自分を傲慢悪役貴族だと思い込んでいる一般平民、努力してない天才を演じるため死ぬほど努力する 作:ちんこ良い肉
ブリトラ=レイズデッドは、自室へ転移した瞬間、寝台へ飛び込んだ。靴も脱がず、血の染みた服もそのままに、分厚い掛け布団を頭から被って身体を丸める。扉には三重に鍵を掛け、窓を閉め、カーテンまで引いた。それでも足りず、寝室を丸ごと王城地下に用意された非常用区画と入れ替える。外部から出入りできる鍵を持つのは、自分と宰相だけ。そこまでやって、ようやく震える息が漏れた。
怖い。怖い。怖い。布団の暗闇へ顔を押しつけても、白髪の学生が笑っている顔が瞼の裏から消えない。喉がひゅうひゅう鳴り、指先は自分のものではないように震えていた。自分は生きている。まだ、生きている。
間違いなく、自分は現生人類最強だった。騎士団長も特級冒険者も宮廷魔術師も相手にならず、隣国の軍は二万を超えてなお十分と保たなかった。過去には、顕現したメフィストフェレスの分体すら葬っている。人間同士の戦いという枠組みにいる限り、ブリトラ=レイズデッドへ勝てる者など存在しないはずだった。
その自分が、負けた。
思い出しただけで胃液が込み上げる。何度殺しても戻ってきた。ばらばらにしても時間を巻き戻し、無敵だった【黒鎧】を破り、惑星そのものを別座標へ逃がしても聖剣が追ってきた。最後には自分のほうが転移を使うことすら怖くなり、接近戦という一番やってはいけない選択へ、自分から逃げ込んだ。
「……なんなんだよ、あいつ……」
掠れた声が布団の中へ吸われていく。人間なのか。本当に人間だったのか。魔法使いだとか、英雄だとか、そんな分類へ入れて考えたこと自体が間違いだったのではないか。
そこまで考え、ブリトラの頭に一つの答えが浮かんだ。
神。
その言葉だけが、妙にしっくりきてしまった。この世界には魔術があり、魔法があり、生命には死があり、距離には限界がある。自分たちはそういう規則の中で勝ち負けを決めている。
だが、あいつだけは最初から規則の外側に立っていたのではないか。システムを決める側の存在が、たまたま人間の形を取り、遊びでシステムの中へ降りてきていただけだったのではないか。
そう考えれば全部説明がつく。殺しても戻る。時間を止める。惑星を退かしても追ってくる。絶対防御を壊す。しかも最後は、自分をいつでも殺せるくせに致命傷だけを外し、笑いながらこちらを観察していた。
最初から、戦闘ですらなかったのかもしれない。自分だけが必死になって勝とうとしていただけで、向こうは盤上へ降りてきた何かが暇潰しに駒を摘んでいただけ。そう考えると、あの余裕も、あの笑みも、全部が別の意味を持ち始める。
ブリトラには、まだ使っていない手がある。転移魔法が育ち切ってから編み出した、なりふり構わぬ時の最終戦術だ。自分だけを観測可能な宇宙の端へ逃がし、相手の肉体を頭、胴、四肢、臓器ごとに反対側の宇宙の果てへばらばらに転移させ、間髪入れず巨大隕石まで衝突させる。
再集合も再生も許さない。距離という概念そのものを処刑手段へ変え、何が相手でも存在そのものを散らして潰すための戦術だった。
かつて顕現したメフィストフェレスの分体を、それで容易く葬った。原初の悪魔の分身ですら例外ではなかったのだから、普通ならあれを使えば終わる。少なくとも今日まで、ブリトラはそう信じていた。
だが、ウルスラグナ=ウースウーラには効かない。
試してすらいない。それなのに、なぜかそれだけは確信できた。
火に水をぶつければ消えるとか、毒が特定の薬に負けるとか、そんな相性ですらない。天敵にだけは絶対に勝てない生き物がいるように、自分の転移魔法そのものが、あいつの前では勝敗を決める権利を持っていない。
もしあそこで本当に最終戦術を使っていたなら、宇宙の両端へ引き裂いたつもりで、次の瞬間には背後に立っていたかもしれない。隕石をぶつけた瞬間、時間ごと元へ戻されたかもしれない。あるいはもっと単純に、遊び相手が本気で殺しに来たことへ腹を立てたかもしれない。
「……っ」
