怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
「──だから、泣くな」
そう、言いかけた、俺の言葉は。
親友の悲痛な涙を拭うために伸ばしかけた、俺の指先は。
目の前で起きた、あまりにも唐突で、あまりにも絶望的な異変によって、行く先を失った。
「…………え?」
ハルキの、くしゃりと歪んだ顔から、疑問の声が漏れた。
彼の瞳から零れ落ちた大粒の涙が、畳の上に落ちるよりも早く。
その足元が、ふっ、と掻き消えたのだ。
いや、違う。消えた、という陳腐な表現では足りない。
まるで、そこに存在していたはずの彼の足が、最初から精密なCGか何かで描かれていたかのように。その輪郭が、ノイズ混じりに揺らぎ、淡い光の粒子となって、さらさらと空気中に溶けて霧散していく。
「な……んだ、これ……?」
呆然と、自分の足を見下ろすハルキ。
黒いワンピースの裾から覗く、白く華奢だったはずの足首から先が、すでにない。背景にある俺の部屋の、散らかった本の山が、彼の身体を通して透けて見えていた。
その現象は、まるで乾いた砂の城が風に侵食されていくように、ゆっくりと、しかし確実に、彼の身体を上方へと侵食していく。足首が消え、ふくらはぎが透け、膝が曖昧な輪郭へと変わっていく。
「おい、ハルキッ!」
俺は、我に返って叫んだ。
掴んでいた彼の肩に、さらに力を込める。だが、その感触は、先ほどまでの確かなものではなかった。まるで、中身の詰まっていない、薄皮一枚の人形を掴んでいるかのような、頼りない手応え。実体そのものが、希薄になっているのだ。
───クソッ、なんだこれは! どうなってる! さっきまで、たしかにこいつはここにいたはずだ! 俺の《見鬼の眼》は、こいつの魂が喰われていることは視たが、こんな、存在そのものが消滅していくなんて現象は視ていなかったぞ!
「あ……あ……ッ」
ハルキの喉から、声にならない呻きが漏れる。
彼の顔から、急速に血の気が引いていく。恐怖が、その美しい顔貌を醜く歪ませていた。
さっきまでの、強がりの涙とは違う。死を目前にした生物が浮かべる、本能的な、純粋な恐怖の色。
「さ、む……い……」
がちがちと歯の根を鳴らし、ハルキが呟く。
彼の身体から、体温が急速に奪われていくのが、掴んだ肩を通して伝わってくる。それは、物理的な冷たさではなかった。もっと根源的な、存在が持つ「熱量」そのものが、霧散していく感覚。
「シズマ……なんか、俺……どんどん、自分が……自分でなくなってく、みたいだ……ッ!」
必死の形相で、ハルキが俺の腕を掴み返してくる。
だが、その力も弱々しい。指先が、掴んだそばから透けていく。
彼の魂が喰われている、という事実が、今、物理的な現象として、この現世に現れ始めているのだ。魂という設計図が崩壊し、それを元に構築されていた肉体という名の建築物が、存在を維持できずに崩れ去ろうとしている。
「しっかりしろ、ハルキ! 目を覚ませ!」
俺は、ほとんど無意識に叫んでいた。
助けてやると、誓ったばかりだ。
絶対に、元の身体に戻してやると、約束したばかりだ。
それなのに、なんだこの様は。俺は、また、目の前で、大切なものが失われていくのを、ただ見ていることしかできないのか。
───親父の時と、同じじゃないか。
あの日の光景が、フラッシュバックする。
神の力に喰われ、人の形を失っていく父の姿。助けを求めるように伸ばされた、その手を、俺はただ、物陰から見ていることしかできなかった。
無力感。絶望。己の不甲斐なさに対する、焼けるような怒り。
十年経った今も、俺は、何も変わっていない。
「いやだ……! 消えたくない……! シズマ、助けてくれ……! お願いだ……ッ!」
ハルキの叫びが、俺の心を抉る。
美少女の姿になった彼が、初めて見せた、心の底からの慟哭。
それは、オカルト好きの好奇心でも、トラブルメーカーの悪ふざけでもない。ただ、死にたくない、消えたくないと願う、一人の人間の、魂の叫びだった。
───どうする!? 俺に、何ができる!? 結界術か!? いや、内側からの崩壊に、外側の結界が意味をなすとは思えない! 護身術!? 馬鹿を言え、相手は物理的な敵じゃない! なら、知識だ! 識家の古文書の中に、何か、何かヒントが……!
