怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第2話 「天からの召喚状」ー3

俺、識静馬(しき しずま)は、自分が今いる場所の座標を、完全に失っていた。

数十分前まで、俺はコンクリートと鋼鉄でできた、光も感情も通さない無機質な箱の中にいたはずだ。それがどうだろう。今、俺の目の前には、床から天井まで続く巨大なガラス窓があり、その向こうには、夕暮れの茜色と夜の瑠璃色が混じり合う、宝石箱のような東京の摩天楼が広がっている。

 

「……どうぞ。おかけください」

 

穏やかな、しかし有無を言わせぬ響きを持った声に促され、俺はまるで夢遊病者のように、深紅のビロードが張られた、身体が沈み込むほどに柔らかいソファに腰を下ろした。

ここは、都心に聳え立つ、超高級ホテルの最上階にあるスカイラウンジらしい。微かに流れるジャズのピアノ演奏。磨き上げられたマホガニーのテーブル。そして、俺の鼻腔をくすぐる、上品な珈琲と、高価な葉巻の香り。

あの、消毒液の匂いが染み付いた取調室とは、天国と地獄ほどに違う。いや、ある意味では、ここもまた別の種類の地獄なのかもしれないが。

 

「……これは、どういう状況です?」

 

俺は、目の前の席に優雅に腰を下ろした、品の良い和装の老人───蘇我文人(そがの ふひと)に、問いかけた。

声が、自分でも驚くほど、張り詰めている。無理もない。この男のおかげで絶体絶命の窮地を脱したことは事実だが、それにしたって、状況が何も読めない。俺の頭の中は、疑問符と感嘆符とで、埋め尽くされている。

 

「おやおや、そう警戒なさらずとも。ただ、若君とは、もう少し、落ち着いた場所で、ゆっくりとお話しがしたかっただけでございますよ」

蘇我は、にこり、と人の好い笑みを浮かべた。その顔に刻まれた深い皺が、まるで「私はあなたの敵ではありませんよ」と語りかけてくるようだ。

だが、俺はもう、その笑顔を素直に受け取れるほど、お人好しではない。この男の魂は、穏やかな水面の下に、巨大な渦を隠し持っている。

 

───クソッ、なんだこの爺さん。さっきの、あの氷の塊みたいな天照派の上司を、言葉だけで完膚なきまでに叩きのめしやがった。あれは、ただの神職にできる芸当じゃねえ。政治家か、あるいは、ヤクザの組長か。どっちにしろ、俺がこれまで関わってきたどの人間よりも、質の悪い狸爺だってことだけは、確かだ。

 

俺が内心で、最大限の警戒レベルを引き上げていると、ウェイターが音もなく俺たちのテーブルに近づき、極上のドリップコーヒーが注がれた美しいカップを、二つ、置いていった。蘇我は、それに慣れた様子で、軽く会釈を返す。

 

「さあ、まずは一口。ここの珈琲は、なかなかのものですぞ」

「……何か裏があるんじゃないですか」

俺の皮肉めいた言葉に、蘇我は楽しそうに喉を鳴らして笑った。

「はっはっは。面白いことをおっしゃる。もし私が若君を害するつもりなら、もっと、人目につかない、静かな場所を選びますとも」

その、あまりにもあっけらかんとした物言いに、俺は逆に毒気を抜かれてしまう。

俺は、疑念を隠さずに、カップに口をつけた。濃厚な、しかし、一切の雑味がないクリアな苦みが、疲弊しきった脳に、じわりと染み渡っていく。……正直に言って、めちゃくちゃ美味かった。それが、猛烈に腹立たしい。

 

「……本題に入ってください」

俺は、カップをソーサーに戻すと、まっすぐに蘇我の目を見て言った。

「あなたは、一体、何者なんですか。俺に、何をさせたいんです?」

俺の、その、問いかけに、蘇我は、少しだけ、その細い目を驚いたように見開いた。そして、次の瞬間には、先ほどよりも、もっと深い、満足げな笑みを浮かべた。

 

