怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第4話 「忘れられた神の名は」

第2巻:『神祇庁の影』

第4章「忘れられた神の名は」

シーン1:最奥の書架

黒い鏡の向こう側は、沈黙に支配されていた。

いや、沈黙という言葉すらここでは生温い。

 

まるで宇宙が生まれる以前の、音という概念そのものがまだ産声を上げていないかのような、絶対的な〝無〟が空間を充填していた。

 

俺、識静馬(しき しずま)は、自分が呼吸をしているのか、心臓が動いているのか、そもそも肉体という枷がまだ魂に繋がっているのかさえ判然としないほどの、完全な静寂の只中に立っていた。

 

鼓膜は意味をなさず、ただ内なる魂の叫びだけが虚しく反響する。

 

「…………」

 

目の前に広がる光景は、先ほどまでいた無数の書物が銀河のように乱舞する混沌の宇宙とは、まるで光と影のように対極をなしていた。

 

そこは、どこまでも冷徹なまでに整然としていた。

 

床も、壁も、天蓋の見えない天井も、すべては神々の思考が凝固してできた鉱物、あるいは忘却の涙で磨き上げられた黒曜石で構築されているかのようだった。

 

その黒は単なる闇ではない。無限の知識と、それに等しい数の悲劇が圧縮された果ての色。

 

その深淵なる黒の空間に、あたかも滅びた神々の背骨を標本にしたかのように、幾千、幾万という巨大な書架が、天に向かって伸びていた。

 

その整然とした並びは、巨大な墓地のそれであり、厳粛な儀式場でもあった。

 

書架の一つ一つに収められているのは、すべて同じ意匠の黒い表紙で装丁された巨大な書物だった。

革とも木ともつかない、奇妙な手触りを想像させるその表紙。背には題名も著者名も、分類番号すらも存在しない。

 

ただ一冊一冊、異なる意匠の神代の紋様だけが、自らの内に秘めた記憶をかろうじて主張するかのように、淡い燐光を放って刻まれていた。

 

それらの書物から放たれるオーラは、これまで俺が対峙してきたどんな怪異や、神社の境内を満たす清浄な神気とも、全く次元が異なっていた。

 

それは〝力〟ではない。

〝威圧〟でもない。

ただ、そこに《在る》という、宇宙の法則そのもののような絶対的な存在感。

 

一つ一つの書物が、始まりと終わりを内包した一つの完結した宇宙であり、神という名の個人の、長大なる魂の記録そのものなのだ。

 

一歩、足を踏み出す。

革靴の踵が黒曜石の床を打つ音だけが、この絶対静寂の世界で唯一許された冒涜のように、冷たく響き渡る。

 

書架に近づけば、声にならない声が、音ではなく直接魂に流れ込んでくる。

 

ある書物からは、灼熱の砂鉄が舞う蹈鞴(たたら)の工房で、新たな製鉄技術という人の知恵に信仰を奪われ、祀られていた己の片腕を供物として失いながらも、それでもなお人を信じ、炎を見つめ続けた隻腕の鍛冶神の慟哭が聞こえる。

その悲しみは、裏切りの痛みというよりも、愛する子供の成長を見届けてしまった親のそれに似ていた。

 

また別の巻物からは、疫病を祓うため、人々のあらゆる穢れをその清らかなる御身に吸い続け、しかし近代医療という新たな光の前にその存在価値を失い、忘れ去られ、自らが穢れの塊と化して消えていった女神の、諦念に満ちたため息が聞こえる。

彼女の最後の願いは、自らを忘れた人々が健やかであること。そのあまりにも自己犠牲的な祈りが、俺の胸を締め付けた。

 

───ここが……『神名の間(しんめいのま)』……。

───神々の墓標が並ぶ、忘却の図書館……。

 

蘇我文人のあの忌々しい笑みを浮かべた顔と、その言葉が脳裏に蘇る。

そうだ。文人の言う通りだ。

 

ここに眠っているのは、単なる知識や情報などという無機質なデータではない。

人々に忘れ去られ、時の流れという最も残酷な刑吏によって歴史の闇に葬られた、神々の魂そのものだ。

 

ここに在るだけで、俺というたかだか十九年しか生きていないちっぽけな人間の魂が、そのあまりの格の違いに畏縮し、塵芥のように消滅してしまいそうになる。

 

だが、俺は奥歯を強く噛み締めた。

恐怖に呑まれるな。感傷に浸るな。

俺にはやらなければならないことがある。ハルキを、あの笑顔を、俺たちの日常を取り戻すために。

 

俺はゆっくりと、神々の墓標が並ぶ静謐な回廊を歩き始めた。

 

どの書物に触れるべきか。

どの紋様が、ハルキを蝕む《啼哭の花嫁》へと繋がっているのか。

 

焦りが胸を焼く。今すぐにでも《見鬼の眼(けんきのがん)》をこじ開け、この空間に満ちる霊的パスを視覚化したい。

だが、それをすればどうなる?

