自分を傲慢悪役貴族だと思い込んでいる一般平民、努力してない天才を演じるため死ぬほど努力する 作:評価を…評価をクレメンス
ルクセリア・オースティンという男は、真面目で、優しく、向上心が強い。学園総合序列六位という成績に驕らず、授業が終われば復習し、模擬戦で負ければ相手を恨むより先に自分の不足を探す。困っている者がいれば、相手が誰であろうと手を差し伸べる程度には善良でもあった。
人格面だけを見れば、かなり出来た青年と言っていい。ただし、下半身だけはびっくりするほど出来が悪い。綺麗な女性には露骨に弱く、少し微笑まれただけで声が半音柔らかくなり、二、三度会話しただけで脳内では妙に具体的な将来像まで組み上がる。
幸い、本人には一応の理性と羞恥心がある。嫌がる相手へ付きまとうこともなければ、立場を利用して迫ることもないので、今のところ「女が絡むと気持ち悪い善人」の範囲に収まっていた。男友達からの評判も、だいたいその一言で済む。
もっとも、女にだけ優しいわけではない。男が荷物を抱えて困っていれば手を貸すし、後輩が上級生に絡まれていれば間に入る。女性への親切には時折どうしようもなく下心が混ざるが、男性への親切には何の見返りも求めていないあたり、根っこの部分は本当に善良なのだ。
それには、幼い頃の経験も関係していた。線の細い顔立ちをからかわれ、何人かに囲まれて殴られた時期がある。名門の子息であり、剣の才能にも恵まれていたルクセリアでさえ、数に囲まれれば怖かったし、毎日顔を合わせる相手から嘲笑われ続けるのは苦しかった。
だから彼は、自分が強くなった時に同じことを返そうとは思わなかった。自分程度でこれほど苦しいのなら、もっと弱く、逃げる場所も助けを呼ぶ相手もいない者はどれほど辛いのか。そう考え、むしろ虐げられる側へ手を伸ばすようになった。
そんなルクセリアは、評判最悪のウルスラグナ=ウースウーラについても、嫌いではあるが憎んではいなかった。昨日の一件で腹は立っているが、それと人間そのものへの評価は別だった。
ラグナの評判は、生徒の間だけでなく教師陣でも悪い。授業中はやる気がなさそうに窓の外を眺め、課題は最短の文章で終わらせ、試験では涼しい顔で首位を取る。教師が高度な内容を教えれば、本人なりには最大限の敬意を払っているつもりで「教師を名乗るだけはある。実に有用な知識だった」などと真顔で言う。
本人の頭の中では、あれでも相当な賛辞なのである。だが、誇り高さと無礼、プライドと傲慢の区別を根本的に履き違えている馬鹿なので、口から出力された時点でほぼ喧嘩を売っている。教師側から嫌われることについては、さすがにラグナだけを被害者扱いするのも無理があった。
もちろん教師全員が同じ理由で彼を嫌っているわけでもない。自分が何十年とかけて身につけた知識を十代の少年が易々と吸収することに、純粋な嫉妬を覚える者もいる。あれほどの天賦の才を持ちながら怠惰に腐らせている、と信じ込み、いつか転落する日をどこか楽しみにしている者さえいた。
一方で、真面目に将来を案じている教師もいる。誰もラグナが本気で消耗している姿を見たことがなく、魔術試験でも模擬戦でも底を見せたようには思えない。あのふざけた態度のまま、まだ何か隠しているのではないか。教師たちの多くはそう考えていた。
ルクセリアもラグナを好ましい人間だとは思っていない。昨日の模擬戦で散々煽られたばかりなので、顔を見れば腹も立つ。それでも、周囲ほど強い嫌悪を抱けない理由が一つあった。
ラグナが、弱い者を嬲って楽しんでいるところを一度も見たことがない。それだけは、周囲の評判より自分の目を信じていい部分だとルクセリアは思っていた。
口は悪い。態度も悪い。自慢話は長いし、血統の話が始まればさらに面倒臭い。それでも、抵抗できない相手を殴って笑うような種類の人間ではなかった。少なくともルクセリアが知る限り、それだけは確かだった。
