怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第1話 「秩序の執行者、橘桔梗」ー4

トンネルに一歩足を踏み入れた瞬間、俺、識静馬(しき しずま)は、世界から切り離された。

外の、澄んだ山の夜気とは完全に異質な、濃密な瘴気が肺腑を満たす。それは単なる淀んだ空気などではない。魂を直接圧し潰さんばかりの、純粋な悪意と怨嗟の圧力だった。

それと同時に、俺の耳は、闇の奥から響いてくる、二つの〝音〟を捉えていた。

 

一つは、女の、心の芯を凍らせるような、か細いすすり泣き。

そして、もう一つは。

 

「───やめろっ! 俺は、お前らを傷つけに来たんじゃねえんだ!」

 

ハルキの声だった。

だが、その声は、説得というより、悲痛な叫びに近かった。

 

ガギンッ!!

闇の奥で、甲高い金属音が炸裂した。火花が散り、ハルキの短い悲鳴が響く。

 

「ぐっ……!?」

 

俺は、返事の代わりに、トンネルの闇へと駆けだした。

肌にまとわりつく瘴気は、硫酸のように肌を灼き、魂を削り取ろうとする、明確な害意の塊だ。足元には、水溜まりではない、何か粘り気のある液体が広がっていた。鼻をつくのは、黴(かび)と土埃の匂いに混じった、甘ったるい、鉄錆の匂い。血の匂いだ。

 

やがて、視界が開けた。

そこは、トンネルの中央付近なのだろう。天井の一部が崩落しており、その隙間から、月光が、まるで舞台照明のように、一本の筋となって差し込んでいる。

そして、その光の下で繰り広げられていた光景に、俺は息を呑んだ。

 

ハルキが、いた。

無数の黒い〝腕〟が、彼の喉を、眼球を、心臓を、的確に抉り殺そうとする、洗練された殺意の応酬。

だが、ハルキは、その猛攻に対し、一方的に、ただ、耐えていた。

その華奢な身体から黄金色のオーラを立ち上らせながらも、拳を固く握りしめたまま、決して反撃しようとはしない。ただ、紙一重で攻撃を避け、あるいは腕で受け止め、ズタズタに引き裂かれながら、その場に立ち尽くしていた。

 

「シズマ!」

 

俺の気配に気づいたハルキが、こちらに視線を向けた。

その顔は、安堵と、そして、懇願の色を浮かべていた。

 

◇◆◇

 

シズマの、あの不器用な優しさは、もう痛いほど分かっていた。

俺を先に行かせ、自分はあの橘とかいう女を足止めする。口では「こっちは俺一人で十分だ」みてえなツラしやがって。

違うだろ、本当は。

あいつ、俺が〝人間〟相手に本気でやり合うのを、無意識にでも、嫌がったんだ。俺が優しいとか、そういうんじゃねえ。ただ、あいつは、俺にそういう汚れ仕事をさせたくなかった。

あの馬鹿、そういうとこ、昔から全然変わらねえ。

自分が一番しんどい役回りを、黙って引き受けやがる。

本当は、あの女を一人でいなすなんて、めちゃくちゃ無理してるくせに。

 

だから、俺は俺の役目を果たさなきゃならねえ。

あいつが無理して、不器用に、俺のために作ってくれたこの状況を、絶対に無駄にはできねえんだ。

 

トンネルへ飛び込んだ俺を最初に迎えたのは、吐き気を催すほどの瘴気。そして、全身の肌を針で刺すような、純粋な殺意だった。

 

「───出てこいよ、亡霊ども!」

 

俺は、身体の内側から湧き上がる黄金の光───シズマからもらった霊力と、俺の中に棲む〝何か〟の力が混じり合った、この新しい力に意識を集中させる。

その挑発に応えるかように、トンネルの壁面、天井、床から、無数の黒い腕が、ぬるりと生えてきた。

 

「うおっ……!」

 

噂には聞いていたが、実際に目の当たりにすると、その光景は悪夢そのものだった。

腕は、一斉に、俺という獲物めがけて殺到する。

今の俺は、もう、ただの大学生じゃない。

 

「おらァッ!」

 