この神々の魂が眠る神聖にして危険な場所で、その根源を覗き込むような真似をすれば。俺の脳など、恒星の爆発を至近距離で見るように、一瞬で焼き切れて塵と化すだろう。

 

頼れるのは、俺自身の審神者(さにわ)としての、未熟で不確かな直感だけだ。

そして、もう一つ。

俺とハルキを繋ぐ、あの忌々しくも、今となっては命綱でもある魂の繋がり。

あの紫黒の呪いが放つ、微かな霊的振動だけが、この無限の墓標の海における唯一の道標だった。

 

俺は一度、足を止めて目を閉じた。

喧騒にも似た神々の魂の囁きを遮断し、意識を自らの内側へと深く、深く沈めていく。

 

まるで水圧に抗いながら、光の届かない深海へと潜っていくように。

感じろ。

ハルキの中に巣食う、あの禍々しくもどこまでも悲しい紫黒の神気の、その源流を。

 

この無数の神々の魂の中から、それと最も近い波長を持つ魂を探し出すんだ。

 

それは夜の砂漠の中から、たった一粒だけ、月光を反射しない黒い砂金を見つけ出すような、絶望的で途方もない作業だった。

 

◇◆◇

 

どれくらいの時間が経ったのか。

一時間か、一日か、あるいは一週間か。時間の概念すら、この空間では意味をなさないようだった。

 

俺はまるで夢遊病者のように、黒曜石の書架が立ち並ぶ迷宮をさまよい続けていた。

 

無数の神々の魂の気配が、嵐の中の小舟のように俺のちっぽけな魂を弄び、揺さぶってくる。

 

ある書物に近づけば、灼熱の砂漠と、そこで喉の渇きを癒す人々の祈りから生まれた神の幻影が見えた。だが、祈りが途絶えた今、その神自身が永遠の渇きに苦しんでいた。

 

ある巻物に手を伸ばしかければ、最終氷河期の絶対零度の風が頬を撫でた。人々が寒さに凍えながらも、洞窟の奥で小さな炎を囲み、暖を司る神へ捧げた祈りの温かさと、そして生き残った者たちが南へ去り、一人取り残された神の孤独な凍てつきが、同時に流れ込んでくる。

 

一つ一つの魂があまりにも強大で、あまりにも悲痛だ。

その悲哀に共感するたびに、俺の精神は少しずつ削り取られていく。すでに意識は限界寸前だった。

 

───クソッ、どこなんだよ……! 見つけられるわけがない……!

───多すぎる……! 神様ってやつは暇なのか!? こんなにウジャウジャと生まれて、忘れられて……!

 

焦りが俺の集中力を蝕み、思考が明滅を始める。

その、刹那だった。

 

《ぴり、》

 

左腕に巻かれた、祖母が朱墨で紋様を描き入れた和紙のお守りが、微かな、しかし確かな熱を発した。

まるで誰かが、皮膚の下に小さな火種を置いたかのような熱。

 

それと同時に、俺の魂の奥深く。ハルキと繋がってしまった霊的パスの、その一番奥の底で。

何かが共鳴するように、微かに、しかし鋭く震えた。

 

それは痛みにも似た、切ないほどの共振だった。

まるで遠く離れた場所で、同じ弦を持つ楽器が弾かれたかのように。

 

「…………こっち、か……?」

 

俺は幻覚に引きずられそうになる意識を無理やり引き戻し、導かれるように、その微かな魂の震えが指し示す方向へと歩を進めた。

いくつもの巨大な書架を通り過ぎ、巨大な図書館のさらに奥深くへ。

そして、たどり着いた。

 

数多ある書架の中でもひときわ古く、威圧感よりも、ただひたすらに物悲しい空気を纏った一つの書架の前に。

 

そこに収められていたのは、分厚い書物ではなかった。

一本の、古びた巻物だった。

 

軸は黒檀(こくたん)だろうか。気の遠くなるような長い年月を経て、光すら吸い込むような深い、深い闇の色をしている。

巻物を留めるための紐はとうの昔に朽ち果てたのか、その痕跡すらない。

 

