怪異憑きの幼馴染を救う方法は、美少女になった彼とキスし続けることでした   作:化け猫 いろは

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第3話 「魂を繋ぐキス」ー2

唇に、まだ柔らかな感触と、氷のような冷たさが、生々しく残っている。

鼻腔の奥には、嗅いだことのない甘い花の香りが、幻のようにこびりついている。

目の前には、さっきまで俺と唇を重ねていたはずの親友が、今は完璧な美少女の姿で、頬を林檎のように真っ赤に染め、潤んだ瞳で俺のことを見つめている。

 

しん、と静まり返った俺の部屋。

聞こえるのは、俺とハルキの、やけに大きな心臓の音だけ。

 

どれくらいの時間が、そうして過ぎただろうか。

数秒か、あるいは、数分か。永遠にも感じられた沈黙を、最初に破ったのは、ハルキだった。

 

「…………あ」

 

蚊の鳴くような、か細い声。

それが、すべての始まりだった。

ハルキは、はっと我に返ったように、勢いよく俺から後ずさった。その拍子に、バランスを崩して尻餅をつく。どしん、という鈍い音が、静寂の中でやけに大きく響いた。

 

「いっ……!?」

「お、おい、大丈夫か!」

 

俺はほとんど反射的に手を差し伸べようとして、───その手を、どこにも持っていけないまま、中空で固まらせた。

触れていいのか?

いや、そもそも、俺は今、どんな顔をしてこいつと向き合えばいいんだ?

 

───気まずい。

気まずいなんていう、ありきたりな言葉では到底表現しきれない、宇宙規模の気まずさが、この六畳間を支配していた。さっきまで、俺たちは、キスをしていたのだ。人命救助という大義名分があったとはいえ、紛れもない事実として。

俺と、ハルキが。

 

───いや待て、落ち着け俺。これは事故だ。そう、不可抗力。医療行為みたいなもんだ。心肺蘇生で人工呼吸するのに、いちいちドキドキしてる救急隊員がいるか? いねえよな! 俺は今、それと同じ精神状態にあるべきなんだ! そうだ、俺はプロフェッショナルな審神者だ! ……なったばっかりだけど!

 

必死に脳内で自己弁護と自己暗示を繰り返していると、尻餅をついたままのハルキが、おそるおそる自分の両手を見つめていることに気づいた。

白い、華奢な指。小さな爪。

彼は、その手を、信じられないものを見るかのように、何度も、何度も、握っては、開いて、を繰り返している。

 

「……ある」

ぽつり、とハルキが呟いた。

「手が、ある……。透けてない……」

その声は、震えていた。

彼は、自分の手から、腕へ、肩へと視線を移していく。そして、黒いワンピースの上から、自分の胸や、腹や、太腿のあたりを、確かめるように、何度も触れている。

 

「すごい……。さっきまで、消えかかってたのに……。ちゃんと、ある……。俺、ここに、いる……!」

やがて、その呟きは、確信に満ちた歓喜の声へと変わっていった。

ハルキは、ぱっと顔を上げた。その瞳は、涙の膜でキラキラと輝き、そこにはもう、先ほどまでの気まずさや羞恥の色はなかった。ただ、純粋な、生きていることへの感動だけが、溢れんばかりに満ちていた。

 

「すげぇ! シズマ、すげぇよお前! マジで戻った! 俺、ちゃんとここにいるぞ!」

 

ばっと立ち上がったハルキは、まるでガキの頃のように、無邪気な笑顔を俺に向けた。

その、あまりの切り替えの早さ。

絶望の淵から生還した感動が、キスというとんでもない行為の記憶を、完全に上書きしてしまったらしい。こいつの脳内メモリは、どういう構造をしているんだ。

 

「サンキュ、シズマ! マジで、命の恩人だ!」

「……お、おう……」

俺は、その太陽のような笑顔に気圧され、ただ頷くことしかできない。

良かった。こいつが、いつもの調子に戻ってくれて。

そう安堵したのも、束の間だった。

 

「いやー、それにしても、マジで助かったぜ! お前の……その、なんだ……唇、超やわらけえのな!

 

得意満面に、人差し指をぴんと立てて言い放つ。

その屈託のない一言が、俺の心の平穏を、再び木っ端微塵に粉砕した。

 

───言うなあああああああああああああああっ!! この、デリカシー・皆無・男がッ! なんでお前は、そういうことを平然と口にできるんだ! こっちは、お前のせいで、人生で初めての口付けを、男相手(ただし美少女)に捧げたっていう、一生モノのトラウマを抱えかけてるんだぞ! 少しはこっちの身にもなれ! 場の空気を読め! いや、読めないからお前はハルキなんだろうけどな! 知ってたよ畜生!

