怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
無機質な沈黙が、俺の鼓膜を圧迫していた。
コンクリートの打ちっ放しで構成された、窓一つない、灰色の箱。部屋の中央に置かれた、冷たい金属製の長机と、二脚のパイプ椅子。天井に埋め込まれたLEDライトだけが、まるで手術室のように、感情のない白い光を投げかけている。
空気には、古書の匂いも、生活の匂いもない。ただ、消毒液と、最新の空調設備が吐き出す、乾いた空気の匂いだけが満ちていた。
ここが、神祇庁・天照派の支部施設の一室らしい。
あの黒塗りのセダンに押し込まれ、数十分ほど走った後、俺、識静馬(しき しずま)は、地下駐車場のような場所で降ろされ、この独房にも似た取調室へと、有無を言わさず案内されたのだ。
(……完全に、ナメられてるな、こりゃ)
パイプ椅子に深く腰掛け、腕を組みながら、俺は内心で悪態をついた。
壁には、目に見えない霊的防御術式が、幾重にも張り巡らされているのが肌で分かる。近代的な監視カメラが、俺の一挙手一投足を、無感情に記録していることだろう。
これは、対話の場ではない。尋問の場だ。
俺という存在を、完全に管理下に置き、その危険性を値踏みするための、査定の場。
───クソッ、どいつもこいつも、人の都合を考えやがって。こちとら、寝不足と《見鬼の眼》の反動で、頭痛がオーケストラを奏でてるってんだ。せめて、カツ丼くらい出せ、カツ丼を。いや、それじゃ完全に刑事ドラマの容疑者だが、今の俺の扱いは、それ以下かもしれん。
そんな、どうでもいい脳内ツッコミで、張り詰めそうな意識を必死に逸らしていると。
カシュ、と。
空気の圧縮が抜けるような、軽い音を立てて、部屋の扉が、横にスライドして開いた。
入ってきたのは、二人の人影だった。
一人は、見覚えのある少女だった。
凛とした気品。研ぎ澄まされた、刃のような鋭さ。そして、一切の穢れを許さない、絶対的なまでの、清浄さ。
神社の巫女が纏う装束を、未来の戦闘服か何かのようにリデザインした、白い小袖と緋色の袴。
神祇庁・特殊祭祀対策課、第壱係所属、橘桔梗(たちばな ききょう)。
あのトンネルで、俺に完膚なきまでに叩きのめされたはずの彼女は、しかし、その表情に敗北の影など微塵も浮かべていなかった。その怜悧な瞳は、以前にも増して冷たく、俺を「分析すべきデータ」として、無感情にスキャンしている。
そして、もう一人。
橘の後ろに立つ、四十代半ばほどの、厳格な顔つきの男。
橘と同じ、天照派の制服を、一分の隙もなく着こなしている。神職としての階級を示すのであろう、その肩には、橘よりも多くの階級章が輝いていた。おそらく、彼女の上司だろう。その魂は、橘以上に、徹底的に管理され、鍛え上げられた、鋼の色をしていた。
「……識静馬、氏」
男が、低い、感情の温度を感じさせない声で、俺の名を呼んだ。
俺は、返事をしなかった。ただ、ふてぶてしく足を組み、その男を、睨み返す。
俺の、その、反抗的な態度に、男の眉が、わずかに、ぴくりと動いた。だが、それだけだった。彼は、手にしたタブレット端末に視線を落とすと、まるで、出来の悪い報告書でも読み上げるかのように、淡々と、言葉を続けた。
「我々の調査によると、あなたは、古来よりその血統を今日まで受け継いできた、【審神者】の一族の、末裔である、と結論付けられています。その認識に、間違いは?」
「……さあな。俺は、ただの古本屋だが」
「とぼけるのは、おやめなさい」
俺の、見え透いた嘘を、ぴしゃり、と遮ったのは、橘だった。
その声は、鈴を振るように涼やかでありながら、絶対零度の響きを持っていた。
「あなたのその《眼》……《見鬼の眼》は、我々の霊的観測装置にも、明確な反応として記録されています。そして、先日、貴方が鳴神トンネルで行使した術。あれは、討伐でも、祓除でもない。対象の魂の根源に直接干渉し、その在り方を裁定する……まさしく、審神者のみに許された、古の秘術。……我々は、それを『鎮魂』と分類しています」
その言葉に、俺は内心で舌打ちした。