歯が鳴った。あの時点まで、あいつは遊んでいた。最後の最後まで笑っていた。なら、自分が生きて帰れた理由は勝敗でも実力でもない。
明らかに存在格の違う相手が、たまたま殺す気にならなかっただけだ。
自分が今ここで布団に包まれていること自体、奇跡だった。
怖い。怖い。怖い。負けた屈辱で腹の底が熱かったはずなのに、その熱が恐怖の冷気に押し流されていく。背骨を巨大な死の手で掴まれ、そのままいつでも引き抜けるぞと囁かれているようだった。
次に会えば殺されるかもしれない、ではない。
次に会った時、あいつの機嫌を損ねれば終わる。
そこで、ふいに別の顔が浮かんだ。泣いていた女。逃げ回っていた奴隷。命乞いをしていた兵士。ブリトラが面白半分に追い詰め、踏みつけ、どうせ何もできないと笑ってきた連中だった。
(あいつらも、こういう――)
「駄目だ。それは駄目だ」
反射的に声が出た。布団を強く握り締める。今さら相手の気持ちが分かりました、だから反省しますなど、そんな都合のいい話が許されるはずがない。
恐怖を知った途端に善人ぶるなど、吐き気がするほど醜い。何人を虐げた。何人を殺した。命令で殺した数だけでも一万を軽く超えるし、命令ですらなく壊した人間まで含めれば、数える気にもならない。
今から一人ずつ謝って、一人ずつ助けて、善行を積み重ねたところで、生きている間に償える総量などとうに超えている。一万人以上殺したけど、今は改心しています。そんな言葉を頭の中で想像しただけで、本気で吐きそうになった。
醜すぎる。
そんな看板を掲げて、許されたような顔をするくらいなら、悪党のままのほうがまだ筋が通る。被害者へ向かって「俺は変わった」と押しつける資格すら、自分にはない。
そもそも、ブリトラだって最初からこうだったわけではない。
幼い頃、ブリトラは親に売られた。売られた先は盗賊団で、奴隷より少し悪い程度の扱いならまだ幸運な日だった。殴られ、蹴られ、食事は腐った残飯。寝ている間すら誰かの足音に怯え、自分より小さな子供が翌朝にはいなくなっていることも珍しくなかった。
誰かが泣けば、うるさいと殴られた。痛いと言えば、まだ喋れるなら元気だろうと蹴られた。助けてと言えば笑われる。そのうちブリトラも、泣くことそのものをやめた。
【転移魔法】に目覚めたのは、その頃だ。最初は手の届かない場所にあったパンを、自分の手元の小石と入れ替えただけだった。一口食べた時、こんな力があれば殴られずに済むかもしれないと思った。
次は鍵を外へ飛ばした。その次は、見張りの短剣と地面の石を入れ替えた。できることが増えるほど盗賊たちは怯え、利用しようとし、それでも制御できないと悟った最後には、ブリトラを殺そうとした。
そこへ来たのが、今の宰相だった。
太った手が、初めて自分の頭を撫でた。名前を聞かれた。椅子へ座らせてもらった。皿へ乗っている肉が腐っていないことに驚き、一口食べるたびに「もう一つ食べてもいいのか」と何度も訊いた。
夜になっても誰も殴りに来なかった。眠っている間に何かされると思い、最初の数日はほとんど目を閉じられなかった。朝になっても自分が寝台の上にいることを確認して、ようやく少しずつ眠れるようになった。
そこで初めて、ブリトラは人間として扱われた。
だから宰相は父だった。血などどうでもいい。自分を売った親より、拾ってくれた男のほうが何百倍も親だった。魔法が育ち、何十、何百、何千キロと転移できるようになってからは、実の親にも、盗賊たちにも、自分を虐げた連中にはたっぷりと礼を返した。
最初は、自分を殴った盗賊を殺した。次は、自分を売った親を殺した。その次には、パパを侮辱した男を殺した。やがて、パパの邪魔になる者を殺すようになった。
気づけば、殺す理由を探す必要すらなくなっていた。
泣く顔が面白い。逃げる背中を追うのが楽しい。どうせ自分には逆らえない相手が必死に抵抗する様子を見ると、腹の底が満たされた。自分がかつてされたことを、いつの間にか他人へ返すようになっていた。
それでも、ブリトラの中では一つだけ揺らがないものがあった。
パパだけは違う。