その日の放課後、ルクセリアは教師に頼まれて王都へ出ていた。授業で使う訓練用の剣が何本か修理に出されており、それを馴染みの工房から受け取ってきてほしいという簡単な用事である。こういう頼み事をされるのも、教師から「こいつなら忘れず、寄り道して失くしたりもしない」と信用されているからだった。
用事を済ませ、包みを抱えて学園へ戻る途中、ルクセリアは王都の裏通りへ差しかかった。表通りには商店と馬車がひしめいているが、二本も道を外れれば雰囲気は変わる。古い倉庫や安宿が並び、衛兵の巡回も目に見えて減っていく。
王都だから安全などということはない。金と権力と人間が集まる場所には、それを食い物にする者も集まる。力がなければ奪われるという光景を、ルクセリアはこれまで何度も見てきた。
だから前方の路地から、一人の少女がよろめくように飛び出してきた時も、驚きより先に身体が動いた。抱えていた荷物を持ち直し、その進路を空ける。
金色の長い髪は泥と血で固まり、上等だったらしい服もあちこち裂けている。片方の靴を失い、裸足になった足裏から血が滲んでいた。頬には腫れがあり、細い腕には掴まれたような紫色の痕まで残っている。
普段のルクセリアなら、金髪の美少女とぶつかりそうになれば心のどこかで余計なことを考えたかもしれない。しかし、今はそんなものが入り込む余地すらなかった。ただ、酷い目に遭わされた人間が目の前にいる。それだけしか見えない。
「大丈夫かい? どこを怪我してる?」
少女が顔を上げた。恐怖に青ざめてはいるものの、泣き喚いてはいない。荒れた呼吸を無理やり整え、声だけは妙に落ち着かせようとしていた。
「……助けて。お願い、少しだけでいいの。私を――」
そこまで言って、少女は路地の奥を見た。複数の足音が近づいている。荒い怒鳴り声を聞いた瞬間、少女の表情が変わった。
「……いえ。違うわ。逃げて」
「え? 何を言ってるんだ?」
「逃げなさい! 今すぐよ!」
先ほどまで抑えていた声が初めて大きくなる。少女はルクセリアの袖を掴み、逃げてきた方向とは逆へ押しやろうとした。
「あなたがいたところでクソの役にも立たないわ! あなたが死んで、それで私が助かるのならまだいい。でもアレは無理よ。二人とも死ぬだけだわ!」
言葉は乱暴だが、自分だけを助けろとは一度も言わない。むしろ自分を置いていけと言っている。恐怖で唇を震わせながら、それでも少女はルクセリアを逃がそうとしていた。
「どっちも死ぬくらいなら、あなただけでも生きて。お願い。勝てないのよ。誰も、アレには……!」
ルクセリアは、抱えていた剣の包みを壁際へ置いた。そして腰の剣を抜く。
何度か似たような経験はあった。王都で追われる子供を助けたことも、借金取りに殴られていた男を庇ったことも、酔った冒険者に絡まれた女性を逃がしたこともある。ここが王都であろうと、弱いというだけで理不尽に踏みつけられることは珍しくなかった。
まして、目の前の少女はこれほどボロボロになっている。相手が誰かも分からないから見捨てる、という選択肢は最初からルクセリアにはなかった。
「悪いけど、それは聞けない。君をここへ置いていったら、僕はたぶん一生後悔する。だから残るよ」
「話を聞いていたの!? あなた、本当に死ぬわよ!」
「その時は僕の判断が悪かったってことになるね。でも、まだ相手も見ていない。逃げるかどうか決めるのは、それからでも遅くないよ」
少女を背へ庇い、ルクセリアは剣を構えた。剣先をわずかに下げ、重心を中央へ置く。奇を衒ったところのない、剣術を少しでも学んだ者なら誰でも知っている構えだった。
ルクセリアの剣は王道である。奇を衒うことより、正しい動きを正しく積み重ねることを何より重んじていた。
