怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
古書店『天逆堂』の引き戸を開けた瞬間、俺、識静馬(しき しずま)の全身を包み込んだのは、懐かしい古紙とインクが混じり合った、時間の澱のような匂いだった。
それは、俺が生まれ育った家の匂いであり、逃れようもなく俺の魂にまで染みついた、宿命の香りでもあった。
数時間ぶりに帰還した我が家は、当たり前のように静かで、当たり前のように薄暗く、そして、当たり前のように、俺の帰りをただじっと、待っていてくれた。
「……ただいま」
誰に言うでもなく、ほとんど吐息のように漏れた声は、自分でも驚くほど、乾いて掠れていた。
神祇庁とかいう、国家の裏側に巣食う巨大な組織。蘇我文人と名乗る、狸なのか蛇なのか判然としない食えない男。そして、俺の審神者としての力が、世界のパワーバランスを崩しかねない〝切り札〟として狙われているという、あまりにも現実味のない現実。
思考が飽和し、感情は麻痺しかけていた。ただ、全身の細胞が、経験したことのないレベルの緊張と疲労を訴えているのだけは、嫌というほど分かった。
俺の背後で、黒塗りのセダンがエンジン音一つ立てずに走り去っていく気配を感じながら、俺はゆっくりと引き戸を閉める。カタン、という軽いロックの音が、外界との間に、脆くも確かな境界線を引いた。
ここから内側は、俺の日常。そして、俺が守るべき、聖域だ。
そのはず、だった。今日までは。
店の奥、居住スペースへと続く薄暗い廊下の先に、二つの人影が浮かび上がっているのが見えた。
一つは、心配そうに眉を寄せ、しかし決して狼狽えることなく、静かにこちらを覗き込む、祖母の識珠江(しき たまえ)。
そして、もう一つ。
その隣で、今にも弾丸のように飛び出してきそうな勢いで、しかし俺が叩きつけるように残していった「ここから出るな」という言いつけを律儀に守り、その場でじりじりと小刻みに足踏みしている、絶世の美少女の姿。
「シズマッ!」
俺の姿をはっきりと認めると同時に、日野陽輝(ひの はるき)が、堪えきれないといった様子で駆け寄ってきた。腰まで届く艶やかな黒髪を激しく揺らし、その完璧な造形を持つ顔を不安に歪ませて、何の躊躇もなく俺の胸に飛び込んでくる。その勢いを、俺は咄嗟に広げた両手で、その驚くほど華奢な肩を掴んで、なんとか制止した。
「うおっ!?」
「馬鹿、いきなり飛びついてくんじゃねえ。バランス崩すだろうが」
「そんなこと言ってる場合か! お前、マジでどこに連れてかれてたんだよ! 無事なのか!? 何もされてねえか!? 取り調べとか言ってたけど、あいつら、お前にカツ丼とか食わせて、『お前の親は泣いてるぞ』みてえな、昭和の刑事ドラマみたいなこと言わなかったか!?」
矢継ぎ早に繰り出される、的外れにも程がある心配の言葉の羅列。その必死な形相と、あまりにも男らしい粗野な語彙の絶望的なミスマッチに、張り詰めていた俺の緊張の糸が、ほんの少しだけ、だが確かに、緩んだ。
───カツ丼は出なかった。代わりに、一杯数千円はしそうな、やたらと豆の産地にこだわった高級珈琲を、有無を言わさず出されたぞ。あと、親の話じゃなくて、お前の話で、こっちはさんざん脅迫されてきたんだよ。分かってんのか、このすべての元凶。
「……なんでもねえよ。ただの、ちょっとした事情聴取だ」
俺は、ハルキの肩を掴んだまま、そう答えるのが精一杯だった。本当のことを、どこまで、どう話すべきか。俺の頭の中は、あの蘇我文人という狸爺が投下した、巨大すぎる爆弾の情報処理で、未だにショート寸前だった。爆風で吹き飛んだ思考の破片を、必死にかき集めている最中だ。