今では宇宙すら跨ぎ、世界の外へ触れ始めたその力を、拾ってくれた大切なパパのために使っている。そう思えば、自分が何をしていても構わなかった。
一か月後には、次期王を決める選定がある。六大貴族――レイズデッド、ヴァーミリオン、インフェイマス、フォールアウト、スターレイル、そしてウースウーラ。
パパを王にする。
そのためなら、他の五家が何を企もうと全部潰せる。昨日までは、本気でそう思っていた。
「……ウースウーラ」
名前を口にしただけで胃がひっくり返った。
「オエッ……!」
ブリトラは布団を跳ね上げ、寝台の脇へ胃液を吐いた。ウルスラグナ=ウースウーラと、また会うのか。一か月後、六大貴族が揃う場へ行けば、あいつも来るかもしれない。
いや、それだけならまだいい。
あいつは言った。自分など一族の中では最弱だと。ガラン=ウースウーラ、そして姉は自分より上だと、あの怪物が本気の目で言い切った。
「無理だろ……」
吐瀉物を見ながら呻き、また布団へ潜り込む。会議で見たガランは、黙って腕を組んでいれば異様に有能そうに見えるだけの男だった。少なくともブリトラはそう評価していたし、理性の部分では今もその評価を捨てきれない。
だが、息子だと思っていた怪物が、あれほどの力を持ちながら「父上や姉様を俺と同じ尺度で測るな」と断言した。
もし、あれが事実なら。
ウルスラグナより上が二人いて、その一人と一か月後には王座を巡って真正面から敵対することになる。
その時、閉じていたはずの扉の向こうで、錠が一つずつ外れる音がした。
ブリトラの身体が跳ねた。反射的に転移魔法を組み、さらに逃げようとする。だが次の瞬間、聞き慣れた声がした。
「ブリトラ。私です。入りますよ」
全身から力が抜けた。
扉が開く。肥満体を上等な礼服へ押し込んだ男が、地下の非常用区画へ入ってきた。この場所へ自由に入れる、世界でただ二人のうちの一人。王国宰相。そしてブリトラにとっては、世界で唯一「パパ」と呼べる人だった。
「例の契約魔法の件ですが、あなたのやり方は少々効率が――」
穏やかな声が途中で止まった。
汚れた床。血の染みた服。寝台の脇へ吐かれた胃液。そして布団の中で震えている息子。宰相の眉が僅かに動く。
「……どうしました?」
その声を聞いた瞬間、堪えていたものが崩れた。ブリトラは布団から顔だけを出し、何かを言おうとして口を開く。
「パ、パパ……俺……」
息が続かなかった。
吸う。吸う。吸っているのに足りない。胸だけが激しく上下し、喉が閉まり、視界の端から暗くなる。
「パパ、俺……ま、待って……待って、息……っ、息が……」
ブリトラは自分の首元を掻いた。空気はある。分かっている。それなのに肺へ入ってこない。身体が勝手に浅い呼吸を繰り返し、指先が痺れ、歯が鳴った。
宰相はすぐに寝台の横へ腰を下ろした。
「ブリトラ。こちらを見なさい」
返事ができない。ブリトラは子供のように首を振った。
「無理……息、できない……パパ、俺、死ぬ……」
「死にません」
宰相の声は変わらなかった。太い手がブリトラの後頭部へ回り、乱れた白髪をゆっくり撫でる。
「私を見なさい。吸うことばかり考えなくていい。まず吐きましょう。ゆっくりです」
「む、無理……っ」
「できます。昔も同じことをしたでしょう?」
その言葉で、幼い頃の記憶が一瞬だけ蘇った。拾われたばかりの夜、廊下の足音を聞いただけで呼吸ができなくなった自分を、この男は何度もこうして落ち着かせてくれた。
「ほら、私と一緒に。吐いて」
宰相が長く息を吐く。ブリトラも震えながら真似をした。途中で咳き込み、また空気を貪ろうとする。
「急がなくていい。私はここにいます」
「……パパ」
「ええ」
「い、いなくならない?」
「いませんよ」
それで完全に崩れた。
「う、うぁ……ああ……っ」
王国最強と呼ばれる男が、布団を握り締めて泣いた。喉を押し殺すこともできず、子供のようにしゃくり上げる。
「怖かった……っ、パパ……こわ、怖かった……俺、死ぬかと……何回殺しても、戻って……俺、逃げても……っ」
「分かりました。今は話さなくていい」
