怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
結局、その夜は一睡もできなかった。
いや、正確には、意識を失うことが怖くて、眠ることを自ら拒絶していた、と言うべきか。
自室のベッドに横たわったまま、俺、識静馬(しき しずま)は、闇に溶け込んだ天井の木目を、ただひたすらに見つめ続けていた。思考の沼に沈み、もがけばもがくほど、昨夜の出来事が鮮明な輪郭を持って蘇ってくる。あのトンネルで繰り広げられた死闘。そして、その代償として交わした、これまでで最も深く、切実だった口づけ。その残像が、瞼の裏に焼き付いて離れないのだ。
腕の中で熱に浮かされ、獣のように喘ぎながら俺を求めた、親友の姿。
そして、すべてが終わった後、俺の首に腕を回し、蕩けるような瞳で「……もっかい、して……?」と囁いた、あの、どうしようもなく〝女の子〟だった、ハルキの表情。
───クソッ。
思い出すだけで、全身の血液が沸騰しそうだ。
あれは、力の暴走による、ただの錯乱状態だった。そうだ、そうに違いない。そうでもなければ、俺の、十九年間かけて辛うじて築き上げてきた、か弱い理性の城壁が、完全に崩壊してしまう。俺はハルキを〝親友〟として見ている。その事実に、揺らぎはない。断じて。
だが、あの瞬間のハルキは、あまりにも……あまりにも、抗いがたい〝雌〟の匂いを放っていた。
それ以上に俺の心を重くしていたのは、あのキスの〝質〟の変化だった。
ハルキが自らの意志で、その身に宿した怪異の力の一部をこじ開けた、あの瞬間。俺とあいつの魂の繋がりは、これまでとは比較にならないほど、深く、そして混濁したものになってしまった。
俺の霊力は、もはや、ただの延命措置のための〝錨〟ではない。
暴走する神の力を鎮めるための〝鎮静剤〟であり、そして、彼の魂が〝少女の器〟へと最適化されていくのを、強制的に促してしまう〝劇薬〟と化したのだ。
唇を通して霊力を注ぎ込むたびに、俺の魂の一部が彼の中に流れ込み、彼の魂の一部が俺の中に流れ込んでくる。その感覚は、回を追うごとに濃密さを増している。混じり合い、溶け合い、境界が曖昧になっていく。
俺がハルキを救おうとすればするほど、〝日野陽輝〟という男だった頃の彼が、俺自身のこの手によって、少しずつ、殺されていく。
その、あまりにも皮肉で、救いのない事実に、俺は、答えを見つけられないまま、ただ、夜の闇に思考を沈めることしかできなかった。
そんな、俺の、どうしようもない葛藤を嘲笑うかのように。
階下からは、とんとんとんとん、と。
やけにリズミカルで、軽快な包丁の音が聞こえてきた。それに続いて、味噌がふつふつと煮える香ばしい匂いと、甘い卵焼きが焼ける匂いが、階下の居間から漂ってくる。
生活の音。日常の匂い。
その、あまりにも平和な響きに、俺はゆっくりと、軋む身体を起こした。腹が、ぐぅ、と情けない音を立てる。どうやら、どれだけ頭を悩ませようと、腹は減るらしい。この、図太い生命力だけが、俺の唯一の取り柄なのかもしれない。
◇◆◇
寝不足と《見鬼の眼》の反動でガンガンと痛む頭を押さえながら、俺は寝間着代わりのスウェットのまま、居間へと続く襖を開けた。
そして、そこに広がっていた光景に、俺はしばし絶句することになる。
ちゃぶ台の上には、すでに完璧な日本の朝食が、湯気を立てて並べられていた。
炊き立ての、米粒一つ一つが輝く白米。豆腐とわかめ、そして刻みネギが美しく散らされた味噌汁。小鉢に盛られた、みずみずしい胡瓜の浅漬け。そして、大皿の上には、黄金色に輝く、見るからにふわふわな出汁巻き卵が、鎮座していた。
その、あまりにも完璧な光景と、その隣。
台所で、鼻歌交じりに洗い物をしている、一人の絶世の美少女の、その後ろ姿。
「お、シズマ! おはよう! ちょうど出来たところだぜ!」
俺の気配に気づいた彼女───日野陽輝(ひの はるき)は、くるり、と軽やかに振り返った。
その姿に、俺の脳は、再び処理能力の限界を迎える。
俺が貸した、くたびれたパーカーに、なぜか祖母の戸棚から引っ張り出してきたのであろう、花柄のフリル付きエプロンという、壊滅的にミスマッチな出で立ち。その美しい黒髪は、邪魔にならないように、高い位置で無作法なお団子にまとめられている。だが、その無造作さが、かえって芸術的なまでに美しい、白い首筋を際立たせていた。そのうなじの、あまりの白さに、俺は思わず目を逸らした。
「ほら、突っ立ってないで座れって。冷めちまうだろ?」
ハルキは、濡れた手をエプロンで拭うと(行儀が悪い)、俺の腕をぐい、と引っ張って、ちゃぶ台の前に座らせた。その、あまりにも家庭的で、あまりにも自然な、〝奥さん〟ムーブ。
俺は、もはや何も言うことができず、されるがままに、自分の席に着いた。
───いや待て待て待て待て! 情報量が、情報量が多すぎる! なんで朝っぱらから、美少女(♂)の完璧な手作り和朝食を食わきゃならんのだ! 昨日まで、魚を炭化させることしかできなかったはずの、あの料理スキルはどこへ行った!? 俺が眠っている間に、一体何があった!? それと、そのエプロンはどこから出した! 似合いすぎているのが、逆に、猛烈に腹立たしい!
