怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
「───もう、泣かなくて、いいんだぜ」
俺、識静馬(しき しずま)の、その言霊(ことだま)に呼応するように。
トンネルの中央、月光が差し込むその一点に蹲っていた、黒い人影たちが、ゆっくりと、その顔を上げた。
それは、顔と呼べるような代物ではなかった。憎悪と無念で歪んだ、ただの影の塊。だが、その奥の、奥の、奥の底で。数十年、あるいは数百年という永い孤独の中で、救いを求め続けていた魂の核が、俺の言葉に、確かに、反応していた。
『……だ……れ……?』
脳内に、直接、声が響いた。
それは、もはや怨嗟の呪詛ではない。
長い、長い悪夢から覚めたばかりの子供のような、か細く、そして、どこまでも純粋な、魂の問いかけだった。
俺の背後で、ハルキが息を呑む気配がした。
「シズマ……」
相棒の、心配そうな声。だが、俺はもう、振り返らなかった。いや、振り返れなかった。
今、この魂たちと向き合えるのは、この世で俺一人だけだ。その、重く、絶対的な事実が、俺の背筋に突き刺さっていた。
俺は、ゆっくりと、震える膝に力を込めて、立ち上がった。《見鬼の眼》を最大解放した反動で、脳は今にも焼き切れそうなほど悲鳴を上げ、視界は白と黒のノイズで明滅を繰り返している。五感が狂い始めていた。アスファルトの匂いが血の味に変わり、トンネルを吹き抜ける風の音が、無数の人間の悲鳴に聞こえる。だが、不思議と、目の前の魂たちの姿だけは、はっきりと、その悲しみの輪郭まで、視えていた。彼らの絶望が、俺自身の痛みとして、魂に流れ込んでくる。
「俺は、審神者だ」
俺は、静かに、しかし、揺るぎない声で告げた。喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど、穏やかに響いた。
「お前たちの、忘れられた名を呼び、その魂を、あるべき場所へ還すために来た」
その言葉に、黒い人影たちが、ざわ、と大きく揺らめいた。
俺は、彼らの魂の記憶を追体験したことで、もう、すべてを理解していた。
こいつらは、ただの悪霊の集合体ではない。
二つの、あまりにも異なる悲しみが、この呪われた土地で混ざり合い、増幅し、そして、憎悪という名の鎧を纏ってしまった、哀れな魂の寄り合い所帯なのだ。
一つは、このトンネル工事で、志半ばで命を落とした、作業員たちの無念。
そして、もう一つは。
忘れ去られた孤独の中で、彼らの魂を慰めようとして、逆にその憎悪に呑み込まれてしまった、この土地の名もなき山の女神の、悲哀。
祓うだけでは、ダメだ。
殴り飛ばしても、意味がない。
この、複雑に絡み合った憎悪の鎖を解きほぐすには、それぞれの魂の、本来の在り方を、思い出させてやるしかない。
俺は、まず、その中心にいる、最も昏く、そして最も悲しい光を放つ魂へと、意識を向けた。彼女こそが、この悲劇の中心。憎しみの源泉でありながら、同時に、最も深い慈愛を持つ存在。
「───《鳴神(なるかみ)の山の女神》よ」
俺が、その真名を呼んだ瞬間。
黒い人影たちの中心から、ひときわ大きな、女の悲鳴のような絶叫が迸った。トンネル全体が、びりびりと、地響きのように震え、壁からコンクリートの破片がぱらぱらと剥がれ落ちる。
『その名を呼ぶなッ! 我は、もはや、神などではない! 人間に忘れられ、裏切られ、穢された、ただの怨念だ! 我を捨てた人間どもが、今更どの面を下げて……!』
「違う」
俺は、きっぱりと、その叫びを否定した。
「あんたは、神だ。今も、昔も、変わらずに。……ただ、あんた自身が、そのことを忘れていただけだ。あんたを捨てた人間もいたかもしれねえ。だがな、あんたもまた、神であることを捨てちまったんだ」