「でも、俺……俺、負けた……!」
最後の一言だけは叫ぶように出た。
宰相の目が僅かに見開かれる。
「……あなたが?」
信じられない、と顔に書いてあった。ブリトラが負けるという前提そのものが、これまで二人の間には存在しなかった。
その反応を見て、ブリトラはさらに泣いた。
「ごめん……パパ、ごめんなさい……俺、ちゃんと殺せなかった……逃げた……怖くて……」
「謝らなくていい」
宰相は子供をあやすように、一定の速さで頭を撫で続ける。
「帰ってきたでしょう。それで十分です。今ここで生きている。それが先です」
ブリトラは布団から手を伸ばし、宰相の服の袖を掴んだ。幼児のような仕草だった。それでも宰相は振りほどかない。
「パパ……」
「ええ」
「俺、負けた……」
「聞いています」
「……俺が、負けたんだよ」
何度も同じ言葉を繰り返す。そのたびに宰相は「ええ」とだけ返した。呼吸が少しずつ長くなり、痺れていた指先へ感覚が戻る。嗚咽は止まらない。それでも、もう窒息するような恐怖は少し遠のいていた。
しばらくして、宰相は息子の背中をゆっくり撫でながら窓のない壁へ視線を向けた。
「……そうですか。では、地上で起きている異常も、あなたの戦闘によるものですね」
ブリトラが泣き腫らした目を上げる。
「今朝から季節が反転しています。太陽の位置も星図もずれ、王立天文台から各地へ確認が飛んでいる。気温と昼夜にも異常報告が出ています」
宰相の口調は相変わらず穏やかだった。
「惑星そのものが、本来の公転軌道の対角側へ移動している。しかも自転軸、公転速度、向きまで転移先へ合わせて調整されている。でなければ、この程度の異常では済んでいません。あなたがそこまでの規模で戦ったのでしょう?」
責める響きはなかった。
だからこそ、ブリトラは全部話した。
逃げた少女を回収しに行ったこと。学園の学生が割り込んだこと。転移魔法を一目で見抜かれたこと。ばらばらにして殺したはずなのに、時間を巻き戻して蘇ったこと。
時間を止められた。黒鎧を破られた。惑星そのものを別座標へ逃がした。それでも聖剣に追いつかれた。
そして最後には、自分が怖くなった。勝てる手を自分で止めた。遠距離から転移を撃てば終わったかもしれないのに、それすら罠に見えて、接近戦へ逃げた。
「そ、それで……あいつ、俺を何度も斬れたのに……殺さなくて……笑ってて……」
また呼吸が乱れかける。宰相の手が背中を軽く叩いた。
「ゆっくりでいいですよ」
「……うん」
「続きを」
「俺……何も分かんなくなった。あいつ、自分は一族で一番弱いって言ってた。ガランと姉のほうが上だって……本気で……」
「なるほど」
太い指が顎を撫でる。優しい父親の顔をしたまま、その目だけが急速に冷静さを取り戻していった。恐慌状態の息子ではなく、そこから持ち帰られた情報を一つずつ棚へ並べる目だった。
「ガラン=ウースウーラが本当にあなたの想像するような超越者かどうかは、ひとまず置きましょう。彼自身については、私も何度も会っていますからね」
その一言に、ブリトラは僅かに救われた気がした。やっぱりガランは普通なのかもしれない。あれは息子の思い込みなのかもしれない。
だが宰相はすぐに続ける。
「ただ、ウルスラグナ=ウースウーラが少なくともあなたに匹敵する規格外戦力であることは、疑いようがないでしょう」
救いは一瞬で消えた。
宰相の目が細くなる。海千山千の貴族を騙し、脅し、抱き込み、王国の実権を握ってきた古狸の目だった。恐怖するでも、怒るでもない。どう使うか。どう避けるか。どこに弱点があるか。それだけを考えている。
「まあ、よいでしょう」
宰相は柔らかく笑った。
「勇者といい、強いだけの馬鹿などどうとでも御せますから。剣で勝てないからといって、政治でも勝てないとは限りません。むしろ、殴る以外の方法を知らない相手ほど扱いやすい場合すらある」
いつものパパだった。何が起きても慌てず、答えを出してくれる。
ブリトラが縋りつくように何度も頷くと、宰相はさらに声を和らげた。
