怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

7 / 33
第2話 「窓から来た少女」ー5

祖母、識珠江(しき たまえ)は、顔を真っ赤にして固まっている俺と、絶望の淵で最後の希望を見出そうと必死にこちらを見つめる、美少女の姿をした親友を、楽しむように見比べてから。

 

その、残酷な宣告を、下したのだった。

 

「高純度の霊力を、相手の魂に直接、最も効率よく流し込む、古来より伝わる審神者の秘術。それは……」

 

しわがれた、しかし芯の通った声が、静まり返った部屋に凛と響く。

ごくり、と喉が鳴る音が、自分のものであることに気づくのに数秒かかった。ハルキの存在は、もはや胸から上がかろうじて輪郭を保っているだけという、風前の灯火。その瞳だけが、祖母の唇に、そして俺の顔に、必死に焦点を結んでいる。

 

頼む。

どんな無茶な方法でもいい。どんな危険な儀式でも構わない。

助かる方法があるのなら、なんでもいいから、早く……!

 

俺の祈りにも似た焦燥を、祖母はまるで熟達の噺家のように、完璧な「間」で弄んでから、こともなげに、その二文字を口にした。

 

「───口移しさね」

 

「………………」

「………………」

 

時が、止まった。

いや、俺とハルキの思考回路が、完全に焼き切れた。

 

くち、うつし?

今、この、齢八十は超えているであろう俺の祖母は、なんと言った?

『口移し』。

それは、俺の貧弱な語彙力で検索する限り、一つの意味しか持たない。液体や固体を、口から口へと直接移し与える行為。あるいは、もっと別の、なんだ、その、あれだ。

 

「……つまり?」

 

俺の喉から、カラスが鳴くような、ひび割れた声が漏れた。

祖母は、にこり、と皺だらけの顔で笑った。その笑みは、慈愛に満ちた祖母のものではなく、孫の窮地を心底楽しんでいる、老獪な古狐のそれにしか見えなかった。

 

「簡単なことさね。キスだよ、静馬」

 

キィィィィィィン、と。

脳内で、けたたましいハウリング音が鳴り響いた。

目の前の光景が、ぐにゃりと歪む。祖母の言葉が、弾丸のように俺の側頭部を撃ち抜き、そのまま反対側の壁にめり込んでいくような、凄まじい衝撃。

 

き、す……?

……KISS?

 

───はあああああああああああああああああああああああああああああ!?

いやいやいやいや、待て待て待て待て! ストップストップ! タイム! 審議! ビデオ判定を要求する!

何かの聞き間違いだ! そうだ、俺は《見鬼の眼》を酷使しすぎて、今、幻聴を聞いているに違いない! あるいは、ばあちゃんも年で、ついにボケが始まったんだ! そうだろ!? そうだと言ってくれ!

 

俺が内心で現実逃避の絶叫を上げていると、祖母は非情にも、追い打ちをかけるように言葉を続けた。

 

「言っただろう? 審神者の魂は、この世で最も純粋な霊的錨となり得る、と。だが、魂なんてものは、そう易々と他人に譲れるもんじゃない。唯一、魂と魂が直接触れ合い、霊的な経路(パス)を繋ぐことができる部位。それが、唇なのさ。唾液に溶け込んだお前さんの霊的因子を、陽輝くんの魂に直接流し込む。それが、今この場で、この子の魂の崩壊を食い止める、唯一にして絶対の手段だよ」

 

淡々と、しかし有無を言わせぬ響きで語られる、霊的医学の講義。

その内容は、一言一句、筋が通っていた。識家の古文書のどこかで、確かに読んだことがあるような気さえする。

だからこそ、タチが悪い。

これが、ふざけた冗談や、非科学的な迷信の類であれば、俺は心の底から罵倒し、一蹴できただろう。だが、違う。これは、この世界の、俺たちが生きる世界の、厳然たるルールなのだ。

 

───ルール、だと? ふざけるな! なんでそんな、ラノベみたいなご都合主義的で破廉恥なルールが、この現実世界に適用されてるんだ! 俺はそんな法律、断じて認めんぞ! どこに訴えればいいんだ! 神祇庁か!? いや、あいつらはもっと話が通じなさそうだ!

