怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
唇と唇が触れ合う、その刹那。
世界のすべてが、スローモーションになった。
目の前には、日野陽輝(ひの はるき)の顔がある。
いや、それはハルキであって、ハルキではない、見ず知らずの〝美少女〟の顔だった。
月光を吸い込んだかのように青白い肌。濡れたように艶のある長い黒髪が、その華奢な肩から流れ落ちている。閉ざされた瞼を縁取る、人形のように長い睫毛(まつげ)が、ぴくりと小さく震えた。
その、あまりにも完璧すぎる造形に、俺の脳は現実感を喪失し、思考は深い霧の中に沈んでいく。
(……ああ、クソ。本当に、やっちまった)
後悔、というにはあまりにも遅すぎる自己ツッコミが、脳の片隅で虚しく響いた。
もう、後戻りはできない。
この唇が触れた瞬間、俺が十年もの間、必死に守り続けてきた退屈で平穏な日常は、完全に終わりを告げるのだ。
俺はもはや、ただの古本屋の店番、識静馬(しき しずま)ではいられなくなる。
忘れられた神々の名を裁定し、その魂を鎮める【審神者(さにわ)】。
父を狂わせ、死へと追いやった、あの忌まわしい宿命のど真ん中へと、自ら足を踏み入れることになる。
『──来るな!静馬!』
脳裏に、父の最後の絶叫が蘇る。
神の力に喰われ、人の形を失いながら、それでも息子をこの世界から遠ざけようとした、あの悲痛な声。
──ごめん、親父。
あんたの息子は、あんたが思うよりずっと、馬鹿で、意気地なしで、そして、どうしようもなく情にもろい人間だったみたいだ。
目の前で、たった一人の親友が、消えていく。
その事実を前にして、宿命だの、トラウマだの、そんなものは、あまりにも些末な問題に思えてしまったのだ。
唇から伝わってくるのは、驚くほどの柔らかさと、そして、死の淵に立つ者特有の、氷のような冷たさだった。
柔らかい。
そして、冷たい。
その、あまりにも生々しい感触が、ショート寸前だった俺の思考回路を、別の意味で再起動させた。
───って、うおっ、やわらっか!? え、マジか!? 人間の唇ってこんな、マシュマロみてえな感触してんのか!? いや待て落ち着け俺! こいつはハルキだ! ハルキ(♂)だぞ! なのに何だこの、少女漫画のワンシーンみたいな状況は! ファーストキスが男(ただし見た目は絶世の美少女)とか、どんな罰ゲームだよ! しかも人命救助の最中だぞ! 雑念を抱くな、邪念を捨てろ、無心になれ! 南無阿弥陀仏! 南無妙法蓮華経!
脳内で、俺の中の理性と本能が、壮絶な殴り合いを始める。
だが、そんな俺の混乱などお構いなしに、儀式は、始まってしまった。
唇が触れ合った、その瞬間。
俺の魂と、ハルキの魂の間に、目には見えない霊的な経路(パス)が、強制的に接続された。
それは、まるで巨大なダムの堰(せき)が、轟音と共に破壊されるかのような感覚だった。
俺の身体の奥深く、魂の中心に溜め込まれていた、膨大なエネルギーの塊。俺がこれまで、無意識のうちに蓋をし、その存在ごと無視し続けてきた、識家の血に流れる高純度の霊力が、奔流となって溢れ出したのだ。
「───ッぐ……ぅうううッ!!」
声にならない呻きが、喉から漏れた。
凄まじい勢いで、俺の中から〝何か〟が流れ出ていく。それは、単なるエネルギーではなかった。俺自身の生命力、魂そのものの一部が、削り取られていくような、根源的な喪失感。
自分の身体が、急速に空っぽの器になっていく。立っているのもやっとで、全身から力が抜け、視界がぐらりと揺れた。
───これが、霊力供給。魂を、分け与えるということかよ……!
スマホの急速充電なんてレベルじゃない。これは、自分のバッテリーそのものを引っこ抜いて、相手に移植するようなものだ。無茶苦茶すぎる。燃費が悪すぎるだろ、審神者ってやつは!
そして、霊力の奔流と同時に、俺の意思とは関係なく、両の眼球が再び灼けるような熱を帯びた。
《見鬼の眼(けんきのがん)》が、強制的に、最大出力でこじ開けられる。
「がああああああああああっ!!」
今度こそ、俺は絶叫を上げた。
視界が、白く染まった。いや、違う。光と闇、金色と黒、そして、ありとあらゆる色彩の情報が、暴力的なまでの密度で、俺の脳へと直接叩きつけられているのだ。
頭蓋骨の内側で、銀河が生まれては消滅を繰り返すような、凄まじい情報量。頭痛なんていう生易しいものではない。脳が、魂が、その許容量を超えた情報奔流によって、物理的に破壊されていくような激痛。
だが、その地獄のような苦痛の中で、俺は確かに〝視て〟いた。
ハルキの魂の、その深層を。
唇を通して繋がった霊的パスは、一方通行ではなかった。俺の霊力がハルキへと流れると同時に、彼の魂が持つ情報、そして、彼を苛む怪異の魂の情報が、濁流となって俺の中へと逆流してきていたのだ。
視界に広がるのは、絶望に染まった宇宙。
中心で、嵐の中の蝋燭のように明滅している、澄んだ青い光。それが、ハルキの魂。
そして、その青い光を、蝕むように覆い尽くす、巨大な紫黒の影。
《啼哭の花嫁(ていこくのはなよめ)》の、本体。
『……コロセ……ウラギリモノ……スベテ……クイツクシテヤル……』
直接的な言葉ではない。
だが、その魂が放つ、数千年という時を経て醸成された、煮詰まった怨嗟と憎悪の思念が、俺の精神を直接殴りつけてくる。
それは、孤独の味だった。裏切りの痛みだった。忘れ去られることへの、底知れない悲しみだった。
あまりの負の感情の奔流に、俺の意識が呑み込まれそうになる。危うくすれば、俺自身の魂が、この怨嗟に汚染され、狂気に堕ちてしまうだろう。
『……シズマ……タスケテ……』
その、怨嗟の嵐の中心から、か細い、本当に、消え入りそうな声が聞こえた。
ハルキの声だ。
彼の青い魂は、もはやその輪郭さえも保てず、紫黒の影の中に溶け落ちる寸前だった。
───冗談じゃ、ねえ。
俺は、歯を食いしばった。
激痛に悲鳴を上げる脳を、意志の力で無理やりねじ伏せる。
───助けるって、言っただろうが。
───責任、取れって、言っただろうが!
