怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第2話 「窓から来た少女」ー3

「……ハルキ……」

 

俺の唇から漏れ出たのは、親友の名を呼ぶ、ただそれだけの音。しかし、その音には、自分でも自覚できるほどの絶望が、粘土のようにねっとりと絡みついていた。

床に両膝をついたまま、俺は顔を上げることができない。視界がぐにゃりと歪み、部屋のすべてが現実感を失っていく。木刀が床に転がる乾いた音が、やけに遠くで聞こえた気がした。

 

《見鬼の眼》が叩きつけてきた真実は、俺のちっぽけな覚悟など容易く粉砕するほどに、あまりにも残酷で、救いがなかった。

喰われている。

俺の、たった一人の親友が、今この瞬間も、その魂の内側から、ゆっくりと、確実に。

そのおぞましい光景が、網膜の裏に焼き付いて離れない。ぎちぎちと魂が捕食されていく幻聴が、鼓膜の奥で反響している。

 

「おい、シズマ? 大丈夫かよ、マジで」

 

頭上から、呑気な声が降ってくる。

俺の深刻な状態をまるで理解していない、どこまでも場違いな、聞き慣れた声。

俺はゆっくりと、本当にゆっくりと、錆びついたブリキ人形のように首を動かし、その声の主を見上げた。

 

そこに立っていたのは、やはり、月光を浴びて幻想的に佇む、絶世の美少女だった。

長い黒髪、陶器のような白い肌、喪服のような黒いワンピース。

その完璧なまでの美貌と、そこから発せられる快活な声のギャップが、もはや狂気の域に達している。

 

「顔、真っ青通り越して真っ白だぞ。貧血か? ちゃんと飯食ってるか、お前」

少女──ハルキは、心底心配そうにそう言うと、俺の目の前にこてん、と首を傾げながら屈み込んできた。長い髪がさらりと流れ、甘い、花のようないい匂いが鼻腔をくすぐる。

その、あまりにも無防備で、あまりにも〝女の子らしい〟仕草に、俺の脳内で最後の理性の糸が、盛大な音を立てて切れた。

 

───心配してる場合かあああああああっ!! この、世紀末レベルの鈍感男がッ! お前のその頭蓋骨の中には、脳みその代わりにおがくずでも詰まってるのか!? 飯!? 飯どころの話じゃねえだろうが! お前の魂が、今まさに、内側からディナーとしてフルコースで喰い尽くされようとしてるんだよ! 前菜からメインディッシュまで余すところなく! デザートは脳みそだ! 分かってんのか!?

 

込み上げてくる絶叫を、俺は奥歯を噛み締めて必死に飲み込んだ。今、ここで叫んだところで、状況は何一つ好転しない。それどころか、こいつは「え、マジで!? 超ウケるんだけど!」とか言い出しかねない。絶対に言う。俺のハルキセンサーが、過去十九年間の統計データに基づき、そう断言している。

 

「……お前……」

俺は、床についた拳を握りしめ、震える声で言った。

「……自分が、どういう状況か、分かってるのか……?」

「ん? ああ、分かる分かる。超分かるぜ」

 

ハルキは、何を勘違いしたのか、ぱあっと顔を輝かせた。その表情は、難解なクイズに正解した子供のように、誇らしげですらあった。

 

「マジモンの怪異に、体を乗っ取られました! ……ってコトだろ!?」

 

得意満面に、人差し指をぴんと立てて言い放つ。

その屈託のない笑顔は、彼が本来の〝男〟の姿であったなら、ただの「馬鹿だなこいつ」で済んだだろう。だが、今は違う。絶世の美少女が浮かべるその表情は、無邪気というにはあまりにも不謹粋で、純粋というにはあまりにも痛々しかった。

 

「……はは……」

乾いた笑いが、俺の口から漏れた。

駄目だこいつ。早くなんとかしないと。

物理的にとか、霊的にとか、そういう次元の話じゃない。こいつの頭の中が、もう手遅れになりかけている。

 

「……経緯を、話せ」

俺は、床にへたり込んだまま、できるだけ感情を殺した声で命じた。

「最初から、最後まで、全部だ。何があったのか、洗いざらい吐け。いいな?」

「お、おう。なんか、お前がいつになく真剣で怖いんだけど……」

 

