自分を傲慢悪役貴族だと思い込んでいる一般平民、努力してない天才を演じるため死ぬほど努力する 作:ちんこ良い肉
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メフィストフェレスは、原初の悪魔である。山羊の頭を持つ女の姿をした、人ならざる超越者。他者を扇動し、甘言で思考を歪め、洗脳し、堕落させ、最後には本人の手で本人の人生を破滅させる。それを見ることが、彼女にとって何よりの娯楽だった。
ただし、現世へ直接手を突っ込むのは嫌いである。殴る、殺す、国を滅ぼす。そんなものは下品だし、何より面倒臭い。必要なのはほんの少し背中を押すことだけで、あとは人間が自分から坂道を転げ落ちていく様を眺めればいい。
十年近く前、そんなメフィストフェレスの前へ一人のクソガキが現れた。まだ幼いくせに妙に丁寧な口調で礼儀正しく頭を下げ、それから何の躊躇もなく言った。
「強くなりたいのです。力をお貸しいただけませんか」
当時のメフィストフェレスは、内心で笑った。名門貴族の血を誇り、自分には果たすべき義務があると本気で信じている、自尊心の高そうな子供だった。こういう手合いは壊しやすい。少なくとも、その時の彼女はそう思っていた。
人間は苦痛を舐めている。英雄譚を読み、勇者に憧れ、「自分なら耐えられる」と簡単に思い込む。だが人間の心を最後にへし折るのは、たいてい理屈でも絶望でもなく、単純な痛みだった。
少しだけ自尊心を煽ればいい。「あなたほど誇り高い方なら耐えられるでしょう」「大切な人を守るには、この程度の代償は必要です」と囁けばいい。自分に酔わせ、苦痛を過小評価させ、英雄願望をほんの少しくすぐる。それで十分だった。
もちろん契約内容に嘘はつかない。代償も危険も、一切偽らず丁寧に説明する。後になって泣き喚く契約者へ「ぜーんぶ説明しましたよね♡」と言ってやる瞬間こそ、メフィストフェレスが最も愛する時間だった。
だからラグナにも、いつも通り説明した。最初に刻んだ契約は【苦痛を愛せよ】。常時、全身へ焼き鏝を押し当てられ続けるのと同等の激痛を与える代わりに、身体能力をおよそ一・五倍まで引き上げる。
普通なら十秒も保たない。どれほど勇ましい人間でも膝をつき、泣きながら解除を求める。プライドが高い者ほど、自分が耐えられなかった事実で勝手に壊れてくれるので、なお美味しい。
ラグナは三分耐えた。汗を滝のように流し、顔面を引き攣らせながらも、真面目な目でメフィストフェレスを見上げた。そして息も絶え絶えに、妙に丁寧な口調のまま頼んだ。
「……もう一つ、同じものをお願いします」
メフィストフェレスは聞き間違いだと思った。だが少年は本気だったので、二つ目を刻んだ。それでも折れない。三つ目を刻んでもまだ折れず、最終的に五つ重ねた。
同一誓約の重複を禁じる条項など存在しない。そんな制限を設ける必要がなかったからだ。普通は二つ目を欲しがる人間などいない。
五重の【苦痛を愛せよ】。一つにつき一・五倍、単純に乗算すれば身体能力はおよそ七・六倍になる。元々これといった身体的才能のなかった子供が、ようやく「天才」と並ぶための土台へ片足を掛けるには、それくらい無茶をする必要があった。
もちろん、代償も五つ分である。契約を通して流れ込んでくる反応を見る限り、痛みは完全に感じている。それどころか頭の中では、最初から最後までずっと「痛い痛い痛い痛い痛い」と叫び続けていた。
なのに口から出てきた言葉は、「これで少しは家名に恥じぬ身体になれます」だった。解除してほしいとも、休ませてほしいとも言わない。メフィストフェレスは、そこで初めて少しだけ怖くなった。
ならばと、次は【誓約を保持せよ】を使った。自分で定めた条件を破れば即死。その代わり、誓約一つにつき魔力量を一・五倍へ引き上げる契約である。
