怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第1話 「秩序の執行者、橘桔梗」ー5

「───もう、泣かなくて、いいんだぜ」

 

俺、識静馬(しき しずま)の、その言霊(ことだま)に呼応するように。

トンネルの中央、月光が差し込むその一点に蹲っていた、黒い人影たちが、ゆっくりと、その顔を上げた。

それは、顔と呼べるような代物ではなかった。憎悪と無念で歪んだ、ただの影の塊。だが、その奥の、奥の、奥の底で。数十年、あるいは数百年という永い孤独の中で、救いを求め続けていた魂の核が、俺の言葉に、確かに、反応していた。

 

『……だ……れ……?』

 

脳内に、直接、声が響いた。

それは、もはや怨嗟の呪詛ではない。

長い、長い悪夢から覚めたばかりの子供のような、か細く、そして、どこまでも純粋な、魂の問いかけだった。

 

俺の背後で、ハルキが息を呑む気配がした。

「シズマ……」

相棒の、心配そうな声。だが、俺はもう、振り返らなかった。いや、振り返れなかった。

今、この魂たちと向き合えるのは、この世で俺一人だけだ。その、重く、絶対的な事実が、俺の背筋に突き刺さっていた。

 

俺は、ゆっくりと、震える膝に力を込めて、立ち上がった。《見鬼の眼》を最大解放した反動で、脳は今にも焼き切れそうなほど悲鳴を上げ、視界は白と黒のノイズで明滅を繰り返している。五感が狂い始めていた。アスファルトの匂いが血の味に変わり、トンネルを吹き抜ける風の音が、無数の人間の悲鳴に聞こえる。だが、不思議と、目の前の魂たちの姿だけは、はっきりと、その悲しみの輪郭まで、視えていた。彼らの絶望が、俺自身の痛みとして、魂に流れ込んでくる。

 

「俺は、審神者だ」

俺は、静かに、しかし、揺るぎない声で告げた。喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど、穏やかに響いた。

「お前たちの、忘れられた名を呼び、その魂を、あるべき場所へ還すために来た」

 

その言葉に、黒い人影たちが、ざわ、と大きく揺らめいた。

俺は、彼らの魂の記憶を追体験したことで、もう、すべてを理解していた。

こいつらは、ただの悪霊の集合体ではない。

二つの、あまりにも異なる悲しみが、この呪われた土地で混ざり合い、増幅し、そして、憎悪という名の鎧を纏ってしまった、哀れな魂の寄り合い所帯なのだ。

 

一つは、このトンネル工事で、志半ばで命を落とした、作業員たちの無念。

そして、もう一つは。

忘れ去られた孤独の中で、彼らの魂を慰めようとして、逆にその憎悪に呑み込まれてしまった、この土地の名もなき山の女神の、悲哀。

 

祓うだけでは、ダメだ。

殴り飛ばしても、意味がない。

この、複雑に絡み合った憎悪の鎖を解きほぐすには、それぞれの魂の、本来の在り方を、思い出させてやるしかない。

 

俺は、まず、その中心にいる、最も昏く、そして最も悲しい光を放つ魂へと、意識を向けた。彼女こそが、この悲劇の中心。憎しみの源泉でありながら、同時に、最も深い慈愛を持つ存在。

 

「───《鳴神(なるかみ)の山の女神》よ」

 

俺が、その真名を呼んだ瞬間。

黒い人影たちの中心から、ひときわ大きな、女の悲鳴のような絶叫が迸った。トンネル全体が、びりびりと、地響きのように震え、壁からコンクリートの破片がぱらぱらと剥がれ落ちる。

 

『その名を呼ぶなッ! 我は、もはや、神などではない! 人間に忘れられ、裏切られ、穢された、ただの怨念だ! 我を捨てた人間どもが、今更どの面を下げて……!』

 

「違う」

俺は、きっぱりと、その叫びを否定した。

「あんたは、神だ。今も、昔も、変わらずに。……ただ、あんた自身が、そのことを忘れていただけだ。あんたを捨てた人間もいたかもしれねえ。だがな、あんたもまた、神であることを捨てちまったんだ」

 