ハルキは俺の気迫に少しだけ気圧されたようだが、すぐにいつもの調子を取り戻した。彼は「よーし、じゃあ語って聞かせよう!」と、まるで武勇伝でも披露するかのように、その場にあぐらをかいて座り込んだ。美少女のあぐら。その絵面の破壊力に、俺の精神はさらにごりごりと削られていく。

 

「えーっと、まず、事の発端は昨日の夜……って、もう今日の深夜か。俺がツレと二人で、例の『啼哭森(ていこくのもり)神社』に突撃したことから始まるわけよ」

ハルキの語りは、まるで昨夜観たホラー映画の感想を話すかのように、軽快だった。

 

曰く。

例の電話を切った後、ハルキともう一人の友人(同じくオカルトマニア)は、鬱蒼と茂る森の中、懐中電灯の光だけを頼りに、廃神社の境内へと続く古びた石段を登ったらしい。

空気は湿って重く、不気味な鳥の鳴き声が響き渡る、いかにもな雰囲気。ツレがビビりまくる中、ハルキは「これだよこれ!」とテンションが最高潮に達していたという。

 

───だろうな! お前のその、恐怖心という名の安全装置が標準装備されていない脳みそなら、さぞかし楽しかっただろうよ! 普通の人間は、そこでおしっこ漏らしてUターンするんだよ!

 

「でさ、本殿の裏手に回ったら、あったんだよ! いかにも怪しい、注連縄(しめなわ)が張られた小さな祠が! 古文書とかに出てくる、まさにあんな感じのやつ!」

 

祠は、長い年月で風化し、苔むしていた。だが、そこに張られた注連縄と、扉に貼られた数枚のお札だけは、まるで昨日しつらえられたかのように真新しく、異様な気配を放っていた。

ツレは「やめようぜ、ハルキ。これはガチでヤバい」とハルキの袖を引いて制止した。賢明な判断だ。友人に恵まれたな、ハルキ。

 

「でもさ、俺は分かっちまったんだよ。SNSで噂になってた『神隠し』の元凶は、絶対こいつだって! 祠の扉に貼られたお札、見たことない梵字みたいなのが書いてあってさ。もう、オーラが違うわけよ、オーラが!」

 

ハルキは、興奮で目をきらきらさせながら語る。その瞳は、未知の古代遺跡を発見した考古学者のようだった。

そして、彼は、やってしまった。

人類が、太古の昔から繰り返してきた、最も愚かで、最も致命的な過ちを。

 

「ツレが止めるのも聞かずに、俺、そのお札、剥がしちまったんだわ」

てへぺろ、とでも言いそうな口調で、彼はあっけらかんと言い放った。

 

「そしたらさ、祠の扉が、ぎぎぎ……って、勝手に開き始めて……。中から、もわーって、黒い煙みてーなのが出てきたんだよ。煙っていうか、なんか、もっとドロドロした、闇の塊みたいな感じのやつ」

 

───それだッ! それが元凶だ! 《啼哭の花嫁》! 俺が《見鬼の眼》で視た、あの紫黒のオーラの根源! お前は、パンドラの箱を開けたんだよ、分かってんのかこの馬鹿! しかも、箱じゃなくて祠だけどな!

 

「ツレは『うわあああ!』って叫んで気絶するし、俺もさすがに『あ、これ死んだかも』って思ったんだけどさ。その黒いのが、なんか、すうーって、俺の体に吸い込まれてきて……」

ハルキは、そこで一度言葉を切った。そして、自分の胸にそっと手を当てる。美少女の華奢な手が、黒いワンピースの上で小さく震えているように見えた。

 

「……そん時の感覚、マジでヤバかった。全身が、氷みたいに冷たくなってさ。体の内側から、知らない誰かに乗っ取られるっていうか……。意識が、どんどん遠くなっていくんだ。ああ、これが『神隠し』の正体かー、なんて、妙に冷静に考えてる自分もいて」

 