俺は、一歩、その魂の塊へと、踏み出した。
無数の黒い腕が、憎悪のままに俺を捉えようと殺到する。だが、その前に、黄金の光を纏ったハルキが立ちはだかった。
「シズマは、行かせねえ……!」
相棒の、頼もしい声が、俺の背中を押してくれる。彼の、少女の姿となったその両腕は、しかし、どんな剛腕よりも力強く、怨念の濁流を押しとどめていた。
俺は、女神の魂に、語りかける。
それは、俺の言葉であると同時に、俺の《眼》が視た、彼女自身の、忘れられた記憶だった。俺の言霊が、光の波紋となって、彼女の魂に染み渡っていく。
「あんたは、この山を通る人々を、静かに見守っていた。麓の村の子供らが、あんたの祠の前で遊ぶのを、微笑ましく眺めていた。山の恵みに感謝する、ささやかな祈りを受け、その道中の安全を、ただ、願っていた。……違うか?」
『……っ……! やめろ……』
女神の魂が、苦痛に身を捩る。それは、俺の言葉が彼女を傷つけているからではない。忘れようとしていた、あまりにも温かい記憶が、彼女の憎悪の鎧を、内側から溶かし始めているからだ。
「あんたは、事故で死んだ、あの哀れな男たちの魂を、放っておけなかった。彼らの、故郷に残した家族を想う無念の声を聞き、その魂を、ただ慰めたかった。その慈愛ゆえに、彼らの魂を、その身に抱きしめた。……それも、忘れたとは言わせねえぞ」
俺の言霊は、呪いとなって、女神の魂を縛るのではない。
鍵となって、彼女が自ら閉ざした、記憶の扉を、こじ開けていく。
女神の魂から発せられていた、どす黒い憎悪のオーラが、わずかに、本当に、霧が晴れるように、薄らいでいくのが視えた。その闇の奥から、白無垢を纏った、気高くも優しい女神の横顔が、一瞬だけ、垣間見えた気がした。
そして、俺は、次に、その女神に抱かれるようにして、憎悪を撒き散らしていた、もう一つの魂たちへと、向き直った。
「そして、あんたたちもだ」
俺の声のトーンが、変わった。
それは、神に語りかけるような、厳かなものではない。
ただ、同じ時代を生きる、一人の人間として、語りかける声。
「あんたたちは、ただの、事故で死んだ、可哀想な被害者なんかじゃねえだろ」
俺の、その、挑発的とも取れる言葉に、作業員たちの魂が、ざわめいた。
怒りや、反発ではない。
困惑。そして、戸惑い。彼らの憎悪が、一瞬だけ、その矛先を見失った。
俺は、にやり、と口の端を吊り上げた。
血に濡れた顔で。
これから、最高の弔いの言葉を贈ってやる、兄貴分のような顔で。
「俺の《眼》には、視えたぜ。あんたたちの、生きてた頃の、クソッタレで、どうしようもなくて、……だけど、最高に輝いてた人生がな」
俺は、彼らの記憶を、追体験した。
貧しい故郷。待たせる家族。安い給金。危険な仕事。
だが、そこにあったのは、絶望だけではなかった。
「故郷の娘に、新しい服を買ってやりてえ、って泥だらけの顔で笑ってた奴がいたな。次の帰郷の時、絶対に驚かせてやるんだって、安酒を呷りながら、何度も、何度も、仲間たちに自慢してた」
「このトンネルが開通したら、一番に、自分の運転で、惚れた女を迎えに行くんだって、息巻いてた馬鹿がいた。給料を叩いて買った、中古の軽トラの写真を、大事そうに懐に忍ばせてた」
「こんな危険な仕事、俺たちがやらなきゃ、誰がやるんだって、胸を張ってた、頑固な爺さんもいた。若いモンにはまだ負けられんって、誰よりも早く現場に出て、誰よりも遅くまで、たった一人で槌を振るってた」
「故郷の母親に送る手紙で、いつも『心配ない』って嘘ばかりついてた、孝行息子もいた。本当は、毎日怖くて、寂しくて、たまらなかったくせにな」
俺の言葉の一つ一つが、光の矢のように、黒い魂たちに突き刺さっていく。
それは、彼らが、死の瞬間の無念と共に、心の奥底に封印してしまった、生きていた頃の、ささやかで、しかし、かけがえのない『誇り』の記憶だった。