珍しい秘剣があるわけでも、相手の知らない仕掛けを隠しているわけでもない。斬る、受ける、逸らす、踏み込む。長い年月をかけて無数の剣士が試し、失敗し、効率の悪い動きを削り落とした末に残ったものを、ひたすら正確に磨き上げている。
王道は、弱いからありふれたのではない。強いから王道になったのだ。知られている。研究されている。何百年も対策され続けている。それでもなお実戦で使われ続けるだけの合理性がある。
対策されたなら、その対策ごと技量で上回ればいい。逆張りと称して効率を捨てる必要などない。相手が次に何をするか知っていても、それより速く、正確に、強く剣を振れば勝てる。それがルクセリアの剣術だった。
そして、昨日戦ったラグナの【瞬殺流】とは正反対でもある。手札と知識を積み上げ、初見で格上を食い殺すラグナ。手の内が全部割れていても、真正面からなお勝つことを目指すルクセリア。
路地から男たちが飛び出してきた。六人。短剣、棍棒、片手剣、手斧を持ち、全員の身体に戦い慣れした者特有の力みのなさがある。
「ガキ、そこをどけ。そいつを渡せ」
「嫌だと言ったら? どうするんだい?」
「死ぬぞ。後悔するなよ」
「じゃあ、嫌だ。通すつもりもないよ」
先頭の男が踏み込むより早く、ルクセリアが間合いを詰めた。振り下ろされた片手剣へ正面から打ち合わず、刃の側面を滑らせて軌道を外す。そのまま柄頭を鼻へ叩き込み、一人目が崩れる前に二人目の棍棒を左へかわした。
下から剣を返し、握っていた手の甲を浅く裂く。棍棒が落ちたところへ肩から体当たりし、後ろの男ごと壁へ叩きつけた。左右から短剣と手斧が来るが、一歩だけ後退して攻撃線を重ね、互いの武器が邪魔になる位置へ誘導する。
動きに派手さはない。必要以上に跳ばず、回らず、大振りもしない。最短で避け、最短で崩し、次の相手へ剣を向ける。
数十秒後には、六人全員が地面に倒れていた。死者はいない。剣を握れない程度に腕を傷め、追ってこられない程度に脚を潰しただけである。
「ほら。案外なんとかなっただろう?」
ルクセリアは息を整えながら少女を振り返る。しかし彼女は、倒れた男たちなど見ていなかった。顔から完全に血の気を失い、ルクセリアのさらに向こうを凝視している。
「……違うわ。そうじゃないの」
少女の喉が震えた。視線は倒れた男たちより、さらにその向こうへ固定されている。
「その人たちじゃないわ。私が言っているのは、その先よ」
ルクセリアも振り返る。剣を下ろさないまま、少女の視線の先を追った。
そして、見てはいけないものが見えた。背筋を冷たいものがゆっくりと這い上がる。
路地の奥から、一人の男が歩いてくる。最初に目についたのは白い髪。その下には青白いほど血色の薄い顔があり、百八十を優に超える長身に対して身体は異様なほど細い。
白髪。長身。痩躯。
武器は持っていない。走ってもいない。殺気を撒き散らしているわけですらなかった。ただこちらへ歩いてくる。それだけなのに、地面に倒れていた男の一人が男の姿を認めた瞬間、苦痛も忘れたように這って道を空けた。
ルクセリアは、その顔を知っていた。新聞で見た。戦史の教本で見た。教師が現代戦における個人戦力の極端な例として、何度も名前を挙げていた。
たった一人で二万を超える軍勢を壊滅させた男。特級冒険者を複数含む軍を、十分と保たせなかった人間の形をした戦略兵器。
王国最強、ブリトラ=レイズデッド。その名前だけで、一個師団より重い意味を持つ男だった。
そこでようやく、ルクセリアは少女が「誰も勝てない」と言った意味を理解した。先ほどまでの追っ手など、最初から本当の脅威ではなかった。
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