 

俺が脳内で六法全書を破り捨てている間にも、ハルキの身体の透過は、いよいよ鎖骨のあたりまで進行していた。もはや、風が吹けば消えてしまいそうなほど、その存在は儚く、希薄になっている。

その、消えかかるハルキが。

かろうじて残った顔を、ゆっくりと、本当にゆっくりと、俺の方に向けた。

 

潤んだ、大きな黒い瞳。

その奥に、いくつもの感情が、渦を巻いていた。

 

絶望。

恐怖。

そして、今しがた祖母の口から語られた、あまりにも非現実的な救済方法に対する、かすかな、本当に、藁にもすがるような、最後の希望

 

彼の唇が、わずかに動いた。

声には、なっていなかった。

だが、俺には、読めてしまった。

 

『───シズマ』

 

と。

その視線は、雄弁すぎた。

『助けてくれ』と。

『お前しかいないんだ』と。

『キス、してくれ』と。

 

俺は、その視線に射抜かれたまま、完全に、凍り付いた。

全身の血が、急速に凍てついていくような感覚。

 

(……キス、だと?)

 

できるわけがない。

絶対に、無理だ。

こいつは、ハルキだぞ。

日野陽輝。性別、男。十九年間、俺の隣で馬鹿みたいに笑っていた、紛れもない親友。男だ。

男と、キス?

冗談じゃない。俺にそんな趣味はない。たとえ親友の命を救うためだとしても、そこには、超えてはならない一線というものが、断固として存在するはずだ。そうだろ? 人間として!

 

───いや、待て。落ち着け俺。よく見ろ。目の前にいるのは誰だ?

俺は、震える視線を、改めて目の前の〝ハルキ〟へと向けた。

そこにいるのは、男じゃない。

艶やかな黒髪。透き通るような白い肌。潤んだ大きな瞳。小さな唇。

誰がどう見ても、絶世の美少女だ。

その美少女が、今にも消え入りそうな姿で、涙を瞳に溜めて、俺に助けを求めている。

このシチュエーションだけを切り取れば、断る男はいないだろう。いや、むしろ、喜んでキスの一つや二つ、百個でもくれてやるのが男の甲斐性というものだ。

 

───そうか! そうだ! 俺がキスをするのは、ハルキ(♂)じゃない! この美少女(♀)なんだ! そう思い込めばいい! これは人命救助だ! 緊急避難だ! 不可抗力だ! 法律も俺を裁けない! よし、いける!

 

……いけるわけあるかあああああああああああああああああっ!!

 

脳内で、俺と俺が、壮絶なレスバトルを繰り広げる。

見た目は女! 中身は男!

こんな究極の二択、誰が選べるというんだ! どっちに転んでも地獄じゃないか!

そもそも、問題はそこだけじゃない。

 

(……審神者の、力……)

 

そうだ。

これこそが、俺が心の底から恐れている、根源的な問題だった。

キスをする、ということは。

俺が、自らの意志で、この血に刻まれた忌まわしい【審神者】の力を使う、ということだ。

それは、俺が十年前に捨てたはずの道。父の死と共に、固く固く閉ざしたはずの、宿命への扉。

その扉を、今、自らの手でこじ開けるということ。

 

一度使ってしまえば、もう後戻りはできない。

俺はただの古本屋の店番ではいられなくなる。

この、面倒くさくて、厄介で、悲劇しか生まない世界の住人へと、引きずり込まれる。

 

『──来るな!静馬!』

 

脳裏に、父の最後の声が蘇る。

神の力に喰われ、人の形を失いながら、それでも息子を遠ざけようとした、あの絶叫。

力は、人を幸せにしない。

大切なものを、守れない。

それどころか、己自身をも破滅させる、呪いそのものだ。

俺は、あの人のようにはならない。なりたくない。

そう、誓ったはずじゃなかったのか。

 

「……静馬や」

 

俺の葛藤を見透かしたように、祖母が静かに言った。

「お前さんが、父親のことで何を思っているのかは知らん。だがね、今、目の前で、陽輝くんが消えかけている。この事実は、動かせないよ」

 

その通りだ。

理屈じゃない。

俺がどれだけ過去に縛られていようと、どれだけ宿命から逃げようと、目の前の現実は、待ってはくれない。

ハルキの身体は、もはや肩から上しか残っていなかった。その輪郭も、陽炎のようにゆらゆらと揺らめいている。

彼の瞳から、光が、急速に失われていく。

希望が、絶望に塗りつぶされていく色を、俺は真正面から見せつけられていた。

 

「……いやだ……」

 

ハルキの唇から、か細い、吐息のような声が漏れた。

それは、もう、俺に助けを求める声ですらなかった。

ただ、己に訪れる「無」という運命を前にした、最後の、本能的な拒絶。

 

