自分を傲慢悪役貴族だと思い込んでいる一般平民、努力してない天才を演じるため死ぬほど努力する 作:ちんこ良い肉
「拒否だ! その条件は呑めない!」
ルクセリアは即答した。右手はもうまともに剣を握れず、身体中が逃げろと叫んでいる。それでも少女を差し出す気にはならなかった。
昔、自分が虐げられていた頃のことを思い出す。殴られた痛みより、助けを求めた時に周囲の大人が目を逸らしたことのほうを、今でもよく覚えている。面倒事に巻き込まれたくない、その程度の理由で自分の苦しみが無かったことにされる感覚が、何より辛かった。だから、自分だけは目を逸らさない。
「ギャハハハハ! マジかよ、お前。頭悪いなあ! そこまでして嬲られて、無駄に苦しめられてえの? 助かる道をわざわざ蹴るとか、馬鹿にもほどがあるだろ!」
ブリトラは腹を抱えて笑った。その声を聞きながら、ルクセリアの脳裏には、ひどくいけ好かない男の顔が浮かぶ。ウルスラグナ=ウースウーラ。何かにつけて『弱者を守る盾となれ』と、やたら誇らしげに語る男である。
本人はあの家訓を口にするたび胸を張り、世界最高の金言でも授けてやっているかのような顔をするので、正直かなり鬱陶しい。だが言葉そのものは嫌いではなかった。思い返せばラグナは、弱者が虐げられている場面に妙なほど素早く現れ、凄まじい威圧感を撒き散らしては「我が前で随分と愉快な真似をしているな」などと割って入っていた。
実際のところ、本人は大半を「圧倒的実力者らしい登場」によるAP稼ぎのためにやっているのだが、ルクセリアは知らない。動機がどうあれ、助けられた者がいたという事実だけは残る。ならば自分も、ここで逃げるわけにはいかなかった。
とはいえ、現実は残酷だった。勇気で埋まる差ではなく、正面から斬り合うという前提そのものがこの男には成立していない。ルクセリアは左手で剣を拾い、そのまま投げつけた。剣士としては最低に近い選択だが、近づけば死ぬのだから、使える手を一つでも試すしかない。
剣が一直線に飛ぶ。ブリトラは避けず、直撃する寸前に全身を真っ黒な何かで覆った。鎧にも見えるが、金属が展開したわけではない。何もなかった空間から、漆黒の装甲だけが一瞬で現れたように見えた。
(当たった――? いや、違う!)
そう思った直後、背中へ衝撃が走った。ルクセリアの身体が前へ折れ、脇腹の横から見覚えのある柄が突き出す。たった今、自分が前方へ投げたはずの剣だった。
(ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい、お父さん。僕は絶対ここで死ぬ。無理だ、勝てない!)
心の中ではもう完全に泣いていた。勇気と恐怖は両立する。少女を庇ったことを後悔していなくても、死ぬのは怖いし、死が現実として迫っているからこそ全身が逃げろと叫んでいる。
「なあ、そのガキがなんで追われてるか知りたいか? まあ、お前が知ったところで何も変わらねえけどな。教えてやるよ」
返事を待つ気などないらしい。ブリトラの姿が消え、次の瞬間には顔面へ蹴りが飛んできた。ルクセリアは横へ吹き飛び、地面を何度も転がる。
だが、蹴られた瞬間に分かってしまった。体重移動が甘く、踏み込みも浅い。鍛えた戦士の一撃とは比べるべくもなく、少なくとも体術そのものなら自分のほうが遥かに上だった。それでも、魔法という一点だけで何もかもがひっくり返されている。
(こんな奴に……魔法一つで、僕は何もできないのか! こんなの、あんまりだろ!)