俺が内心で、嵐のようなツッコミを繰り広げていると、ハルキは「どうだ、すげえだろ!」と、得意満面に胸を張った。
「ばあちゃんに、一から叩き込んでもらったんだぜ! いやー、料理って面白いな! なんか、こう、無心になれるっつーか! 味噌を溶かすタイミングとか、出汁の火加減とか、すげー繊細なんだな。今まで適当にやってたのが馬鹿みたいだ!」
その、屈託のない笑顔。
だが、俺は、見逃さなかった。
彼が、得意げに腰に手を当てた、その仕草。腕の角度、腰の捻り方、そして、こてん、と僅かに傾げられた首の角度。
その、一つ一つが、恐ろしいほどに、洗練された〝女の子〟のそれなのだ。
本人は、完全に、無自覚。
だが、昨夜の口づけを境に、彼の魂は、その器である〝少女の身体〟の動かし方を、完全にマスターしてしまっている。まるで、長年連れ添った自分の身体であるかのように、ごく自然に、最も効率的で、そして最も〝魅力的に見える〟動きを、トレースしてしまっているのだ。
「……いただきます」
俺は、観念して、箸を取った。
出汁巻き卵を一口、口に運ぶ。
瞬間。
口の中に、出汁の優しい風味と、卵のふんわりとした甘みが、渾然一体となって広がった。
……美味い。
……いや、正直に言おう。
……俺が作るより、圧倒的に、美味い。
「…………っ!」
「ど、どうだ……? ちょっと、しょっぱかったか……?」
ハルキが、期待と不安が入り混じった顔で、俺の反応を窺っている。その姿は、初めての手料理を恋人に食べさせる、健気な少女そのものだった。
……中身は、男だけど。そして、その潤んだ瞳で繰り出す上目遣いは、もはや戦略級の破壊力を持っている。俺の心臓が、不規則に跳ねた。
「……まあ、食えなくは、ない」
俺は、そっぽを向きながら、ぶっきらぼうにそう答えるのが精一杯だった。これ以上、こいつの顔を見ていたら、余計なことを口走りそうだった。
「へへっ、だろ!?」
ハルキは、ぱあっと、満開の向日葵のように笑った。
その、あまりにも眩しい笑顔に、俺は思わず目を細める。
監視されている、という重圧。
これから始まる、先の見えない戦いへの不安。
そんな、俺の心に溜まった黒い澱が、この、底抜けに明るい笑顔の前では、ほんの少しだけ、軽くなるような気がした。
だが、その、一瞬の安らぎも、束の間だった。
ハルキは、自分の席に座ると、いつものようにあぐらをかこうとして、一瞬、動きを止め、なぜか、戸惑うように、ちょこん、と正座に座り直した。
そして、茶碗と箸を持つ、その手つき。
以前の、鷲掴みに近いような乱暴な持ち方ではなく、指先まで神経が行き届いた、驚くほどに、上品な所作に変わっている。味噌汁のお椀に手を添える、その小指の、僅かな角度にさえ、妙な色気があった。
「……ん? あれ?」
ハルキ自身も、その変化に、微かな違和感を覚えたらしい。
彼は、不思議そうに、自分の両手を見つめている。
「なんか……今日、身体の動かし方、しっくりこねえな……。っていうか、こっちの方が、しっくりくる、のか……?」
「……気のせいだろ」
俺は、気づかないふりをして、味噌汁を啜った。心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。
指摘できない。
指摘したところで、どうなる?