思考が、焦燥で空回りする。
今、この瞬間にも、ハルキの存在は薄れていく。腰のあたりまで透け、上半身の輪郭もおぼろげになってきた。俺が掴んでいる肩の感触も、もはや霞を掴んでいるかのように曖昧だ。
「ハルキ……!」
俺は、ただ、親友の名を呼ぶことしかできなかった。
ああ、結局、俺は。
口先だけで、覚悟を決めたつもりになっていただけの、臆病なガキのままだった。
偽悪者の仮面を被って、面倒ごとから逃げ続けてきたツケが、今、最悪の形で回ってきたのだ。
万策尽きた。
そう、俺の心が、諦めの色に染まりかけた、その瞬間だった。
「───騒がしいと思ったら……。なるほど、とんでもないものを連れてきたもんだねぇ、静馬や」
しん、と静まり返った部屋に、凛とした、それでいてどこか穏やかな、老女の声が響いた。
それは、場違いなほどに、落ち着き払った声だった。
俺とハルキが、弾かれたように声のした方を見る。
そこには、いつの間にか、部屋の襖が静かに開かれ、一人の小柄な老婆が立っていた。
背中は少し曲がり、顔には深い皺が刻まれている。だが、その背筋には、そこらの若者など足元にも及ばない、一本の鋼のような芯が通っていた。
俺の、祖母。識家の先代当主、識珠江(しき たまえ)。
「ばあ……ちゃん……?」
なぜ、ここに。
いや、それよりも、どうしてそんなに冷静でいられるんだ。
目の前で、人が一人、消えかかっている。この世のものとは思えない、異常事態の真っ只中だというのに。祖母の瞳には、驚きや恐怖の色は一切なかった。あるのは、まるで腕の良い医者が、珍しい症例を診察するかのような、静かな観察眼だけ。
「……陽輝くん、だったかい。しばらく見ないうちに、ずいぶんと……まあ、可愛らしくなったもんだねぇ」
珠江は、俺の肩越しに、消えかかるハルキの姿を認めると、悪戯っぽくそう言って、細い目をさらに細めた。
その、あまりにも普段通りの態度に、俺の混乱は頂点に達する。
「場合が場合なら、静馬の新しいお嫁さんかと思って、赤飯でも炊いてやるところさね」
「冗談言ってる場合かッ! ハルキが、ハルキが消えちまうんだぞ!」
俺の悲痛な叫びを、珠江は「分かっとるよ」と、静かに制した。
彼女はゆっくりと部屋に入ってくると、俺たちの前に座り、ハルキの、もはやほとんど透けてしまったその姿を、じっと見つめた。
「ふむ……。半人半怪異、か。しかも、相手は相当に格の高い、忘れられた国津神の類ときた。……陽輝くん、あんた、よっぽど運がないのか、それとも、神さんに好かれる性質なのか。どっちかねぇ」
「ばあちゃん、何かわかるのか!?」
俺は、藁にもすがる思いで尋ねた。
珠江は、俺の問いには答えず、ただ静かに目を閉じた。数秒の沈黙。彼女の周囲の空気が、ぴり、と張り詰めるのが分かった。審神者としての、先代当主としての、研ぎ澄まされた霊感が、目の前の現象の本質を探っているのだ。
やがて、彼女はゆっくりと目を開くと、まるで学者か教師が、出来の悪い生徒に講義をするかのような口調で、語り始めた。
「静馬。この子は今、この現世(うつしよ)と、神々の住まう幽世(かくりよ)の、その境界で揺らいでいる状態さね」
現世、幽世。
識家の古文書で、何度も目にした言葉だった。
「もともと、人間も怪異も、この現世にその身を留めておくためには、魂をこの世界に繋ぎ止めておくための『霊的な錨』が必要になる。普通の人間は、その肉体そのものが、最も強力な錨の役割を果たしている。だが……」
珠江は、ハルキに視線を移す。
彼の身体は、もはや胸から下が存在せず、顔や腕も、向こう側がはっきりと透けて見えるほどに薄くなっていた。
「この子は、強力な神に乗っ取られたことで、肉体と魂の繋がりが著しく弱まっている。錨が、錆びて、切れかかっているのさ。だから、魂が本来いるべき幽世の方へと、どんどん引っ張られている。このままでは、あと数分もすれば、魂は完全に現世から剥がれ落ちて霧散し……二度と戻ってはこないだろうねぇ」
淡々と、しかし、残酷な事実が告げられる。
ハルキの顔が、絶望に染まった。もはや、声も出ないのか、ただ、ぱくぱくと口を動かすだけだ。その瞳から、最後の光が消えかけている。
「そんな……! どうすればいいんだよ! 新しい錨を、どこかから持ってくればいいのか!?」
「その通りさ。そして……」
珠江は、そこで初めて、俺の目をまっすぐに見た。
その瞳の奥に、厳しい、しかし、どこか孫の覚悟を問うような、複雑な光が宿っていた。
「その『錨』となれるのは、この場において、お前さん、ただ一人しかいない」
「…………俺が?」
「そうさね。切れかかった錨を繋ぎ止めるには、それ相応に強力で、純度の高い霊力が必要になる。そして、神の血を引く審神者の魂は、この世で最も強力で、最も純粋な『錨』となり得る。……特に、お前さんの血は、あの父親譲りで、図抜けて濃いからのぅ」
親父、という言葉に、俺の胸が小さく軋む。
だが、今はそんな感傷に浸っている場合ではなかった。
「俺が、錨に……。どうやって! 俺の魂を、こいつに分け与えでもしろって言うのか!?」
「やり方は、一つしかない」
珠江は、きっぱりと言い切った。
そして、告げられたその方法は。
俺の、そして、かろうじて意識を保っていたハルキの、混乱しきった脳髄を、再び沸騰させるには、十分すぎるほどに、衝撃的なものだった。
「高純度の霊力を、相手の魂に直接、最も効率よく流し込む、古来より伝わる審神者の秘術。それは……」
祖母は、そこでわざとらしく一度、言葉を切った。
そして、顔を真っ赤にして固まっている俺と、絶望の淵で最後の希望を見出そうと必死にこちらを見つめる、美少女の姿をした親友を、楽しむように見比べてから。
その、残酷な宣告を、下したのだった。