怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
月光を浴びて、その少女は立っていた。
現実感を根こそぎ奪い去るような、非人間的な美貌。
磨き上げられた黒曜石のような瞳が、不安げに揺れながら、まっすぐに俺を射抜いている。
木刀を握りしめたまま、俺は完全に動きを封じられていた。金縛りなんていう陳腐な言葉では足りない。魂ごと、この場所に縫い付けられてしまったかのような、絶対的な無力感。目の前の存在が放つ、尋常ならざる気配に呑まれていた。
(なんだ、こいつは……)
思考が、まるで凍り付いた沼の底に沈んだように鈍重になる。
泥棒? いや、違う。暗殺者? 馬鹿な。そもそも、どうやってこの二階の部屋に? 施錠された窓を、まるで煙か霞のようにすり抜けてきたあの光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
ならば、答えは一つしかない。
怪異だ。
俺がこれまで必死に目を逸らし、関わることを拒絶し続けてきた、世界の裏側の住人。
───クソッ、なんでよりにもよって、こんな大物が俺の部屋に来るんだ! 見るからに面倒くささの塊じゃねえか! 俺はただ、平穏に古書の埃を眺めていたいだけなんだって、何度言ったら分かるんだこの世界は!
内心の絶叫も、目の前の現実の前では虚しく響くだけだ。
少女が、その血のように赤い唇を、わずかに綻ばせた。
何かを言おうとしている。どんな冒涜的な言葉が、その完璧な造形から紡ぎ出されるのか。俺は唾を飲み込み、全身の神経を警戒に張り巡らせた。
「…………よっ」
凛、と鈴を振るような、涼やかな声だった。
だが、その声に含まれた音色と、発せられた言葉のあまりの軽さに、俺の脳は完全に処理を放棄した。
「よっ、て……は?」
絞り出した俺の声は、情けないほどに掠れていた。
少女は、俺の間の抜けた反応を見て、少しだけ困ったように眉をひそめる。そして、まるで長年の友人に呼びかけるような、気安すぎる口調で、こう続けたのだ。
「よっ、シズマ! やっぱ起きてた!」
「………………………………」
思考が、完全に停止した。
シズマ? 俺の名を、なぜ知っている?
そして、その呼び方。そのイントネーション。その、人を食ったような、底抜けに明るい響き。
それは、俺が聞き慣れた、たった一人の人間のものだった。
まさか。
いや、あり得ない。
そんな馬鹿なことが、あってたまるか。
俺の混乱をよそに、少女は「あー、やっぱ驚くよな。俺も驚いたもん」などと一人ごちながら、きょろきょろと俺の部屋を見回している。その仕草には、初めて訪れた場所に対する好奇心と、どこか見慣れた場所に戻ってきたような奇妙な安堵感が同居していた。まるで、本当に、こいつが。
「……誰だ、お前」
俺は、震える喉から、それだけを絞り出した。
「何言ってんだよ、シ-ズ-マくん?」
少女は、からかうようにそう言うと、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。その表情、その仕草、その軽薄さ。それは、俺の記憶の中にいる、どうしようもないトラブルメーカーのそれと、寸分違わず一致していた。
「だから、俺だって。……ハルキだよ、日野陽輝」
瞬間、俺の頭の中で、何本もの理性の糸が、ぷつり、ぷつりと千切れていく音がした。
───はあああああああ!? ハルキだぁ!? どの口が、どの顔面が、どの性別がそれを言わせてるんだ馬鹿野郎ッ! 寝言は寝て言え! いや、夢の中でもこんな悪夢は見ねえぞ! 俺の親友は、日に焼けた健康優良児で、馬鹿みたいにでかい声で笑う、紛れもない『男』だ! 目の前の、月光浴びて儚げに佇む、黒髪ロングの美少女とは、遺伝子レベルで構成要素が違うだろうが!
偽悪者ぶって他人を突き放してきた俺の冷静さは、この非現実的なカミングアウトの前で、木っ端微塵に吹き飛んだ。
これは、罠だ。
俺を混乱させるための、高度な精神攻撃。あるいは、俺の親友の情報をどこかで抜き取り、完璧に擬態した、悪質な怪異。そうだ、そうに決まってる。そうでなければ、俺の常識が、世界が、根底から覆ってしまう。
「……ふざけるな」
俺は、目の前の〝何か〟を睨みつけ、木刀の柄を強く、強く握り直した。指の関節が白くなる。
「お前が、ハルキなわけがないだろうが。あいつは……あいつは今頃、廃神社で肝試しをしてるはずだ」
「そう、それ! その肝試しで、こうなっちまったんだよ!」
少女──ハルキを名乗るソレは、さも当然のように言いきった。その瞳には、嘘をついている色はない。ただ、自分の身に起きた途方もない出来事を、どう説明すれば目の前の石頭に信じてもらえるのか、測りかねているような純粋な戸惑いだけが浮かんでいた。
「信じられねえのも無理はないけどさ。ほら、覚えてるか? 小三の夏休み、二人で作った秘密基地。神社の裏にあった、一番でかい楠の木の洞(うろ)だよ。俺たちの宝物は、ばあちゃんからパクった羊羹の空き箱に入れて、そこに隠しただろ? 合言葉は『今日の給食、揚げパン最強』。な?」
「…………ッ!」
息が、詰まった。
その記憶は、俺とハルキ、二人だけのものだ。誰にも話したことはない。俺たちの、最初の、そして最大の秘密。
目の前の少女は、なぜそれを知っている?
記憶を読んだのか? ハルキをどこかに捕らえて、無理やり聞き出したのか?
