自分を傲慢悪役貴族だと思い込んでいる一般平民、努力してない天才を演じるため死ぬほど努力する 作:評価を…評価をクレメンス
「あー……学生さんか?」
ブリトラ=レイズデッドは、ひどく場違いなほど軽い声で言った。白髪の下で口元を緩め、へらへらと笑っている。二万の軍勢を十分も保たせず壊滅させた男には到底見えない、気の抜けた表情だった。
だが、ルクセリアの全身は一瞬で粟立った。
(ヤバい。ヤバい、ヤバい――!)
考えるより先に身体が理解していた。後手に回ったら詰む。相手が何をするのか確認してから対応する、そんな普通の戦い方を選んだ瞬間に終わる。
ならば先に潰す。
ルクセリアは少女を背後へ残し、一息で地面を蹴った。構えも溜めも最小限。最短距離を一直線に駆け、ブリトラが何かを始めるより先に間合いへ入り込む。
その瞬間、足首へ何かが絡みついた。
先ほど倒した男の一人だった。地面に伏したまま、最後の力を振り絞るようにルクセリアの靴を掴んでいる。
ぞっとするほど明瞭な死の予感が、背骨を駆け上がった。
ルクセリアは男を蹴り飛ばそうとはしなかった。足を引き抜こうともしない。靴だけをその場へ残して足を抜き、裸足のまま横へ跳ぶ。着地も捨てて地面へ転がり、その勢いのままさらに距離を取った。
直後。
つい一瞬前までルクセリアが立っていた空間を、何かが走った。
音すら遅れて聞こえた。
ルクセリアの靴を掴んでいた男の身体が、何の前触れもなく幾つもの肉塊へ分かれる。腕が落ち、胴が裂け、その向こうにあった石壁まで一直線に断ち切られた。
ルクセリアの喉が引きつった。
剣撃ではない。
少なくとも、何かが飛んできたところは見えなかった。
「ギャハハハハ! 勘いーなお前!」
ブリトラが心底楽しそうに笑った。殺したのが自分の部下なのか、ただの追っ手なのか、それすらどうでもよさそうだった。
ルクセリアは返事をしない。
もう一度踏み込む。
分からないなら、考える時間を与えない。相手の攻撃手段が何であれ、剣の間合いへ押し込み続ける。
斬る。
ブリトラの首を狙った横薙ぎが走る。
その直前、ルクセリアは地面を強く蹴り上げた。乾いた土と砂が爆ぜ、二人の間へ砂煙が広がる。目潰し。視界を奪った一瞬へ、本命の斬撃を重ねる。
手応えがない。
刃が空を切った。
砂煙を抜けた先に、ブリトラの姿が消えている。
「……っ!?」
左右。
背後。
上。
ルクセリアが視線を走らせ、ようやく見つけた。
ブリトラは、数十メートル離れた建物の屋根に立っていた。
いつ移動したのか分からない。
跳んだところも見えなかった。走った形跡もない。足音も、風圧も、着地音すらなかった。
さっきまで目の前にいた男が、瞬きをするほどの間に建物の上へ移っている。
(何をやった?)
高速移動。
違う。
あれほどの速度で地面を蹴れば、少なくとも何かしらの痕跡が残るはずだ。なのに何もない。
ブリトラは屋根の縁へ腰掛けるようにしゃがむと、顎へ手を当てた。ルクセリアが必死に思考を巡らせているのを眺めながら、楽しそうに歯を見せる。
「さあて、騎士様。頑張ったご褒美だ。ここで問題」
ルクセリアの背後で、少女が息を呑んだ。
「お前を殺すのは、とりあえず確定な」
あまりにも軽い口調だった。今日の夕食を決めるような気軽さで、自分の死を確定事項として告げてくる。
「このままその奴隷を俺に引き渡して、地面に頭擦りつけて謝るってんなら――特別に、自分で腹をかっさばいて死ぬのを許してやる」
ルクセリアの眉が僅かに動いた。
奴隷。
背後の少女のことを、そう呼んだ。
「で、渡さねえなら」
ブリトラの笑みが深くなる。
「俺の魔法で、死のうと思っても死ねない地獄を見せてやる」
パチン。
指が鳴った。
ルクセリアの右手に異変が起きた。
「――っ!?」
剣を握っていた親指が、消えた。
正確には、切断された。切断面から血が噴き出した時には、人差し指へ炎が走っている。肉が焦げ、中指は水に溶かされたように崩れ、薬指は最初から存在しなかったかのように根元から消失した。
最後に小指が白く凍りついた。
皮膚がひび割れ、一瞬で色を失っていく。
五本の指へ、五種類の異なる現象。
しかも同時だった。
「ぐっ……!」
剣が地面へ落ちる。
痛みで意識が飛びそうになる。それでもルクセリアは左手で剣を拾おうとしながら、ブリトラから視線を外さなかった。
炎。
溶解。
切断。
消失。
凍結。
全部違う。
(魔法は、一人一つのはずだろ……?)
授業で何度も聞いた常識が、頭の中でひび割れていく。
ブリトラは屋根の上からそんなルクセリアを見下ろし、愉快そうに頬杖をついた。
「さて」
笑う。
「返答はいかに?」