怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第3話 「開かずの扉、天逆文庫」ー2

光の道はどこまでも続いていた。

俺、識静馬(しき しずま)は、まるで天の川のど真ん中に架けられた一本のガラスの橋を渡るかのように、その光の帯の上をただひたすらに歩き続けていた。

 

前後左右、そして上下の感覚はとうの昔に麻痺している。

視界に映るのは、無限の闇とそこを悠然と泳ぐ無数の古書たちだけ。それらは、あるものは惑星のようにゆっくりと自転し、あるものは彗星のように長い尾を引きながら、俺の知らない法則に従ってただ静かにそこに在り続けていた。

時折、俺のすぐ側を分厚い洋書が巨大なクジラのようにゆったりと横切っていく。その古びた革の装丁には見たこともない紋様が金色で刻まれており、俺が視線を向けた瞬間、そのページがぱらりとひとりでに捲れた。そこには神代の文字で、何かの神話の一節が美しい挿絵と共に描かれていた。

 

「…………」

 

息を呑む。

ページに描かれていたのは、炎を纏う巨大な鳥とそれを迎え撃つ雷の槍を構えた武神の姿。天津神と国津神の神代大戦の一場面だろうか。そのあまりにも生き生きとした筆致は、まるでこの本の著者がその光景を実際に目の当たりにしたかのようだった。

 

───マジかよ……。なんだ、ここは。

───神々の記憶そのものが、本になって漂ってるってのか? 国家機密どころの話じゃねえぞ。人類史の根幹を揺るがすとんでもないお宝の山じゃねえか。

 

俺の古書店店番としての血が興奮に騒ぐ。

だが同時に、審神者としての血がけたたましい警鐘を鳴らしていた。

この場所はヤバい。

知識という名の甘美な毒が、飽和状態になるまで満ちている。一歩足を踏み外せば父のように、この情報の奔流に魂ごと喰われて二度と戻ってはこれない。

 

俺は周囲の誘惑から目を逸らし、ただ目の前の光の道だけを見据えた。

目的は一つだ。

《啼哭の花嫁》の真名。

それ以外の知識は今の俺には毒にしかならない。

 

どれくらいそうして歩き続けただろうか。

数分か、あるいは数時間か。時間の感覚さえこの空間では曖昧だった。

やがて俺の目の前、光の道の終着点にぼんやりとした別の光が見えてきた。

それは、これまで見てきた本の星々が放つ青白い知性の光とは違う。もっと温かく、どこか懐かしい、オレンジ色の頼りなげな光だった。

 

───あれは……裸電球の光……?

 

見間違えるはずがない。

俺が物心ついた時からずっと見上げてきた光の色だ。

光の道は、そのオレンジ色の光が満ちる一つの〝空間〟へと真っ直ぐに続いていた。

そこだけが、まるでこの書物の宇宙にぽっかりと浮かんだ小さな島のようだった。

 

俺はごくりと唾を飲み込んだ。

警戒しながらも、その光へと足を速める。

そして、その〝島〟の輪郭がはっきりとしてきた時。

俺は自分の目を疑った。

 

「……嘘だろ……」

 

乾いた声が唇から漏れる。

そこに在ったのは、見慣れた、しかし決してここにあるはずのない光景だった。

 

天井まで届く古書の山。

壁際に並べられた使い古された木製の書架。

中央に置かれた傷だらけのマホガニーの机の上には、読みかけの本が何冊も開かれ、インク瓶と羽ペンが、まるでついさっきまで誰かが使っていたかのように無造作に置かれている。

そして部屋全体を満たす懐かしい匂い。

古い紙とインクと、そして父が愛飲していた安物の珈琲の、少し焦げたような香ばしい匂い。

 

「……親父の……書斎……?」

 

そうだ。

ここは古書店『天逆堂』の二階にあった父の書斎。

俺が幼い頃、父にねだってよく潜り込んでは、難しい専門書を読んだふりをして昼寝をしていた思い出の場所。

父が死んでからは、祖母が「見るのが辛いだろう」とその部屋ごと封印してしまった、俺の失われた聖域。

その過去の光景が、なぜこんな場所に寸分違わぬ形で再現されているんだ?