やはり、あのトンネルでの一件も、すべて監視されていたのだ。こいつらは、俺が持つ力の、その本質まで、完全にお見通しというわけか。
「……それが、どうした」
俺は、あくまで、しらを切り通すことに決めた。
「あんたたちには、関係のないことだろ」
「関係なくは、ありません」
今度は、上司の男が、言った。その声には、明確な、侮蔑の色が滲んでいた。
「あなたのその力は、あまりにも、非効率で、非論理的で、そして、危険すぎる。我々が数百年かけて築き上げてきた、近代祓魔術の体系と、この国の霊的秩序を、根底から覆しかねない、極めて危険な〝バグ〟です」
バグ。
その、あまりにも無機質で、あまりにも傲慢な単語。
俺の中で、何かが、ぷつり、と切れる音がした。
「……バグ、だと?」
俺は、低い、地の底から絞り出すような声で、聞き返した。
「あんたらにとっちゃ、神様の悲しみも、亡霊の無念も、全部、ただの『バグ』ってことか。……ヘドが出るな」
「感情論は、不要です」
橘が、俺の激情を、まるで冷たいメスで切り裂くかのように、言った。
「我々が問題にしているのは、あなたの思想ではない。あなたの、その、管理されていない〝力〟の、危険性です」
そして、彼女は、俺の、心の、一番、触れられたくない場所に、その冷たい刃を、容赦なく、突き立ててきた。
「そして、その危険性は、あなたが現在、〝保護〟している、あの霊的汚染源によって、最大化されている」
霊的汚染源。
その言葉が、誰を指しているのか。
俺は、理解し、全身の血が、急速に凍てついていくのを感じた。
「あなたは、分かっていない」
橘は、続ける。その瞳には、哀れな無知を見るかのような、憐憫の色さえ浮かんでいた。
「あなたが匿っているモノは、もはや、あなたのご友人などではない。あれは、我が国の歴史上でも、数えるほどしか確認されていない、特A級の危険指定荒神《啼哭の花嫁》が、人間の魂を苗床として受肉しかけている、極めて不安定な状態……。我々の分類では、カテゴリーA・危険指定荒神憑依体と呼称される、ただの、時限爆弾です」
カテゴリーA・危険指定荒神憑依体。
ハルキのことを、ただの、記号と、数字で。
モノとして。
「…………ふざけるな」
俺の口から、漏れた声は、自分でも驚くほど、冷たく、そして、殺意に満ちていた。
俺は、組んでいた足を解き、ゆっくりと、立ち上がった。
パイプ椅子が、ぎ、と軋む。
「てめえらが、あいつを、どう呼ぼうと、勝手だ」
俺は、目の前の、秩序の番人たちを、まっすぐに、睨みつけた。
「だがな、あいつは、モノじゃねえ。俺の、たった一人の、親友だ。……それだけは、忘れんじゃねえぞ」
俺の、その、剥き出しの敵意を受けても、二人の表情は、変わらなかった。
ただ、上司の男が、ふ、と、まるで虫けらでも見るかのように、鼻で笑っただけだった。
そして、彼は、この、不毛な尋問の、最終的な結論を、宣告した。
それは、あまりにも、一方的で、あまりにも、無慈悲な、最後通牒だった。
「話は、分かりました」
男は、タブレットの電源を落とすと、言った。
「識静馬。あなたには、これより、審神者としての、一切の霊的活動の、全面的な禁止を、通告します」
「……は?」
「そして、問題の憑依体……あなたの、その〝ご友人〟は、我々、神祇庁の管理下で、速やかに、その身柄を、引き渡していただきます」
「……断ると、言ったら?」
「その場合は、残念ですが」
男は、そこで、初めて、その口元に、歪んだ笑みを浮かべた。
それは、勝利を確信した者の、冷酷な、笑みだった。
「我々も、法と規定に則り、その〝汚染源〟を、我々が直接、〝処理〟するまでです。……無論、その過程で、器であるご友人の魂が、どうなろうと、我々の知るところではありませんがね」
それは、紛れもない、脅迫だった。
俺が抵抗すれば、ハルキを、殺す、と。
神祇庁という、国家権力を背景にした、絶対的な暴力が、俺の、たった一つの、守りたいものを、人質に取ったのだ。
「……っ!」
俺は、奥歯を、強く噛み締めた。
怒りで、目の前が、真っ赤に染まりそうになる。
だが、同時に、どうしようもない、無力感が、全身を支配した。
そうだ。
俺一人で、何ができる?
