怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第2話 「窓から来た少女」ー1

結局、その夜はほとんど眠れなかった。

 

ハルキからの電話を切った後、俺の心臓はまるで持ち主の意向を無視するかのように、不規則なリズムを刻み続けていた。ベッドに潜り込み、無理やり瞼を閉ざしても、意識は冴え渡るばかり。闇の中で耳を澄ませば、古時計の秒針が時を刻む音や、家のどこかで床板が軋む微かな音までが、やけに大きく響いてくる。

 

(……考えすぎだ。いつものことだろうが)

 

頭の中で、冷静な自分が囁く。

そうだ。いつものことだ。ハルキが無謀な好奇心に突き動かされて、危険な場所に首を突っ込むのも。俺がそれに呆れながらも、結局は胃を痛めて心配するのも。これまで、何度も繰り返してきた、俺たちの日常のワンシーンに過ぎない。

今回だって、きっとそうだ。朝日が昇る頃には、あの馬鹿はけろりとした顔で「何も出なかったぜ」と笑っている。そうに決まっている。

 

そうやって必死に自己暗示をかけても、胸の奥で渦巻く黒い靄のような予感は、一向に晴れる気配がなかった。あの廃神社は、ダメだ。あそこだけは、他の心霊スポットとは格が違う。古文書にあった、あの女神の逸話。その封印の苛烈さ。父が遺したメモの中に、ただ一言、「関わるな」とだけ書かれていた場所。

 

嫌な汗が背中を伝う。

寝返りを打つたびに、ベッドのスプリングが軋む音が、静寂をさらに際立たせた。

 

どれくらいの時間が経っただろうか。

思考の海に沈むうちに、意識が朦朧とし始めた頃だった。

 

───カタン。

 

不意に、窓の方からそんな微かな音が聞こえた。

風で小石でも当たったのか。あるいは、どこかの野良猫が屋根を歩いているだけか。

俺はぼんやりとした頭で、そう結論付けようとした。疲れているんだ。神経が過敏になっているだけだ。そう、いつもの「面倒くさい」ことの前触れから、無意識に逃げようとしている。

 

だが、俺のそんな希望的観測を嘲笑うかのように、その異音は続いた。

 

キィ……、と、古い窓枠がゆっくりと擦れるような、嫌な音。

それは、明らかに窓が開く音だった。

俺の部屋は二階だ。そして、窓には十年以上前に親父が取り付けた、古風だが頑丈な捻締錠(ねじしまりじょう)がかかっている。内側からでしか開けられない、旧式の防犯ロックだ。外から開けられるはずがない。

 

───じゃあ、今聞こえているこの音は、なんだ?

 

全身の産毛が、ぶわりと逆立った。

心臓が、先ほどとは比較にならないほど激しく、強く脈打ち始める。それは恐怖の警鐘だ。俺の本能が、血に刻まれた審神者としての勘が、最大級の警報を鳴らしていた。

 

「そこに、誰かいるのか」

 

声は、自分でも驚くほど掠れていた。

返事はない。ただ、キィ……、という音が、まるでスローモーションのように、じわじわと俺の鼓膜を嬲る。

俺はベッドから飛び起きると、すぐさま部屋の隅に立てかけてあった木刀をひっつかんだ。祖母に無理やり習わされた、護身術用の樫の木刀。気休めにしかならないかもしれないが、丸腰よりはマシだ。

 

───落ち着け、俺。相手を見ろ。正体を確認しろ。ただの泥棒か? いや、この音は違う。なら、怪異か? 俺がさっき認識から追い出したような、低級な霊的存在が、ハルキに釣られてここまで来たのか?