俺は、一歩、その魂の塊へと、踏み出した。

無数の黒い腕が、憎悪のままに俺を捉えようと殺到する。だが、その前に、黄金の光を纏ったハルキが立ちはだかった。

「シズマは、行かせねえ……!」

相棒の、頼もしい声が、俺の背中を押してくれる。彼の、少女の姿となったその両腕は、しかし、どんな剛腕よりも力強く、怨念の濁流を押しとどめていた。

 

俺は、女神の魂に、語りかける。

それは、俺の言葉であると同時に、俺の《眼》が視た、彼女自身の、忘れられた記憶だった。俺の言霊が、光の波紋となって、彼女の魂に染み渡っていく。

 

「あんたは、この山を通る人々を、静かに見守っていた。麓の村の子供らが、あんたの祠の前で遊ぶのを、微笑ましく眺めていた。山の恵みに感謝する、ささやかな祈りを受け、その道中の安全を、ただ、願っていた。……違うか?」

 

『……っ……! やめろ……』

女神の魂が、苦痛に身を捩る。それは、俺の言葉が彼女を傷つけているからではない。忘れようとしていた、あまりにも温かい記憶が、彼女の憎悪の鎧を、内側から溶かし始めているからだ。

 

「あんたは、事故で死んだ、あの哀れな男たちの魂を、放っておけなかった。彼らの、故郷に残した家族を想う無念の声を聞き、その魂を、ただ慰めたかった。その慈愛ゆえに、彼らの魂を、その身に抱きしめた。……それも、忘れたとは言わせねえぞ」

 

俺の言霊は、呪いとなって、女神の魂を縛るのではない。

鍵となって、彼女が自ら閉ざした、記憶の扉を、こじ開けていく。

女神の魂から発せられていた、どす黒い憎悪のオーラが、わずかに、本当に、霧が晴れるように、薄らいでいくのが視えた。その闇の奥から、白無垢を纏った、気高くも優しい女神の横顔が、一瞬だけ、垣間見えた気がした。

 

そして、俺は、次に、その女神に抱かれるようにして、憎悪を撒き散らしていた、もう一つの魂たちへと、向き直った。

 

「そして、あんたたちもだ」

 

俺の声のトーンが、変わった。

それは、神に語りかけるような、厳かなものではない。

ただ、同じ時代を生きる、一人の人間として、語りかける声。

 

「あんたたちは、ただの、事故で死んだ、可哀想な被害者なんかじゃねえだろ」

 

俺の、その、挑発的とも取れる言葉に、作業員たちの魂が、ざわめいた。

怒りや、反発ではない。

困惑。そして、戸惑い。彼らの憎悪が、一瞬だけ、その矛先を見失った。

 

俺は、にやり、と口の端を吊り上げた。

血に濡れた顔で。

これから、最高の弔いの言葉を贈ってやる、兄貴分のような顔で。

 

「俺の《眼》には、視えたぜ。あんたたちの、生きてた頃の、クソッタレで、どうしようもなくて、……だけど、最高に輝いてた人生がな」

 

俺は、彼らの記憶を、追体験した。

貧しい故郷。待たせる家族。安い給金。危険な仕事。

だが、そこにあったのは、絶望だけではなかった。

 

「故郷の娘に、新しい服を買ってやりてえ、って泥だらけの顔で笑ってた奴がいたな。次の帰郷の時、絶対に驚かせてやるんだって、安酒を呷りながら、何度も、何度も、仲間たちに自慢してた」

「このトンネルが開通したら、一番に、自分の運転で、惚れた女を迎えに行くんだって、息巻いてた馬鹿がいた。給料を叩いて買った、中古の軽トラの写真を、大事そうに懐に忍ばせてた」

「こんな危険な仕事、俺たちがやらなきゃ、誰がやるんだって、胸を張ってた、頑固な爺さんもいた。若いモンにはまだ負けられんって、誰よりも早く現場に出て、誰よりも遅くまで、たった一人で槌を振るってた」

「故郷の母親に送る手紙で、いつも『心配ない』って嘘ばかりついてた、孝行息子もいた。本当は、毎日怖くて、寂しくて、たまらなかったくせにな」

 

俺の言葉の一つ一つが、光の矢のように、黒い魂たちに突き刺さっていく。

それは、彼らが、死の瞬間の無念と共に、心の奥底に封印してしまった、生きていた頃の、ささやかで、しかし、かけがえのない『誇り』の記憶だった。

 