そして、巻物の表面には、他の書物にあったような神代の紋様も、燐光も、何もなかった。

ただ、一つ。

まるで誰かが、絶望のあまりに大粒の涙を一滴だけこぼし、それが永遠に乾かずに染みとなってしまったかのような、黒い染みだけがそこにあった。

 

これだ。

理屈じゃない。

魂が叫んでいた。この染みこそが、ハルキを苦しめる呪いの源泉だと。

 

俺が探し求めていた答えは、この涙の痕の奥にあるのだと。

 

俺はごくりと、砂のように乾いた喉を鳴らした。

そして覚悟を決めて、その涙の染みを持つ古びた巻物へと、震える指先を伸ばした。

 

指先が、巻物のきめ細かくもざらついた和紙の表面に触れた、その瞬間。

 

「───ッぐ、ぁ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

俺の意思とは完全に無関係に、両の眼球が灼けるような激痛と共に、これまでとは比較にならない本当の最大出力で《見鬼の眼》が強制的にこじ開けられた。

 

視界が白く染まり、何も見えなくなる。

その代わり、巻物から文字が奔流となって溢れ出し、俺の魂へと直接流れ込んできた。

 

いや、違う。

あれは文字などという、人間が作り出した矮小な記号などではない。

 

魂の記憶そのものだ。

 

一人の女神がこの世に生まれ、人々に愛され、深く信仰され、そして裏切られ、憎まれ、貶められ、忘れ去られていく、その数千年にわたる喜怒哀楽のすべてが。

 

情報の超新星爆発となって、俺の脳髄へと直接叩きつけられてきたのだ。

 

それはもはや頭痛などという生易しいものではなかった。

俺という個が、識静馬という、たった十九年のちっぽけな少年の記憶が。

女神のあまりにも長大で、あまりにも過酷な魂の歴史の前に希釈され、融解し、完全に呑み込まれていく。

 

意識が変容していく。俺はもう俺ではいられなくなる。

男としての自我が、女神の激しい情念に溶かされていく。

 

このままではこの女神の悲劇の一部となって、永遠にこの書庫をさまよう記憶の亡霊となるだろう。

 

だが、もう抵抗はできなかった。

俺はその場に崩れ落ち、ただその魂の奔流に身を任せることしかできなかった。

 

◇◆◇

 

俺の、いや、〝私〟の視界は光に満ちていた。

それはどこまでも優しく温かい、人々の信仰という名の陽光だった。

 

『───瀬織津比売(せおりつひめ)様。今年も豊かな実りをありがとうございました』

 

黄金色の稲穂が風に揺れるたび、人々の感謝の念が心地よいそよ風となって私の頬を撫でる。その感謝が私の力となり、また来年の豊穣を約束する。

 

『───瀬織津比売様。どうか、あの人との縁が結ばれますように』

 

切ない恋心を抱いた娘の祈りが、胸の奥をキュンとさせる。私は月光となり、夜通し祈る彼女の背中をそっと照らし、二人の運命の糸をそっと手繰り寄せてやるのだ。

 

『───瀬織津比売様。私のこの心の穢れを、どうか洗い流してください』

 

過ちを犯し、悔恨にくれる男が川で禊をする。私はその川の水となり、彼の身体だけでなく、魂に染み付いた罪も涙も、その全てを我が身に引き受け、大海原へと流し去ってやる。

 

私は〝彼女〟になっていた。

川のせせらぎのように優しく。

大地を潤す恵みの雨のように力強く。

そして、すべての罪穢れをその身に引き受け、浄化する気高き祓戸(はらえど)の女神。

 

人々は私を愛してくれた。

私も人々を愛していた。

この美しき葦原中国(あしわらのなかつくに)を、そこに生きる愛おしい人々を、永遠に見守り続けること。

それが私の喜びであり、私の存在理由そのものだった。

 

女神としての身体は心地よく、人々の信仰を受けるたびに、全身が満たされるような多幸感に包まれた。

 

だが、その穏やかな日々は、空を裂く雷鳴と共に唐突に終わりを告げる。

天から降りてきた者たちによって。

高天原(たかまがはら)を治めるという、傲慢なまでに輝かしい神々。天津神(あまつかみ)。

 

彼らは言った。

この国は我らが統べる、と。

我らの法と秩序こそが、この世界の絶対の正義である、と。

私のような、この土地と共にあった土着の国津神(くにつかみ)は、その秩序に無条件で従うか、あるいは滅びるか、どちらかを選べ、と。

 