 

思考が目まぐるしく回転する。

だが、次の瞬間、俺はその思考を完全に停止させられた。

 

窓が、開いたのだ。

施錠されているはずの窓枠が、まるでそんなものは最初から存在しなかったかのように、するりと。

 

そして、そこから、人影が、音もなく部屋の中へと滑り込んできた。

 

「…………は?」

 

声にならない声が、喉から漏れた。

俺は木刀を握りしめたまま、その場で完全に凍り付いていた。目の前で起きている現象が、俺の脳の理解を、常識を、世界の法則を、いとも容易く超越していたからだ。

 

月の光が、磨りガラス越しに闖入者の姿を逆光で照らし出す。

細いシルエット。長い髪。小柄な体躯。

それは、少女の姿をしていた。

 

彼女は、施錠された窓ガラスを、まるで幽霊のように、何の抵抗もなくすり抜けてきたのだ。

物理法則の完全な無視。それは、低級な怪異にできる芸当ではない。もっと格の高い、世界に干渉する力を持つ存在の証明。

 

俺の全身から、急速に血の気が引いていくのが分かった。

これは、ヤバい。

俺がこれまで避けてきた、目を逸らし続けてきた、本物の厄ネタだ。

 

───クソッ、なんで俺の部屋に! 俺はただ、平穏に過ごしたいだけだってのに! なんで一番面倒くさそうな奴が、ピンポイントでここに来るんだ!

 

内心で絶叫するが、体は金縛りにあったように動かない。

少女は、音もなく床に降り立つと、ゆっくりとこちらを向いた。

その瞬間、雲間から現れた月が、窓から強い光を差し込ませ、彼女の全身を舞台照明のように照らし出した。

 

そして、俺は息を呑んだ。

 

そこに立っていたのは、この世のものとは思えないほど、美しい少女だった。

 

艶のある、腰まで届くほどの長い黒髪。それは、夜の闇そのものを溶かして束ねたかのように、深い色をしていた。

肌は、月光を反射して青白く光るほどに白い。まるで上質な陶器のようだ。

着ているのは、喪服を思わせる、シンプルな黒のワンピース。華奢な手足と、細い首筋が、その黒によってさらに際立っている。

 

そして、何よりも、その顔。

切り揃えられた前髪の下で、大きな、潤んだ瞳が、不安げに揺れながら、まっすぐに俺を見つめていた。小さな鼻梁。血の色の唇。完璧な比率で配置されたそれらのパーツは、まるで神が気まぐれに創り上げた、最高傑作の芸術品のようだった。

 

だが、その非現実的なまでの美しさは、同時に強烈な違和感を放っていた。

彼女からは、生きている人間の持つ、当たり前の「生気」というものが感じられない。体温も、呼吸の気配さえも希薄だ。まるで、精巧に作られた人形か、あるいは、月から落ちてきた幻か。

 

俺の瞳の奥が、再びカッと熱を持つ。

抑え込もうとしても、無駄だった。《見鬼の眼》が、目の前の異常存在を前にして、勝手にその能力を解放しようとしている。視界が金色に明滅し、激しい頭痛がこめかみを殴りつけた。

 

───見るな! 見るな、俺! こいつの正体なんて知る必要はない! 関わったら終わりだ!

 

必死に抵抗する。

今、この少女の正体を『視て』しまえば、もう二度と、俺の望むあの退屈な日常には戻れない。そんな確信があった。これは、境界線だ。俺の世界と、俺が拒絶してきた世界の、最後の境界線。

 

俺が頭痛と精神的な抵抗で身動きが取れずにいると、少女は、その小さな唇を、わずかに開いた。

何かを、言おうとしている。

 

現実感が、どんどん遠のいていく。

時間の流れが、まるで濃密な水飴のように引き延ばされ、一秒が永遠にも感じられた。古書のインクの匂いに満ちたこの部屋が、今、人ならざるものによって静かに侵食されていく。

 

俺の平穏は、終わった。

唐突に、あまりにも一方的に、そして、絶望的に美しい闖入者によって。

 

月明かりの下、少女はただ静かに、俺を見つめていた。

その瞳に宿るのは、恐怖か、期待か、それとも、俺には到底理解できない、もっと別の感情か。

 

ただ一つ確かなのは、俺の知る日常は、今この瞬間、大きな音を立てて崩れ去ったということだけだった。

面倒くさい、なんてレベルの話じゃない。

これは、俺の人生そのものを根底から覆す、巨大な厄災の始まりだった。

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