「あんたたちは、ただの作業員じゃない。この、何もない山に、道を通し、人と人とを繋ぎ、未来を、その手で、切り拓いた、開拓者だ。あんたたちが流した汗と、時には血が、今、この国の道になってんだ。あんたたちが繋いだ未来の上を、今、大勢の人間が、笑いながら走ってんだよ」

 

俺は、そこで一度、言葉を切った。

そして、ありったけの、敬意と、そして、労いの想いを込めて、叫んだ。

それは、審神者としての儀式ではない。

ただ、一人の人間としての、魂からの、ねぎらいの言葉。

 

「───ご苦労だったな。あんたたちの仕事は、もう、とっくに終わってんだぜ」

 

瞬間。

世界から、音が消えた。

 

しん、と静まり返ったトンネルの中で。

黒い魂の塊から、ぽつり、ぽつりと、嗚咽が、聞こえ始めた。

それは、やがて、堰を切ったような、慟哭へと変わっていった。

それは、もう、怨嗟に満ちた、呪いの声ではなかった。

何十年、何百年という永い時を経て、ようやく、自分たちの生きた証を認められ、その苦しみから解放された、ただ、純粋な、魂の、涙だった。

 

『……ああ……』

『……そうか……俺たちは……』

『……もう、頑張らなくて、いいのか……』

 

黒い人影たちの輪郭が、ゆっくりと、ほどけていく。

憎悪の呪いが解け、彼らの魂が、本来の、穏やかな光を取り戻していく。

作業服を着た、日に焼けた男たちの、はにかんだような、少し照れくさそうな笑顔。

そして、その中心で、彼らを優しく見守る、美しい、山の女神の、慈愛に満ちた微笑み。

 

彼らは、もう、化け物ではなかった。

ただ、還る場所を見失っていただけの、迷子の魂たちだった。

 

「シズマ……すげえ……」

俺の背後で、ハルキが、呆然と、その光景を見上げていた。

彼の、黄金色に輝いていた瞳から、その光が、すうっと消え、元の、大きな黒い瞳に戻っていた。

その瞳は、目の前で起きている奇跡に、信じられない、というように、大きく見開かれ、うっすらと涙の膜が張っていた。

 

やがて、光を取り戻した魂たちは、ゆっくりと、俺の方を向いた。

そして、その場にいる全員の魂が、一つの、温かい想いとなって、俺の心に、流れ込んできた。

 

『…………ありがとう、審神者の兄ちゃん』

 

その、声にならない声を最後に。

彼らの身体は、ふわり、と、まるで体重を失ったかのように、宙に浮かび上がった。

その身体は、少しずつ、その輪郭をほどき、無数の、きらきらと輝く光の粒子へと、変わっていく。

それは、およそこの世のものとは思えないほど、幻想的で、美しい光景だった。

光の粒子は、まるで天の川のように、螺旋を描きながら、ゆっくりと、月光が差し込む、天井の穴へと、昇っていく。

その光がトンネルの壁を照らす一瞬、そこには、故郷で待つ家族の笑顔や、仲間たちと肩を組んで笑う男たちの姿が、幻のように映し出されては、消えていった。

本来、彼らが還るべき、穏やかで、安らかな、魂の故郷へと。

 

俺とハルキは、ただ、黙って、その光景を、見上げていた。

やがて、最後の光の粒子が、夜の闇に溶けるように消えていくと。

あれほど濃密に立ち込めていた瘴気も、血の匂いも、すべてが、嘘のように、綺麗に消え去っていた。

後に残されたのは、月光が差し込む、静かなトンネルと、俺たち二人だけ。

 

「…………行った、か」

 

俺は、誰に言うでもなく、そう呟いた。

その言葉と同時に、俺の身体を支えていた、最後の緊張の糸が、ぷつり、と切れた。

凄まじい疲労感と、脳を直接かき混ぜられるような激しいめまいに襲われ、俺の身体は、ぐらり、と大きく傾いた。

 

「うおっ!? シズマ!」

 

