怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
トンネルに一歩足を踏み入れた瞬間、俺、識静馬(しき しずま)は、世界から切り離された。
外の、澄んだ山の夜気とは完全に異質な、濃密な瘴気が肺腑を満たす。それは単なる淀んだ空気などではない。魂を直接圧し潰さんばかりの、純粋な悪意と怨嗟の圧力だった。
それと同時に、俺の耳は、闇の奥から響いてくる、二つの〝音〟を捉えていた。
一つは、女の、心の芯を凍らせるような、か細いすすり泣き。
そして、もう一つは。
「───やめろっ! 俺は、お前らを傷つけに来たんじゃねえんだ!」
ハルキの声だった。
だが、その声は、説得というより、悲痛な叫びに近かった。
ガギンッ!!
闇の奥で、甲高い金属音が炸裂した。火花が散り、ハルキの短い悲鳴が響く。
「ぐっ……!?」
俺は、返事の代わりに、トンネルの闇へと駆けだした。
肌にまとわりつく瘴気は、硫酸のように肌を灼き、魂を削り取ろうとする、明確な害意の塊だ。足元には、水溜まりではない、何か粘り気のある液体が広がっていた。鼻をつくのは、黴(かび)と土埃の匂いに混じった、甘ったるい、鉄錆の匂い。血の匂いだ。
やがて、視界が開けた。
そこは、トンネルの中央付近なのだろう。天井の一部が崩落しており、その隙間から、月光が、まるで舞台照明のように、一本の筋となって差し込んでいる。
そして、その光の下で繰り広げられていた光景に、俺は息を呑んだ。
ハルキが、いた。
無数の黒い〝腕〟が、彼の喉を、眼球を、心臓を、的確に抉り殺そうとする、洗練された殺意の応酬。
だが、ハルキは、その猛攻に対し、一方的に、ただ、耐えていた。
その華奢な身体から黄金色のオーラを立ち上らせながらも、拳を固く握りしめたまま、決して反撃しようとはしない。ただ、紙一重で攻撃を避け、あるいは腕で受け止め、ズタズタに引き裂かれながら、その場に立ち尽くしていた。
「シズマ!」
俺の気配に気づいたハルキが、こちらに視線を向けた。
その顔は、安堵と、そして、懇願の色を浮かべていた。
◇◆◇
シズマの、あの不器用な優しさは、もう痛いほど分かっていた。
俺を先に行かせ、自分はあの橘とかいう女を足止めする。口では「こっちは俺一人で十分だ」みてえなツラしやがって。
違うだろ、本当は。
あいつ、俺が〝人間〟相手に本気でやり合うのを、無意識にでも、嫌がったんだ。俺が優しいとか、そういうんじゃねえ。ただ、あいつは、俺にそういう汚れ仕事をさせたくなかった。
あの馬鹿、そういうとこ、昔から全然変わらねえ。
自分が一番しんどい役回りを、黙って引き受けやがる。
本当は、あの女を一人でいなすなんて、めちゃくちゃ無理してるくせに。
だから、俺は俺の役目を果たさなきゃならねえ。
あいつが無理して、不器用に、俺のために作ってくれたこの状況を、絶対に無駄にはできねえんだ。
トンネルへ飛び込んだ俺を最初に迎えたのは、吐き気を催すほどの瘴気。そして、全身の肌を針で刺すような、純粋な殺意だった。
「───出てこいよ、亡霊ども!」
俺は、身体の内側から湧き上がる黄金の光───シズマからもらった霊力と、俺の中に棲む〝何か〟の力が混じり合った、この新しい力に意識を集中させる。
その挑発に応えるかように、トンネルの壁面、天井、床から、無数の黒い腕が、ぬるりと生えてきた。
「うおっ……!」
噂には聞いていたが、実際に目の当たりにすると、その光景は悪夢そのものだった。
腕は、一斉に、俺という獲物めがけて殺到する。
今の俺は、もう、ただの大学生じゃない。
「おらァッ!」
拳に込めた黄金の光が炸裂し、数本の腕をまとめて消し飛ばす。
手応えはある。やれる。
こいつらを全部薙ぎ払って、シズマが安心して全力で動ける盤面(ステージ)を、今度こそ俺が作ってやる。
そう思って、二撃目の拳を叩き込もうとした、その時だった。
『イタイ……イタイ……』
脳に、直接、響いた。