「嘘つけ! その顔に『人類の存亡を賭けた壮大な物語のプロローグを終えてきました』みてえな、重々しいことが書いてあんだよ!」
「書いてねえよ。お前の気のせいだ。……それより、ばあちゃん、心配かけてごめん」
俺は、ハるきの向こう側で、静かに成り行きを見守っていた祖母に、深く、頭を下げた。
祖母は、何も言わずに、ただ、静かに首を横に振った。その、幾重にも皺が刻まれた瞳は、すべてをお見通しだと言わんばかりに、深く、そして、どこまでも優しかった。だが、その優しさの奥に、ほんの一瞬だけ、悲しみのような、あるいは覚悟を促すような、厳しい光が宿ったのを、俺は見逃さなかった。
◇◆◇
居間の古びたちゃぶ台を挟んで、俺とハルキは、向かい合っていた。
祖母が黙って淹れてくれた、温かいほうじ茶の香ばしい湯気が、俺たちの間に、頼りなげに立ち上っている。それはまるで、これから語られるであろう重い現実と、俺たちのちっぽけな日常との間に引かれた、儚い休戦ラインのようだった。
俺は、神祇庁の取調室で起きたこと、そして、蘇我文人と名乗る男と交わした会話のすべてを、包み隠さず、ハルキに語って聞かせた。自分の頭の中を整理する意味も込めて、出来る限り、客観的に、淡々と。
神祇庁という、古事記の時代から日本の霊的国防を担ってきた、国家規模の祓魔師組織の存在。
その内部に存在する、天照派と大国派という、決して相容れない理念を掲げる二つの巨大な派閥。
荒神を、世界の秩序を乱す「バグ」として、対話の余地なく駆除しようとする武闘派の天照派。
荒神もまた、元は信仰を集めた神の一柱であるとし、対話による「鎮魂」こそが唯一の道だと是とする穏健派の大国派。
そして、俺という審神者の力が、その両派閥にとって、無視できない〝イレギュラー〟にして、どちらの正義をも覆しかねない〝ジョーカー〟として認識されてしまったこと。
俺の話が進むにつれて、ハルキの顔から、血の気が引いていくのが、手に取るように分かった。
最初は「マジかよ、そんな中二病みたいな組織が本当にあったのか!」と、いつものオカルトマニアとしての好奇心を爛々と輝かせていた彼の瞳から、徐々に、その無邪気な光が失われていく。
物語のスケールが、彼の想像を、そして俺自身の想像をも、遥かに超えて巨大で、深刻で、そして、逃げ場のないものであることを、その鋭い感受性が正確に理解してしまったからだ。
そして、俺が、橘の上司である天照派の男から叩きつけられた、決定的な言葉を口にした時。
───ハルキを、怪異《啼哭の花嫁》に身体を乗っ取られた、霊的汚染源と呼び、その身柄の国家管理下への引き渡しを、有無を言わさず要求されたこと。
───そして、もし俺がそれに抵抗すれば、ハルキも、そしてそれを庇う俺自身も、世界の安寧を脅かす〝脅威〟と見なし、〝処理〟することも辞さないと、明確に、脅迫されたこと。
それを告げた瞬間。
ハルキは、ぎゅっ、と、自分の膝の上で、血の滲むほど強く、その華奢な拳を握りしめた。関節が白くなるほどに。爪が、柔らかな掌に食い込んでいるだろうに。
その美しい顔は、能面のように無表情になっていた。いや、違う。感情が、あまりにも大きな衝撃によって、内側で完全に凍り付いてしまったのだ。
「…………俺の、せいか」
ぽつり、と。
消え入りそうな、ガラス細工を叩くようなか細い声が、彼の、今は血の色を失った美しい唇から、漏れた。
それは、疑問形でありながら、確信に満ちた、断罪の響きを持っていた。
「俺が、あんな祠の封印なんか、面白半分で解かなければ……。俺が、シズマを、こんな世界に、巻き込まなきゃ……」
「……」
「そしたら、シズマは、こんな……国の、ワケの分かんねえ、ヤバい組織にまで、狙われることなんて、なかったのにな……」