「おいハルキ、お前の仕草、全部女の子になってるぞ」とでも言えってのか?
そんなことを言えば、こいつは、きっと、深く傷つくだろう。自分が、自分でなくなっていくという、残酷な事実を、突きつけられて。
俺は、何も言えない。
ただ、内心で、的確すぎるツッコミを入れながら、この奇妙な朝食を、黙々と胃に流し込むことしか、できなかった。
◇◆◇
その日の昼下がりも、古書店『天逆堂』は、平和そのものだった。
ちりん、と店の扉に付けられた真鍮のベルが、乾いた音を立てる。
「いらっしゃいませー」
カウンターの奥、指定席である椅子に腰掛けたまま、俺は、気のない声を張り上げた。
ハルキは、居住スペースの方で、祖母と一緒に、テレビの昼ドラを見ているようだった。
「うわ、ありえねえ! なんでここでそいつを信じるんだよ、主人公!」「男の俺から見ても、こいつは絶対クロだぜ、ばあちゃん!」「あらあら、陽輝ちゃんは純情ねえ」などという会話が聞こえてくる。
言っている内容は、完全に男のそれだ。ドラマの展開に、野太い(はずの)ヤジを飛ばしている。だが、そのツッコミを入れる声が、いちいち鈴を転がすように可憐に響き、語尾が僅かに上ずるせいで、ひどくチグハグな印象を受ける。まるで、男の魂が、少女の身体という楽器を通して、無理やり音を奏でているような、そんな違和感。
そのアンバランスな光景に、俺は知らず知らずのうちに、深く、深いため息をついていた。
男の魂と女の器。その歪な調和が、いつか完全に溶け合ってしまう日が来るのだろうか。そんなことを考えると、胸の奥が冷たくなる。
だが、それでも。
神祇庁の影も、新たな怪異の気配もない。ただ、親友の(やけに可愛い)ツッコミと、祖母の穏やかな笑い声だけが響く、この歪で、しかし間違いなく平和な時間が、永遠に続いてくれれば、と。柄にもないことを、願ってしまっていたのだ。
だから、油断していた。
その〝訪問者〟が、あまりにも、唐突に、そして、あまりにも、無粋に、俺たちの日常を、再び、破壊しに来るということを。
ベルの音に、顔を上げる。
そこに立っていたのは、客ではなかった。
黒いスーツに身を包んだ、体格の良い、二人の男。
そのどちらもが、サングラスをかけ、その表情からは、一切の感情が読み取れない。まるで、精巧に作られた、マネキンのようだ。
だが、俺には、分かった。
この、全身から放たれる、尋常ならざる圧力。
それは、あの夜、黒塗りの車の中から感じた、鋼のような、冷徹な魂の気配と、完全に、一致していた。
───来た、か。
俺は、カウンターの下で、いつでも護符を取り出せるように、指を構えた。
心臓が、警鐘のように、どく、どくと脈打っている。店内に漂う古書の匂いが、急に、息苦しいものに感じられた。
男たちは、古書には目もくれず、一直線に、カウンターの前までやってきた。革靴の音が、静かな店内に、不快に響く。
そして、その内の一人が、抑揚のない、機械のような声で、言った。
「識静馬(しき しずま)氏で、お間違いないでしょうか」
その声は、疑問形でありながら、すでに答えを知っている、確認作業の響きしか持っていなかった。
「……そうですが」
俺は、警戒を最大限に滲ませながら、答える。
「何か、ご用件でも?」
「我々は、神祇庁・特殊祭祀対策課の者です」
男は、懐から、警察手帳のようなものを、一瞬だけ、提示した。そこには、菊花紋を模した、見慣れない徽章が刻まれている。神祇庁。日本の神事を、裏から統べる、国家機関。その存在は、父の遺した書物で、知っていた。
「あなたに、お伺いしたいことがあります。……任意での、ご同行を、お願いします」
任意。
その言葉が、ひどく、白々しく響いた。
彼らの、その、有無を言わせぬ態度。壁のように立ちはだかる、その威圧感。
それが、任意などという、生易しいものではないことを、雄弁に物語っていた。
「……断ると、言ったら?」
俺は、挑発するように、そう言った。ここで素直に従うのは、癪だった。
すると、もう一人の男が、サングラスの奥で、その冷たい瞳を、すう、と細めたのが分かった。
そして、その視線は、俺の背後、居住スペースへと続く廊下へと、一瞬だけ、向けられた。明確な、意図を持って。
「その場合は、残念ですが、我々も、法と規定に則り、実力での保護に、移行せざるを得ません」
その言葉の、本当の意味。
俺は、それを理解し、全身の血が、急速に凍てついていくのを感じた。
「無論、その保護対象は、あなた一人とは、限りませんが」
それは、紛れもない、脅迫だった。
俺が抵抗すれば、ハルキに、手を出す、と。
神祇庁という巨大な組織を前に、今はまだあまりにも無力な相棒に。
「……っ!」
俺は、奥歯を、強く噛み締めた。
怒りで、目の前が、真っ赤に染まりそうになる。
だが、ここで俺がキレて、戦闘になったら?