それは、怨嗟に満ちた亡霊の声とは、明らかに違う、か細い、子供の声だった。
一瞬、俺の拳が止まる。
だが、その躊躇が命取りになる。別の腕が、鋭い爪を立てて俺の頬を抉ろうと迫る。咄嗟にそれを殴りつけるが、拳の威力は、無意識に、鈍っていた。
そして、その手応えのない拳が腕を砕いた瞬間、今度は、別の声が聞こえた。
『……ああ……やっと……これで……』
女の、安堵したような声。
ゾッとした。
こいつら、俺の攻撃を、ただ苦しんでいるだけじゃない。中には、この破壊を「救い」だと、待ち望んでいる魂がいる。
俺が殴るたびに、悲鳴と、そして、感謝が、同時に脳に流れ込んでくる。
それは、あまりにも、残酷な応酬だった。
「クソッ……!」
次々と襲い来る腕を、俺は、もう、全力で殴れなくなっていた。
拳じゃない。掌底で。あるいは、腕で。
ただ、逸らす。弾く。受け止める。
攻撃の軌道を逸らし、致命傷だけを避ける、そんな手ぬるい戦い方で、この悪意の奔流が、凌げるはずもなかった。
俺の攻撃に殺意が消えたのを、奴らは、敏感に感じ取ったらしい。
『……コロシテ……』
『……ニクイ……ニンゲンガ……ニクイ……!』
悪意に満ちた声が、俺の躊躇をあざ笑うかのように、勢いを増す。
攻撃は、より的確に、俺の急所を狙い始めた。
その猛攻を受け止めながら、俺は歯を食いしばった。
クソッ……! どうすりゃいいんだよ……!
殴れば、泣いてる奴らを傷つける。
殴らなきゃ、憎んでる奴らに殺される。
八方塞がりだ。
シズマが来るまで、耐えるしかないのか。いや、それまで、俺の身体がもつか……?
だから、俺は、ただ、耐えることを選んだ。
この身が引き裂かれようと、いつか、シズマが来てくれると、信じて。
◇◆◇
「シズマ……!」
ボロボロのハルキが、俺の名を呼んだ。
彼のスウェットパーカーはズタズタに引き裂かれ、その下から覗く白い肌には、おびただしい数の切り傷が走り、鮮血が滲んでいる。
「……来てくれたんだな」
「当たり前だろ、馬鹿野郎。てめえ、何で反撃しねえんだ! このままじゃ、殺されるぞ!」
俺が怒鳴りつけると、ハルキは、痛みに顔を歪めながらも、力なく笑った。
そして、俺の目をまっすぐに見つめて、言ったのだ。
それは、今まで聞いたこともないほど、真剣で、そして、切実な、願いだった。
「なあ、シズマ……。こいつら、ただの化け物じゃねえんだ……。この奥で、ガキとか、爺ちゃんとかが……助けてくれって、泣いてるんだよ」
ハルキは、俺の腕を、震える手で掴んだ。
「お前のその《眼》なら、何とかできるだろ……? こいつらを……助けてやれないか?」
俺は、息を呑んだ。
この、命のやり取りをしている、極限の状況で。
コイツは、自分を殺そうとしている相手のことを、本気で、助けようとしている。
そして、その無茶苦-ゃな願いを、俺なら叶えられると、一点の曇りもなく、信じている。
───イタい……クルシい……タスケて……コロして……オマエモ……コッチニ……コイ……。
脳内に響く、呪詛の声。
だが、その奥に、確かに、ハルキが言うような、か細い、救いを求める声の断片が、混じっているような気がした。
「………………」
俺は、何も言わずに、ハルキの頭に、ぽん、と手を置いた。
そして、目の前の、おぞましい腕の群れと、その中心にある廃車を、睨みつけた。
覚悟は、決まった。
「……ああ。任せろ」
俺の、その、短い返事を聞いて。
ハルキの顔が、心の底から安堵したように、ふわり、と綻んだ。
その笑顔を守るためなら、どんな代償だって、払ってやる。
「ハルキ。俺がこいつらの正体を丸裸にする。それまで、何があっても、時間を稼げ」
「……! おう、分かった!」
俺は、ハルキに後を託すと、目を閉じた。
やることは、一つ。
相棒の、無茶苦茶な願いを、叶えてやる。ただ、それだけだ。
(来いよ。てめえの本当の力、見せてみやがれ)
(そして、俺の魂ごと、喰えるもんなら喰ってみやがれよ、このクソッタレの血がッ!!)