その声は、痛々しいほどに、震えていた。
後悔と、自責と、そして、どうしようもない無力感に、押し潰されそうになっている、魂の悲鳴だった。
その、あまりにも痛々しい姿に、俺の胸の奥が、氷の刃で抉られるように、鋭く痛んだ。
───違う。
───違うだろ、馬鹿野郎。
───お前が、巻き込んだんじゃねえ。
───俺が、自ら、この泥沼に、首を突っ込んだんだ。
───お前を、助けたいと、そう、願ったのは、他の誰でもない、俺自身だ。
だが、そんな、気休めにしかならない慰めの言葉は、喉の奥で、鉛のように固まって、出てこなかった。
今のこいつには、どんな優しい言葉も、届かないだろう。それはただ、彼の罪悪感を無駄に刺激するだけの、残酷な響きを持つかもしれない。
必要なのは、言葉じゃない。
揺るぎない覚悟。そして、その先にある、誰にも文句を言わせない、絶対的な、結果だけだ。
俺は、すっかり冷え切ってしまったほうじ茶を、覚悟を決めるように、一気に飲み干した。
そして、空になった湯呑みを、ことり、と、少しだけ、わざとらしく音を立てて、ちゃぶ台に置いた。
その小さな物音に、ハルキが、びくり、と肩を震わせ、俯いていた顔を、ゆっくりと上げる。その、大きな潤んだ瞳が、迷子の子供のように、不安げに、俺を見つめていた。その瞳には、自分のせいで親友を絶望的な状況に追いやってしまった罪悪感と、それでも俺に縋りたいという、矛盾した感情が渦巻いていた。
俺は、その揺れる瞳から、決して視線を逸らさなかった。
まっすぐに、その魂の奥底まで見通すように、見つめ返した。
そして、言った。
それは、ハルキを安心させるためであり、同時に、俺自身の、心の奥底で燻っていた最後の迷いを、完全に断ち切るための、決意表明だった。
「……だから、知る必要があるんだ」
俺の声は、不思議なほど、静かだった。
だが、その響きには、俺の、魂の、全ての重さが、乗っていた。もう後戻りはしない、という覚悟の重さが。
「お前を乗っ取った、あの《啼哭の花嫁》ってやつが、一体、何者なのか。そいつが、ただの怪異なのか、それとも、神祇庁の連中が言うような、駆除すべき荒神なのか。あるいは、まったく別の、何か、なのか。そいつの正体が分かれば、必ず、お前を元に戻す方法も、見つかるはずだ」
「……シズマ……」
「それに、だ」
俺は言葉を続ける。それは、自分自身に言い聞かせるための言葉でもあった。
「俺たちが、ただの怪異憑きと、その協力者ってだけの、憐れな被害者じゃないってことを、証明してやるんだよ。神祇庁の、頭の固い連中にも、分からせてやる。俺たちには、俺たちのやり方がある。荒神をただ殺すだけでも、無条件に許すだけでもない、第三の道が、あるはずなんだ。俺たちのやり方が、間違ってないってことをな」
俺の言葉に、ハルキの瞳が、わずかに、見開かれた。
その、絶望という名の深い沼に沈みかけていた瞳の奥に、小さな、本当に、嵐の中の蝋燭の炎のような、か細く頼りない光が、再び灯ったのを、俺は見逃さなかった。
「そのための答えは、もう、分かってる」
俺は、続ける。
蘇我文人が残していった、最後の、そして、最大の、ヒント。
俺が、十年もの間、必死に、目を逸らし続け、記憶の奥底に鍵をかけて封印してきた、俺自身の、忌まわしい過去。
父の、死の、記憶。
「……行くぞ、ハルキ」
俺は、決然と、立ち上がった。
そして、これまで、決して自分からは近づこうとしなかった、この家の、一番、暗くて、冷たくて、そして、一番、神聖な場所へと、迷いのない足取りで、歩き始めた。
居間の、隅にある、古い、鶴の描かれた掛け軸。
その裏に隠された、地下へと続く、古びた、木の扉へと。
「……え? シズマ、どこに……?」