 

込み上げてくる絶叫を、俺は奥歯を噛み締めて必死に飲み込む。顔が、沸騰しそうなくらいに熱い。もう、ハルキの顔をまともに見ることができなかった。

 

そんな俺たちの、地獄のような、天国のような、とにかく混沌としたやり取りを、部屋の入り口で静かに見守っていた人物がいた。

「……やれやれ。若さというのは、いつの世も騒がしいもんさねぇ」

しわがれた、しかし、どこか楽しげな声。

俺とハルキは、はっと我に返って声のした方を見た。そこには、腕を組んだまま、壁に寄りかかって一部始終を眺めていた、俺の祖母、識珠江(しき たまえ)が立っていた。その顔には、孫の奮闘を労うような、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。

 

───いや、違うな。あの目は、絶対に面白がってるだけの目だ。孫がとんでもない状況に陥っているのを、最高のエンターテイメントとして消費している目だ。間違いない。

 

「ば、ばあちゃん……! い、いつからそこに……!」

「お前さんたちが、熱い口付けを交わしている、ちょうどそのあたりからさね」

「全部見てたのかよ!」

 

祖母は、俺の悲痛な叫びなどどこ吹く風で、ゆっくりと部屋の中に入ってきた。そして、ハルキの前に立つと、その姿をしげしげと、品定めでもするかのように眺め回した。

 

「ふむ……。見事なものだねぇ。霊力は安定し、肉体の現世への定着も、ほぼ完璧。静馬、初めてにしては、上出来じゃないか」

「……別に、あんたに褒められたくてやったわけじゃねえよ」

俺は、そっぽを向きながら、ぶっきらぼうに答える。

「それより、こいつ、これからどうすんだよ。家に帰したって、親には認識されないんだろ」

そうだ。問題は、山積みだった。

今回のキスは、あくまで応急処置。ハルキの魂を喰らう怪異、《啼哭の花嫁(ていこくのはなよめ)》こと《瀬織津比売(セオリツヒメ)》は、まだハルキの中にいる。祖母の言葉を借りるなら、この儀式は、定期的……下手をすれば、毎日、続けなければならない。

 

その事実を思い出した瞬間、俺の胃が、再びきりりと痛んだ。

毎日。キス。こいつと。

……駄目だ、考えたくない。考えるな俺。今は、目の前の問題を一つずつ片付けていくんだ。

 

俺の葛藤を知ってか知らずか、祖母は「それなんだがね」と、あっさり言った。

「陽輝くん、あんた、しばらくこの家にいなさい」

「え?」

「え?」

俺とハルキの声が、綺麗に重なった。

 

「考えてもごらん。今のあんたは、普通の人間には姿も見えなければ、声も聞こえない、いわばこの世の幽霊みたいなもんさ。家族の元に帰ったとて、心配させるだけだろう。それに……」

祖母は、そこでちらりと俺に視線を向けた。

「その身体を維持するための『霊力の供給源』は、すぐ側にあった方が、何かと都合がいいだろう?」

「…………ッ!」

その、あまりにも直接的な物言いに、俺は言葉を失う。ハルキも、さすがにその言葉の意味するところを理解したのか、再び顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 

このばあさん、絶対に、俺たちで遊んでいる。

だが、その提案は、あまりにも合理的で、反論の余地がなかった。ハルキを一人で家に帰すわけにはいかない。かといって、俺が毎日、ハルキの家に通ってキスをする? それはそれで、事案すぎるだろう。

つまり、選択肢は、一つしかなかった。

 

「……まあ、そんなわけで」

祖母は、にこりと人の悪い笑みを浮かべると、ぱん、と柏手を一つ打った。

「決まりだね。静馬、陽輝くんを客間に案内しておやり。布団と、着替えも貸してやるんだよ。あんたのぶかぶかのシャツでも、今のあの子にはちょうどいいだろうさ」

 

こうして、俺の意思など完全に無視される形で。

俺と、美少女の姿になった親友との、奇妙で、面倒くさくて、そして、あまりにも心臓に悪い同居生活が、なし崩し的に始まってしまったのだった。

 

◇◆◇

 

「……ほら、ここだ。汚えけど、まあ我慢しろ」

「お、おう……。サンキュ……」

 

俺は、一階の奥にある、埃っぽい客間の襖を開け放った。

中は、物置と化して久しい、六畳の和室。古書の山が、部屋の半分を占領している。

俺とハルキは、なぜかお互いの顔を見られないまま、ぎこちない会話を交わしていた。祖母という緩衝材がいなくなったことで、キスの一件が、再び重たい現実として俺たちの間にのしかかってきている。

 

俺は無言で押入れから客用の布団を引っ張り出すと、手早くそれを敷いた。ハルキは、所在なさげに、その場で突っ立っている。

 

「……あのさ、シズマ」

「なんだよ」

「いや……その、マジで、ありがとな。助かった」

「……別に。貸し一つ、ってことだ。忘れんなよ」

 

本当は、「お前が無事ならそれでいい」とでも言うべきなのだろう。だが、そんな素直な言葉が、俺の口から出てくるはずもなかった。偽悪者の仮面は、もはや俺の皮膚の一部と化している。