倒れ込む寸前、その身体を、温かい何かが、力強く支えてくれた。

ハルキだった。

彼の、華奢な見た目からは想像もつかない力で、俺の体重を、しっかりと受け止めてくれている。その細い腕に、俺の命が預けられている。

 

「おい、しっかりしろ! 大丈夫か!?」

「……ああ……。問題、ない……」

 

嘘だ。問題しかない。

頭はまだガンガン痛むし、立っているだけで精一杯だ。視界は霞み、耳鳴りも止まない。

だが、それでも、俺の心は、不思議なほど、晴れやかだった。

ハルキの、あの、無茶苦茶な願いを、叶えてやれた。

ただ、その事実だけが、空っぽになった俺の魂を、温かいもので、満たしてくれていた。

 

俺が、ハルキの肩に体重を預け、なんとか体勢を立て直そうとした、その時だった。

トンネルの入り口から、カツ、カツ、と。

一つの、足音が、ゆっくりと、しかし、迷いのない足取りで、こちらに近づいてくるのが、聞こえた。

 

俺とハルキは、弾かれたように、そちらを向く。

月明かりを背にして、そこに立っていたのは。

白い、清浄な装束を纏った、一人の少女だった。その装束は、所々汚れ、破れてさえいたが、彼女の凛とした佇まいは、少しも損なわれていない。

 

「……橘……桔梗……」

 

俺の、掠れた声が、静かなトンネルに響いた。

彼女は、俺の《衝気》を受けた腹部を、片手で押さえながらも、その背筋は、まっすぐに伸びていた。

その、怜悧な瞳が、目の前の光景───完全に浄化され、清浄な空気が戻ったトンネルと、ボロボロになって寄り添う俺たち二人───を捉えて、信じられない、というように、大きく、見開かれていた。

彼女の、完璧に整えられた、人形のような顔に、初めて、明確な〝感情〟が浮かんでいた。

それは、驚愕。

困惑。

そして、自らの信じてきた「秩序」が、その絶対的な正しさが、根底から覆されるのを目の当たりにした者の、純粋な、戸惑いの色だった。

 

「……あなた、は……」

橘が、震える声で、言った。

その声は、もはや、俺たちを見下すような、エリートの響きではなかった。

ただ、理解不能な現象を前にした、一人の少女の、か細い声だった。

 

「……一体、何をしたの……? あの、特級レベルの怨念の塊は……どこへ……? 祓ったの? 滅したの? でも、その痕跡が、どこにも……」

 

矢継ぎ早に言葉を紡ぐ彼女は、明らかに混乱していた。神祇庁の教科書には、目の前の現象を説明できる記述など、一行たりとも存在しないのだろう。

 

その問いに、俺は、答える気力もなかった。

ただ、荒い息を整えながら、この、面倒くさい状況を、どう切り抜けようかと、最後の思考力を、振り絞っていた。

俺は、ハルキに肩を借り、ゆっくりと、橘の横を、通り過ぎようとした。

 

「待ちなさい……! 答えなさい! ……あなた、一体、何者なの……!?」

 

橘が、懇願するような、叫びにも似た声で、再び、問いを投げかけてくる。その声には、彼女のプライドをかなぐり捨てた、必死さが滲んでいた。

その、必死な声に、俺は、一度だけ、足を止めた。

そして、彼女の方を、振り返りもせず、ただ、一言だけ、吐き捨てるように、言った。

それは、俺が、この面倒な世界で、生きていくための、たった一つの、矜持だった。

 

「……言ったろ」

 

俺は、口の端に浮かんだ血を、手の甲で、無造作に拭う。

 

「俺は、ただの、古本屋だ」

 

その言葉を残し、俺は、もう二度と振り返ることなく、ハルキに支えられながら、トンネルの出口へと、歩き始めた。

後に残された橘は、ただ、その場に、立ち尽くすだけだった。

彼女の、完璧に構築された「秩序」の世界に、今、初めて、一つの、小さな、しかし、決して無視することのできない、亀裂が入った。

「古本屋」という、あまりにもありふれた、しかし、今の彼女にとっては、どんな神名や真名よりも不可解で、底知れない言葉の響き。

その亀裂の名は───識静馬

彼女の、揺るぎないはずだった秩序が、この瞬間、確かに、音を立てて、揺らぎ始めたのだった。

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