この、鉄壁の要塞の中で、国家という巨大なシステムを相手に、俺に、何ができるというのだ。
ハルキが、いない。
祖母も、いない。
俺は、完全に、孤立無援だった。
「賢明な、ご判断を」
男は、俺の絶望を見透かしたように、そう、言い放った。
その、あまりにも、傲慢な響きが、俺の、最後の理性の糸を、断ち切ろうとしていた。
もう、どうなってもいい。
ここで、暴れて、こいつらを、一人でも、道連れにして……。
俺が、そう、自暴自棄な結論に、達しかけた、まさに、その瞬間だった。
カシュ、と。
再び、その、軽い音を立てて。
取調室の、扉が、開いた。
そこに立っていたのは、スーツ姿の男たちでも、冷徹な巫女でもない。
高価そうな、鈍い光沢を放つ、鼠色の紬の袷。
その、品の良い和装に身を包んだ、一人の、穏やかな笑みを浮かべた、老人だった。
「───これはこれは」
老人は、部屋の中の、張り詰めた空気を、まるで意にも介さないかのように、その細い目を、さらに細めて、言った。
その声は、静かでありながら、この場の、すべての空気を、一瞬で、塗り替えるほどの、絶対的な存在感を、持っていた。
「天照派の皆様は、随分と、物騒なお茶会を、開いておられるようですな」
その、あまりにも、場違いで、あまりにも、人を食ったような声。
その声の主を、俺は、知っていた。
数日前、俺の店を訪れ、不吉な警告を残していった、あの、得体の知れない老人。
「……何をしに来た、蘇我文人ッ……!」
橘の上司の男が、初めて、その冷静さを崩し、忌々しげに、その名を、吐き捨てた。
その反応で、俺は、確信した。
この老人こそが。
この、絶望的な状況を、ひっくり返すための、唯一の、鍵なのだと。
◇◆◇
橘の上司が吐き捨てた名を耳にしながら、その声の主───先日、俺の古書店を訪れた、品の良い和装の老人、蘇我文人(そがの ふひと)は、にこり、と人の好い笑みを浮かべたまま、ゆっくりと取調室に足を踏み入れた。
彼の登場は、この無機質で、完全に管理された空間に投じられた、あまりにも異質な一滴のインクだった。その存在だけで、張り詰めていた秩序が、じわり、と歪んでいくのが分かった。
「……蘇我文人ッ……! なぜ、貴方がここに……! ここは、我々天照派の管轄のはず!」
橘の上司の男が、改めて、狼狽を隠しきれない声で詰問した。その顔には、面倒な闖入者に対する苛立ちと、自分よりも上位の存在に対する、隠微な警戒の色が浮かんでいた。
どうやら、この老人は、この男が声を荒らげるほどの、大物らしい。
「おや、これはこれは、権禰宜(ごんねぎ)殿」
蘇我と呼ばれた老人は、橘の上司の階級を正確に口にしながら、悠然と頭を下げてみせた。その所作は完璧で、だからこそ、底知れない圧力を感じさせる。
「無論、承知しておりますとも。ただ、あなた方が、いささか〝興味深いお客様〟をお迎えしていると耳にしましたものでね。ご挨拶に伺ったまででございますよ」
そう言うと、蘇我は、その細い瞳を、ゆっくりと俺に向けた。
その視線は、数日前に店で交わしたものと同じ、値踏みするような、それでいてどこか、悪戯っ子のような光を含んでいた。
「……若君。ご無事で、何よりです」
「……どうも」
俺は、短く、ぶっきらぼうに答えることしかできなかった。状況が、まだ、飲み込めていない。敵か、味方か。この男の、真意が読めない。
「貴様……! 我々の尋問を、盗聴していたのか!」