「……なるほど。これは、失礼仕った。回りくどい話は、お嫌いなご様子ですな。……よろしい。では、単刀直入に、お話しいたしましょう」

蘇我は、コーヒーカップを静かに置くと、その背筋を、ぴん、と伸ばした。

その瞬間、彼の纏う空気が、変わった。

それまでの、飄々とした好々爺の雰囲気は消え失せ、代わりに、この国の、霊的世界の、その深奥を識る者だけが持つ、底知れないほどの、重い圧力が、その小さな身体から、静かに、しかし、確実に、溢れ出した。

 

「改めまして、識静馬殿。私は、神祇庁・特殊祭祀対策課、第弐係に籍を置く者。蘇我文人と申します」

「……第弐係」

「ええ。あなた方が先ほどお会いになった、橘桔梗殿たちが所属する第壱係……通称『天照派(てんしょうは)』に対し、我々は、こう呼ばれておりますな」

蘇我は、そこで一度、言葉を切った。

そして、窓の外の、広大な夜景を見つめながら、静かに、しかし、確かな誇りを込めて、言った。

「───《大国派(たいこくは)》、と」

 

その言葉が、俺の中で、バラバラだったパズルのピースを、一つの、明確な絵へと、繋ぎ合わせた。

天照。そして、大国。

それは、日本の神話体系における、二つの巨大な派閥の名だった。

天から降り立った、高天原の神々、天津神(あまつかみ)を信奉する者たち。

そして、古来よりこの国の土地に根差し、国を造った土着の神々、国津神(くにつかみ)を信奉する者たち。

その、神代の時代の対立構造が、現代の、この国の霊的秩序を守る組織の中にまで、根深く、受け継がれていたというのか。

 

「……なるほどな」

俺は、ようやく、すべての合点がいった。

「あなたたちは、あの天照派と、対立している、と」

「対立、とは、ちと、言葉が過ぎますかな」

蘇我は、苦笑を浮かべた。

「我々も、彼女らも、この国の霊的秩序を守る、という目的は同じ。ただ、そのための〝手段〟と〝思想〟が、根本的に、水と油なだけでございますよ」

 

蘇我は、ゆっくりと、その思想の違いを、俺に説いて聞かせ始めた。

それは、俺がこれまで、ただ漠然と、肌で感じてきた、この世界の〝ルール〟の、核心に触れる話だった。

 

「橘殿たち、天照派が信奉するのは、絶対的な『秩序』です。かつて神々がこの世から退き、人と神の世界が分かたれて以降、我らが築き上げたこの人間社会のシステムこそが、至上の善。そして、そこから逸脱するものは、理由を問わず、すべて〝悪〟であり、〝バグ〟であり、速やかに排除すべき対象となる」

その言葉は、先ほどの取調室で、俺が叩きつけられた言葉、そのものだった。

 

「彼らにとって、荒神とは、対話の余地なき霊的テロリスト。人の心を惑わし、社会の安寧を脅かす、ただの害獣。だから、彼らは、討伐する。祓除する。滅する。その力を、完全に無に還すことこそが、彼らの正義なのです」

その、あまりにも、一方的で、冷徹な正義。

俺が、生理的に受け入れることのできない、鉄の秩序。

 

「では、あなたたち、大国派は?」

俺の問いに、蘇我は、静かに、答えた。

「我々が重んじるのは、秩序ではなく、『調和』です」

「……調和?」

「ええ。そもそも、この世界は、光だけで出来ているわけではございません。闇があり、混沌があり、我ら人間の理屈では到底測り知れぬ、神々の理がある。それらすべてが、危うい均衡の上で成り立っている。それこそが、この世界の、本来の姿」

蘇我の瞳が、遠い、神話の時代を見ているかのように、深く、澄み渡っていく。

 