初めて、ハルキの声色から、軽薄さが消えた。

彼の瞳の奥に、あの夜の恐怖が、生々しく蘇っているのが分かった。そうだ、こいつだって、ただの人間だ。いくら好奇心が旺盛でも、死の淵を覗き込めば、恐怖を感じないはずがない。

 

だが、それも一瞬のことだった。

ハルキはすぐに「ははっ」と自嘲気味に笑うと、再びいつもの調子に戻った。

 

「で、気づいたら、朝になってた。気絶してたツレを叩き起こして、二人で山を降りたんだけど……その時から、もう、なんかおかしかったんだよ」

 

何がおかしかったのか。

まず、ツレがハルキのことを見ても、全く反応しない。それどころか、まるでハルキがそこに存在しないかのように、一人でパニックを起こして山道を転がるように下っていったという。

そして、ハルキ自身も、体に力が入らない。歩いているはずなのに、地面を踏みしめている感覚が希薄で、まるで自分が幽霊にでもなったかのような、奇妙な浮遊感があった。

 

「で、極めつけは、帰り道にあったコンビニのトイレだよ。鏡見て、俺、マジでぶったまげたね」

ハルキは、自分の長い黒髪を指でくるくるといじりながら、続ける。

「だって、鏡に映ってるのが、俺じゃなくて、こいつなんだもん。今の、この姿」

 

彼は、まるで他人事のように言った。

 

「最初は、幻覚かと思ったよ。疲れてんのかなー、って。でも、いくら顔を洗っても、頬をつねっても、この姿のまま。声も、なんか高くなってるし。おまけに、あるはずのものが、ないし」

ハルキはそう言って、自分の胸元に視線を落とした。そこには、女性的な、ささやかな膨らみがあった。

 

「その時、確信したね。ああ、俺、完全に『乗っ取られた』んだわ、って」

 

───いや、確信するところじゃないだろ! そこは絶望して泣き叫ぶところだろうが、普通は! なんでお前の精神構造は、そんな鋼鉄のポジティブシンキングで出来てるんだ! 少しは悩め! 絶望しろ!

 

「それからが、また大変でさ。家に帰っても、親父もお袋も、俺のこと、全然認識できねーの。完全に空気扱い。声も聞こえてないみたいだし。マジで、俺、この世界から消えちまったのかもって、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、焦ったよな」

 

その言葉に、俺はハッとした。

そうだ。こいつは今、半人半怪異の状態。存在が、この現世に対して希薄になっている。だから、常人には認識できない。声も、姿も。

家族にさえ認識されない。世界で、たった一人になってしまったかのような、孤独。

それは、どれほどの恐怖だっただろうか。

 

「でも、その時、思い出したんだよ。……シズマのこと」

ハルキは、まっすぐに俺の目を見て言った。

「お前なら、きっと俺のこと、見えるだろって。お前の家、昔からなんか、普通じゃなかったし。それに……お前なら、なんとかしてくれるかもって」

 

その瞳に宿っていたのは、絶対的な信頼だった。

何の根拠もない、ただ、長年の付き合いで培われた、親友への、漠然とした、しかし強固な信頼。

その、あまりにも純粋な光を直視できず、俺は思わず目を逸らした。

 

───やめろ。そんな目で、俺を見るな。

俺は、お前が期待するような、特別な人間じゃない。

父さんみたいに、天才じゃない。

ただ、臆病で、面倒くさがりで、宿命から逃げ続けているだけの、ただの古本屋の店番だ。

 

「……で、どうにかこうにか、ここまで来たってわけ。いやー、マジで壮大な冒険だったぜ! 途中で体が透けたりして、マジで焦ったけどな!」

 

ハルキは、全てを語り終えると、満足げに息をついた。

そして、悪びれる様子もなく、にかりと笑って、こう締めくくったのだ。

 

「まあ、そんなわけで、体乗っ取られて美少女になっちまったけど、よろしくな、シズマ!」

 

「…………」

 

よろしくな、じゃない。

よろしくな、じゃ、断じてない。

 

俺は、ゆっくりと立ち上がった。

《見鬼の眼》の酷使による頭痛は、もはや限界を超えていた。目の前がちかちかと明滅し、立っているだけでめまいがする。だが、それ以上に、腹の底から、どうしようもない感情がマグマのように込み上げてくるのを、もう抑えることはできなかった。