「人聞きの悪いことをおっしゃる。神祇庁の施設内は、どこもかしこも、情報共有のためにネットワークで繋がっておりますからな。〝漏れ聞こえてきた〟、とでも、申し上げておきましょうか」
蘇我は、扇子をひらりと広げ、その口元を隠した。その仕草は、ひどく優雅で、だからこそ、ひどく、挑発的だった。
───クソッ、なんだこの爺さん。完全に、一枚も二枚も上手じゃねえか。あの、氷の塊みたいな上司を、完全に手玉に取ってやがる。
俺が、その、あまりにも高度な政治的駆け引きに呆気に取られていると、蘇我は、俺と橘たちとの間に、まるで割って入るかのように、ゆっくりと歩を進めた。
そして、その矛先を、今度は、黙って俺を睨みつけている、橘桔梗へと向けた。
「そして、橘家の、お嬢さん」
「……」
名を呼ばれた橘は、ぴくり、と眉を動かしたが、何も答えない。ただ、その怜悧な瞳で、蘇我を射抜くように見つめている。
「あなたも、お父上によく似て、随分と、融通の利かない正義を、振りかざされるようだ。……ですがね、お嬢さん。若さゆえの、あまりに硬直した正義は、時に、自らの首を絞めることにもなりますぞ」
「……ご忠告、痛み入ります。ですが、私の信じる秩序に、一点の曇りもありません」
橘は、静かに、しかし、きっぱりと、そう言い返した。その瞳には、たとえ相手が組織の重鎮であろうと、自らの信念を曲げるつもりはないという、鋼の意志が宿っていた。
その、あまりの頑固さに、蘇我は、ふ、と楽しそうに息を漏らした。
「ほう。頼もしいことですな。ですが、その、あなた方が信じる『秩序』とやらは、一体、誰のためのものですかな?」
蘇我は、広げていた扇子を、ぱちり、と小気味よい音を立てて閉じた。
その瞬間、彼の纏う空気が、変わった。
それまでの、飄々とした老人の雰囲気は消え失せ、代わりに、この国の、霊的世界の、その深奥を知る者だけが持つ、底知れないほどの、重い圧力が、その小さな身体から、溢れ出した。
「神祇庁の法は、確かに、この国の霊的秩序を守るための、重要な礎。……ですが、それは、あくまで、我ら人間が作り出した、便宜上のルールに過ぎない。そのルールの外側に、我らの知恵が及ばぬ、古の理(ことわり)が存在することを、あなた方は、忘れすぎてはいませんか?」
蘇我の視線は、橘の上司を、まっすぐに見据えていた。
その、静かな、しかし、魂の根源を問うような視線に、男は、ぐ、と息を詰まらせた。
「この若君……識静馬殿は、その、我らが忘れ去った、古の理を、その身に継ぐ、最後の〝審神者〟かもしれぬお方。その存在を、賊人(ぞくにん)のようにもてなし、あまつさえ、その力を『バグ』などと断じる。……それこそが、神々の理を、そして、この世界の本当の秩序を、乱す、最大の〝不敬〟だとは、お考えになりませんか?」
その言葉は、もはや、ただの意見具申ではなかった。
俺は、目の前で繰り広げられる、圧倒的なまでの権力の応酬を前に、ようやく、この状況の全体像を、理解した。
神祇庁という、一枚岩に見える巨大な組織。その内部には、決して交わることのない、二つの巨大な派閥が存在するのだ。
近代的な祓魔術と、厳格な法による管理を重んじる、目の前の二人───天照派。
そして、古来からの神々との対話や、失われた理を尊ぶ、この老人───蘇我文人が属するのであろう、もう一つの派閥。
これは、単なる尋問や脅迫ではない。俺という存在を駒として利用した、二大派閥による代理戦争の始まりだった。
蘇我の言葉は、天照派とは異なる正義を掲げる重鎮としての、そのあまりにも近視眼的なやり方に対する、明確で、痛烈な、批判だったのだ。