ハルキが、俺の、あまりに唐突な行動に、戸惑いの声を上げる。
俺は、振り返りもせず、ただ、吐き捨てるように、言った。
「決まってんだろ。俺たちの、〝武器〟を探しにだよ。神祇庁の連中と、本気でやり合うためのな」
◇◆◇
ひやり、とした、黴と、凝縮された時間の匂いが混じった空気が、容赦なく肌を刺す。
地下へと続く、急な石の階段を、俺は、壁に備え付けられた、裸電球の頼りないオレンジ色の明かりだけを頼りに、一歩、また一歩と、下りていった。
俺の後ろを、ハルキが、不安そうな、しかし、俺の覚悟を感じ取ってか、何も言わずに、その軽い足音を忍ばせて、ついてくる。その気配が、不思議と、俺の背中を押してくれていた。
やがて、階段は、踊り場のような、少しだけ開けた空間に行き着いた。
そこは、ただの、だだっ広い、コンクリートが打ちっぱなしになった、無機質な地下室だった。壁際には、とうの昔に使われなくなった古い箪笥や、用途の分からないガラクタが、白い布を被せられて、まるで墓標のように、いくつも、いくつも、静かに並んでいる。
そして、その、一番、奥。
部屋の、中心。
そこだけが、まるで異次元への入り口であるかのように、ぽっかりと、口を開けていた。
それは、扉だった。
黒光りする鉄でできた、重厚で、巨大な、両開きの扉。
表面には、錆と、埃が、何十年、いや、何百年という時の重みとなって、地層のようにこびりついている。
扉の中央には、二匹の竜が絡み合うような、あるいは、古代の文字を組み合わせたような、複雑怪奇な紋様が、深く、深く、刻み込まれていた。それは、ただのデザインではない。強力な術式そのものだ。
識家が、代々、その命に代えても、守り続けてきた、禁断の知識の宝物庫。
忘れ去られた神々の、墓標が、静かに並ぶ場所。
───禁書庫、『天逆文庫(あまのさかぶんこ)』。
その、あまりにも、禍々しく、そして、神聖なまでの存在感を放つ扉の前に、俺とハルキは、ただ、呆然と、立ち尽くしていた。
父の、死の記憶。
十年前のあの日、この扉の前で、父は、血を吐いて倒れた。禁書庫の知識に触れようとして、その強大すぎる力に、魂を喰われたのだ。
俺が、この場所から、十年もの間、逃げ続けてきた、理由。
その、トラウマの象徴が、今、目の前に、重い、重い、沈黙をもって、鎮座していた。
「……ここが……シズマの言ってた……」
ハルキが、息を呑むのが分かった。空気が、鉛のように重い。呼吸をするだけで、肺が凍りつきそうだ。
審神者の血を引く俺でさえ、肌が粟立ち、全身の産毛が逆立つのを感じる。ましてや、ハルキにとっては。
「う、ぐ……っ!」
案の定、俺の隣に立っていたハルキが、苦しげな呻き声を漏らし、たたらを踏んだ。
半人半怪異と化した彼の身体が、この場所から発せられる、尋常ならざる霊的な圧力に、拒絶反応を示しているのだ。まるで、全身を目に見えない無数の針で刺されるような、鋭い痛みが彼を襲う。それは、この神聖な空間が、彼の内なる怪異を〝不浄〟として排斥しようとしている証拠だった。
「ハルキ!?」
俺は咄嗟にその華奢な腕を支えようとしたが、ハルキはそれを振り払うようにして、自ら数歩、後ずさった。階段の近くまで下がることで、ようやくその苦痛が和らいだのか、壁に手をつき、苦しそうに息を整えている。
「……悪い、シズマ……。なんか、ここ……頭が、割れそうに……」
その顔は真っ青で、脂汗が浮かんでいた。
大丈夫だ、と目で合図を送るが、ハルキは悔しそうに唇を噛むだけだった。この先に、俺一人で進まなければならないことを、その身をもって理解したのだろう。
俺は、ハルキへの気遣いを胸の奥に押し込め、再び扉へと向き直った。
そうだ。これは、俺の戦いだ。
俺は、無言で、扉へと、一歩、近づいた。
