※この短編は一部実体験を元にしたフィクションです。
今日、僕は二十になる。だからここに来て、人生を振り返ろうと思った。そんなことをする夜も、悪くないと思った。
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生まれたのは二十年前の今日、4時22分。僕は男だからこの先も妊娠を経験することは有り得ないけれど、その時の母のことを思うと、胸がきゅうとなる。
どれだけの痛みが伴うのか、夜通しの格闘の末、生まれた僕を見て何を思うのか。知ってみたい気もするし、知りたくない気もする。
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流石に、一桁歳の頃の事はよく覚えていない。記憶は朧だ。映像の断片だけが、滲み出すように浮かんでくる。
その頃は、異性の幼なじみが居た。二人には上に同い年の兄弟(向こうは姉)がいて、上二人は保育園も一緒。だから仲良くなるのはほぼ必然だった。母のお腹の中に居た時から、知り合いだったと言っても過言ではない。
そんなんだから、保育園では子供らしく、『将来結婚する』とか、言っていたような気も、言ってないような気も。定かではないが、仲は良かった、と思う。
保育園の面々とは、かなり仲の良い方だった。記憶にあるどんな子とも笑いあっていた。けど、今にして考えてみると、自意識の薄い幼少期に険悪になるほどの事件は起きないか。
唯一喧嘩で覚えてるのは、些細なことだけど、おもちゃの取り合い。友達に引っかかれて、それが結構酷かった。僕の右頬には今でも傷跡が残ってる。二十年ものだ(ワオ!)。
それから、その頃の思い出で言うと、やっぱり大きいのは震災。この後もそうだけど、僕達の世代はかなり、自然災害にやられてる世代だと思う。そうじゃなくても、結構混沌とした時代を生きてきた。
実際、記憶に残ってるのはその瞬間のことじゃない。震災当時は昼寝の時間で、暗くなった部屋の一面、ズラっと並んだ布団の中に潜ってた。それから途端に周りの大人たちがざわざわとし始めて、順番に寝ていた子達を起こし始めたんだ。
余談だけど、僕は昼寝中寝ないタイプの子供だったので、当時の様子をよく覚えている。
それからすぐに親の迎えが来て、早いうちから家に帰されることになった(当時から保育園とかの空間が好きな訳ではなかったので、内心ラッキー!とか思ってた)。
そこからの日々は、退屈だった、の一言に尽きる。保育園に行くことは無いし、テレビは何もやってない。今みたいにスマホがある環境でもなければテレビゲームを自発的にするような年齢でもないので、ひたすらに、暇。
テレビではずっと、灰色をしたドーム状の建物を写してる。それを眺めていてもつまらないので、時間が流れるのをじっと待った。そういう生活だった。そういう地味で暇だったって記憶の方がずっと強い。
今にして思えば、残酷だ。ドームは福島の原発で、報道ヘリが長いこと、その様を映している様子だった。それを退屈なことだとすること。善し悪しを語れるようなものではないと思うので、せめて二十になる今の僕は、あの頃に失われたもの、多くのものを失われた方々を、慮る気持ちを抱いておきたい。
保育園の思い出は、こんなところか。
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小学生。人生でいちばん濃かった時間だと思う。だからこの項が一番長い。そんな頃が一番濃い、なんて、結構虚しい気もするけれど。
一桁歳のことを覚えていない、としたように、当然低学年の頃の記憶もあまりない。入学初日から流行り風邪を出して一週間ほど休んだ挙句、初めての給食を取り逃す、とか、そういうロクでもない記憶しか。
あと、当時は何も思わなかったけど、その頃の衝撃的な出来事。名前順で決められた最初の席で、真後ろに座っていた子(というか親子)が“特別な人”だった。
ご本人様方のプライバシーにも関わるし、今になってみるとこういう所で、肥やしのタネにするような話でもないと思うので極力ぼかすけれど、とにかくその親子は特別だった。
東京で生まれ育っていれば、そういうことも自然とあるものなのか?否、それにしても特異な経験だったと感じている。
でもそういう事情とは関係なく、その“特別な子”とも個人的に仲良くなれた(一度だけだけど、二人だけで遊んだりもした!)のは、何よりだったと思う。
それと、僕たちが入学した年がちょうど、その学校の周年だった。入学早々周年行事に巻き込まれ、校門の横に全校生徒がタイムカプセルを埋めた。掘り返すのは三十いくつになってからの話だから、二十の僕にとってもまだまだ先の事だけれど、果たしてほんとうにその日になって当時の生徒は集まるのだろうか?