「荒神も、元を辿れば、我ら人間の先祖が、確かに信奉した、尊き神の一柱。彼らが道を違えたのは、我ら人間が、彼らを忘れ、その心を顧みなくなったからに他ならない。その罪を棚に上げ、一方的に彼らを『悪』と断じ、滅すること。……それは、あまりにも、傲慢だとは、思いませんか?」

その言葉は、俺が、あの《久方ノ神》と対峙した時に感じた、どうしようもない感傷と、驚くほど、似ていた。

 

「我々、大国派は、信じているのです。たとえ道を違え、荒ぶる神と成り果てようと、その魂の奥底には、必ず、本来の神としての理が、眠っている、と。故に、我々は、対話する。その魂の叫びに、耳を傾ける。そして、鎮魂する。彼らを、殺すのではなく、本来いるべき、幽世(かくりよ)の御座(みざ)へと、お還りいただく。それこそが、この世界に、本当の意味での〝安寧〟と〝調和〟をもたらす、唯一の道だと」

 

長い、長い、独白だった。

だが、俺は、その言葉の一言一句を、聞き逃すまいと、必死に、その意味を、咀嚼していた。

二つの正義。二つの派閥。

討伐による、秩序の維持か。

鎮魂による、世界の調和か。

その、どちらが正しいというわけではない。

だが、俺が、この血に刻まれた【審神者】として、選ぶべき道が、どちらであるのかは、もはや、明白だった。

 

「……若君」

俺の、心の揺らぎを見透かしたように、蘇我が、言った。

「あなたがお持ちの、その《眼》と、その《力》。……荒神の真名を看破し、その魂と対話し、鎮魂に至らしめるという、その、あまりにも特異な権能は。我々、大国派が、数百年もの間、失いかけていた、理想そのものなのです」

その瞳には、熱が、宿っていた。

それは、俺という存在に対する、純粋な、そして、どこか狂信的ですらある、期待の光だった。

 

「あなたの存在は、我々にとって、希望の光。……ですが」

蘇我は、そこで一度、言葉を切った。

そして、その熱を帯びた瞳を、すう、と細め、俺の魂の、奥の奥を、射抜くように、見つめた。

その視線は、もはや、ただの好々爺のものではない。

この国の、霊的世界の、そのパワーバランスを、常に計算し続ける、冷徹な、策略家の眼だった。

 

「ですが、同時に、あなたのその力は、あまりにも、危険すぎる」

「……危険、ですか」

「ええ。あなたの『鎮魂』は、神々の理に、直接、干渉する行為。それは、我ら人間が、決して踏み込んではならない、禁断の領域に、足を踏み入れることと同義。一歩間違えれば、この世界の、神と人との、危ういバランスそのものを、根底から、崩壊させかねない……まさしく、諸刃の剣」

 

蘇我の言葉が、重く、俺の肩にのしかかる。

希望であり、同時に、最大の危険因子。

それが、俺という存在の、この世界における、本当の立ち位置。

 

「天照派は、あなたを、その危険性ゆえに、管理下に置き、いずれは、無力化しようとするでしょう。我々、大国派は、あなたを、その可能性ゆえに、保護し、我らの悲願を託したいと願っている。……そして、当の神々は、あなたという、規格外のイレギュラーの登場に、今はただ、天の御座から、固唾を飲んで、その動向を、見守っている」

蘇我は、広げた扇子で、窓の外の、広大な夜景を、指し示した。

まるで、この、煌びやかな摩天楼の、その裏側で、今、まさに、壮大な物語が、動き始めているのだと、告げるかのように。

 

「あなたは、もう、ただの古本屋の店番ではいられない。あなたの意志とは関係なく、あなたは、人間と、神々の、巨大な思惑の渦の中心に、立ってしまったのです。……識静馬殿」

 

