を乗り越え、自らの運命に、片足だけでも、踏み込もうとする者だけが放つことのできる、魂の輝きだった。
「……シズマ……」
その口から漏れた声は、ハルキ自身のものだった。
だが、その響きには、以前の彼にはなかった、絶対的な自信と、揺るぎない覚悟が、宿っていた。
「……あいつは、俺がやる」
ハルキの視線は、俺の背後に立つ橘ではなく、その更に奥、トンネルの闇の中心に向けられていた。
その言葉に、俺は口の端に浮かんだ笑みを、隠そうともしなかった。
まだ、その力は、あまりにも不安定で、全てを任せられるほどじゃない。
だが、それでも。
お前が、その一歩を、自分の意志で、踏み出してくれたのなら。
「……ああ、行ってこい」
俺は、短く、しかし、確かな信頼を込めて、応えた。
「こいつは、俺が、足止めしておく」
「……!」
俺たちのやり取りを見て、橘が警戒を強めるのが分かった。
だが、もう遅い。
「サンキュ、シズマ!」
ハルキは、子供のように笑うと、地面を蹴った。
その動きは、もはや人間のそれではない。
猫科の肉食獣を思わせる、しなやかで、爆発的な瞬発力。
彼の狙いは、橘ではない。
橘の横を、まるで一陣の風のようにすり抜け、一直線に、トンネルの闇の中へと、突っ込んでいく。
「……させる、とでも!」
橘が、ハルキの意図に気づき、そちらへ御幣を向けようとする。
だが、その動きを、俺が許さない。
「てめえの相手は、俺だろ!」
俺は、最後の護符を、自らの胸に叩きつけた。
《金剛力(こんごうりき)の符》。
審神者の血を触媒に、一時的に、身体能力を限界まで引き上げる、荒業だ。
「ぐ……おおおおおおおおっ!」
全身の血管が、焼き切れるような熱を発し、筋肉が悲鳴を上げる。
だが、それと引き換えに、尋常ならざる力が、身体の奥底から、みなぎってくる。
俺は、地面を蹴り、弾丸のように、橘へと、肉薄した。
「なっ……!?」
橘の、怜悧な顔に、初めて、明確な驚愕の色が浮かんだ。
彼女の動体視力でも、今の俺の動きは、捉えきれなかったのだろう。
俺は、彼女が衝撃波を放つ、その懐へと、一瞬で潜り込んでいた。
そして、俺が選んだのは、拳でも、蹴りでもない。
審神者の一族に伝わる、対人、対怪異用の、古流体術。
その基本中の基本。
───《衝気(しょうき)!》
練り上げた霊力を、掌の一点に集中させ、相手の霊的防御の、最も脆い一点を、打つ。
物理的な破壊力はない。
だが、それは、直接、相手の魂を揺さぶり、霊力の流れを、強制的に、断ち切る技だ。
ドンッ、という、鈍い音が、静かな山道に響いた。
俺の掌底は、寸分の狂いもなく、橘の鳩尾(みぞおち)へと、吸い込まれていた。
もちろん、彼女が纏う装束の、霊的防御術式に阻まれて、直接、肌に触れたわけではない。
だが、それでも、衝撃は、伝わったはずだ。
「……ぐ……ぅ……っ……」
橘の、人形のように整った顔が、苦痛に歪み、その華奢な身体が、くの字に折れ曲がる。
その手から、金属の御幣が、カラン、と乾いた音を立てて、地面に落ちた。
「……な……ぜ……」
橘は、信じられない、というように、喘ぎながら、俺を見上げた。
「……私の……《天衣無縫(てんいむほう)》の結界が……なぜ、破られる……?」
「言ったろ、お嬢ちゃん」
俺は、荒い息を整えながら、冷たく、言い放った。
「俺たちの商売は、効率だけじゃ、どうにもならねえんだよ。てめえのその綺麗な服に編み込まれた術式も、確かに、大したものだ。だがな、どんな完璧なシステムにも、必ず、穴はある。それを見つけ出して、こじ開けるのが、俺たち〝審神者〟の、やり方なんでな」
そう。
俺の《見鬼の眼》は、見抜いていた。
彼女の装束に施された、完璧に見える防御術式の、ほんの僅かな、霊力の結び目の綻びを。