これも人間を壊すには便利だった。最初は格好いい誓いを並べても、空腹、恐怖、性欲、疲労、保身。そんなくだらないものに負けて破り、自分の弱さを思い知らされ、最後には死ぬ。自分で選んだ誓いに自分で首を絞められる様は、メフィストフェレスの大好物だった。
半ばむきになって、少年へ誓約を提案した。傲岸不遜であれ。泣き言を吐くな。弱者を見捨てるな。自分だけ生き残るために退路へ逃げるな。そして恐怖や苦痛を理由に、己の信条を捨てて屈するな。
どれも一生守り続けるには、どこかで無理が出る条件だ。特に後ろ二つなど、死地に立たされた瞬間、自分の命可愛さに破らせるために用意したようなものだった。ラグナは全部呑んだ。
ただし、契約が少年を作り替えたわけではない。家族への執着も、異常なほど低い自己評価も、貴族として弱者を守らねばならないという信仰じみた義務感も、最初からラグナの中にあった。メフィストフェレスがしたのは、その歪みへ外せない枷を嵌め、逃げ道を塞いだだけである。
そのくせ【傲岸不遜であれ】だけは、本人なりに盛大な解釈違いを起こした。誓約を刻んだ直後、妙に丁寧だった口調まで変わったのである。
「ならば常に堂々とし、高貴なる者らしく振る舞わねばならん」
家族や恩人、師匠へ礼を失するつもりはないらしいが、それ以外への出力が致命的になった。「教師を名乗るだけはある」「我が役に立てたことを誇るがいい」などと、本人なりの最大級の賛辞を平然と吐く。結果、この契約については肉体や魂より先に社会生活へ被害が発生した。
それでもラグナは満足しなかった。むしろ五重の激痛と複数の即死誓約を抱えた状態で、まだ足りないと言い始めた。
「まだだ。足りん。この程度では無価値だ。軍が父上と姉様を害そうとしたらどうする。貴様の同族が襲ってきたらどうする。ブリトラ=レイズデッドのような怪物が牙を剥いた時、俺が弱かったので守れませんでしたとでも言えというのか」
少年は血を吐きながら、さらに契約を要求した。唇を赤く染め、膝を震わせ、それでも目だけは妙に真剣だった。
「貴族の権利だけを享受し、ノブレス・オブリージュの義務を果たせなければどうする。血統にしか価値のないクズが、その唯一の血統まで貶めるのだぞ。まだだ。まだ足りん。無価値なゴミが、現在進行形でウースウーラの血を汚していることに耐えられん」
(こいつ、イカれてる!)
そこでようやくメフィストフェレスは、自分が契約相手を完全に間違えたことへ気づいた。自尊心が高いのだと思っていたが、真逆だった。こいつは自分自身を異常なほど低く評価したまま、家族と家名だけを異常なほど高い場所へ置いている。
そこを読み違えたせいで、誘惑がことごとく噛み合わない。本人の栄光を見せても大して喜ばず、苦痛を与えても「これで強くなれる」で終わる。自分を愛している人間なら簡単に壊せる手段が、自分をほとんど愛していないラグナには妙な形で通用しなかった。
最初は面白い玩具だと思っていた。次に、少し怖くなった。そしてここでようやく、壊し方そのものを根本から読み違えていたと理解した。
しかも、ただの無才だった少年の器には、すでに刻印がこれでもかと詰め込まれていた。五重の【苦痛を愛せよ】、複数の【誓約を保持せよ】、その他にも細かな契約をいくつも重ねた結果、魂の契約領域はほとんど満杯だった。
残った僅かな空白へ何を入れるか。ラグナが選んだのは、メフィストフェレスと繋いだ回路を介して、その都度別の魔法を短時間だけ借り受ける【契約魔法】だった。恒常的な刻印をこれ以上押し込む余裕がないなら、必要な時だけ臓器や感覚、苦痛その他を代価として支払い、使い捨てで借りればいいという発想である。
(誰だよこのイカレポンチと契約したのは……私が! 私がやりました! 何やってるんですか当時の私! 殴りたい!)