 

俺は恐る恐る光の道を降り、その書斎の床へと足を踏み入れた。

足元はもうガラスのような透明な床ではない。

ぎしりと軋む使い古された木の床板の感触が、確かに足の裏に伝わってくる。

本物だ。

ここは本物の父の書斎だ。

俺の記憶そのものがこの場所に具現化している。

 

───クソッ、なんだってんだこれは……!

───ばあちゃんの言ってた書庫の試練ってやつか!? 俺の一番柔けえとこを的確に抉ってきやがる! 悪趣味にも程があるだろ!

 

俺が内心で悪態をつきながら警戒レベルを最大に引き上げた、その時だった。

 

「───静馬かい?」

 

背後から声がした。

その声を聞いた瞬間。

俺の心臓は鷲掴みにされたかのように大きく跳ね上がった。

全身の血液が一度完全に凍り付いて、そして次の瞬間には沸騰したかのように全身を駆け巡る。

 

俺はゆっくりと、本当にゆっくりと、錆びついたブリキ人形のように振り返った。

そこに立っていたのは。

俺の記憶の中にいる、あの頃のままの父だった。

 

「……親父……?」

 

識剣征(しき けんせい)。

俺の父。

黒い着古した作務衣を少し着崩して。

少し癖のある無作法な黒髪も、目の下の隈も、口元に浮かべた人の悪い悪戯っ子のような笑みも。

何もかもが俺が十年前、最後に見た時のまま。

いや、違う。

これはもっと前の、俺がまだ純粋にこの人を世界で一番カッコいいと思っていた頃の父の姿だ。

 

「こんな夜更けにどうしたんだ。またこっそり難しい本でも読みに来たのか?」

父はそう言って優しく笑った。

その声は温かく、そして少しだけ疲れたような掠れた響きを持っていた。

俺が大好きだった声。

 

「……いや……俺は……」

言葉が出てこない。

頭が完全に混乱している。

これは幻だ。書庫が見せる俺の記憶の残滓だ。分かっている。分かっているはずなのに。

俺の魂が、心が、このあまりにもリアルな再会を拒絶できないでいた。

 

「まあ、いい。そこに座りなさい。……お父さんも少し疲れてしまってね。休憩に付き合ってくれんか」

父はそう言うと、書斎の隅にあった革張りの古びたソファを指差した。

そして自らはその向かい側のソファにどっかりと腰を下ろす。

俺はまるで見えない糸に引かれるかのように、ふらふらとそのソファへと歩を進めていた。

 

───待て、俺。落ち着け。これは罠だ。

───こいつは俺の弱い心に付け込む、書庫が生み出した幻影だ。

───ここでこいつの言葉に耳を貸したら終わりだ。父さんと同じ二の舞になる。

 

頭の中で冷静な自分が必死に警鐘を鳴らしている。

だが俺の身体は言うことを聞かなかった。

気づけば俺は父の幻影と向かい合う形で、ソファに深く腰を下ろしていた。

身体が沈み込む。

その懐かしい革の匂いと、少しだけへたったスプリングの感触が、俺の最後の抵抗を無慈悲に奪い去っていく。

 

「……静馬」

父が俺の名を呼んだ。

その声は先ほどまでの穏やかなものではなかった。

どこまでも優しく、そしてどこまでも悲しげな響きを持っていた。

 

「……お前、ずいぶんと疲れた顔をしているな」

「…………」

「無理もないか。……お前のせいではない。お前をあんな面倒な宿命に巻き込んでしまったのは、この私なのだからな」

父はそう言うと、自嘲するようにふと息を吐いた。

そのあまりにも懺悔に満ちた横顔に、俺の心が大きく揺さぶられた。

 

「なあ、静馬」

父は続ける。

その言葉の一つ一つが甘い、甘い猛毒となって、俺の魂の一番柔らかい場所に染み込んでいく。

 

「もう、いいんだ」

「もう、戦わなくても、いいんだぞ」

 

「…………っ!」

息が詰まった。

それは俺がこの十年、心のどこかでずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。

 

「審神者だの宿命だの、そんなものは忘れなさい」

父の幻影は俺の心の奥底を完全に見透かしたように、優しく語りかけてくる。

 

「お前には審神者の力など忘れて。ただの本好きとして生きてほしい。この古書の森の中で、誰にも何も脅かされることなく。ただ静かに、穏やかに。……それが私のたった一つの願いだったのだから」

 