俺は、流れ出ていく自らの霊力に、ただ一つの、純粋な想いを乗せた。
それは、祈りであり、命令であり、そして、魂そのものの叫びだった。
「生きろ、ハルキッ!!」
俺の意志を乗せた霊力は、黄金の光となって輝きを増した。
それは、ハルキの魂へと流れ込むと、ただのエネルギー補給ではなく、明確な役割を持って動き始める。
黄金の光は、まず、青い魂の周囲に、薄い光の膜を形成した。それは、紫黒の影がこれ以上、ハルキの魂を侵食するのを防ぐための、霊的な防護壁。魂を繋ぎ止めるための、錨そのものだった。
紫黒の影は、俺の霊力という〝異物〟の介入に気づき、その怨嗟の矛先を俺へと向けてきた。無数の黒い触手が、霊的パスを逆流し、俺の魂を直接喰らおうと殺到してくる。
だが、その触手が俺に届くよりも早く、黄金の光は、ハルキの魂そのものを内側から満たし、補強し始めた。
弱々しく明滅していた青い光が、少しずつ、しかし確実に、その輝きを取り戻していく。失われた魂の輪郭が、ゆっくりと再構築されていく。
それは、まさに魂レベルでの、修復作業だった。
俺という存在を燃料にして、親友の魂を、その崩壊の淵から、無理やり引き戻す。
どれくらいの時間が経ったのか。
数秒か、あるいは、永遠にも感じられた。
やがて、俺の身体から流れ出ていた霊力の奔流が、少しずつ勢いを弱めていく。それは、ハルキの魂が、応急処置として最低限必要な霊力量で満たされたことを意味していた。
逆流してきていた怨嗟の嵐も、嘘のように凪いでいく。
俺の《見鬼の眼》に映っていた霊的なビジョンが、ゆっくりとフェードアウトしていく。
そして、現実世界の感覚が、徐々に戻ってきた。
耳に聞こえるのは、自分の、荒い呼吸の音。
鼻腔をくすぐるのは、古書のインクと、ハルキから香る、甘い花の匂い。
そして、唇に感じる、柔らかく、冷たい感触。
───あ。
───俺、まだ、キス、してたのか。
その事実に気づいた瞬間、俺の顔に、カッと一気に血が上った。
俺は弾かれたように、勢いよく顔を離した。
ちゅ、と、自分でも聞きたくなかった、水っぽい音が小さく響く。
「はっ……! はあっ……! ぜぇ……ッ!」
肩で息をしながら、俺は目の前のハルキを見た。
もはや、そこに立っているのがやっとなほどの、凄まじい疲労感。立っているだけで、足がガクガクと震えている。魂の半分くらい、持っていかれたんじゃないかというほどの虚脱感。
だが、そんな俺の消耗など、どうでもよかった。
俺の目の前で、信じられない光景が、繰り広げられていたからだ。
ハルキの身体が、淡い、優しい光に包まれていた。
それは、俺が注ぎ込んだ、黄金の霊力の輝きだった。
そして、先ほどまで、陽炎のように透けていた彼の身体が。
足元から、ゆっくりと、しかしはっきりと、その実体を取り戻していく。
まるで、早送りの映像を見ているかのようだった。
光の粒子が集まり、何もない空間から、白く美しい足首が形作られる。ふくらはぎが生まれ、膝が、太腿が、その輪郭を現していく。
黒いワンピースの裾が、実体を取り戻した脚に、ふわりとかかる。
腰のくびれが生まれ、胸のささやかな膨らみが、その存在を主張し始める。
透けていた腕に、確かな血の気と実感が戻り、青白い肌が、滑らかな陶器のような質感を取り戻していく。
陽炎のようにおぼろげだった顔の輪郭が、はっきりとそこに存在し始める。
ほんの数分前まで、消滅寸前だったはずの親友が。
今、目の前で、一人の、完璧な美少女として、この世界に、再び、その存在を確立させていた。
やがて、光が収まった。
そこに立っていたのは、どこからどう見ても、完全な実体を持つ、一人の少女だった。
ただ、その頬は朱に染まり、大きく見開かれた瞳は、潤んだまま、信じられないものを見るかのように、俺をただ、じっと見つめていた。
部屋に、気まずい沈黙が落ちる。
聞こえるのは、俺とハルキの、二人分の呼吸の音だけ。
俺たちの、奇妙で、面倒くさくて、そして、あまりにも切実な戦いは。
こうして、今、その始まりのゴングを、鳴らしたのだった。