 

それは、怒りだった。

親友の無謀さに対する怒り。

こんな事態を引き起こした、名も知らぬ怪異に対する怒り。

そして何より、目の前で起きている絶望に、何もできずにいる自分自身に対する、猛烈な怒りだった。

 

「……ハルキ」

俺は、低い、地の底から絞り出すような声で言った。

「お前、自分がどれだけ……どれだけ、馬鹿なことをしたか、分かってんのか……?」

「え? いや、まあ、ちょっとヤバかったかなーとは思うけど……」

 

「〝ちょっと〟だと?」

俺は、一歩、ハルキににじり寄った。

「これはな、〝ウケる〟とか、〝ヤバかった〟とか、そんな言葉で済まされるような事態じゃ、断じてないんだよ!」

 

俺は、ハルキの華奢な両肩を、強く掴んだ。驚くほど細い肩だった。力を込めれば、折れてしまいそうなほどに。

ハルキは、俺の剣幕に、さすがに驚いたように目を見開いている。

 

「お前の魂は、今も、喰われ続けてるんだ! このままじゃ、お前は……日野陽輝っていう存在そのものが、この世界から完全に消滅する! 肉体も、魂も、記憶も、何もかも、あの怪異に喰い尽くされて、終わりだ! 分かってんのか!?」

 

俺の叫びは、静まり返った部屋に、痛々しく響き渡った。

ハルキは、俺の言葉の意味を、すぐには理解できないようだった。ただ、ぱちぱちと、大きな瞳を瞬かせている。

その反応が、俺をさらに苛立たせた。

 

「なんで笑ってられるんだよ! なんで平気でいられるんだ! 少しは怖がれよ! 絶望しろよ! 泣き叫べよ! お前は、もうすぐ……死ぬんだぞッ!」

 

最後の言葉は、もはや叫びではなかった。

懇願に近い、悲痛な響きを帯びていた。

 

頼むから、気づいてくれ。

お前が、どれだけ危険な崖っぷちに立っているのか。

俺が、どれだけお前を失うのが怖いのか。

 

俺の言葉を受けて、ハルキの瞳が、初めて大きく揺らいだ。

彼の顔から、いつもの軽薄な笑みが、すうっと消えていく。

そして、まるで張り詰めていた糸が切れたかのように、その表情が、くしゃりと歪んだ。

 

「……こわ、いよ」

 

ぽつり、と。

か細い、今にも消え入りそうな声が、彼の唇から漏れた。

 

「……怖いに、決まってんだろ……」

 

ハルキの大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと、大粒の涙が零れ落ちた。

それは、彼がこの部屋に来て、初めて見せた、偽りのない本心だった。

 

「体が、自分の体じゃないみたいで……。どんどん、自分が、誰だか分からなくなってくみたいで……。本当は、ずっと……ずっと、怖かったんだよ……ッ!」

 

強がりの仮面が、剥がれ落ちた。

そこにいたのは、オカルト好きのトラブルメーカーではない。

ただ、圧倒的な理不尽に呑み込まれ、死の恐怖に怯える、一人の十九歳の少年だった。

 

その、あまりにも痛々しい涙を見て、俺は、自分が何をすべきか、ようやく理解した。

そうだ。

怒っている場合じゃない。絶望している暇もない。

俺は、審神者だ。

逃げ続けてきた、忌まわしい血筋。

だが、今、この瞬間、俺の目の前で、親友が喰われようとしている。

 

───なら、答えは、一つしかねえだろうが。

 

俺はハルキの肩を掴む手に、さらに力を込めた。

そして、腹の底から、決意の声を、絞り出した。

 

「……絶対に、助けてやる」

それは、自分自身に言い聞かせる、誓いの言葉だった。

 

「お前の魂を喰ってるあのクソッタレを、どうにかして引きずり出して、お前を、絶対に、元の身体に戻してやる。だから……」

 

だから、泣くな。

そう言いかけた、俺の言葉は。

突如として、目の前で起きた異変によって、遮られることになった。

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