そのあまりにも優しく、あまりにも甘美な誘惑。

俺の偽悪者の仮面の下に隠した、本当の、本当の願い。

平穏な日常。

退屈で何も起きない停滞した時間。

それを父が許してくれる。肯定してくれる。

もう戦わなくていい、と。

もう何も背負わなくていい、と。

俺の魂が、そのあまりにも心地よい響きに融けてしまいそうだった。

 

───ああ、そうか。

───そうだよな。

───俺はもう疲れたんだ。

───ハルキのこと、神祇庁のこと、これからのこと。考えるだけで頭がどうにかなってしまいそうだ。

───もう全部投げ出して、この優しい過去の記憶の中に留まってしまえたら。

───どれだけ楽だろうか。

 

一瞬、本気でそう思ってしまった。

この心地よい微睡(まどろ)みの中に永遠に沈んでしまいたい、と。

俺の足が止まる。

この心地よい過去に、魂が根を張ろうとしていた。

 

ぞわり、と。

書斎の空気が変わった。

それまでの温かい懐かしい空気は消え失せ、代わりにねっとりとした甘い腐臭のような空気が俺の全身にまとわりついてくる。

父の優しい笑顔がほんの少しだけ歪んだように見えた。

 

───喰われる。

───このままじゃ俺は、この優しい地獄に喰われてしまう。

 

俺は最後の理性を振り絞った。

だがその抵抗はあまりにもか弱い。

幻影の言葉は真実だ。俺は疲れている。逃げ出したい。

その抗いがたい本心を、どうやって否定すればいい?

 

───そうだ、俺は逃げたい。

───でも……でも本当にそれでいいのか?

 

俺は目の前の優しく微笑む父の顔を、もう一度じっと見つめた。

その顔。

その声。

その言葉。

全てが俺の理想の父親の姿だった。

 

───理想……?

 

そうだ。

あまりにも出来すぎている。

俺が言ってほしかった言葉を、完璧なタイミングで完璧な声音で囁いてくる。

まるで俺自身がそう願っているかのように。

 

俺は脳裏に別の父の姿を懸命に思い浮かべた。

俺が目を背け続けてきた、本当の父の姿。

 

それは神代の古文書を前に、何日も何徹も書斎に籠り、狂気じみた集中力で文字を追っていた研究者の顔。

それは神祇庁の役人と電話越しに激しく口論し、自らの信念を決して曲げなかった頑固者の顔。

そして、それは───。

あの最後の夜。

禁忌の儀式『神降ろし』に挑む直前。

不安がる幼い俺の頭を乱暴に撫でて。

こう言ったんだ。

 

『見てろよ、静馬。お父さんは、神様を、この目で、見るんだ』

『誰も、見たことのない、真理の、その先へ、行くんだ』

 

そうだ。

俺の親父はこんな物分かりのいい、優しいだけの男じゃなかった。

もっとずっと業突く張りで、傲慢で、自分の知的好奇心のためなら命さえ平気で懸けるような、どうしようもない馬鹿だった。

審神者としての己の血を誇り。

その力の限界を試すことに、何よりの喜びを感じていた。

 

そんな男が。

命懸けで挑んだ儀式に敗れた、そんな男が。

自分の息子にこんな腑抜けた言葉を掛けるものか?

 

「───あんた、誰だ?」

 

俺は呟いた。

その声は自分でも驚くほど冷たく乾いていた。

目の前の父の幻影が、ぴくりと眉を動かす。

 

「……何を言っているんだ、静馬。私だ。お前の父親だろう」

「違うな」

 

俺はソファからゆっくりと立ち上がった。

身体に纏わりついていた甘い腐臭を振り払うように。

 

「あんたは親父じゃない」

「…………」

「あんたは、俺の『弱さ』だ」

 

俺がそう断言した瞬間。

父の幻影の優しい笑顔に、ぴしりと亀裂が入った。

 

「俺の親父はな、もっとどうしようもねえくらい自分勝手で、格好つけで……そして最後まで審神者であろうとした男だ」

俺は続ける。

それはまるで自分自身に言い聞かせるようだった。

 

「俺に『戦わなくていい』なんて言わねえよ。アイツなら、こう言うはずだ」

俺は目を閉じた。

そして記憶の中の、あの最後の夜の父の傲慢な笑みを思い浮かべる。

 

