経理課主任ラファエロの悩み
ルーラル王国——
とある地方にある、平和で文化的な王国である。
農業と牧畜に適した広大な国土には、国境近くの高山地帯から流れ出る澄んだ雪解け水の川がいくつも走っている。国民の大多数は農民だが、都市部もそれなりに発展しており、文化と民度は“そこそこ高い”と評されている。
そんな王国の王城に、ひとりの青年が勤めていた。
ラファエロ。27歳、独身。
肩書きは経理主任。
彼の仕事は、帳票を取りまとめ、計算し、財務諸表を作成し、そして上司であるファイナンタス・アカウンタス伯爵の承認印をもらうこと——のはずだった。
しかし伯爵は御年67歳。経理課の“お誕生席”に座る人物でありながら、なぜか肩書きは「部長」である。その理由は誰も知らない。
勤務時間の87%は居眠り。
頻繁に取得する有給の理由は「孫の運動会」か「腰痛の悪化」。
完成した表を見せても、「老眼が悪化してよく見えない」と言うばかり。
こうして、王城の財務経理を実質的に取り仕切っているのは、ラファエロ青年ただ一人であった。
そしてある日のこと。
ラファエロはデスクで頭を抱えていた。厨房課からの予算申請額が指数関数的に跳ね上がっているのである。
「一食8,000ルピーだって?冗談じゃない。いくら王様の食事だからってやりすぎだろ」
彼は呟いた。無論、主任に過ぎない彼は、予算を承認したり却下する権限はない。
最終権限は王様にある。
(しかし、噂では王様はただハンコを押しているだけで、本当は総務課主任のレティシア嬢が決定権を握っているというのがもっぱらの噂であった。)
いずれにせよラファエロは予見していた。このままでは王国の財務諸表はいびつなものになってしまう。彼は性格上、バランスを欠いたバランスシートというものがどうしても許せなかった。
ふと目を上げると、隣のシマで人事課長のレオンカヴァッロ男爵が上機嫌で爪を磨いている。
「男爵、質問があります」
ラファエロは尋ねた。
「なんだよねラファエロくん?」
男爵はマルっとした顔を上げてラファエロを見る。
「こないだ、ヘッドハンティングで厨房課の主任が変わったって聞いたんですが、どんな人材なんです?」
男爵はにっこりと笑った。笑うとお月様みたいだと侍女たちに人気のゆえんだった。
「それなんだよねラファエロくん。実は三ツ星ホテルのシェフをやっていたジョバンニっていう人を連れてきたんだよね。これが大当たりだったんだよね。彼の料理を王様がたいへん気に入ってだよね。ここんところ王様の機嫌が良いのも彼のお陰なんだよね」
ラファエロはピンときた。
この人事と厨房予算の高騰はやはりリンクしていたのだ。
彼は男爵に礼を言って立ち上がると、急ぎ足で厨房に向かった。
* * * * * * * * * * * *
厨房を覗き込むと、調理アシスタントのフレデリコが鍋を掻き混ぜていた。
「あ、ラファエロさん!」
フレデリコはこちらを向いて笑顔を見せた。料理学校をトップで卒業したところを雇い入れられたフレデリコは、まだ18歳の初々しい少年だ。
「フレデリコ、今日も精が出るな」
ラファエロも笑顔を向け、厨房に足を踏み入れた。その途端、背後から声がした。
「ちょいとあんた...あたしたちの神聖な厨房に普段着で入るなんてどういう了見なわけ?」
振り向くと、そこには痩身の青年が腕を組んで立っていた。
こいつがジョバンニか....
