自分を傲慢悪役貴族だと思い込んでいる一般平民、努力してない天才を演じるため死ぬほど努力する 作:ちんこ良い肉
ブリトラ=レイズデッドは、自分が王国最強であることを知っていた。騎士団長も、特級冒険者も、宮廷魔術師も、束になれば多少は面倒というだけで、勝敗そのものが揺らぐ相手ではない。人類史まで遡れば【勇者】という例外はいるが、あれは人間の形をした世界のバグだ。そんなものまで含めなければ、今この時代に生きている人類の中で、自分より上に立つ者はいない。
少なくとも、つい先ほどまではそう思っていた。目の前で首を鳴らしている白髪の学生を見ながら、ブリトラは生まれて初めて、その前提へ但し書きを加える必要を感じている。ばらばらにして殺したはずの男が何事もなかったように蘇り、右目の光だけを失ったままこちらへ笑いかけていた。
「褒めてやろう、雑種。悪くない余興だった。だが、同じ芸を二度も見せるなよ。飽きる」
ブリトラは笑い返した。ただし、もう先ほどまでと同じ気持ちではない。こいつが自分と同格かどうかは、まだ分からない。だが少なくとも、同格以上の可能性を前提として扱わなければ危険だ。それを認める程度には、ブリトラも馬鹿ではなかった。
火炎を転移させる。ラグナの胸を焼く寸前まで迫った炎が、不意に来た道を逆向きへ走り、発生地点まで戻って消えた。毒を送り込めば拡散する前へ戻され、水刃も雷撃も、命中する直前に世界そのものを逆再生されたように消えていく。
「芸がないな。次は何だ、隕石でも落としてみるか?」ラグナは片目で空を見上げ、口元だけを歪めた。「それとも王国最強とは、同じものを何度も投げつけるだけの肩書きなのか?」
挑発だ。それくらいはブリトラにも分かる。腹立たしいのは、実際に巨大隕石を落としても、衝突そのものをなかったことにされる光景が容易に想像できてしまうことだった。
少し離れた場所では、ルクセリアが少女に肩を貸されながら戦いを見ていた。左目を失い、右手も潰れ、背中の傷も塞がっていない。それでも視線だけはラグナから離れない。
「……あいつ、こんなことまでできたのか」
「できたのかって、あなた知り合いなんでしょう!? あれだけのことができる人が!」
「うん。昨日、僕と戦った。でも、その時は魔術すら使わなかったんだよ……」
ルクセリアが乾いた笑いを漏らすと、少女は一瞬だけ言葉を失った。二人から見れば、ラグナは王国最強の攻撃を片端から無造作に消し飛ばしているようにしか見えない。
ただ一人、メフィストフェレスだけが違うものを見ていた。契約回路の向こうから、山羊頭の悪魔の悲鳴がラグナの頭へ直接叩き込まれる。
『隕石でも落としてみるか、じゃありません! 煽らない! お願いですから煽らない! あと今の状況、見た目ほど余裕ないですからね!?』
『黙れ。戦場で弱気な言葉を吐くな』
『ああああああああマジなんなんだよこいつはよおおおおおおお!』
ブリトラには、そのやり取りは聞こえない。ラグナが余裕たっぷりに笑っているという結果だけが見えていた。
直接攻撃が駄目なら、攻撃する対象を変える。ブリトラはラグナ本人ではなく、その周囲一帯を転移対象へ指定した。地表から地下五百メートルまで、土も岩盤も地下水もまとめて別地点へ送り飛ばす。
轟音とともに大地が消え、王都の一角へ底の見えない縦穴が開いた。足場を失ったラグナの身体が闇へ落ちていく。それを見下ろしながら、ブリトラは腹を抱えて笑った。
「俺が上で、お前が下だ! ギャハハハハ! 時間戻せるなら、落ちながら頑張ってみろよ!」
数十メートル落ちながら、ラグナがこちらを見上げた。顔から余裕は消えない。片手をゆっくり持ち上げ、まるでつまらない冗談でも聞かされたように鼻を鳴らす。
「下らんな。墓穴なら、自分の分だけ掘っておけ」
次の瞬間、穴の周囲一帯で時間が逆行した。転移された土砂だけを戻したのではない。「大地が消された」という出来事そのものが巻き戻され、岩盤が元の位置へ戻るのと同時に、落下していたラグナの身体も上へ引き戻されていく。