そして何より、当時タイムカプセルを掘り返す際の話になって、「今のお父さんお母さんの歳だ」と思っていたのを覚えている。遠い未来に感じていたその日が、二十になってみて、はっきり近づいているのがわかる。それこそがもっとも、恐ろしい事実だ。
中学年。この頃に、普通の小学校では「クラス替え」なるものがあることを知る。当時僕達の学校は、全校生徒150人程度。クラス替えなんて要らない程(どころか、一クラスの人数だって足りないくらい)だったので、クラスのメンバーが変わることがある、という事実にびっくりした。
普通に卒業までの六年間、変わらない面子で過ごすのだろうと。だけど反面、ウチは転校や編入が多いクラスでもあったように感じる。中にはシンガポールに行きます、なんて子だっていた。それから、割と仲の良かった女の子が転校することが決まった時は、結構ショックだった。恋心、というのとは違って、純粋に友達として、その子のことが好きだったから。
そして、それとは関係なしに、僕の不登校癖が始まったのもこの頃から。
友達は良い人が多かったから、そこに問題があった訳じゃない。学校という環境とか、空気感がダメだったのだろう。
結局この頃の挫折が今も尾を引いている。もし過去に戻って何かをやり直せるとしたら、僕はこの頃の自分の選択をやり直すだろう。
キッカケはなんだったか。図書室の本を返し忘れていて怒られた、とか、そういうくだらない理由だったと思う。
トリガーを引いたのが何だったのか、とかは、あんまし関係がない。いずれ爆発する不安や恐れが、その瞬間溢れ出しただけ。そう考えるとやり直しても意味は無いのかもしれないけど、せめて逃げるんじゃなくて、向き合ってみれば何が変わったんじゃないかと考えてみる。あの年齢の自分にそれだけのことが出来る聡さがあるとは思わないが。
高学年。変わらず時折不登校をしながら、それでも酷い時よりはマシになっていた(マシにさせられていた)時期。登校時間になると家を追い出されるので、玄関前で粘ってみたり、逆に家出を図ったこともあった。二回。一度は休日に自主的に、一度は登校中にふらっと。それはまあ、他所に置いておくとして。
学校生活で言えば、やはり友達に支えられていたことが大きい。それと担任が代わったこと。正直に吐露すれば、中学年頃までの担任がかなり苦手だったのも、あの頃の不登校癖の理由だったと思う。大人になろうとしている今は、憎むほど悪い先生ではなかったと感じているにせよ。
新しい担任の先生は、かなり熱血系。熱くて、明るくて、寄り添ってくれるタイプだったのが、かなり救われた部分だったと思う。
入学当初から入っていた合唱団の活動も、その頃になるとかなり楽しくなっていた。合唱団の活動が小さくだがテレビで紹介されたり、そもそも最初はなんとなくの義務感で加入した合唱団が、「歌うことは楽しいこと」と教えてくれたこと、それを真意から理解できるようになる程精神が成熟したのも大きい要因だったと思う。
前述した友人関係に掘り下げて言えば、毎日下校路で一時間二時間雑談する親友が居た。元から仲の良いクラスメイトだったが、その頃にはもう一番の友人になっていたと思う。双方にとって。
I君、君は元気にしているだろうか。彼と語り合うのは毎度、彼の家の近くにある専門学校の入口前の階段だった。今考えると学校関係者の方々にとってはめちゃくちゃ迷惑だっただろうが、帰路に着くために建物から出てこられた生徒さん方が毎度、暖かい視線をくれていたことには感謝しかない。
また、人間関係の続きとして。いい事もあれば、悪いことも当然あった。自我が芽生えていく最中で、互いにアイデンティティを持つようになればそういう事も、起きうるのだと思う。
保育園から一緒に上がってきた友人が二人だけ、クラスの中にいた。その中でも片一方はかなりやんちゃ気質で、例えるならヒロアカの爆豪勝己をマイルドにした感じだった(彼の名誉のため、決してあそこまで酷くは無いと示しておく)。
そういう彼と、衝突することが度々あった。それは怒りというよりも、ただ寂しく、悲しく感じていたことを覚えている。