拳に込めた黄金の光が炸裂し、数本の腕をまとめて消し飛ばす。

手応えはある。やれる。

こいつらを全部薙ぎ払って、シズマが安心して全力で動ける盤面(ステージ)を、今度こそ俺が作ってやる。

そう思って、二撃目の拳を叩き込もうとした、その時だった。

 

『イタイ……イタイ……』

 

脳に、直接、響いた。

それは、怨嗟に満ちた亡霊の声とは、明らかに違う、か細い、子供の声だった。

 

一瞬、俺の拳が止まる。

だが、その躊躇が命取りになる。別の腕が、鋭い爪を立てて俺の頬を抉ろうと迫る。咄嗟にそれを殴りつけるが、拳の威力は、無意識に、鈍っていた。

そして、その手応えのない拳が腕を砕いた瞬間、今度は、別の声が聞こえた。

 

『……ああ……やっと……これで……』

 

女の、安堵したような声。

ゾッとした。

こいつら、俺の攻撃を、ただ苦しんでいるだけじゃない。中には、この破壊を「救い」だと、待ち望んでいる魂がいる。

俺が殴るたびに、悲鳴と、そして、感謝が、同時に脳に流れ込んでくる。

それは、あまりにも、残酷な応酬だった。

 

「クソッ……!」

 

次々と襲い来る腕を、俺は、もう、全力で殴れなくなっていた。

拳じゃない。掌底で。あるいは、腕で。

ただ、逸らす。弾く。受け止める。

攻撃の軌道を逸らし、致命傷だけを避ける、そんな手ぬるい戦い方で、この悪意の奔流が、凌げるはずもなかった。

俺の攻撃に殺意が消えたのを、奴らは、敏感に感じ取ったらしい。

 

『……コロシテ……』

『……ニクイ……ニンゲンガ……ニクイ……!』

 

悪意に満ちた声が、俺の躊躇をあざ笑うかのように、勢いを増す。

攻撃は、より的確に、俺の急所を狙い始めた。

その猛攻を受け止めながら、俺は歯を食いしばった。

 

クソッ……! どうすりゃいいんだよ……!

殴れば、泣いてる奴らを傷つける。

殴らなきゃ、憎んでる奴らに殺される。

八方塞がりだ。

シズマが来るまで、耐えるしかないのか。いや、それまで、俺の身体がもつか……?

 

だから、俺は、ただ、耐えることを選んだ。

この身が引き裂かれようと、いつか、シズマが来てくれると、信じて。

 

◇◆◇

 

「シズマ……!」

ボロボロのハルキが、俺の名を呼んだ。

彼のスウェットパーカーはズタズタに引き裂かれ、その下から覗く白い肌には、おびただしい数の切り傷が走り、鮮血が滲んでいる。

 

「……来てくれたんだな」

「当たり前だろ、馬鹿野郎。てめえ、何で反撃しねえんだ! このままじゃ、殺されるぞ!」

俺が怒鳴りつけると、ハルキは、痛みに顔を歪めながらも、力なく笑った。

そして、俺の目をまっすぐに見つめて、言ったのだ。

それは、今まで聞いたこともないほど、真剣で、そして、切実な、願いだった。

 

「なあ、シズマ……。こいつら、ただの化け物じゃねえんだ……。この奥で、ガキとか、爺ちゃんとかが……助けてくれって、泣いてるんだよ」

ハルキは、俺の腕を、震える手で掴んだ。

「お前のその《眼》なら、何とかできるだろ……? こいつらを……助けてやれないか?」

 

俺は、息を呑んだ。

この、命のやり取りをしている、極限の状況で。

コイツは、自分を殺そうとしている相手のことを、本気で、助けようとしている。

そして、その無茶苦-ゃな願いを、俺なら叶えられると、一点の曇りもなく、信じている。

 

───イタい……クルシい……タスケて……コロして……オマエモ……コッチニ……コイ……。

 

脳内に響く、呪詛の声。

だが、その奥に、確かに、ハルキが言うような、か細い、救いを求める声の断片が、混じっているような気がした。

 

「………………」

 

俺は、何も言わずに、ハルキの頭に、ぽん、と手を置いた。

そして、目の前の、おぞましい腕の群れと、その中心にある廃車を、睨みつけた。

覚悟は、決まった。

 

「……ああ。任せろ」

 

俺の、その、短い返事を聞いて。

ハルキの顔が、心の底から安堵したように、ふわり、と綻んだ。

その笑顔を守るためなら、どんな代償だって、払ってやる。

 

「ハルキ。俺がこいつらの正体を丸裸にする。それまで、何があっても、時間を稼げ」

「……! おう、分かった!」

 

俺は、ハルキに後を託すと、目を閉じた。

やることは、一つ。

相棒の、無茶苦茶な願いを、叶えてやる。ただ、それだけだ。

 

(来いよ。てめえの本当の力、見せてみやがれ)

(そして、俺の魂ごと、喰えるもんなら喰ってみやがれよ、このクソッタレの血がッ!!)

