怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした 作:化け猫 いろは
唇に、まだ柔らかな感触と、氷のような冷たさが、生々しく残っている。
鼻腔の奥には、嗅いだことのない甘い花の香りが、幻のようにこびりついている。
目の前には、さっきまで俺と唇を重ねていたはずの親友が、今は完璧な美少女の姿で、頬を林檎のように真っ赤に染め、潤んだ瞳で俺のことを見つめている。
しん、と静まり返った俺の部屋。
聞こえるのは、俺とハルキの、やけに大きな心臓の音だけ。
どれくらいの時間が、そうして過ぎただろうか。
数秒か、あるいは、数分か。永遠にも感じられた沈黙を、最初に破ったのは、ハルキだった。
「…………あ」
蚊の鳴くような、か細い声。
それが、すべての始まりだった。
ハルキは、はっと我に返ったように、勢いよく俺から後ずさった。その拍子に、バランスを崩して尻餅をつく。どしん、という鈍い音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
「いっ……!?」
「お、おい、大丈夫か!」
俺はほとんど反射的に手を差し伸べようとして、───その手を、どこにも持っていけないまま、中空で固まらせた。
触れていいのか?
いや、そもそも、俺は今、どんな顔をしてこいつと向き合えばいいんだ?
───気まずい。
気まずいなんていう、ありきたりな言葉では到底表現しきれない、宇宙規模の気まずさが、この六畳間を支配していた。さっきまで、俺たちは、キスをしていたのだ。人命救助という大義名分があったとはいえ、紛れもない事実として。
俺と、ハルキが。
───いや待て、落ち着け俺。これは事故だ。そう、不可抗力。医療行為みたいなもんだ。心肺蘇生で人工呼吸するのに、いちいちドキドキしてる救急隊員がいるか? いねえよな! 俺は今、それと同じ精神状態にあるべきなんだ! そうだ、俺はプロフェッショナルな審神者だ! ……なったばっかりだけど!
必死に脳内で自己弁護と自己暗示を繰り返していると、尻餅をついたままのハルキが、おそるおそる自分の両手を見つめていることに気づいた。
白い、華奢な指。小さな爪。
彼は、その手を、信じられないものを見るかのように、何度も、何度も、握っては、開いて、を繰り返している。
「……ある」
ぽつり、とハルキが呟いた。
「手が、ある……。透けてない……」
その声は、震えていた。
彼は、自分の手から、腕へ、肩へと視線を移していく。そして、黒いワンピースの上から、自分の胸や、腹や、太腿のあたりを、確かめるように、何度も触れている。
「すごい……。さっきまで、消えかかってたのに……。ちゃんと、ある……。俺、ここに、いる……!」
やがて、その呟きは、確信に満ちた歓喜の声へと変わっていった。
ハルキは、ぱっと顔を上げた。その瞳は、涙の膜でキラキラと輝き、そこにはもう、先ほどまでの気まずさや羞恥の色はなかった。ただ、純粋な、生きていることへの感動だけが、溢れんばかりに満ちていた。
「すげぇ! シズマ、すげぇよお前! マジで戻った! 俺、ちゃんとここにいるぞ!」
ばっと立ち上がったハルキは、まるでガキの頃のように、無邪気な笑顔を俺に向けた。
その、あまりの切り替えの早さ。
絶望の淵から生還した感動が、キスというとんでもない行為の記憶を、完全に上書きしてしまったらしい。こいつの脳内メモリは、どういう構造をしているんだ。
「サンキュ、シズマ! マジで、命の恩人だ!」
「……お、おう……」
俺は、その太陽のような笑顔に気圧され、ただ頷くことしかできない。
良かった。こいつが、いつもの調子に戻ってくれて。
そう安堵したのも、束の間だった。
「いやー、それにしても、マジで助かったぜ! お前の……その、なんだ……唇、超やわらけえのな!」
得意満面に、人差し指をぴんと立てて言い放つ。
その屈託のない一言が、俺の心の平穏を、再び木っ端微塵に粉砕した。
───言うなあああああああああああああああっ!! この、デリカシー・皆無・男がッ! なんでお前は、そういうことを平然と口にできるんだ! こっちは、お前のせいで、人生で初めての口付けを、男相手(ただし美少女)に捧げたっていう、一生モノのトラウマを抱えかけてるんだぞ! 少しはこっちの身にもなれ! 場の空気を読め! いや、読めないからお前はハルキなんだろうけどな! 知ってたよ畜生!