数秒後、巨大な縦穴は跡形もなく消えていた。ラグナは何事もなかったように地上へ戻ると、黒衣についた土埃を二度ほど払い落とした。
「五百メートル程度で俺を埋めたつもりか。浅いぞ、雑種」
『浅くないです! 十分深いです! 落下中ずっと「死ぬ死ぬ死ぬ地面戻れ地面戻れ」って契約回路に流れてましたからね!?』
『聞き違いだ』
『心の声をどうやって聞き違えるんですか!?』
ルクセリアには、当然そんな裏事情は分からない。昨日、自分を圧倒した男が、王国最強による地形規模の攻撃まで軽口一つで破ったようにしか見えなかった。
「やっぱり……昨日のあれすら、本気じゃなかったのか」
隣で少女の顔からさらに血の気が引いていく。ブリトラもまた、別の意味で確信へ近づいていた。ラグナは消失した土地を作り直したのではない。大地が転移されたという過去そのものを遡らせている。
「なるほどな。お前も【魔法使い】か。時間系、それも相当上だ」
「今頃気づいたか。王国最強という肩書きも存外鈍い」
見えている光景だけなら、ラグナが一方的に押していた。ブリトラの攻撃は片端から巻き戻され、地形そのものを消しても元へ戻される。だが実際の勝敗は、むしろ逆だった。
時間を巻き戻すたびに、ラグナの魔力は物凄い速度で削れていく。使える魔法が増えたところで、本人の魔力総量まで増えたわけではない。残量が尽きれば時間魔法は止まり、その後に転移魔法へ対抗する手段は何もない。
さらに悪いことに、ブリトラの【転移魔法】は異常なほど燃費がいい。距離そのものが消費へほとんど影響せず、攻撃にも防御にも逃走にも使える。こちらが一回の時間逆行で大きく魔力を削られる一方、向こうは千分の一すら減っていない。
しかもブリトラが本気で逃走へ徹すれば、ラグナには追う手段がない。今どれだけ派手に攻撃を無効化していても、先に燃料が切れる。それだけで終わる。
『分かってますよね!? 時間の問題です! 魔力が尽きたら終わりですからね!?』
『騒ぐな。まだ尽きていない』
『そういう問題じゃありません!』
ラグナはさらに一歩前へ出た。ブリトラは鼻で笑い、火炎を一つ転移させる。ラグナがそれを巻き戻した、その瞬間だった。
世界から音が消えた。
砂埃が空中へ縫い付けられ、崩れかけていた壁も、飛んでいた鳥も、炎も風も、全てが完全に静止する。ブリトラには何が起きたのか知覚する暇すらなかった。
次に認識した時には、時間はもう動いていた。そして眼前にはラグナがいる。剣先が胸元まで迫り、その周囲には炎、雷、水刃、魔矢が逃げ道を塞ぐように配置され、時が再開した瞬間に一斉に殺到した。
ブリトラは判断していない。命令もしていない。そもそも時間を止められていた間に、攻撃されたという認識すら存在しない。
それでも、一つとして届かなかった。
黒い装甲に見えていたものの正体は、危険を感知してから展開する防具ではない。ブリトラの肉体表面には、平時から極小の転移境界が隙間なく敷き詰められている。そこへ侵入しようとした物体や現象は、ブリトラ本人の意識とは無関係に別地点へ抜けていく。
時間が止まっていようと関係ない。そもそもそこには、「外から内へ届く」という空間の繋がり自体が存在しないのだ。ルクセリアが投げた剣を防いだ時も、同じ機構が働いていた。
「……は?」
ラグナの顔から、ほんの一瞬だけ余裕が消えた。次の瞬間にはいつもの薄笑いへ戻っていたが、その視線はブリトラの全身を覆う漆黒へ釘付けになっている。
「なるほど。鎧ではないな。貴様の周囲そのものが外界と繋がっていないのか。道理で時間を止めても働くわけだ」
ブリトラはそこで初めて、自分が時間を止められていたのだと理解した。何が起きたのか知覚すらできない攻撃を、【黒鎧】だけが勝手に捌いていた。
(今、こいつが黒鎧を抜く手段を一つでも持っていたら――俺は死んでいたのか?)