私は争いを好まなかった。水の徳性は、争うことなく低きに流れ、すべてを受け入れることだから。

だが、この土地を、この土地に生きる人々を、彼らの一方的な理不尽な力で支配されることは許せなかった。

そして何より、私を、そして私と同じ国津の同胞たちを、まるで虫けらのように見下す、あの傲慢な視線が許せなかった。

 

戦いは長く続いた。

私の水の力は、万物を洗い流し、時には大地を砕く激流となる。彼らの放つ雷の力と互角だった。

私の縁を結ぶ力は、人々の心を繋ぎ、時に彼らの軍勢の連携を断ち切り、幾度となく混乱させた。

人々は私を支持してくれた。私のために武器を取り、私の勝利を信じて祈ってくれた。その祈りが、何よりの力だった。

 

だが、彼らは卑劣だった。

力で私を屈服させられないと悟った天津神の武神……あの黄金の鎧を纏った雷の化身は。

もっと陰湿で、もっと残酷な策を弄した。

 

彼らは人の心に、疑念という毒を囁いたのだ。

私の力の恐ろしさを。祓い清める力は、裏を返せば全てを消し去る力なのだと。

 

『あの女神は強すぎる。いつかその水の力は制御を失い、洪水となってお前たちの田畑も家も、家族もすべてを呑み込むだろう』

 

『あの縁を結ぶ力は、人の心を縛り、自由な意思を奪う呪いの力だ。逆らえば、悪縁を結ばれ、末代まで祟られるぞ』

 

『彼女は祓戸の女神などではない。その本性は、災厄を呼び、人を喰らう鬼女だ』

 

嘘。

嘘、嘘、嘘!

私はそんなこと一度だって願ったことはない!

 

なのに。

なのに。

人の心は、水よりも移ろいやすく、そして驚くほどに脆く、愚かだった。

 

彼らの巧みな情報操作と、圧倒的な武力を背景にしたプロパガンダによって。

私への信仰は、少しずつ畏れに、そして恐怖へと、最後には憎悪へと変質していった。

 

『───出ていけ、鬼女! お前のせいで日照りが続くんだ!』

 

『───縁結びなんて嘘っぱちだ! あの人の心が離れたのは、お前の呪いのせいだ!』

 

『───この災厄神め! 我らを天津神様から引き離そうとする悪神め!』

 

昨日まで私に祈りを捧げていた者たちが、今日、私に石を投げつける。

私のために建ててくれたはずの神殿に、彼ら自身の手で火を放つ。

 

愛した人々の、その裏切り。

その痛みが、私の神としての心を少しずつ黒く、黒く塗りつぶしていった。

涙は枯れ果て、代わりに憎悪が湧き上がった。

 

信仰を失い、力を奪われ、そして心まで汚された私は、ついにあの雷神の前に膝をついた。

勝ち誇った雷神が、私の濡れた髪を鷲掴みにして顔を上げさせる。その瞳には、侮蔑と征服者の悦楽が浮かんでいた。

 

『───忘れられし神よ。汝の名は今日この日をもって、全ての歴史から完全に抹消される』

 

その言葉は言霊となり、私の存在そのものを世界から削り取っていく。

 

『───汝はもはや神ではない。ただ永遠にその罪を悔い、裏切られた悲しみに泣き叫ぶがいい』

 

彼は私の耳元で、囁いた。

 

『───未来永劫、その名を《啼哭の花嫁》と改めるがいい!』

 

私は封印された。

燃え盛る神殿の、その一番奥深く、灰と怨嗟が降り積もる場所で。

愛した人々の憎悪の声を聞きながら。

私の本当の名前も、記憶も、誇りも、すべて歴史の闇の中に葬り去られて。

 

それは死ぬよりも辛い、永遠の孤独という名の地獄の始まりだった。

 

◇◆◇

 

「…………はっ……! はぁっ……! げほっ、ごほっ……!」

 

魂の津波から、俺の意識が無理やり現実へと引きずり出される。

俺は黒曜石の冷たい床の上に大の字に倒れ込み、激しく咳き込みながら、溺れた人間のように必死で空気を求めた。

 

頭が割れるように痛い。脳の血管がすべてぶち切れてしまったのではないかというほどの、凄まじい激痛が頭蓋の内側で荒れ狂っている。

視界はまだ白と黒のノイズで明滅し、焦点が合わない。

鼻からはまた生温かい血が流れ続け、床に小さな血だまりを作っていた。

 