込み上げてくる絶叫を、俺は奥歯を噛み締めて必死に飲み込む。顔が、沸騰しそうなくらいに熱い。もう、ハルキの顔をまともに見ることができなかった。
そんな俺たちの、地獄のような、天国のような、とにかく混沌としたやり取りを、部屋の入り口で静かに見守っていた人物がいた。
「……やれやれ。若さというのは、いつの世も騒がしいもんさねぇ」
しわがれた、しかし、どこか楽しげな声。
俺とハルキは、はっと我に返って声のした方を見た。そこには、腕を組んだまま、壁に寄りかかって一部始終を眺めていた、俺の祖母、識珠江(しき たまえ)が立っていた。その顔には、孫の奮闘を労うような、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。
───いや、違うな。あの目は、絶対に面白がってるだけの目だ。孫がとんでもない状況に陥っているのを、最高のエンターテイメントとして消費している目だ。間違いない。
「ば、ばあちゃん……! い、いつからそこに……!」
「お前さんたちが、熱い口付けを交わしている、ちょうどそのあたりからさね」
「全部見てたのかよ!」
祖母は、俺の悲痛な叫びなどどこ吹く風で、ゆっくりと部屋の中に入ってきた。そして、ハルキの前に立つと、その姿をしげしげと、品定めでもするかのように眺め回した。
「ふむ……。見事なものだねぇ。霊力は安定し、肉体の現世への定着も、ほぼ完璧。静馬、初めてにしては、上出来じゃないか」
「……別に、あんたに褒められたくてやったわけじゃねえよ」
俺は、そっぽを向きながら、ぶっきらぼうに答える。
「それより、こいつ、これからどうすんだよ。家に帰したって、親には認識されないんだろ」
そうだ。問題は、山積みだった。
今回のキスは、あくまで応急処置。ハルキの魂を喰らう怪異、《啼哭の花嫁(ていこくのはなよめ)》こと《瀬織津比売(セオリツヒメ)》は、まだハルキの中にいる。祖母の言葉を借りるなら、この儀式は、定期的……下手をすれば、毎日、続けなければならない。
その事実を思い出した瞬間、俺の胃が、再びきりりと痛んだ。
毎日。キス。こいつと。
……駄目だ、考えたくない。考えるな俺。今は、目の前の問題を一つずつ片付けていくんだ。
俺の葛藤を知ってか知らずか、祖母は「それなんだがね」と、あっさり言った。
「陽輝くん、あんた、しばらくこの家にいなさい」
「え?」
「え?」
俺とハルキの声が、綺麗に重なった。
「考えてもごらん。今のあんたは、普通の人間には姿も見えなければ、声も聞こえない、いわばこの世の幽霊みたいなもんさ。家族の元に帰ったとて、心配させるだけだろう。それに……」
祖母は、そこでちらりと俺に視線を向けた。
「その身体を維持するための『霊力の供給源』は、すぐ側にあった方が、何かと都合がいいだろう?」
「…………ッ!」
その、あまりにも直接的な物言いに、俺は言葉を失う。ハルキも、さすがにその言葉の意味するところを理解したのか、再び顔を真っ赤にして俯いてしまった。
このばあさん、絶対に、俺たちで遊んでいる。
だが、その提案は、あまりにも合理的で、反論の余地がなかった。ハルキを一人で家に帰すわけにはいかない。かといって、俺が毎日、ハルキの家に通ってキスをする? それはそれで、事案すぎるだろう。
つまり、選択肢は、一つしかなかった。
「……まあ、そんなわけで」
祖母は、にこりと人の悪い笑みを浮かべると、ぱん、と柏手を一つ打った。
「決まりだね。静馬、陽輝くんを客間に案内しておやり。布団と、着替えも貸してやるんだよ。あんたのぶかぶかのシャツでも、今のあの子にはちょうどいいだろうさ」
こうして、俺の意思など完全に無視される形で。
俺と、美少女の姿になった親友との、奇妙で、面倒くさくて、そして、あまりにも心臓に悪い同居生活が、なし崩し的に始まってしまったのだった。
◇◆◇
「……ほら、ここだ。汚えけど、まあ我慢しろ」
「お、おう……。サンキュ……」
俺は、一階の奥にある、埃っぽい客間の襖を開け放った。
中は、物置と化して久しい、六畳の和室。古書の山が、部屋の半分を占領している。
俺とハルキは、なぜかお互いの顔を見られないまま、ぎこちない会話を交わしていた。祖母という緩衝材がいなくなったことで、キスの一件が、再び重たい現実として俺たちの間にのしかかってきている。
俺は無言で押入れから客用の布団を引っ張り出すと、手早くそれを敷いた。ハルキは、所在なさげに、その場で突っ立っている。
「……あのさ、シズマ」
「なんだよ」
「いや……その、マジで、ありがとな。助かった」
「……別に。貸し一つ、ってことだ。忘れんなよ」
本当は、「お前が無事ならそれでいい」とでも言うべきなのだろう。だが、そんな素直な言葉が、俺の口から出てくるはずもなかった。偽悪者の仮面は、もはや俺の皮膚の一部と化している。
「……あと、これ」
俺は、自分のクローゼットから引っ張り出してきた、着古しのTシャツとスウェットパンツを、ハルキに無言で突き出した。
「え?」
「着替えだよ。いつまでも、そんな喪服みてえな格好でいられても、気味が悪い」
「あ……うん。そう、だよな」
ハルキは、おずおずとそれを受け取った。
俺の、LサイズのTシャツ。今の華奢なハルキが着れば、間違いなくワンピースのようになるだろう。
その光景を想像してしまい、俺は慌てて思考を打ち消した。
───考えるな、俺。こいつはハルキだ。中身はハルキなんだ。そうだ。なら、着替えくらい、目の前でしたって、何も問題は……いや、問題しかないわ! 大問題だ! 見た目は完全に女の子なんだぞ!