背中を冷たい汗が伝った。生まれて初めて、ブリトラは「自分が理解する前に死ぬ」という可能性を現実のものとして想像した。
その目の前で、ラグナは凶暴な笑みを深めた。
たったそれだけの事が、ブリトラには不気味だった。まるで今の攻撃すら、単なる確認だったように聞こえる。
『もう逃げましょうよ! あの人、今の何が起きたか分かってなかったのに全部防いでますよ!』
『見れば分かる』
『分かったなら帰りましょう! 時間系統じゃあれを抜けません!』
その通りだった。時間を止めても、停止中に攻撃を積み上げても、黒鎧は術者本人の認識と無関係に存在し続ける。ブリトラが防御へ徹すれば、時間魔法だけでは有効打がない。
「王国最強、思ったより慎重ではないか」
『それより今の時間停止でかなり持っていかれましたよ! 残り二割です!』
『まだ俺は無傷だぞ』
『燃料計の話をしてるんです!』
ブリトラは、今度こそラグナを明確な危険物として認識した。躊躇なく上空へ転移する。取った距離は、わずか数十メートルだった。
飛ぼうと思えば雲より高く、普通の人間では呼吸すらできない場所まで、それこそ別の天体まで一息で移動できる。それでも数十メートルしか離れなかった理由は単純だった。こいつが死ぬところを自分の目で確認しなければ、もう安心できない。
地上のラグナは追ってこない。代わりに腕を組み、遥か上空へ声を張った。
「逃げるのか、王国最強! 空へ上がれば俺が追えぬとでも思ったか!」
『追えません! 少なくとも今借りてる時間魔法では飛べません! お願いですから、できるみたいな顔をしないでください!』
『黙れ。ああ言っておけば向こうから降りてくるかもしれん』
『その発想で王国最強と戦ってたんですか!?』
ブリトラには後半が聞こえない。地上から堂々と挑発してくるラグナが、何か別の手段で上空へ届く余裕を残しているようにしか見えなかった。
だが戦術だけを見れば、ブリトラの判断は完全に正しい。上空から火炎を送り、毒を落とし、雷を撃つ。必要なら隕石まで使えばいい。そのたび広範囲を巻き戻させれば、先に時間魔法側が干上がる。
黒鎧を抜けない。魔力では負けている。距離を取られれば追えない。時間系統の魔法は派手で強力だが、この相手には致命的なほど噛み合わせが悪かった。いや、転移魔法に明確な優位を取れる魔法など、この世界には存在しない。
ただ一つを除いて。
「……勝ったな」
ブリトラは小さく呟いた。しかし地上を見下ろすと、ラグナはまだ笑っている。腕を組み、こちらの計算まで全部分かったうえで、それでも何の問題もないと言わんばかりの顔だった。
実際には、ラグナも普通に困っていた。上空へ逃げられるとは思っていなかったし、こちらから追う手段もない。黒鎧を破る方法も思いつかない。今できることは、焦っていると悟られないよう、一番強そうな姿勢で立つことだけだった。
『どうするんですか?』
『考えている』
『腕組んでるだけですよね?』
『圧倒的強者の風格を出せているか?』
『APの話はしてません!』
その余裕にしか見えない沈黙が、逆にブリトラの警戒を深めた。勝ち筋を見せられてなお笑っている。ならば、まだこちらが知らない手札がある。
「お前、契約魔法持ちか?」
上空から投げられた言葉に、ラグナの眉がほんの僅かに動いた。契約回路の向こうでは、メフィストフェレスが即座に食いつく。
『当たってます! 当たりです! はいって言ってください! そこから話し合いに持っていきましょう!』
「高位悪魔へ臓器だの五感だのを売って、別系統の魔法を借りてる。そう考えりゃ、死から戻ったことも時間停止も説明がつく」
「契約魔法?」
ラグナは鼻で笑った。
「貧乏人のカスでも悪魔に泣きつけば使える借り物を、この俺が頼ると思ったか。随分と安く見積もられたものだな」
『なんでそこまでディスるんですか!? しかも使ってる! 今まさに使ってるでしょうが!』
ブリトラは目を細めた。否定されたから疑いを捨てたわけではない。むしろ自分の知る契約魔法の性質と、目の前の男の様子が噛み合わなかった。
契約魔法そのものは、見返りだけなら破格だ。臓器や五感の一つを差し出し、本来なら一生使えない別系統の魔法を短時間だけ借りる。命のやり取りでは、十分に釣り合う。