俺は、心の中で、自らの宿命そのものに、再び、喧嘩を売った。
その、あまりにも不遜な引き金に、血は、歓喜の叫びをもって応えた。
「───《見鬼の眼(けんきのがん)》、最大解放ッ!!」
瞬間。
世界が、砕け散った。
カッ、と、両の眼球が、内側から発火したかのような、凄まじい熱量に襲われる。
「ぐ……っ、あああああああああああああああああああああああああっ!!」
俺は、その場に膝から崩れ落ちた。
情報の濁流が、俺の魂の記憶野へと、無慈悲に流れ込んでくる。
◇◆◇
───これは、追体験。数多の魂が辿った、絶望の記憶の旅路だ。
最初に俺の意識が同化したのは、一人の若い作業員の魂だった。
昭和の熱気が肌を焼く。汗と土埃、そして安煙草の匂い。つるはしが岩盤を砕く甲高い音と、仲間たちの荒々しい怒号が耳をつんざく。故郷に残してきた、まだ幼い娘の笑顔が脳裏をよぎる。この仕事が終わったら、新しい服を買ってやるんだ。そんな、ささやかな希望を胸に、ダイナマイトの導火線に火をつけた、その瞬間。
轟音。
世界が、反転した。
凄まじい衝撃に身体が宙を舞い、岩盤に叩きつけられる。熱い。痛い。息が、できない。
闇。完全な闇。手も、足も、岩に挟まれて動かせない。薄れていく意識の中、遠くで仲間たちのうめき声が聞こえる。
『チクショウ……コンナトコロデ……』
その無念の叫びは、もはや他人事ではなかった。俺自身の、魂からの叫びだった。
次に、俺の視点は、ふわりと浮上した。
俺は、トンネルの真上にあった、小さな祠にいた。いや、祠そのものになっていた。
俺は、名もなき山の女神だった。
人々が、この山を通る際に、ほんの束の間、手を合わせるだけの、小さな、小さな神。だが、それでよかった。人々のささやかな祈りが、私を、この場所に在り続けさせてくれた。
だが、時代は変わる。
新しい道ができ、私の祠に祈る者はいなくなった。社の屋根は朽ち、私の名前は、誰の記憶からも消えていった。寂しい。ただ、ひたすらに、寂しい。
そんな、永遠にも思える孤独の中、ある日、私の足元で、多くの魂が、一度に失われるのを感じた。
彼らの悲痛な叫びが、私の神域にまで届く。
『カアチャン……アイタイ……』
哀れな子ら。私と同じ、忘れられた者たち。
私は、彼らの魂を、そっと、私の内に抱きしめた。慰めるように、寄り添うように。それが、私に残された、最後の役割だと思ったから。
だが、悲劇は、終わらない。
私の身体となったトンネルは、新たな死を呼び込み続けた。
人生に絶望した者が、排気ガスを充満させて命を絶つ。その虚無感が、私の神域を冷たく蝕む。
若者たちが、無謀な運転で事故を起こす。その恐怖と苦痛が、私の神域を鋭く切り裂く。
そして、最悪の記憶が、流れ込んできた。
それは、ある男の、歪んだ愉悦の記憶だった。
男は、女をここに連れ込み、その命を奪った。女の絶望と恐怖。そして、それを楽しむ、男の、どす黒い快楽。
その、おぞましい感情の濁流が、私の内に流れ込んだ時。
プチリ、と。
私の中で、何かが、決定的に、壊れた。
『……なぜ』
『なぜ、人間は、これほどまでに醜い』
『なぜ、この私が、こんな穢れを受け止め続けねばならない』
私の慈愛は、汚染され、憎悪へと反転した。
私が抱きしめていた、哀れな作業員たちの魂も、その憎悪に染まっていく。
純粋な悲しみは、醜い悪意と混じり合い、増幅され、より強力な呪いへと変貌した。