しかも、堕落させようとしても妙なところで一切靡かない。まず、尊敬する父と姉の醜態を見せて幻滅させようとした。父ガランが風俗店で嬢へ土下座しながら、母乳フラペチーノなる意味不明なものを要求していた記憶を見せた。
ラグナは少し驚いただけで、『父上にもお茶目な面があるのだな』と納得した。メフィストフェレスは納得しなかった。普通そこは幻滅する場面である。
次に姉の記憶を見せた。華やかな貴族パーティの片隅で、七歳児たちを相手にお山の大将をしながらカードゲームへ参加し、完膚なきまでに叩き潰された末、本気で泣いている姿である。
ラグナは目を細め、『姉様は童心を忘れぬ御方だ』と言った。メフィストフェレスはとうとう耐えきれず、「違う! そうじゃない! 普通そこは幻滅するところでしょう!」と本気で叫んだが、信仰は一ミリも揺らがなかった。
三大欲求から崩すのも失敗した。食欲、性欲、睡眠欲。どれを刺激しても必要以上には反応せず、眠気などむしろ「鍛錬時間を削る邪魔な生理現象」として憎んでいる節すらある。唯一かなり効いたのは甘味だった。
そこだけは普通だった。高級な焼き菓子を見せれば一瞬だけ目が動き、限定ケーキを匂わせれば警戒しながらも確実に気にする。メフィストフェレスは心底困惑した。「なんでケーキなんですか。そこだけ普通の子供なんですか」と問い詰めたかった。
名誉欲には少し反応したので、今度こそと希望を持った。偉大な英雄として称えられ、万人から賞賛され、銅像まで建てられる未来を見せ始めた。ラグナは途中から心底どうでもよさそうな顔で鼻をほじり始めた。
ならば父と姉の幸福を餌に契約を増やそうとした。これなら絶対に釣れると確信して、普通なら飛びつきたくなるほど都合のいい条件を提示したところ、今度は本気で軽蔑した目を向けられた。
『穢らわしい悪魔め。普通に考えて悪魔が提示する都合の良い契約など、碌なものではあるまい。受け入れるわけがないだろう』
「なんでそこだけまともなんですか!?」
その頃にはもう、楽しみはほとんど恐怖へ変わっていた。このファッキンサイコパスは、甘い物が好きという一点がなければ人間味が存在するのかすら疑わしい。自尊心を煽っても自分自身のためには使わず、欲望を刺激しても家族と家名以外には大して反応しない。痛みは普通に感じているくせに、それを理由に止まるという発想がない。
最初は、いつ破滅するのか楽しみにしていた。途中から、いつ破滅するのか不安になった。今では、破滅しようとするたび全力で止めている。
何故なら契約には、悪魔側にも履行義務があるからだ。メフィストフェレスは最初、どうせすぐ壊れると思って契約条件をかなり雑に組んだ。ラグナを自らの甘言によって堕落させ、その選択によって破滅させ、そこまでを見届ける。それを自分の取り分として契約へ明記してしまった。
当時は、誓約を破って死ぬのも誘惑に負けて自滅するのも同じだと思っていた。ところが契約文は妙に厳密だった。メフィストフェレスの誘惑と無関係な特訓事故、戦死、自爆、勝手な自己犠牲で先に死なれた場合、それは彼女が望んだ「堕落による破滅」ではない。
つまり、勝手に死なれると困る。悪魔としては極めて不本意ながら、「死ぬな! 勝手に死ぬなクソガキ! それ私の手柄にならない死に方です! 私が破滅させる前に自爆したら契約不履行になるでしょうが!」と止め続ける羽目になった。
何が悲しくて原初の悪魔たる自分が、「今日はちゃんと寝ましたか」「それ以上の鍛錬は禁止です」「出血しているなら治療しなさい」「お願いですから死なないでください」と契約者の健康管理をしなければならないのか。人間を堕落させるはずだった悪魔は、長い付き合いの末、完全に暴走機関車の保護者と化していた。
そして今回も、話はまったく同じだった。ラグナは「ルクセリアの剣術の秘訣を探る」と言って王都へ出ていった。正確には、教師から頼まれた用事で外出したルクセリアをこっそり尾行し、日常的な身のこなしや自主鍛錬から何か盗めないか観察していただけである。
そこで運悪く、ブリトラ=レイズデッドと遭遇した。逃げればよかった。普通なら逃げる。だがメフィストフェレス自身が昔刻んだ【弱者を見捨てるな】【自分だけ生き残るために退路へ逃げるな】【決して屈するな】が、綺麗に全部刺さった。
(どこの馬鹿ですか、この契約を付けた奴! 死ね! ……私だ!)