「……まだ信じらんねーか。じゃあ、これはどうだ? お前が親父さんのことで魘されてた時、いつも俺が泊まりに来てやってただろ。お前、寝言でいっつも『面倒くさい』って言うんだぜ。小学生のくせに生意気だよな」
「……だま、れ」
やめろ。
それ以上、俺たちの領域に踏み込んでくるな。
俺の心臓が、警鐘を乱れ打つ。恐怖と、混乱と、そして、万に一つ、いや、億に一つの可能性が、俺の脳裏を掠めていく。
もし、本当に。
万が一。
こいつが、本物のハルキだったとしたら?
「シズマ」
少女が、俺の名を呼んだ。
その声は、先ほどまでの快活さとは違う。どこまでも真剣で、縋るような響きを帯びていた。
「頼む。信じてくれ。俺は、本物の、日野陽輝だ」
その瞳は、あまりにも必死だった。
潤んだ瞳の奥に宿る光は、俺が十年以上も見続けてきた、親友の光そのものだった。
ああ、クソ。
もう、駄目だ。
信じる信じないの理屈じゃない。俺の魂が、血が、本能が、目の前の存在を無視することを許さない。
確かめなければならない。
たとえ、その先に、知りたくもない絶望が待っていたとしても。
「…………ッああああああああッ!!」
俺は、叫んだ。
意味のない咆哮だった。込み上げてくる全ての感情を、ただ音にして吐き出しただけの、獣のような叫び。
その叫びと同時に、俺の意思とは関係なく、血に刻まれた力が強制的に解放された。
───見鬼の眼(けんきのがん)。
カッ、と、両の眼球が灼けるように熱くなった。
視界が、金色と黒の閃光で明滅する。脳を直接、万力で締め上げられるような、凄まじい頭痛。普段は必死に抑え込んでいるその力を、俺は今、自らの混乱を振り払うためだけに、最大出力でこじ開けた。
世界から、色が消える。音が消える。
俺の眼に映るのは、万物が持つ、魂の輪郭と、霊的な本質だけ。
そして、目の前の少女に焦点を合わせた瞬間──―俺は、視てしまった。
筆舌に尽くしがたい、おぞましい光景を。
最初に視えたのは、二重に絡み合った、禍々しいオーラの奔流だった。
一つは、少女の身体そのものから放たれる、深く、昏く、静かな怨嗟を湛えた紫黒の霊気。それは、まるで底なしの沼のように、周囲の光さえも吸い込んでいく。格の高い、強力な怪異であることの証明。
だが、問題は、その内側だった。
紫黒のオーラの中心で、まるで嵐の中の蝋燭のように、か細く揺らめいている光があった。
澄んだ、夏の空のような、青い光。
見間違えるはずがない。
何度も見てきた。俺が唯一、心を許した、親友の魂の色だ。
「……ハルキ……」
掠れた声で、その名を呼ぶ。
そうだ。間違いなく、ハルキの魂が、そこに在る。
だが、その状態は、あまりにも、あまりにも悲惨だった。
俺は、眼をさらに凝らし、魂の深層を覗き込む。
頭痛が、限界を超える。鼻の奥で血管が切れる感触があった。だが、もう止められない。止められるはずがない。
視えた。
ハルキの青い魂は、その輪郭が、まるで水に溶けた絵の具のように、曖昧に滲んで崩れかけていた。光は弱々しく、今にも消え入りそうに明滅を繰り返している。
そして、その魂に。
巨大な、黒い蜘蛛のような影が、びっしりと張り付いていた。
それは、紫黒のオーラの根源。この怪異の本体。
影は、ハルキの魂を覆い尽くすようにその身を広げ、無数の黒い糸のような触手を、彼の魂の中心へと深く、深く突き刺していた。
まるで、生きながら捕食される虫のように。
ハルキの魂は、その存在の根幹から、ゆっくりと、しかし確実に、その霊的な本質を喰われ、啜られていたのだ。
ぎち、ぎち、と、魂が軋む、耳には聞こえないはずの音が、俺の脳内に直接響いてくる。
青い光が点滅するたびに、ハルキの魂が、言葉にならない悲鳴を上げているのが『視える』。
「あ……が……ッ」
声にならない呻きが、俺の喉から漏れた。
これが、真実。
目の前の美しい少女は、ハルキの肉体を乗っ取った怪異なんかじゃない。
もっと残酷で、もっと救いようのない、悪夢の具現。
親友の魂を、その内側から喰らい尽くそうとしている怪異に、肉体を乗っ取られた。
そして、その抜け殻となった肉体を、怪異が自らの好みで、美少女の姿へと作り変えた。
それが、今、俺の目の前に立っているモノの、正体。
「……シズマ? おい、どうしたんだよ、顔、真っ青だぞ……?」
少女の姿をしたハルキが、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
その無邪気な声が、今は何よりも恐ろしかった。
彼は、気づいていないのだ。自分の魂が、今この瞬間にも、すぐ内側で、喰われ続けているという事実に。
「……あ……」
駄目だ。
何も考えられない。
あまりの絶望に、思考が麻痺する。
父が死んだ、あの時と同じだ。目の前で、大切なものが、自分にはどうすることもできない、圧倒的な理不尽によって失われていく。
俺は、何もできない。
ただ、視ていることしか。
カシャン、と乾いた音がして、手から木刀が滑り落ちた。
俺は、その場に、膝から崩れ落ちていた。
「ハルキ……」
もう一度、親友の名を呼ぶ。
それは、もはや問いかけでも、確認でもなかった。
ただ、目の前で消えかかっている魂に対する、無力で、どうしようもない、慟哭に近かった。
俺の平穏な日常は、終わった。
そんな生易しいものじゃない。
俺の世界そのものが、今、目の前で、音を立てて崩壊していく。
月明かりの下、美しい少女の姿をした親友は、ただ不思議そうに、俺を見下ろしていた。