もう、誰かを慰めることなどできない。
救いを求める魂は、新たな悪意を引き寄せるための、ただの餌になった。
『ニクイ……ニンゲンガ、ニクイ……』
『アタラシイナカマヲ……ツれてコイ……ソシテ……コロセ……コロセ……!』
これが、この怪異の正体。
慈愛から生まれた、憎悪の集合体。
その、一番、奥の、奥の、奥の底で。
憎しみに染まりながらも、ただ「楽になりたい」と泣きじゃくる、女神と、作業員たちの、最初の、小さな叫びが、まだ、か細く、残っていた。
◇◆◇
「…………はっ……! はぁっ……! げほっ、ごほっ……!」
情報の濁流から、俺の意識が、無理やり現実へと引き戻される。
アスファルトの上に大の字に倒れ込み、激しく咳き込みながら、荒い呼吸を繰り返した。
頭が、割れるように痛い。
鼻からは、また血が流れ続けている。
「シズマッ! 大丈夫か!」
ハルキが、俺を庇うように立ちはだかり、その両腕を盾にして、殺到する腕の猛攻を一身に受け止めていた。
「……ああ。……見えたぜ、ハルキ。こいつらの、全部……」
俺は、震える腕に力を込め、ゆっくりと身体を起こした。
もはや、俺の目に、目の前の腕の群れは、ただのおぞましい化け物には映っていなかった。
それは、助けを求めることすらできなくなった、魂の、痛々しい瘡蓋(かさぶた)だ。
「殴っても、ダメだ。祓っても、意味がねえ。俺が、やらなきゃならねえんだ」
俺は、ハルキの、その金色の光を宿した瞳を、まっすぐに見つめ返した。
そして、命令した。
それは、絶対的な信頼がなければ、決して口にできない、無謀な、命令。
「俺が、弔う。だから、お前は、俺を、あそこの中心まで、護衛しろ!」
その言葉に、ハルキは、一瞬、大きく目を見開いた。
だが、すぐに、その顔に、覚悟を決めた、獰猛な笑みを浮かべた。
「……OK! しっかり、掴まってろよ、シズマ!」
ハルキは、叫ぶと同時に、俺の腕を掴み、その背中へと、俺を無理やり固定した。
そして、その両の拳に、ありったけの金色の霊力を、集中させていく。
「わりいな、お前ら!」
ハルキは、目の前の腕の壁に向かって、不敵に言い放った。
「こっから先は、俺たちの、独壇場(ステージ)だ!」
「───貫けッ! 《金剛螺旋(こんごうらせん)》ッ!!」
ハルキの絶叫と同時に、その拳から、巨大な、ドリルのような、黄金の光の奔流が、迸った。
それは、憎悪を滅する、鎮魂の道を切り開く、聖なる一撃。
俺たちの身体は、その光の奔流に乗り、弾丸のように、一直線に、廃車の真上へと、突っ込んでいた。
そして、ついに、たどり着いた。
全ての怨念の、中心核。
そこに、寄り添うようにして、黒い人影が、いくつも、重なり合って、蹲っていた。
彼らが、この呪いの、震源地。
俺は、ハルキの背中から飛び降りると、その、哀れな魂たちに向かって、静かに、掌を向けた。
もう、痛みは感じなかった。
ただ、途方もない、慈愛と、そして、鎮魂の祈りだけが、俺の心を、満たしていた。
「……聞こえるか」
俺の声は、不思議なほど、穏やかだった。
「お前たちの、苦しみも、悲しみも、無念も、憎しみも。……全部、俺が、受け止めてやる」
俺は、ゆっくりと、息を吸った。
それは、これから始まる、鎮魂の儀式のための、最初の祝詞。
「だから、もう、いいんだ。……もう、泣かなくて、いいんだぜ」
俺の、その、言霊(ことだま)に、呼応するように。
黒い人影たちが、ゆっくりと、その顔を、上げた。