一歩、近づくごとに、霊的な圧力は増していく。だが、不思議と、ハルキが感じたような痛みはなかった。まるで、この場所が、俺を、識家の血を引く者として、試しているかのように。
俺は、その氷のように冷たい鉄の表面に、手を伸ばした。この扉の向こうに、答えがある。そう、確信しながら。
だが、俺の指先が扉に触れる、寸前。
背後から、凛とした、しかし有無を言わせぬ静かな声が、俺を制した。
「───お待ちな、シズマ」
振り返ると、いつの間にか、祖母が階段の下に立っていた。その背後で、ハルキが壁に手をついたまま、苦しそうに、しかし心配そうに、俺と祖母を交互に見ている。
祖母は、ゆっくりとした、しかし一点の揺らぎもない足取りで、俺の隣までやってきた。そして、俺と同じように、目の前の巨大な鉄の扉を、静かに見上げた。その瞳には、懐かしむような、そして、何かを深く悼むような、複雑な色が浮かんでいた。
「その扉はね、力尽くで開くもんじゃない。ましてや、何の覚悟もなしに、触れていい代物でもないよ」
「ばあちゃん……」
「お前さん、本気なんだね?」
祖母は、俺の目を見据えて、静かに問うた。その問いは、ちゃぶ台で茶をすする時のような穏やかさとは全く違う、識家の当主としての、重い、重い響きを持っていた。
「その扉の向こうに何があるのか……お父さんのことで、お前が一番、ようく分かっているはずだろうに。それでも、行くのかい?」
父の死。
その言葉が、鋭い楔となって、俺の胸に打ち込まれる。そうだ、分かっている。この扉は、父を殺した元凶だ。この先に足を踏み入れることは、父と同じ道を辿る可能性を、自ら受け入れることに他ならない。
一瞬、足が竦む。だが、俺の脳裏に、今のハルキの、絶望に満ちた顔が浮かんだ。そして、神祇庁の男たちの、ハルキをモノのように扱う、あの冷たい目が。
「……ああ」
俺は、迷いを振り払うように、強く、頷いた。
「それでも、行かなきゃならないんだ。あいつを……ハルキを助けるために。それに、もう、逃げてるだけじゃ、何も守れねえってことが、分かったから」
俺の答えを聞いて、祖母は、何も言わなかった。ただ、じっと、俺の瞳の奥を、覗き込むように見つめていた。まるで、俺の魂の奥底にある覚悟の純度を、その古の審神者の目で見定めているかのように。
長い、長い、沈黙。
やがて、祖母は、ふっ、と、息を吐き、そして、静かに、だが確かに、頷いた。
「……そうかい。お前の覚悟は、確かに、受け取ったよ」
その言葉には、不思議な安堵と、そして、孫を死地に送り出す覚悟を決めた者だけが持つ、悲壮な響きがあった。
「よかろう。ならば、婆(わし)が、門出を整えてやろう」
祖母は、俺の肩に、そっと、皺の多い手を置いた。その手は、小さく、乾いていたが、不思議な温かさと、力強さがあった。
「ただし、今すぐじゃない。儀式には、準備がいる。月が一番高く上り、この世とあの世の境が、最も曖昧になる時刻を待たにゃならん」
そして、祖母は、釘を刺すように、俺に告げた。
「それと、これだけは、決して忘れるんじゃないよ、シズマ。あの中に眠る知識は、力だ。だが、過ぎた知識は、人の魂を容易く喰らう、猛毒でもある。……お父さんの、二の舞にだけは、決して、なるんじゃないよ」
その言葉は、呪いのように、俺の心に深く、重く、突き刺さった。
だが、それは同時に、俺が背負うべき、唯一の道標でもあった。
俺は、もう一度、目の前の、巨大な鉄の扉を見据えた。
十年間、俺の心を縛り付けてきた、絶望の象徴。
だが、今は違う。
これは、未来を切り開くための、唯一の、希望の扉だ。
俺は、静かに、頷いた。
その夜、俺の運命が、大きく、そして、決定的に、動き出そうとしていた。