「ただし、今回は情報が足りません。あの規格外戦力について、徹底的に調べる必要がありますね。家族、交友関係、学園での行動、契約魔法の有無、魔力総量、発動条件、制約。強さそのものより、何を守り、何を嫌い、何なら取引できるのかを知りたい」
政治家にとって、戦闘能力は情報の一つにすぎない。どれほど強くても、守るものがあるなら脅せる。欲しいものがあるなら買える。嫌うものがあるなら誘導できる。宰相は最初から、ラグナと殴り合うつもりなどなかった。
そして最後に、何でもない確認のように訊いた。
「次は勝てますか?」
ブリトラは止まった。
白髪。笑み。小さな聖剣。そして、『去ね、雑種』。
思い出しただけで、喉が狭くなる。布団を握る指にまた力が入った。それでもパパの前で「無理だ」と言う選択肢だけはなかった。
「か、勝つ」
声が裏返った。
「今度は勝つ! 次はちゃんと最初から全力でやる。宇宙の端まで使う。だから、俺が……俺が――」
自分でも分かっていた。口では勝つと言っているのに、目はもう次の敗北を確信している。
戦う前から逃げ道を探している。あの白髪が現れた時のことを想像するだけで身体が震える。そこにいるのは王国最強ではなく、一度叩き潰されて、主人の顔色を窺う負け犬だった。
宰相も、その目を見逃さなかった。
微笑みは消えなかった。声も変わらない。ほんの少し前までブリトラの頭を撫で、呼吸を整え、子供のような嗚咽を黙って受け止めていた父親の顔のままだった。
ただ、目だけが変わった。
壊れて動かなくなった魔道具。役目を果たせなくなった駒。修理する価値があるか、交換したほうが安いか。それを計算する時の目だった。
「……そうですか。期待していますよ」
声だけは、どこまでも優しかった。
ブリトラは笑い返そうとした。口元だけが痙攣し、喉から変な音が漏れる。
ラグナに負けた時とは違う冷たさが、今度は腹の底から這い上がってきた。
パパに捨てられる。
その可能性だけで、先ほどとは別種の絶望が全身を満たす。
王国最強だから拾われたわけではない。最初は何もできない子供だった。そう分かっているはずなのに、今の目を見た瞬間、幼い頃の自分が戻ってきた。
役に立たなければ、また捨てられる。
宰相は何事もなかったように立ち上がった。汚れた床へ視線を落とすこともなく、衣服についたブリトラの涙を軽く払う。
「今日は休みなさい。報告はこちらで処理します。一か月後の選定までに、こちらでも準備を進めましょう」
「……うん」
「では」
扉が閉まった。
鍵が掛かる音が響いても、ブリトラはしばらく動けなかった。さっきまで確かに頭を撫でてもらっていた感触が残っている。優しかった。本当に優しかった。
それでも最後の目だけが消えない。
布団の中で、また指先が震え始めた。
ブリトラは震える手を布団から出した。床へ複雑な術式を転移させ、必要な供物を遠隔地から一つずつ呼び寄せる。黒い獣骨。硫黄。古びた銀貨。血を吸わせた羊皮紙。古い文献で一度だけ見た召喚式を、記憶から正確に再現していく。
悪魔の中でも最上位。契約そのものを遊びにする性悪。その名を思い浮かべるだけで、過去に葬った分体の顔が頭をよぎった。
「■■■■――召喚」
空気が甘く淀んだ。
部屋の温度が一瞬だけ上がり、次いで花と血を混ぜたような匂いが満ちる。黒いドレスの裾が、何もなかった床へふわりと落ちた。
続いて細い女の脚、優雅な腰、細身の胴。そして、人間の美貌なら完璧だったはずの位置に山羊の頭が現れる。
湾曲した角。その下で細められた目には、隠す気すらない愉悦と悪意が満ちていた。
「はいはーい。ちょうど潤いが欲しいところだったんですよねぇ」
メフィストフェレスは楽しそうに両手を合わせた。
目の前の男が、つい先ほどまで自分の契約者に本気で怯え、恐怖で漏らし、子供のように泣き、父親に見限られる恐怖にまで追い詰められていたことを、最初から全部知っているような笑みだった。
ブリトラは布団を握り締めたまま、その山羊頭を見上げる。
怖かった。
それでも、もう後ろには何もない。
「契約だ」
ここまで読んでいただけて嬉しいです
これで一章完結です