だが、そんな肉体的な苦痛など、どうでもよかった。

 

俺の魂そのものが、泣いていた。

一人の女神が味わった数千年にわたる、あまりにも理不尽で、あまりにも悲しいその絶望の重さに。

俺の涙腺はとっくに壊れているのに、魂の奥から涙がとめどなく溢れてくる。

 

(……ああ、そうかよ……)

(てめえはただの怪異なんかじゃなかったんだな……)

 

彼女は忘れられ、貶められた、救われるべき一人の誇り高き神だった。

そしてその彼女をここまで追い詰めたのは。

高天原の神々の傲慢な正義と。

そして、その嘘を鵜呑みにしてしまった、俺たち人間の愚かさだった。

 

俺たちの先祖が、彼女に石を投げつけたのだ。

 

俺の中で、ハルキを救うという目的が、より大きく、そして重い意味を持つものへと変質していく。

それはもはや単なる親友の救出劇ではない。

一人の神の、踏みにじられた尊厳を回復する戦いだ。

そのあまりにも永い孤独を終わらせてやる。

 

それこそが、審神者としてこの《見鬼の眼》を、この血を受け継いでしまった、俺の本当の使命なのだと、魂が理解した。

 

俺は朦朧とする意識の中、必死に得た情報の奔流から、たった一つの真実を掴み取り、魂に刻みつける。

数千年の絶望と悲しみの記憶の中から、彼女を救うための、彼女の魂そのものである、たった一つの言霊を。

 

「───瀬織津比売(せおりつひめ)」

 

その本当の名を、乾ききった唇で反芻した、その瞬間。

俺の身体を支えていた最後の緊張の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

俺の意識は、安堵と共に深く、深く闇の中へと沈んでいった。

 

◇◆◇

 

ふわり、と。

身体が浮遊する、奇妙な感覚。

そして次の瞬間には、背中から何か巨大で、しかし驚くほど優しい力に押し出されるような不思議な感覚に包まれた。

 

目的を果たした俺を、あの気難しい書庫が自動的に外部へと排出しているのだと、朦朧とする意識の片隅で俺は理解した。

まるで役目を終えた部品を吐き出すように。

 

ごごごごごご……。

地殻変動のような重い、重い振動が響き渡る。

俺の背後で、あの巨大な鉄の扉がゆっくりとその口を閉じていく。光が、一本の線となって消えていく。

 

そして俺の意識のない身体は、まるで生まれたての赤子のように無防備に、その扉の外側、見慣れた書庫の床へと音もなく転がり出ていた。

 

「シズマッ!」

 

鼓膜が震える。耳元で聞き慣れた親友の悲痛な叫びが聞こえた。現実の音だ。

 

誰かが俺のボロボロの身体を、ためらいなく、しかし力強く抱き起こしてくれる。その温かい感触。

鼻腔をくすぐる、ハルキのシャンプーの甘い香り。

 

ああ、俺は、帰ってきたんだ。

 

「おい、しっかりしろ! シズマ! 死ぬな! 目を開けろ!」

 

揺さぶられる衝撃で、さらに咳き込む。

 

「……うるせえな……。誰が、死ぬかよ……馬鹿野郎……」

 

俺はなんとか最後の気力を振り絞り、鉛のように重い瞼をうっすらと持ち上げた。

ぼやけた視界の中に、涙と不安でぐしゃぐしゃになったハルキの、それでもなお美しい顔があった。

その瞳に映る俺の顔は、きっと血塗れで酷い有り様だろう。

 

その後ろで、祖母が息を呑む気配がした。その気配には、驚愕と、そして畏れにも似た感情が混じっていた。

 

「……シズマ……! お前さん、まさか……その魂の気配……『神名』を、持ち帰ったのか……!」

 

そうだ。

やったぜ、ばあちゃん。

あんたの孫は。

あの親父ですら辿り着けなかった答えを、その魂に刻んで、帰ってきたぜ。

 

俺は薄れゆく意識の中、これから始まる本当の戦いのために、すべてを伝えるために、最後の力を振り絞って口を開いた。

 

それは、一人の女神の魂を救済するための、反撃の狼煙だった。

 

「……あいつの……本当の、名は……」

 

ハルキが、祖母が、固唾を飲んで俺の言葉を待っている。

 

「……《瀬織津比売(せおりつひめ)》……だ……」

 

その一言を最後に。

俺の意識は、役目を終えた安堵感に包まれながら、完全に闇の中へと落ちていった。

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