「お、俺は向こうに行ってるから! 着替え終わったら、呼べよ!」
俺は、自分でも驚くほど慌てた声でそう言うと、逃げるように客間を後にしようとした。
だが。
「……待って」
か細い声に、背中を引き止められた。
振り返ると、ハルキが、俺から受け取ったTシャツを胸に抱きしめ、不安げな瞳で俺を見上げていた。その姿は、あまりにも儚げで、頼りなくて。
まるで、迷子の子供のようだった。
「……なんだよ」
「……俺、本当に、ここにいて、いいのか……?」
その声は、震えていた。
無理もない。
つい数時間前まで、彼は、家族にさえ認識されない、世界でたった一人の孤独の淵にいたのだ。いくら虚勢を張っていても、その恐怖が、そう簡単に消えるはずがない。
俺は、一度、強く目を閉じた。そして、ゆっくりと息を吐く。
面倒くさい。
本当に、面倒くさい。
こいつに関わると、俺の心は、いつだって平穏ではいられないのだ。
俺は、再びハルキの方へと向き直ると、その小さな頭に、自分の手を、少し乱暴に、ぽん、と置いた。
びくっ、とハルキの肩が小さく跳ねる。
さらり、とした黒髪の感触が、手のひらに伝わってくる。
「……当たり前だろ、馬鹿」
俺は、できるだけ、いつも通りの、ぶっきらぼうな声で言った。
「お前が元に戻るまで、俺が面倒見てやるって言ってんだ。余計なこと考えてんじゃねえよ」
「……シズマ……」
「それに、俺も、貸しを返してもらわなきゃ、寝覚めが悪いんでな」
俺は、そう言うと、少しだけ、本当に少しだけ、その頭をわしわしと撫でてやった。
ガキの頃、こいつが泣いている時に、いつもこうしてやっていたように。
ハルキは、何も言わなかった。
ただ、俯いたまま、俺のTシャツを、さらに強く、胸に抱きしめているだけだった。
その耳が、ほんのりと赤く染まっているのを、俺は、見ないふりをした。
◇◆◇
客間から自室に戻った俺は、ベッドに倒れ込むように身を投げ出した。
どっと、一気に疲労感が全身を襲う。
霊力を根こそぎ持っていかれた肉体的な疲労と、この数時間で起きた、あまりにも非現実的な出来事の数々による、精神的な疲労。もはや、指一本動かすのも億劫だった。
(……これから、どうなるんだ)
天井の木目を眺めながら、ぼんやりと考える。
始まった、奇妙な同居生活。
毎日、続けなければならない、魂を繋ぐためのキス。
そして何より。
俺が、自らの意志で、足を踏み入れてしまった、【審神者】という宿命。
平穏な日常は、終わった。
もう二度と、あの退屈で、何も起きない、停滞した時間に戻ることはできない。
その事実が、ずしりと重く、俺の肩にのしかかってくる。
だが、不思議と、後悔はなかった。
あるのは、これから始まるであろう、途方もなく面倒くさい未来に対する、深いため息と。
そして。
隣の部屋で、今は静かに眠っているであろう、親友の存在に対する、ほんの少しの、安堵感だけだった。
「……勝手にしろよ、ほんと」
俺は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
それは、いつもの、他人を突き放すための口癖。
だが、今夜だけは、その響きが、少しだけ、違う意味を持っているような気がした。
窓の外は、もう、白み始めていた。
長い、長い夜が、終わる。
そして、俺とハルキの、新しい日常が、今、始まろうとしていた。
面倒で、厄介で、きっと、ろくなことにはならない、そんな日常が。
俺は、ゆっくりと、目を閉じた。
遠くで、カラスが鳴く声が聞こえた。
それは、新しい一日の始まりを告げる、ありふれた音のはずなのに。
なぜか、これから始まる戦いの、始まりのゴングのように、俺の耳には聞こえていた。