悔しかった。剣術も身体操作も自分のほうが上だと分かるのに、一度としてまともに届かない。積み重ねてきたものが通じないという事実が、傷の痛みとは別の場所を抉ってくる。
「契約魔法って知ってるか? 高位の悪魔と契約して、臓器だの苦痛だのを代償に短時間だけ色んな魔法を使えるようになるやつだ。便利だけど、代償がデカすぎて普通の奴はまともに使えねえ。だから代わりに払わせる奴隷を作る。こいつらはそのための商品だ」
ブリトラは雑談でもするような調子で少女を顎で指した。改めて見れば、少女の腕にも脚にも首筋にも、今日できたものではない古い傷痕が幾重にも重なっている。逃げた仲間はほとんど死んだらしい、とブリトラは笑いながら付け加えた。
「ひっ……戻ります……ごめんなさい。戻るから……だから、この人は見逃して……お願い……! 私が戻ればいいんでしょう!」
少女の膝は震えていた。それでも、自分の命乞いではなくルクセリアを助けるために戻ると言っている。その姿を見た瞬間、ルクセリアは庇った判断だけは間違っていなかったと思えた。
次の瞬間、ルクセリアの左目が潰れた。視界の半分が赤く染まり、そのまま闇へ落ちる。顔を押さえて膝をつく横で少女が悲鳴を上げると、ブリトラは「交渉できる立場だと思ってんの? お前ら二人とも、俺がどうするか決める側だろ」と笑った。
剣は失い、右手は潰され、左目は見えず、背中には自分の剣が刺さっている。相手の能力は理解不能で、体術では上回っているはずなのに、一度もまともに触れられない。もう駄目だ、とルクセリアは思った。勇気や精神論で埋められる距離ではなかった。
「――ここか。随分と酷い有様だな。遅くなった」
聞き覚えのある声がした。ブリトラが笑うのをやめ、ルクセリアも少女も同時にそちらを見る。路地の入口に、黒衣に白髪、見慣れた学園の制服を着崩した男が立っていた。
ウルスラグナ=ウースウーラ。ただし右目だけを手で覆っている。いつものように尊大な顔のまま、彼は誰もいないはずの虚空へ向かって口を開いた。
「メフィストフェレス。右のーーを対価とする。――しろ。今すぐだ」
命令の肝心な部分だけが、不自然なほどルクセリアの耳に届かなかった。代わりに、どこからともなく疲れ切った女の声が返ってくる。『……本当にやるんですか? これで最後ですよ。頼みますから、少しは御自愛を。もう私も、あなたを見ていると辛いです――』
「黙れ。必要だから使うのだ。今はそれでいい」
ラグナが右目から手を離す。瞳から光が失われていた。何をしたのかは分からない。だが、何かを発動したのだと、それだけはルクセリアにも理解できた。
(なんで、ここに……? いや、違う。そういえば、こいつはいつもそうだった)
誰かが虐げられている時、ラグナは妙に都合よく現れる。偉そうに笑い、圧倒的な威圧感を放ち、相手を怯えさせ、何事もなかったように去っていく。今回も同じで、ただ一つ違うとすれば、今回の弱者が自分だった。
「逃げて……! あなたも逃げて! 誰もブリトラには勝てないの、本当に誰も! どっちにしろ私が助からないのなら、あなたまで死ぬ必要なんてないわ!」
少女が叫ぶ。先ほどルクセリアへ向けたものと同じ、相手を生かすための悲鳴だった。だがルクセリアは血に濡れた顔を上げ、かすれた声でそれを止めた。
「いや……待ってくれ。そいつ、いけ好かないけど……たぶん、違う。あいつなら、もしかしたら……」
傲慢で、口が悪く、人を小馬鹿にした態度を崩さず、努力しているところなど一度も見せない。だが学園一位でありながら、誰もラグナが本気で戦っているところを見たことがない。昨日の模擬戦ですら、魔術を一度も使わずルクセリアを叩き伏せた。
この国でブリトラに勝てる人間はいないと、誰もが言う。だが、その評価はこの男の底まで本当に測った上での話なのか。馬鹿みたいな自信家であるラグナが、勝算もなくこんな場所へ堂々と歩いてくるだろうか。
恐怖の底へ沈みかけていた何かが、胸の奥で持ち上がった。希望だった。もしかしたら、この国で本当に最強なのはブリトラではなく、目の前の男なのではないか。
ブリトラも少し考えるように首を傾げ、それから思い出したように笑う。「あー、お前。六大貴族の会議にいた奴か? なんか俺のこと睨んでたよな。あの時から感じ悪かったんだよ、お前」
「覚えていたか。貴様のような不愉快な面は忘れん。ついでに言えば、貴様の魔法も分かった」
ラグナは鼻で笑い、一歩前へ出た。ブリトラの笑みが、ほんの僅かに止まる。それを見た瞬間、ルクセリアの心臓が跳ねた。
「【転移魔法】だな。貴様は複数の魔法など使っていない。物質、現象、自分自身――あらゆるものの位置を入れ替えているだけだ。黒鎧も、水刃も、雷も、高速移動も、すべて同じ原理の応用にすぎん」
やはり、この男には見えている。少女も息を呑み、ブリトラの顔から初めて笑みが消えた。ラグナはその反応を見て確信したように、さらに一歩踏み込む。
「世界のどこかにあるものを、この場へ――」
そこでラグナの身体がばらばらになった。
右腕と左腕が別々に落ち、胴体が途中からずれ、脚が左右へ崩れる。最後に首から上だけが遅れて地面へ転がり、一瞬前まで堂々と立っていたウルスラグナ=ウースウーラは、瞬く間に綺麗なバラバラ死体へ変わっていた。
ルクセリアの思考が止まった。少女も止まった。数秒前まで確かにあった希望が、物理的にいくつかへ分割されて地面へ散らばっている。
「……は? いや、え?」
能力を見抜いた。ブリトラの笑みも止めた。意味ありげに右目まで差し出し、どう見てもここから王国最強同士の戦いが始まる流れだった。
少女は口を半開きにしたまま、泣くでも叫ぶでもなく、ただ地面に散らばったラグナだったものを見ている。ブリトラだけが数秒遅れて吹き出し、そのまま腹を抱えて笑い始めた。
「ギャハハハハハハ! 正解! 正解だよ、天才君! で、分かったところで何になる?」
それだけだった。能力の正体を見抜いたことも、理屈を当てたことも、何一つ防御にはならなかった。ルクセリアは地面に転がるラグナの頭を見て、少女もまだ同じものを見ている。
((この流れで、瞬殺されるのかよ!?))
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