最悪なのは、代償として併設された苦痛だ。臓器なら失った瞬間に終わる。視力も嗅覚も、なくなればそこで固定される。だが発動中ずっと流れ込み続ける苦痛だけは、術者の意識を直接削り続ける。
だからブリトラたちは、奴隷として集めた少女たちを五年かけて痛みに慣らした。それでもまともな鉄砲玉にはなりきらなかった。魔法の効率が悪いわけではない。人間の精神が、見返りを使い切る前に痛みで壊れるのだ。
まして、目の前の男が今使っている規模の時間魔法を契約で借りているのなら、その代償も相応のはずだった。それを受けながら、あれほど平然としていられる人間がいるはずがない。
もし本当にいるとすれば、強い弱い以前にただのキチガイである。そんな前提を置かなければ成立しない推理は、普通なら捨てる。ブリトラは極めて常識的に、最も正解に近い仮説を自分の手で候補から外した。
『あああああ! 常識的な判断が王国最強をどんどんアホにしていく!』
ラグナはそれを無視し、上空へ顎を上げた。
「他にはないのか。もう少し俺を楽しませろ」
ブリトラは舌打ちし、次の候補へ思考を進める。
「じゃあ悪魔か? 完全現界して、人間の皮でも被ってやがるのか?」
口にしてから、すぐに首を振った。悪魔は契約と自己定義によって存在を保つ。完全現界すれば人間を遥かに上回る力を持つが、人間相手に本気で直接戦うこと自体を嫌う。あの最悪の原初、メフィストフェレスですら同じだ。
「完全現界さえしてねえなら、あのクソ山羊相手でも俺ならどうとでもできる。ただ、お前から悪魔の臭いもしねえ。じゃあ違うか」
『クソ山羊って誰のことですか!?』
『お前だろう』
『今そこ拾わなくていいです!』
ならば魔王か。ブリトラは一度考え、鼻で笑った。
「まさか魔王です、なんてオチじゃねえよな。あいつは千年前に勇者ミオ・カワムラが殺してる。蘇った記録もねえし、お前からあの類の気配もしねえ」
候補が消えていく。契約魔法でもない。悪魔でもない。魔王でもない。では、目の前で時間を止め、死から戻り、王国最強の攻撃を巻き戻しているこの男は何なのか。
「……何者だ、お前」
ブリトラは、本気で訊いた。その声には先ほどまでの笑いがなかった。
地上のラグナは一瞬だけ黙った。ルクセリアから見れば、ついに王国最強へ正体を問わせた沈黙。少女から見れば、人間離れした何かが素性を明かす直前の静寂だった。
メフィストフェレスだけは知っている。ラグナが今、心の底から喜んでいることを。
『駄目です。今の質問、絶対に変なスイッチ入りましたよね』
「クハハハハ!」
『ほら入った!』
『知りたいか、雑種。ならば教えてやろう』
『聞かれたのは種族とか能力の正体です! 家の自慢を始める場面ではありません!』
「王の中の王。最優秀血統。神を超えし者――ウースウーラだ」
沈黙が落ちた。ルクセリアは目を見開き、少女も同じような顔をしている。ブリトラは何を言われたのか分からず、数秒遅れて眉を寄せた。
「……は?」
「何を驚いている。ちなみに俺など一族の中では最弱だ。父上や姉様を俺と同じ尺度で測るな」
『なんで話を盛るんですか!』
『盛っていない』
『その自信はどこから来るんですか!?』
「……あれで、一族最弱?」
少女が呟いた。ルクセリアは昨日の模擬戦を思い出し、乾いた唾を飲み込む。
「僕も初めて聞いた。でも……あいつ、自分の家のことだけは一度も冗談を言わないんだ」
その一言が最悪だった。ブリトラもガラン=ウースウーラを知っている。六大貴族の会議で何度も顔を合わせた、黙って腕を組んでいれば異様に有能そうに見える男だ。
(あの、有能面だけ上手い無能がそんなわけねえだろ)
ハッタリだ。そう切り捨てて、もう一度ラグナの顔を見る。目が合った。
マジだった。
嘘をついている顔ではない。強がっている人間の目でもない。本気で自分を一族最弱と信じ、本気で父と姉を自分より遥か上へ置いている。
普通なら、「こいつが家族を過大評価しているだけだ」で終わる。だが、そのラグナ本人がブリトラの常識を何度も踏み潰した直後だった。殺したのに蘇り、攻撃を時間ごと戻し、時間停止まで使った怪物が、本気で「自分は一族最弱」と断言している。