俺は、何も言えなかった。

ただ、目の前の男が語る、その、あまりにも、スケールの大きすぎる話に、圧倒されるだけだった。

俺が望んだ、退屈で平穏な日常。

それは、もう、神話の時代の遺物よりも、遠い場所へと、過ぎ去ってしまった。

その、どうしようもない事実を、改めて、俺は、叩きつけられていた。

 

「……それで?」

俺は、掠れた声で、なんとか、それだけを、絞り出した。

「俺は、どうすればいいんですか。……あなたたちの派閥争いの道具にでもなれと?」

俺の、その、自嘲気味な問いに。

蘇我は、静かに、首を横に振った。

 

「いいえ。我々は、あなたに、何も強制はいたしません。道を選ぶのは、あなた自身。……ですが」

蘇我は、その細い瞳で、俺の心を、再び、見透かすように、言った。

「あなたの、その、一番の気がかり。……今も、古書店で、あなたの帰りを、待っておられるであろう、あのお方のことを、片付けずして、道を選ぶも、何もないのでは、ありませんかな?」

 

その言葉に、俺は、はっ、と息を呑んだ。

そうだ。

ハルキだ。

俺の、最優先事項。俺が、この面倒な世界に、足を踏み入れた、唯一の、理由。

その、美しい少女の姿で、今頃、不安に押し潰されそうになっているであろう、親友の顔が、脳裏に、鮮明に、蘇った。

 

「若君が、本当に、あの方を救いたいと願うのなら」

蘇我は、続ける。

その声は、悪魔の囁きのように、甘く、そして、抗いがたい響きを、持っていた。

「まず、敵を、知ることですな。あの方を、その美しくも哀れな器へと変貌させた、あの、強力な荒神……《啼哭の花嫁》の、その、正体を」

「……正体、ですか」

「ええ。どんな神にも、必ず、その根源となった、逸話がある。伝承がある。そして、忘れ去られた、本当の〝名前〟がある。それを知らずして、鎮魂など、到底、不可能です」

 

その言葉は、俺が、漠然と、分かっていたはずのことを、明確な、道筋として、示してくれていた。

そうだ。

ハルキを救うには、まず、あの怪異の、正体を、真名を、暴かなければならない。

だが、どうやって?

神としての格はC級だった、あの《久方ノ神》ですら、あれだけの苦戦を強いられたのだ。ハルキに憑いた、あの特A級の荒神の魂を、直接、覗き込むなど、今の俺の力では、自殺行為に等しい。

 

俺の、その、心の迷いを、見透かしたかのように。

蘇我は、最後の、そして、最も、核心的な、ヒントを、俺に、与えた。

それは、どこまでも、穏やかで、しかし、俺の運命を、決定づける、予言の言葉だった。

 

「……その答えは、おそらく、若君の、すぐ、足元に、眠っておりますぞ」

「……足元?」

「ええ。あなたの一族が、代々、その命に代えても、守り続けてきた、禁断の知識の宝物庫。……神々の、墓標が、並ぶ場所」

 

蘇我は、そこで、ゆっくりと、湯呑みに残った、最後の一滴を、飲み干した。

そして、にこり、と。

いつもの、あの、人の好い、狸爺の笑みを、浮かべた。

 

「───お心当たりが、おありでしょう?」

 

その、問いに。

俺は、もう、答える必要もなかった。

脳裏に、浮かんでいたのは、一つしか、なかったからだ。

古書店『天逆堂』の、地下深く。

父の死の記憶と共に、固く、固く、閉ざされた、あの、重い、鉄の扉。

 

───禁書庫、『天逆文庫』。

 

俺の、戦うべき場所。

そして、超えるべき、過去。

その、あまりにも、重い意味を持つ場所の名を、俺は、ただ、唇の中で、反芻するしか、できなかった。

窓の外では、東京の夜景が、何も知らずに、ただ、美しく、輝き続けていた。

それは、これから始まる、俺の、本当の戦いの、始まりを告げる、静かな、静かな、ファンファーレのようだった。

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