 

「……あと、これ」

俺は、自分のクローゼットから引っ張り出してきた、着古しのTシャツとスウェットパンツを、ハルキに無言で突き出した。

「え?」

「着替えだよ。いつまでも、そんな喪服みてえな格好でいられても、気味が悪い」

「あ……うん。そう、だよな」

 

ハルキは、おずおずとそれを受け取った。

俺の、LサイズのTシャツ。今の華奢なハルキが着れば、間違いなくワンピースのようになるだろう。

その光景を想像してしまい、俺は慌てて思考を打ち消した。

 

───考えるな、俺。こいつはハルキだ。中身はハルキなんだ。そうだ。なら、着替えくらい、目の前でしたって、何も問題は……いや、問題しかないわ! 大問題だ! 見た目は完全に女の子なんだぞ!

 

「お、俺は向こうに行ってるから! 着替え終わったら、呼べよ!」

俺は、自分でも驚くほど慌てた声でそう言うと、逃げるように客間を後にしようとした。

だが。

 

「……待って」

 

か細い声に、背中を引き止められた。

振り返ると、ハルキが、俺から受け取ったTシャツを胸に抱きしめ、不安げな瞳で俺を見上げていた。その姿は、あまりにも儚げで、頼りなくて。

まるで、迷子の子供のようだった。

 

「……なんだよ」

「……俺、本当に、ここにいて、いいのか……?」

 

その声は、震えていた。

無理もない。

つい数時間前まで、彼は、家族にさえ認識されない、世界でたった一人の孤独の淵にいたのだ。いくら虚勢を張っていても、その恐怖が、そう簡単に消えるはずがない。

 

俺は、一度、強く目を閉じた。そして、ゆっくりと息を吐く。

面倒くさい。

本当に、面倒くさい。

こいつに関わると、俺の心は、いつだって平穏ではいられないのだ。

 

俺は、再びハルキの方へと向き直ると、その小さな頭に、自分の手を、少し乱暴に、ぽん、と置いた。

びくっ、とハルキの肩が小さく跳ねる。

さらり、とした黒髪の感触が、手のひらに伝わってくる。

 

「……当たり前だろ、馬鹿」

俺は、できるだけ、いつも通りの、ぶっきらぼうな声で言った。

「お前が元に戻るまで、俺が面倒見てやるって言ってんだ。余計なこと考えてんじゃねえよ」

 

「……シズマ……」

「それに、俺も、貸しを返してもらわなきゃ、寝覚めが悪いんでな」

 

俺は、そう言うと、少しだけ、本当に少しだけ、その頭をわしわしと撫でてやった。

ガキの頃、こいつが泣いている時に、いつもこうしてやっていたように。

 

ハルキは、何も言わなかった。

ただ、俯いたまま、俺のTシャツを、さらに強く、胸に抱きしめているだけだった。

その耳が、ほんのりと赤く染まっているのを、俺は、見ないふりをした。

 

◇◆◇

 

客間から自室に戻った俺は、ベッドに倒れ込むように身を投げ出した。

どっと、一気に疲労感が全身を襲う。

霊力を根こそぎ持っていかれた肉体的な疲労と、この数時間で起きた、あまりにも非現実的な出来事の数々による、精神的な疲労。もはや、指一本動かすのも億劫だった。

 

(……これから、どうなるんだ)

 

天井の木目を眺めながら、ぼんやりと考える。

始まった、奇妙な同居生活。

毎日、続けなければならない、魂を繋ぐためのキス。

そして何より。

俺が、自らの意志で、足を踏み入れてしまった、【審神者】という宿命。

 

平穏な日常は、終わった。

もう二度と、あの退屈で、何も起きない、停滞した時間に戻ることはできない。

その事実が、ずしりと重く、俺の肩にのしかかってくる。

 

だが、不思議と、後悔はなかった。

あるのは、これから始まるであろう、途方もなく面倒くさい未来に対する、深いため息と。

そして。

隣の部屋で、今は静かに眠っているであろう、親友の存在に対する、ほんの少しの、安堵感だけだった。

 

「……勝手にしろよ、ほんと」

 

俺は、誰に言うでもなく、そう呟いた。

それは、いつもの、他人を突き放すための口癖。

だが、今夜だけは、その響きが、少しだけ、違う意味を持っているような気がした。

 

窓の外は、もう、白み始めていた。

長い、長い夜が、終わる。

そして、俺とハルキの、新しい日常が、今、始まろうとしていた。

面倒で、厄介で、きっと、ろくなことにはならない、そんな日常が。

 

俺は、ゆっくりと、目を閉じた。

遠くで、カラスが鳴く声が聞こえた。

それは、新しい一日の始まりを告げる、ありふれた音のはずなのに。

なぜか、これから始まる戦いの、始まりのゴングのように、俺の耳には聞こえていた。

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