(本当に……ウースウーラって、なんなんだよ)
ブリトラの胸に、初めて別種の恐怖が生まれた。ラグナ個人の強さではない。その背後に、自分の知らない怪物がまだ複数いるかもしれないという、見えないものへの恐怖だった。
『見ました!? あなたのホラのせいで王国最強が本気で引いてますよ!』
『ホラではない。父上が俺より強いのは事実だ』
『そこから訂正しないと駄目なんですか!?』
ブリトラは考えるのをやめた。地面程度では足りない。都市でも国でも足りない。相手の底も、一族の正体も分からないのなら、確実に時間魔法の燃料を殺せる規模まで一気に広げる。
狙ったのはラグナではない。
自分自身を含む惑星側の全てを転移対象へ指定し、ラグナだけを現在の座標へ置き去りにする。
次の瞬間、大地が消えた。海も、空気も、雲も、山脈も、森も、王都も、ルクセリアも少女も消える。正確には消滅したのではない。この星に属するほぼ全てが、惑星ごと遥か別の座標へ移された。
元いた座標へ残されたのは、ウルスラグナ=ウースウーラただ一人だった。
『見ました!? 攻撃規模が星になりましたよ!? あなたが煽ったせいです!』
『王国最強ともあろう者が、随分と思い切った手を――』
言葉の途中で、ラグナの肺から空気が抜けた。真空が全身を襲い、意識が一気に遠のいていく。
『感心してる場合ですか! あああああ、また死ぬ! 時間戻し!』
ブリトラの狙いは正しかった。ラグナ本人だけを別の場所へ飛ばしたのなら、時間を戻す対象も本人だけで済む。だが惑星そのものを動かされた以上、元通りにするには星規模の過去へ干渉しなければならない。
距離へほとんど魔力を使わない転移魔法と違い、時間魔法は干渉範囲がそのまま負担になる。今のラグナに、惑星一つを丸ごと元へ戻せるだけの魔力は残っていない。
真空の中でラグナの生命活動が途切れる寸前、メフィストフェレスが時間を逆行させた。肺が潰れる直前、意識を失う直前まで肉体時間が戻される。しかし周囲は真空のままである。ただ数秒の猶予を買ったにすぎない。
その数秒で、ラグナは契約回路へ意識を叩き込んだ。
『メフィストフェレス。嗅覚を対価とする。締結しろ』
『嫌です。嫌な予感しかしません!』
『締結しろ』
『嫌です!』
『契約に従え』
『うわああああ! もう知りませんからね!』
そんなやり取りがあったことを、ブリトラは知らない。ただ遥か遠くへ動かした惑星の側から、ラグナがまだ何かをしようとしているという悪寒だけが消えなかった。
かつて、この世界には異界から訪れ、多重世界を渡った本物の世界のバグがいた。最大多数の最大幸福という狂気に取り憑かれ、最後には文明を、神を、世界の管理者すら殺した純人間――ミオ・カワムラ。そして、■■■■・ペンドラゴン。
あの怪物たちですら、本物の転移能力者が戦闘を捨て、逃走だけへ徹した時には面倒を感じた。勝てないからではない。距離も世界も次元も無視して逃げ続ける相手を「追いついて殺す」という行為そのものが、死ぬほど面倒になるからだ。
転移魔法には、先がある。ブリトラ自身がそう遠くない未来に辿り着くはずの極地。距離を飛ぶだけでは終わらず、次元を越え、世界を越え、やがて物語という境界すら越えて移動する。
だから、その逃走を殺すための魔法が作られた。
後世では、体力吸収、破壊不可、万物切断、魔力破壊。いくつもの理不尽な能力を備えた最強の武器として語られる。だが、それらは本質ではない。
聖剣の本質は、斬ることですらない。
一度標的と定めれば、逃がさない。
世界の裏側へ逃げようが、別次元へ飛ぼうが、多重世界の果てへ消えようが、標的へ追従し続ける。転移という逃走手段そのものを殺すために生まれた、空間魔法への回答。
ラグナが嗅覚を代価に借りたのは、その魔法だった。
遥か彼方、惑星から切り離された真空の中で、一条の光が生まれる。その光が剣の輪郭を取り、足場すら存在しない空間でラグナの手へ収まった。
ブリトラの顔から、初めて完全に笑みが消えた。
遠すぎる。見えるはずがない。だが、自分を標的として捉えた何かが、距離という概念を無視してこちらへ向いたことだけは分かった。
そして、【聖剣魔法】が起動した。
同時に、ウルスラグナ=ウースウーラの魔力が完全に枯れた。