 

俺は、心の中で、自らの宿命そのものに、再び、喧嘩を売った。

その、あまりにも不遜な引き金に、血は、歓喜の叫びをもって応えた。

 

「───《見鬼の眼(けんきのがん)》、最大解放ッ!!」

 

瞬間。

世界が、砕け散った。

カッ、と、両の眼球が、内側から発火したかのような、凄まじい熱量に襲われる。

「ぐ……っ、あああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

俺は、その場に膝から崩れ落ちた。

情報の濁流が、俺の魂の記憶野へと、無慈悲に流れ込んでくる。

 

◇◆◇

 

───これは、追体験。数多の魂が辿った、絶望の記憶の旅路だ。

 

最初に俺の意識が同化したのは、一人の若い作業員の魂だった。

昭和の熱気が肌を焼く。汗と土埃、そして安煙草の匂い。つるはしが岩盤を砕く甲高い音と、仲間たちの荒々しい怒号が耳をつんざく。故郷に残してきた、まだ幼い娘の笑顔が脳裏をよぎる。この仕事が終わったら、新しい服を買ってやるんだ。そんな、ささやかな希望を胸に、ダイナマイトの導火線に火をつけた、その瞬間。

 

轟音。

 

世界が、反転した。

凄まじい衝撃に身体が宙を舞い、岩盤に叩きつけられる。熱い。痛い。息が、できない。

闇。完全な闇。手も、足も、岩に挟まれて動かせない。薄れていく意識の中、遠くで仲間たちのうめき声が聞こえる。

 

『チクショウ……コンナトコロデ……』

 

その無念の叫びは、もはや他人事ではなかった。俺自身の、魂からの叫びだった。

 

次に、俺の視点は、ふわりと浮上した。

俺は、トンネルの真上にあった、小さな祠にいた。いや、祠そのものになっていた。

俺は、名もなき山の女神だった。

人々が、この山を通る際に、ほんの束の間、手を合わせるだけの、小さな、小さな神。だが、それでよかった。人々のささやかな祈りが、私を、この場所に在り続けさせてくれた。

だが、時代は変わる。

新しい道ができ、私の祠に祈る者はいなくなった。社の屋根は朽ち、私の名前は、誰の記憶からも消えていった。寂しい。ただ、ひたすらに、寂しい。

そんな、永遠にも思える孤独の中、ある日、私の足元で、多くの魂が、一度に失われるのを感じた。

彼らの悲痛な叫びが、私の神域にまで届く。

『カアチャン……アイタイ……』

哀れな子ら。私と同じ、忘れられた者たち。

私は、彼らの魂を、そっと、私の内に抱きしめた。慰めるように、寄り添うように。それが、私に残された、最後の役割だと思ったから。

 

だが、悲劇は、終わらない。

私の身体となったトンネルは、新たな死を呼び込み続けた。

人生に絶望した者が、排気ガスを充満させて命を絶つ。その虚無感が、私の神域を冷たく蝕む。

若者たちが、無謀な運転で事故を起こす。その恐怖と苦痛が、私の神域を鋭く切り裂く。

そして、最悪の記憶が、流れ込んできた。

それは、ある男の、歪んだ愉悦の記憶だった。

男は、女をここに連れ込み、その命を奪った。女の絶望と恐怖。そして、それを楽しむ、男の、どす黒い快楽。

その、おぞましい感情の濁流が、私の内に流れ込んだ時。

 

プチリ、と。

私の中で、何かが、決定的に、壊れた。

 

『……なぜ』

『なぜ、人間は、これほどまでに醜い』

『なぜ、この私が、こんな穢れを受け止め続けねばならない』

 