ラファエロは相手を一目見るなり、嫌な予感が胸中に広がるのを感じた。
ハンサムな顔にはうっすらとメイクが施されている。形の良い眉毛は、しかし、僅かに歪められていて、ラファエロの登場を快く思っていないのは明らかだった。
綺麗に整えられた指先はまるでピアニストのような繊細さを纏っている。だがその人差し指は、苛立たし気にトントンと自分の腕を叩いていた。
身を包んだシェフ服は、王城からの支給品とは段違いの仕立ての良いものた。明らかに自前だろう。
「申し遅れた。経理課のラファエロだ。予算のことで相談がある。ちょっと時間をくれるか?」
「あら、盗み喰いに来たわけじゃないのね。ここじゃなんだから食堂で話ししましょ」
ラファエロが用件を告げると相手は意外にもあっさりとこう応じた。
クセは強いが話は通じる相手だと思える。ラファエロは安堵しながら食堂に入り、椅子に座った。
「この申請書だ。一食8,000ルピーというのはあまりにも高額過ぎる。申し訳ないが考え直してくれないか?」
ラファエロは向かいに座ったジョバンニに申請書を差し出して切り出した。
ジョバンニはシェフ帽を脱ぎ、前髪を整えると溜め息をついた。
「あんた何んにもわかってないのね。王様の食事を作るっていう任務がどれだけ重いか考えたことないでしょ?」
ジョバンニは首を左右に振りながら呆れたように言った。
「君の任務を軽視しているわけではもちろんない。だが予算というものは無尽蔵というわけでは....」
「いい加減にして頂戴。王様の口に入る料理は最高のものでなければならない。その単純な道理がなんでわからないのよ?」
手のひらで机を叩いたジョバンニはラファエロを見据えながら続けた。
「『最高』...この意味、あんたにわかる?まあわかんないでしょうね。味?食感?彩り?栄養価?その全てよ!ただ美味しいだけではダメ。美しく、時にクリスピーで時にトロリとして、見た目にも美しく、そして健康にも優しくなければダメ」
ラファエロの目の前に、美しく整えられたジョバンニの人差し指が突き付けられる。
「あたしは一年を通じて王様の健康をお預かりしてるのよ。感情的にも精神的にも肉体的にもね。8,000ルピーが何ですって?あたしの料理を食べた後の王様の笑顔、今度見てみなさいよ!王様が幸せならこの王国も幸せ。王様の笑顔を曇らせるようなことはあたしは絶対許さないわよ」
「わ...わかった。君の信念は立派だ。だが予算にはバランスというものがある。このままでは厨房課の予算が王城の予算の大部分を占めてしまうことに.....」
ラファエロが口を挟む。するとジョバンニは音を立てて椅子から立ち上がった。
「お金が足りないんだったら増税でもなんでもなさい。あたしには関係ないわ」
ラファエロも慌てて立ち上がる。
「そういうわけにいかんだろう。第一王族があまりに華美な生活をするのも国民に対し....」
「しつこいわねえあんたも」
厨房に向かって歩きかけていたジョバンニは立ち止まって腕を組んだ。
「あのね、一つ言わせてもらうけど。あたしはホテルから転職するときレオンちゃんから『君の好きにやっちゃっていいから』って言われたからこっちに来たのよ。あんたみたいな野暮ったれがいちいち口を挟んでくるなんて聞いてなかったし?」
ラファエロは諦めなかった。
「そりゃあ君を引き抜くためにはレオンカヴァッロ課長も必死だったんだろう。だがこの組織にはこの組織の前例ってものがある。そもそも厨房予算がこれほど膨らんだことは今までに.....」
「ああもううるさいわね!ちょっとその口閉じてて頂戴!」
ジョバンニは再び人差し指をラファエロの顔に突き付けた。
その人差し指の指先に光が宿る。と思うと、細かな稲妻のようなものがその光に集合するように発生し始めた。
魔法?
ラファエロは目を見開いた。
ジョバンニの指先から一筋の稲妻が発射されこちらに向かってくる。
ラファエロは反射的に身を沈めながら首を傾けた。その頬を稲妻がかすめて背後に通過していく。
背後の壁に雷撃が当たり、木がわずかに焦げて煙が上がった。
ラファエロとジョバンニは、双方それぞれが驚いた顔をしてしばらく立ち尽くした。
ようやくジョバンニが口を開く。
「あんた....ラファエロとか言ったわね。いったい何者?」
「....君は魔法を使うのか、ジョバンニ?」
二人同時に喋ってしまったあと、やや気まずい空気が流れた。少ししてジョバンニがまた口を開いた。
「ま、あたしの趣味みたいなもんよ。雷撃とか炎系とか。普段は使わないけど、例えばあんたみたいなのを黙らせるときとかね」
ジョバンニは髪をかき上げると続けた。
「でも避けられたのはあんたが初めてよ...ま、忌々しいけどその動きに免じて今日のところは勘弁してあげるわ」
ジョバンニはシェフ帽を被り直すと厨房に向かって歩き始めた。
ラファエロはその背中を見つめながら思った。
待て。まだ話は終わってないんだが.....
しかしラファエロはまだ知らなかった。このクセ強料理人の青年とは後に肩を並べて戦うことになるということを。