だけど喧嘩ばかりだった訳でもなく、ある日は公園に持ち寄ったDSで、日が沈んだあともモンハンダブルクロスを二人で遊んだりもした。そういう思い出に馳せてみると、当時はお互いにまだ成長中で、ひたすらに不器用だっただけなのかもしれない。
卒業式は綺麗な桜が咲いていた。学校で一番大きかった校門前の桜の木は、大きくなりすぎた影響で少し前に切り倒されてしまったけれど、当時の写真に写った僕はかなりいい笑顔をしている。
どうあれ、僕の人生は確か、ここから始まったような気がしている。
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中学生。僕の人生で、一番か二番目かにどん底で、一番か二番目かに最高だった時期。
中学が始まって、三日もするかしないかで学校に行けなくなった。ガッツリトラウマがぶり返した感じで、中学は結局、それ以降一度も行ってない。丸々ブッチだ、我ながらかなりロックな事をする。
それで学校に行かない間、二つのことを始めた。一つはSNS、一つはものづくり。正確に言うと、前者に付随して、当時SNSで繋がった友人達が皆ものづくりをする人間だったので、自然と僕もそういう風に流れた感じだった。
僕は学校に行かない代わりに、そこで社会を学んだと感じている。インターネットでなんてかなりロクでもない(それも中坊のガキが!)が、大人も同年代も入り交じったそのコミュニティが、かけがえないものになった。もう今は無き、懐かしき界隈。未だに同じコミュニティに居た人が活動している様子を見ると、嬉しくなる。一つ一つの思い出を語っているとかなり長くなってしまうので、あえて手短に。
備考として、今の僕があるのはこの頃のおかげが八割と言って過言じゃない。特にこの頃がきっかけで物書きを始めたのは、僕の人生単位で一番の良い出来事だったと思う。2018年頃からの全てに多大なる感謝を。
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高校生。人として見れば、一番マシだった時期。定時制だけどきちんと四年間通い続けて、小学生以来のリアルの友人も出来た。
実際内心は結構グチャグチャだった時期もある。ずっとインターネットで人とコミュニケーションを取っていたので、人前で仮面を被る悪癖が着いていた。今でもあまりそれは変わらない。見栄を張るというか、『学校での自分』というペルソナをあえて演じる感覚がかなり強かった。
だけどその分、人と沢山喋って、能動的に活動もしていた。定時制だったから、高校は四年間。良くも悪くも、ずっと「人間」をしていた。
時系列が前後するようだが、高校に入る少し前からコロナが始まった。一、二年前とか、そこらだった気がする。コロナが与えた影響も、かなり大きい。それは世界情勢だけじゃなくて、個人的な身辺でも。
コロナ禍で失われたものは、コロナによって奪われたものだけではないと思う。当時の独特な閉塞感や、陰鬱とした空気が奪ったものが沢山ある。
小学生時点での思い出を語る項で前述した、“特別だった子”の母親が、その頃に亡くなった。親からの口伝やクラスライン等の個人的な連絡網ではなく、Twitterのトレンドでそれを知った時が、一番ショックだった。
同時期、その頃に趣味としていたものづくりへの関心を糧に、高校は機械系の技術を学ぶ学校に進学。工作機械を扱う授業だったが、「工業高校」という訳ではなく、もっとクリエイティブな方向へベクトルを伸ばした学校だった。その、いわゆる“工業”というより“工芸”に関する精神を学ぶような姿勢が好ましかった。
同時に、ものづくりをする上で、上記の友人の母の訃報を知った件については、自分の中で大きな影響を与えているように思う。形にしたいこと、なぜものづくりをするのか、誰のためにするのかどうか、とか。
具体的に言葉にするのは非常に難解だ。長い年月を経て、僕もようやく、じんわりその時覚えた感慨がどういうものなのか理解した気がしているだけで。
僕の立場でいえば、もちろん当事者ではない。だから例えば、「お前は何様なんだ、どの立場の人間なんだ?」と聞かれても、僕は口ごもってしまうだろう。それって結局特殊な経験にすがって、自分に酔っているだけでは?