この店は、めちゃくちゃになるだろう。祖母も、危険に晒される。そして何より、ハルキが、こいつらの前に、その姿を晒すことになってしまう。
それだけは、絶対に、避けなければならない。
「……分かった」
俺は、喉の奥から、絞り出すように、そう言った。
悔しさで、唇が、震えそうになるのを、必死に、堪える。
「……行こう。ただし、この店の者たちには、手を出すな。それが、条件だ」
「賢明なご判断です」
スーツの男は、表情一つ変えずに、そう言った。まるで、最初から、こうなることが分かっていたかのように。
その、俺たちの、張り詰めたやり取りを聞きつけて、店の奥から、ハルキが、ひょっこりと顔を出した。
「おいシズマ、なんだこいつら? なんかヤクザみてーな格好して……。お前、なんかヤベェのに絡まれたのか?」
その、あまりにも場違いな、男らしい口調。しかし、その声は鈴を転がすように可憐に響き、心配そうに眉をひそめる表情は、庇護欲をそそる美少女そのものだった。男たちは一瞬、その異様なアンバランスさに、僅かに眉を動かしたように見えた。
「なんでもねえよ。お前は引っ込んでろ」
「嘘つけ! 顔に『クソ面倒なことになりました』って書いてあんだよ! 俺も行く!」
ハルキが勢いよく一歩踏み出そうとするのを、俺は鋭い視線で制した。
「来るな! いいから、お前は、ばあちゃんと一緒に、ここにいろ。これは俺の問題だ。絶対に、ここから、出るなよ」
俺の、これまでにないほど険しい声に、ハルキは、ぐっと言葉を詰まらせた。その大きな瞳が、不安と、納得できないという反発の色を浮かべて、俺とスーツの男たちを交互に見ている。
「……シズマ……」
か細く、俺の名を呼ぶ声。それは、どうすることもできない自分の無力さを噛み締める、親友の声だった。
「大丈夫だ」
俺は、自分に言い聞かせるように、そう、繰り返した。
「すぐに、戻るから」
それは、約束だった。
相棒に、そして、俺自身に、固く、固く、誓った、約束。
俺は、スーツの男たちに促されるまま、カウンターから出た。
そして、店の扉を開け、外の、眩しい光の中へと、足を踏み出す。
店の前には、いつの間にか、一台の、黒塗りのセダンが、音もなく、停まっていた。
あの日、俺が視た、あの車だ。
男に、後部座席のドアを開けられ、俺は、無言で、その中に、身体を滑り込ませた。
革張りのシートが、ひやりと、冷たい。
ドアが、重い音を立てて閉められると、俺は、完全に、外の世界から、隔離された。
車は、静かに、そして、滑るように、発進する。
俺は、スモークのかかった窓ガラス越しに、小さくなっていく、古書店『天逆堂』の姿を、ただ、じっと、見つめていた。
店の入り口で、悔しそうに唇を噛み締め、立ち尽くす、ハルキの姿が見える。
その、美しい少女の姿で、どうしようもない憤りを浮かべる親友の姿が、俺の、脳裏に、焼き付いて離れなかった。
(……待ってろよ、ハルキ)
俺は、心の中で、そう、呟いた。
(どんな面倒なことになろうと、俺は、絶対に、お前のところに、帰るからな)
車は、見慣れた商店街を抜け、俺の知らない、都会のコンクリートジャングルの中へと、吸い込まれていった。
これから始まる、全く質の違う戦いを、予感させながら。
それは、神の気まぐれでも、怪異の悪意でもない。
人間が作り出した、「秩序」という名の、冷徹で、巨大なシステムとの、孤独な戦いの、始まりだった。