しかもラグナは、どうせ介入するなら最高にAPを稼げる登場をしようと考えた。裏でこそこそ契約魔法の準備を整え、右目の視力まで対価として差し出し、メフィストフェレスから【時間魔法】を借り受ける。それから満を持して、絶望の現場へ現れた。
メフィストフェレスは当然止めた。相手は王国最強。今までの訓練や小競り合いとは桁が違う。だがラグナは聞かなかったし、契約上こちらから強制的に止めることもできない。
そして、見事に爆散した。地上ではラグナだった肉片が路地へ散らばり、ルクセリアも金髪の少女も呆然としている。ブリトラだけが楽しそうに笑い、「正解だよ、天才君! で、分かったところで何になる?」と腹を抱えていた。
(だから言ったでしょうがああああああああ!! バーカ! バーカ! ギャハハハハ! 何より私が一番馬鹿!)
メフィストフェレスは頭を抱えた。能力の正体を見抜いたところで、防げなければ意味がない。あれほど格好をつけて登場し、右目まで差し出し、推理まで当てて、その結果が到着一分未満でバラバラ死体なのだから救いようがなかった。
だが、死ぬ直前までに契約は成立している。右目の視力を対価として借り受けた【時間魔法】は、ラグナの死亡と同時に消えたわけではない。契約相手であるメフィストフェレスの側から、まだ回路を通して起動できる。
「……もう嫌です。本当に嫌です。どうして私がこんなことを……」
誰にも聞こえない場所で、山羊頭の悪魔は心底疲れた声を漏らした。それでも契約は契約である。ここで勝手に死なれては困るし、何より自分が貸した魔法を使わず終わられるのは腹立たしい。
遠隔起動。ばらばらになった肉片が動いた。血溜まりへ散った赤い滴が地面から浮かび上がり、離れていた腕が跳ね、脚が滑り、切断された胴体が見えない糸で引かれるように元の位置へ戻っていく。
時間が逆に流れていた。砕けた骨が繋がり、裂けた筋肉が戻り、千切れた神経が再接続される。最後に転がっていた頭部が首へ収まり、噴き出していた血液まで傷口の中へ吸い込まれた。
数秒後、そこには先ほどまでと変わらぬ姿のラグナが立っていた。右目の光だけを失ったまま、首を軽く鳴らしている。ルクセリアの口が開き、少女も目を見開き、さすがにブリトラの笑みまで止まった。
「褒めてやろう、雑種。悪くない余興だった」
血の気を失うほどの痛みを味わった直後とは思えない、不遜な笑みだった。契約を通じているメフィストフェレスには、その裏側まで全部聞こえている。
(ぎゃあああああああああああああああ!! 痛いいいいいいいいいいいいいいいい!!)
全身を切り分けられ、それが逆再生されながら繋がっていく感覚を、ラグナは最初から最後までまともに味わっている。それでも表へ出すのは、余裕ぶった笑みと傲慢な台詞だけだった。
(なんで!? なんでそうなるんですか!? 痛いなら痛いって言いなさいよ! 誰も怒りませんから!)
ラグナは笑ったままブリトラを睨む。メフィストフェレスは泣きたくなった。悪魔が契約者に「痛いなら痛いと言え」と諭す日が来るなど、十年前の自分へ言っても絶対に信じないだろう。
なんでこうなった。私はただ、罪のないガキを甘言で堕落させ、散々調子に乗らせた後で、自分から破滅していくところを眺めたかっただけなのに。悪魔が契約者の睡眠時間を気にし、治療を勧め、無茶な戦闘を止め、自殺防止まで担当する未来など誰が想像する。
そんなささやかな願いすら叶えてくれないのなら、神を呪うぞ。原初の悪魔は、本気でそう思った。