それでも、ただでさえ知己の人を亡くすという経験が初めてなのに、それを知るのがSNSのネットニュースだったという衝撃は、僕の中に良くも悪くも、大きなひずみを産んだ出来事だったのだ。
高校では機械加工を学びながら、片手間で趣味の文筆を続けていた。別に誰に見せるでもない駄文を、今のように延々と積み上げては消していった。完成したものはゼロ。なんとも情けない話である。
それでも進路を物書きの方へ進めたのは、英断だったのか否か。その初期衝動は忘れたくない。たとえその選択をして、そして現在ここにある『今』が、こんなに悲惨だったって、知っているとしても。
またこの項にも余談として、高校三年の頃に友人がボランティア部を発足した。大学面接でアピールできる項目を増やすためだけの、なんとも打算的な同好会である。部を建てるために初期メンバーが必要だとして、名前を貸してくれとお願いされたので了承。活動に積極的に参加していた訳では無いが、たまに校内清掃なんかを手伝うと、そんなに悪い気はしないでもなかった。
人のためにものづくりがしたい。そういう今でも変わらない思いが胸の中に渦巻いているのは、もしかしたらその頃の経験が未だに生きているのかもしれないなんて、思ったり、思わなかったりする。
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そして今。今僕は何度目かの人生のどん底にいる。すっかりメンタルをやらかして、希望を持って入学したはずの大学はいきなり一年まるまる休学中。
正直、二十を迎えるのが嫌だとすら感じている。こうして人生をまとめている今、「こんなことをしている場合じゃない!」って、叫んでる自分がいる。
今、深夜の広い車道では、コオロギがあちこちで鳴いている。空気に秋の香りが混ざっている。時間はまたこうして、夏から秋へ、また冬へと移り変わろうとしているのだと、僕は深く実感する。
これまでの二十年、そして、これからの二十年が重なり合って僕を包む。十年後、僕は何をしているだろうか?夢を叶えて作家になっているのだろうか?タイムカプセルを掘り起こしているのだろうか?
確かタイムカプセルに込めた手紙には、「ディズニーランドのジャングルクルーズの船長になりたい」と書いた。ディズニーのキャストさんのほとんどはアルバイトで、とっくに夢は叶えられる年齢になっているはずなのに、僕はその頃の夢を叶えていない。
であれば、作家になりたいという今の目標も、ちんけな泡に変わって消えてしまうのだろうか?
時の流れを実感させるように、僕の頭の上では今、赤銅色の月が消えかけている。
東京の夜に星はない。夜闇に紛れて今、空に光のない夜がやって来そうだ。
2025年、9月8日、3時20分。今日は皆既月食の日。
誕生日おめでとう、僕。そして生年月日まできっちり揃っていた、僕の小学校のクラスメイト、K君(彼は中学も一緒で、僕が不登校の時も気にかけてくれていた!知りうる限り一番優しい男)。
とりあえず、夜が明けたら酒が飲める。目下の目標はビールが美味いのか確かめること。そういう手前のことから一つ一つ、やっていこう。