それは、おそらく、製造過程で生じた、ミクロン単位の、エラー。
普通の術者なら、決して気づくことのない、些細な欠陥。
だが、万物の霊的本質を視る、俺の眼には、それが、巨大な的のように、はっきりと、視えていたのだ。
俺は、倒れ込む橘を、一瞥すると、すぐに、トンネルの闇へと、視線を転じた。
ハルキは、もう、とっくに、その闇の中へと、消えている。
そして、トンネルの奥から響いてくる、すすり泣きの声が、先ほどよりも、ずっと、大きく、そして、苦しげなものに、変わっていた。
まるで、ハルキという〝異物〟の侵入を、拒絶しているかのように。
あるいは、待ち望んでいた、救いの手に、戸惑っているかのように。
「…………待ちなさい、識静馬ッ……!」
その時、背後から、か細い、しかし、芯の通った声で、橘が、俺を呼んだ。
俺が振り返ると、彼女は、地面に片膝をつきながらも、その、強い意志を宿した瞳で、まっすぐに、俺を睨みつけていた。
その瞳には、もはや、俺たちへの侮蔑の色はなかった。
代わりにあったのは、焦りと、そして、彼女が心の底から信じる〝正義〟が、揺らぎ始めていることへの、戸惑いの色だった。
「……行っては、いけません……」
彼女は、絞り出すように、言った。
「……あれは……あなた方が、手を出していい〝モノ〟ではない……。あれは、ただの怪異ではない……。《神堕ち(かみおち)》……その、成り損ないです……!」
神堕ち。
その、不吉な響きを持った言葉に、俺の足が、思わず、止まった。
「……あれは、かつて、この土地で祀られていた、名もなき、土地神でした。しかし、信仰が失われ、長い年月の中で、その霊格を保てなくなり……人の、醜い欲望と、怨念を吸いすぎて……歪んでしまった、哀れな、存在なのです」
橘は、苦しげに、言葉を続けた。
「神祇庁の目的は、あれを、完全に消滅させることでも、救うことでもない。ただ、封印し、管理下に置くこと。それが、最も、被害を少なく、この世界の秩序を保つ、唯一の、正しい方法なのです。……どうか、これ以上、事を、荒立てないでください……!」
それは、懇願だった。
国家公務員としての、命令ではなく。
橘桔梗という、一人の少女の、悲痛な、叫びだった。
彼女もまた、分かっているのだ。
自分たちのやり方が、決して、万能ではないことを。
その、冷徹な仮面の下に、俺たちと同じような、葛藤や、痛みを、隠していることを。
だが。
それでも。
「……悪いな」
俺は、彼女に、背を向けたまま、言った。
「俺は、国家公務員じゃねえ。ただの、古本屋の店番で、……あいつの、親友だ。だったら、俺が信じるのは、てめえらの言う、小難しい『秩序』なんかじゃねえ。……たった一人で、闇の中に飛び込んでいった、馬鹿な親友の、その、無茶な、優しさだけだ」
俺は、もう、迷わなかった。
地面を蹴り、ハルキの後を追って、トンネルの、昏い、昏い、闇の中へと、その身を、投じた。
「……待ちなさ……い……!」
背後で、橘の、制止の声が、聞こえたような気がした。
だが、もう、どうでもよかった。
トンネルに一歩足を踏み入れた瞬間、ぶわり、と、濃密な、死の匂いが、俺の全身に、まとわりついた。
闇の奥から、女のすすり泣きと、そして、ハルキが、誰かを、必死に、説得しようとしている声が、微かに、聞こえてくる。
───ああ、クソ。
───やっぱり、こうなるのかよ。
───神堕ちだか、なんだか知らねえが。
俺は、闇の中で、不敵に、笑った。
───最高に、面倒くさくて、最高に、やりがいのある夜に、なりやがった。
物語の歯車は、もはや、誰にも止められない速度で、次の、より厄介で、そして、より、本質的なステージへと、その回転を、始めていた。