その声を聞いた瞬間。

俺の中で、何かが、ぷつりと切れた。

 

───ああ、そうかよ。

そうだよな。

面倒くさい。

本当に、心の底から、面倒くさい。

お前がこんな馬鹿なことをしでかさなければ、俺は、今頃、ベッドの中で、読みかけの本の続きを読む、退屈で平和な夜を過ごしていたはずなんだ。

お前のせいで、俺の平穏は、めちゃくちゃだ。

 

なのに。

それなのに。

 

───なんで俺は、お前が消えるくらいなら、その面倒くさい宿命に、足を踏み入れてもいいなんて、思っちまってるんだろうな。

 

写真立ての中で笑う、泥だらけの親友の顔が、脳裏をよぎった。

いつだってそうだ。

こいつは、俺が作った心の壁を、いつも土足で、遠慮なく、ぶち壊してくる。

そして、俺を、俺が一番いたくない、面倒くさい世界のど真ん中へと引きずり出すのだ。

 

俺は、ゆっくりと、震える膝に力を込めて、立ち上がった。

《見鬼の眼》を酷使した頭痛は、もはや限界を超えて、逆に奇妙な静けさを取り戻していた。視界は、まだちかちかと明滅している。だが、不思議と、目の前のハルキの姿だけは、はっきりと見えた。

 

「……ばあちゃん」

俺は、祖母の顔を見ずに、言った。

「一つ、聞かせろ。これをやったら、こいつは、本当に助かるのか?」

「ああ。保証するよ」

祖母の声には、迷いがなかった。

「ただし、あくまで応急処置さね。この子を乗っ取った神は、それほどに強力だ。一度錨を下ろしたとて、またすぐに、この子の魂を喰らい始めるだろう。そうなれば、錨はまた弱まる。……つまり、この儀式は、定期的──いや、下手をすれば、毎日、続けなければならなくなるだろうねぇ」

 

毎日。

キスを。

この、美少女の姿をした、親友と。

 

───……やっぱり、面倒くせええええええええええええええッ!!

最後の最後で、とんでもない爆弾が投下された。

だが、もう、俺の腹は決まっていた。

一度や二度の違いがあろうか。どうせ、やることは同じだ。

 

俺は、消えかかるハルキの前に、ゆっくりと膝をついた。

もう、その顔と、かろうじて両腕が残っているだけだ。

俺は、その華奢で、ほとんど実体のない肩に、そっと手を置いた。

 

「……ハルキ」

「……しず、ま……?」

 

虚ろな瞳が、俺を捉える。

もう、意識も朦朧としているのだろう。

俺は、その瞳を、まっすぐに見つめ返した。

そして、覚悟を決めて、息を吸い込む。

 

「……いいか、よく聞けよ」

ぶっきらぼうな、自分でも嫌になるくらい、可愛げのない声が出た。

だが、今はそれでいい。これが、俺だ。

 

「俺は、お前が期待するような、ヒーローでも、天才でもない。ただの、面倒くさがりで、臆病な、古本屋の店番だ。だから、お前を助けてやったところで、世界が救えるわけでも、お前の身体がすぐに元に戻るわけでもねえかもしれん」

 

俺は、一度、言葉を切った。

そして、続ける。

それは、偽悪者の仮面をかなぐり捨てた、俺の、たった一つの本心だった。

 

「だが、俺は、お前が目の前で消えるのを、黙って見てるほど、薄情者でもねえんだよ」

 

だから。

だから、これは、取引だ。

俺はお前の命を繋いでやる。

その代わり。

 

「……責任、取れよな」

 

俺は、そう吐き捨てると、ハルキの、ほとんど透けてしまったその顔に、自分の顔を、ゆっくりと近づけていった。

鼻先が触れ合うほどの距離。

甘い花の香りと、ハルキの、恐怖と、驚きと、そして、ほんの少しの安堵が入り混じった、熱い吐息を感じる。

 

目の前には、潤んだ瞳。

少しだけ開かれた、血の色をした唇。

その先にあるのは、親友の魂か。それとも、俺がこれから足を踏み入れる、面倒くさい宿命の入り口か。

 

───ああ、クソ。

どっちだっていい。

 

俺は、強く、強く、瞼を閉じた。

そして、震える親友の唇に、自らのそれを、重ね合わせた。

 

それが、俺の平穏な日常の、完全な終わりを告げる、鐘の音だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。