「あんたたちは、ただの作業員じゃない。この、何もない山に、道を通し、人と人とを繋ぎ、未来を、その手で、切り拓いた、開拓者だ。あんたたちが流した汗と、時には血が、今、この国の道になってんだ。あんたたちが繋いだ未来の上を、今、大勢の人間が、笑いながら走ってんだよ」
俺は、そこで一度、言葉を切った。
そして、ありったけの、敬意と、そして、労いの想いを込めて、叫んだ。
それは、審神者としての儀式ではない。
ただ、一人の人間としての、魂からの、ねぎらいの言葉。
「───ご苦労だったな。あんたたちの仕事は、もう、とっくに終わってんだぜ」
瞬間。
世界から、音が消えた。
しん、と静まり返ったトンネルの中で。
黒い魂の塊から、ぽつり、ぽつりと、嗚咽が、聞こえ始めた。
それは、やがて、堰を切ったような、慟哭へと変わっていった。
それは、もう、怨嗟に満ちた、呪いの声ではなかった。
何十年、何百年という永い時を経て、ようやく、自分たちの生きた証を認められ、その苦しみから解放された、ただ、純粋な、魂の、涙だった。
『……ああ……』
『……そうか……俺たちは……』
『……もう、頑張らなくて、いいのか……』
黒い人影たちの輪郭が、ゆっくりと、ほどけていく。
憎悪の呪いが解け、彼らの魂が、本来の、穏やかな光を取り戻していく。
作業服を着た、日に焼けた男たちの、はにかんだような、少し照れくさそうな笑顔。
そして、その中心で、彼らを優しく見守る、美しい、山の女神の、慈愛に満ちた微笑み。
彼らは、もう、化け物ではなかった。
ただ、還る場所を見失っていただけの、迷子の魂たちだった。
「シズマ……すげえ……」
俺の背後で、ハルキが、呆然と、その光景を見上げていた。
彼の、黄金色に輝いていた瞳から、その光が、すうっと消え、元の、大きな黒い瞳に戻っていた。
その瞳は、目の前で起きている奇跡に、信じられない、というように、大きく見開かれ、うっすらと涙の膜が張っていた。
やがて、光を取り戻した魂たちは、ゆっくりと、俺の方を向いた。
そして、その場にいる全員の魂が、一つの、温かい想いとなって、俺の心に、流れ込んできた。
『…………ありがとう、審神者の兄ちゃん』
その、声にならない声を最後に。
彼らの身体は、ふわり、と、まるで体重を失ったかのように、宙に浮かび上がった。
その身体は、少しずつ、その輪郭をほどき、無数の、きらきらと輝く光の粒子へと、変わっていく。
それは、およそこの世のものとは思えないほど、幻想的で、美しい光景だった。
光の粒子は、まるで天の川のように、螺旋を描きながら、ゆっくりと、月光が差し込む、天井の穴へと、昇っていく。
その光がトンネルの壁を照らす一瞬、そこには、故郷で待つ家族の笑顔や、仲間たちと肩を組んで笑う男たちの姿が、幻のように映し出されては、消えていった。
本来、彼らが還るべき、穏やかで、安らかな、魂の故郷へと。
俺とハルキは、ただ、黙って、その光景を、見上げていた。
やがて、最後の光の粒子が、夜の闇に溶けるように消えていくと。
あれほど濃密に立ち込めていた瘴気も、血の匂いも、すべてが、嘘のように、綺麗に消え去っていた。
後に残されたのは、月光が差し込む、静かなトンネルと、俺たち二人だけ。
「…………行った、か」
俺は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
その言葉と同時に、俺の身体を支えていた、最後の緊張の糸が、ぷつり、と切れた。
凄まじい疲労感と、脳を直接かき混ぜられるような激しいめまいに襲われ、俺の身体は、ぐらり、と大きく傾いた。
「うおっ!? シズマ!」
倒れ込む寸前、その身体を、温かい何かが、力強く支えてくれた。
ハルキだった。