「『俺の息子なら、俺が出来なかったことをやってみせろ』ってな」

 

そうだ。

あの人はそういう人だった。

だから俺はあの人に反発しながらも、心のどこかでずっと憧れていたんだ。

 

「あんたは親父の優しい部分だけを切り取って、俺がこうあって欲しいと願った都合のいい偶像だ。俺が自分の臆病さを正当化するために作り出した、甘ったれた幻影に過ぎねえんだよ!」

 

俺は叫んだ。

それは目の前の幻影への決別であると同時に。

十年もの間、父の死から目を背け続けてきた自分自身への訣別でもあった。

 

「俺は逃げねえ」

俺は強く言い放った。

その言葉はもう誰かのためじゃない。

俺自身の魂のための誓いだった。

 

「親父が辿り着けなかった答えがある。神々の真名がある。……それをこの目で見て、この手で掴む」

「それが審神者として生まれた、俺のケジメの付け方だ」

 

「───だから、消えろ。俺の、弱さ」

 

俺のその言葉を合図に。

世界がガラスのように砕け散った。

父の書斎が崩壊していく。

書架が、本が、机が、全てが光の粒子となって闇の中へと吸い込まれていく。

そして目の前の父の幻影もまた。

その顔から俺の弱さを映していた苦悶の色が、すうと消えていった。

 

砂のように足元からその姿が崩れていく中で。

幻影はゆっくりと俺を見つめ、その口元を吊り上げた。

 

それは優しい父親の微笑みではなかった。

俺が記憶している、あの頃のまま。

何かとてつもなく面白い企みを見つけた時のような。

全てを見通しているかのような。

どうしようもなく、傲慢で、不敵な笑みだった。

 

その唇が、声なく動く。

 

『───それでこそ、俺の息子だ』

 

幻聴だったかもしれない。

だが俺には確かにそう聞こえた。

その言葉を最後に父の幻影は、完全に光の粒子となって霧散し、無限の闇へと還っていった。

 

後に残されたのは絶対的な静寂と、俺一人。

だがその心にもう迷いはなかった。

 

◇◆◇

 

試練を乗り越えたという実感は不思議となかった。

ただ肩にのしかかっていた十年分の重い、重い鎖が一つ外れたような、奇妙な軽やかさだけが俺の心を占めていた。

俺は光の道の上を歩き続ける。

その先にあるオレンジ色の光は、もう父の書斎の幻影ではなかった。

それはもっと荘厳で、もっと神聖な何かへとその姿を変えようとしていた。

やがて光の道は終わりを告げた。

俺がたどり着いたのは、この書物の宇宙にぽっかりと浮かぶ巨大な円形の、黒曜石でできたかのような黒い舞台の上だった。

そしてその舞台の中央。

そこには、これまで俺が見てきたどんな扉とも違う、異質なが静かに鎮座していた。

それは扉というより鳥居に近かった。

二本の巨大な白木の柱。その上に渡された緩やかな弧を描く笠木(かさぎ)。

だがその様式は俺が知るどんな神社の鳥居とも違う。もっと古く、もっと根源的な神代の時代の様式。

そしてその鳥居の中央には、扉のように一枚の巨大な鏡が嵌め込まれていた。

鏡の表面はまるで夜の湖面のように、どこまでも黒く深く、俺の姿を吸い込んでしまいそうなほど静まり返っている。

 

「…………」

 

息を呑んだ。

ここから発せられる霊的な圧力は、これまでの書庫のどの場所とも比較にならない。

空気が違う。

時間が違う。

世界の理そのものが違う。

ここに在るだけで、俺というちっぽけな人間の存在が希釈され、無に還ってしまいそうなほどの絶対的なまでの神聖さ。

 

鳥居の笠木の中央には、神代の文字でこう刻まれていた。

 

『───ここに記されしは、神々の名。人の理にて、触れることなかれ』

 

間違いない。

ここがこの『天逆文庫』の最奥。

忘れ去られた神々の真名そのものが眠る場所。

《啼哭の花嫁》の正体を暴くための唯一の答えが、この鏡の向こうにある。

俺はごくりと乾いた喉を鳴らした。

そして覚悟を決めて、その黒い鏡の扉へと最後の一歩を踏み出した。

俺の魂の覚悟を試すかのように。

鏡の表面が、わずかに波紋のように揺らめいた気がした。

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