取調室の、空気が、凍りつく。
橘の上司の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼も、理解したのだ。自分たちが、手を出してはいけない、領域に、踏み込んでしまったということを。
神祇庁という、一枚岩に見える巨大な組織の、その内部に存在する、決して交わることのない、二つの巨大な派閥。その、根深い対立の、最前線に、俺は、今、立たされている。
「……我々は、ただ、規定に従ったまでです」
男は、絞り出すように、そう言った。それは、もはや、反論ではなく、ただの、言い訳にしか聞こえなかった。
「ほう。その規定とやらは、大国派の預かり知らぬところで、いつの間にか、改定でもされたようですな。……これは、近々開かれるであろう、神祇庁の最高幹部会で、議題として、正式に、挙げさせていただかねばなりますまい」
それは、どこまでも穏やかな、しかし、どこまでも容赦のない追撃だった。
それが、決定打だった。
男の顔が、絶望に染まった。最高幹部会。それは、彼の、そして、天照派の、今回の独断専行が、完全に、政治問題化することを意味していた。
「……っ……!」
男は、悔しさに、唇を噛み締め、わなわなと震えている。
だが、もう、彼に、勝ち目はなかった。
その様子を、橘は、ただ、黙って、見つめていた。あの鳴神トンネルで俺の術を目の当たりにした時とは、また質の違う感情が、その完璧に整えられた人形のような顔を、微かに歪ませていた。
あれが、彼女が信じる『正義』の〝外側〟を知った衝撃だったとすれば、今彼女が味わっているのは、自らが信じる『正義』の〝内側〟にある、どうしようもない不条理と権力勾配に対する、深い絶望と無力感だろう。
自分たちの信じる法と秩序が、組織内の政治力学という、もっと人間臭くて、厄介な力の前では、いとも容易く捻じ曲げられてしまう。その、身も蓋もない現実を、彼女は今、叩きつけられているのだ。
彼女の揺らぎないはずだった世界に刻まれた亀裂が、さらに深く、そして、取り返しのつかないほど、広がっていく音が、俺には聞こえるような気がした。
「……ご同行、願えますかな。若君」
蘇我は、俺の方を振り返ると、再び、人の好い笑みを浮かべて、言った。
その手には、いつの間にか、先ほどまで俺が座らされていた、冷たいパイプ椅子とは、あまりにも不釣り合いな、温かい湯気の立つ、湯呑みが二つ、乗ったお盆が、握られていた。
「こんな、無粋で、味気ない場所ではなく。もっと、景色の良い場所で、ゆっくりと、お茶でも飲みながら、お話しいたしましょう」
その、あまりにも、芝居がかった、そして、あまりにも、鮮やかな、救いの手。
俺は、もはや、何も言うことができず、ただ、呆然と、その老獪な狸爺の、後に続くしかなかった。
部屋を出る、その間際。
俺は、一度だけ、振り返った。
そこにいたのは、悔しさに顔を歪ませる上司と、その隣で、ただ、唇を噛み締め、立ち尽くす、一人の、鋼鉄の巫女の姿だった。
その、迷子のような瞳と、俺の視線が、一瞬だけ、交差したような、気がした。
俺たちの、新しい日常は。
俺が想像していた以上に、遥かに、複雑で、そして、厄介な、人間たちの思惑の渦の中に、その身を、投じようとしていた。
俺は、これから始まるであろう、途方もない面倒ごとを思い、本日何度目か分からない、深いため息をつくしかなかった。
だが、その心は、不思議と、少しだけ、軽くなっていた。
孤独ではない。
そう、思えたからだった。