彼の、華奢な見た目からは想像もつかない力で、俺の体重を、しっかりと受け止めてくれている。その細い腕に、俺の命が預けられている。
「おい、しっかりしろ! 大丈夫か!?」
「……ああ……。問題、ない……」
嘘だ。問題しかない。
頭はまだガンガン痛むし、立っているだけで精一杯だ。視界は霞み、耳鳴りも止まない。
だが、それでも、俺の心は、不思議なほど、晴れやかだった。
ハルキの、あの、無茶苦茶な願いを、叶えてやれた。
ただ、その事実だけが、空っぽになった俺の魂を、温かいもので、満たしてくれていた。
俺が、ハルキの肩に体重を預け、なんとか体勢を立て直そうとした、その時だった。
トンネルの入り口から、カツ、カツ、と。
一つの、足音が、ゆっくりと、しかし、迷いのない足取りで、こちらに近づいてくるのが、聞こえた。
俺とハルキは、弾かれたように、そちらを向く。
月明かりを背にして、そこに立っていたのは。
白い、清浄な装束を纏った、一人の少女だった。その装束は、所々汚れ、破れてさえいたが、彼女の凛とした佇まいは、少しも損なわれていない。
「……橘……桔梗……」
俺の、掠れた声が、静かなトンネルに響いた。
彼女は、俺の《衝気》を受けた腹部を、片手で押さえながらも、その背筋は、まっすぐに伸びていた。
その、怜悧な瞳が、目の前の光景───完全に浄化され、清浄な空気が戻ったトンネルと、ボロボロになって寄り添う俺たち二人───を捉えて、信じられない、というように、大きく、見開かれていた。
彼女の、完璧に整えられた、人形のような顔に、初めて、明確な〝感情〟が浮かんでいた。
それは、驚愕。
困惑。
そして、自らの信じてきた「秩序」が、その絶対的な正しさが、根底から覆されるのを目の当たりにした者の、純粋な、戸惑いの色だった。
「……あなた、は……」
橘が、震える声で、言った。
その声は、もはや、俺たちを見下すような、エリートの響きではなかった。
ただ、理解不能な現象を前にした、一人の少女の、か細い声だった。
「……一体、何をしたの……? あの、特級レベルの怨念の塊は……どこへ……? 祓ったの? 滅したの? でも、その痕跡が、どこにも……」
矢継ぎ早に言葉を紡ぐ彼女は、明らかに混乱していた。神祇庁の教科書には、目の前の現象を説明できる記述など、一行たりとも存在しないのだろう。
その問いに、俺は、答える気力もなかった。
ただ、荒い息を整えながら、この、面倒くさい状況を、どう切り抜けようかと、最後の思考力を、振り絞っていた。
俺は、ハルキに肩を借り、ゆっくりと、橘の横を、通り過ぎようとした。
「待ちなさい……! 答えなさい! ……あなた、一体、何者なの……!?」
橘が、懇願するような、叫びにも似た声で、再び、問いを投げかけてくる。その声には、彼女のプライドをかなぐり捨てた、必死さが滲んでいた。
その、必死な声に、俺は、一度だけ、足を止めた。
そして、彼女の方を、振り返りもせず、ただ、一言だけ、吐き捨てるように、言った。
それは、俺が、この面倒な世界で、生きていくための、たった一つの、矜持だった。
「……言ったろ」
俺は、口の端に浮かんだ血を、手の甲で、無造作に拭う。
「俺は、ただの、古本屋だ」
その言葉を残し、俺は、もう二度と振り返ることなく、ハルキに支えられながら、トンネルの出口へと、歩き始めた。
後に残された橘は、ただ、その場に、立ち尽くすだけだった。
彼女の、完璧に構築された「秩序」の世界に、今、初めて、一つの、小さな、しかし、決して無視することのできない、亀裂が入った。
「古本屋」という、あまりにもありふれた、しかし、今の彼女にとっては、どんな神名や真名よりも不可解で、底知れない言葉の響き。
その亀裂の名は───識静馬。
彼女の、揺るぎないはずだった秩序が、この瞬間、確かに、音を立てて、揺らぎ始めたのだった。