私の慈愛は、汚染され、憎悪へと反転した。

私が抱きしめていた、哀れな作業員たちの魂も、その憎悪に染まっていく。

純粋な悲しみは、醜い悪意と混じり合い、増幅され、より強力な呪いへと変貌した。

もう、誰かを慰めることなどできない。

救いを求める魂は、新たな悪意を引き寄せるための、ただの餌になった。

『ニクイ……ニンゲンガ、ニクイ……』

『アタラシイナカマヲ……ツれてコイ……ソシテ……コロセ……コロセ……!』

 

これが、この怪異の正体。

慈愛から生まれた、憎悪の集合体。

その、一番、奥の、奥の、奥の底で。

憎しみに染まりながらも、ただ「楽になりたい」と泣きじゃくる、女神と、作業員たちの、最初の、小さな叫びが、まだ、か細く、残っていた。

 

◇◆◇

 

「…………はっ……! はぁっ……! げほっ、ごほっ……!」

 

情報の濁流から、俺の意識が、無理やり現実へと引き戻される。

アスファルトの上に大の字に倒れ込み、激しく咳き込みながら、荒い呼吸を繰り返した。

頭が、割れるように痛い。

鼻からは、また血が流れ続けている。

 

「シズマッ! 大丈夫か!」

 

ハルキが、俺を庇うように立ちはだかり、その両腕を盾にして、殺到する腕の猛攻を一身に受け止めていた。

 

「……ああ。……見えたぜ、ハルキ。こいつらの、全部……」

 

俺は、震える腕に力を込め、ゆっくりと身体を起こした。

もはや、俺の目に、目の前の腕の群れは、ただのおぞましい化け物には映っていなかった。

それは、助けを求めることすらできなくなった、魂の、痛々しい瘡蓋(かさぶた)だ。

 

「殴っても、ダメだ。祓っても、意味がねえ。俺が、やらなきゃならねえんだ」

俺は、ハルキの、その金色の光を宿した瞳を、まっすぐに見つめ返した。

そして、命令した。

それは、絶対的な信頼がなければ、決して口にできない、無謀な、命令。

 

「俺が、弔う。だから、お前は、俺を、あそこの中心まで、護衛しろ!」

 

その言葉に、ハルキは、一瞬、大きく目を見開いた。

だが、すぐに、その顔に、覚悟を決めた、獰猛な笑みを浮かべた。

「……OK! しっかり、掴まってろよ、シズマ!」

ハルキは、叫ぶと同時に、俺の腕を掴み、その背中へと、俺を無理やり固定した。

そして、その両の拳に、ありったけの金色の霊力を、集中させていく。

 

「わりいな、お前ら!」

ハルキは、目の前の腕の壁に向かって、不敵に言い放った。

「こっから先は、俺たちの、独壇場(ステージ)だ!」

 

「───貫けッ! 《金剛螺旋(こんごうらせん)》ッ!!」

 

ハルキの絶叫と同時に、その拳から、巨大な、ドリルのような、黄金の光の奔流が、迸った。

それは、憎悪を滅する、鎮魂の道を切り開く、聖なる一撃。

俺たちの身体は、その光の奔流に乗り、弾丸のように、一直線に、廃車の真上へと、突っ込んでいた。

 

そして、ついに、たどり着いた。

全ての怨念の、中心核。

そこに、寄り添うようにして、黒い人影が、いくつも、重なり合って、蹲っていた。

彼らが、この呪いの、震源地。

 

俺は、ハルキの背中から飛び降りると、その、哀れな魂たちに向かって、静かに、掌を向けた。

もう、痛みは感じなかった。

ただ、途方もない、慈愛と、そして、鎮魂の祈りだけが、俺の心を、満たしていた。

 

「……聞こえるか」

俺の声は、不思議なほど、穏やかだった。

 

「お前たちの、苦しみも、悲しみも、無念も、憎しみも。……全部、俺が、受け止めてやる」

俺は、ゆっくりと、息を吸った。

それは、これから始まる、鎮魂の儀式のための、最初の祝詞。

 

「だから、もう、いいんだ。……もう、泣かなくて、いいんだぜ」

 

俺の、その、言霊(ことだま)に、呼応するように。

黒い人影たちが、ゆっくりと、その顔を、上げた。

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