かくして、私レオナルド・ヴァン・ディアナ伯爵は死を覚悟したのである。
ヴァルグ城の門前で対面した魔物側の大使セレク=ヴァル=ノクスは、我が娘ルクレティアの即時処刑を私に迫ったが、私はこれを拒否したのだ。
相手の巧妙な議論と語気に押された私が、判断を間違えずに済んだのは、あの従者の少年、フレデリコのお陰もあった。
だが、それは同時に我々が絶体絶命の立場に追い込まれたことを意味した。
向かい合う我々とノクスの手の者の周囲には数百匹はあろうかというゴブリンとオークの群れ。
手に手に武器を持った彼らは我々を嘲笑しながら包囲網を狭めてきた。
私は手にした剣を構えた。傍らにいた少年はルクレティアを庇いながら小刀を上げている。
すまない。ルクレティア。お前を守ることができなかった。
だが、決して一人では行かせない。
私がそう念じた瞬間だった。
フレデリコが空を見上げ、叫び声を上げたのだ。
私も思わず空を見上げると、まるで黒い亀裂が空中に突然出現したかのように見えた。
だが、亀裂と見えたものは蝙蝠の羽のように広げられた黒いマントだった。
そのマントは細い骨組みに支えられており、それを着ていたのは手に杖を持った細身の青年であった。
その青年は身軽に我々の前に降り立つと人差し指と親指を鳴らした。するとマントを支えていた骨組みがたちまち傘の骨のように折りたたまれた。
「よぉし、ショーは終わりだ。解散!解散!仕事に戻れ!」
青年は周囲を見回すと、片手を振りながら大きな声を上げた。
魔物どもは驚いた表情をして互いに顔を見合わせ始めた。
私もフレデリコも、ただ目を丸くして青年を見つめた。
彼は一体何者なのだろう?
どうやって空から降りてきたのだろう?
しかも人間でありながら魔物を全く恐れていない。
「みんな聞こえただろ?油売ってないで早く持ち場に戻れ!ぐずぐずしてるとパパにチクっちゃうぞ....なぁんてね。しないけど。ヒャハハハ」
青年は冗談さえ交えながらそう続け、振り向くと私とフレデリコの顔を見た。
歳の頃は二十代終わりごろだろうか。ひどくハンサムで、長い前髪が神経質そうな眉にかかっている。仕立ての良い服装にネクタイを締めているところを見ると、平民ではなさそうだ。
「あなたはディアナ伯爵ですね?」
青年はまず私に声をかけてきた。
「ボォクはディオ・ヴァルグ・デメトーリオ5世。以後お見知りおきを頂けると有難き幸せに存じ奉りまつり....いや...あれ?」
彼は優雅に膝を曲げて礼をしたところで、ちょっと首を傾げた。
「い...いかにも私がディアナだ。だが君は...つまりヴァルグ伯の....」
「はい。息子です。....養子ですけど。あ、そうだ」
私が応じると彼はちょっとバツが悪そうな顔をして答え、懐に手を突っ込んだ。
「はい、坊や。お小遣いあげるよ」
ディオと名乗った青年は、金貨を一枚取り出すと、フレデリコの前に差し出した。
茫然としたフレデリコがどう反応していいか戸惑っていると、青年は少年の胸ポケットに金貨を勝手に放り込み、上からポンポンと叩いた。
「ボォクの大事なルクレティアちゃんを守っていてくれたんだからね、偉いよ。ん?」
彼はそう言うとフレデリコにウィンクした。フレデリコは目を丸くして相手を見つめている。
「若様!おふざけが過ぎますぞ」
その時背後から声が聞こえた。ノクスの声だ。
「おふざけだって?おふざけはどっちだノクス」
振り向いた青年は腰に手を当てると言い返した。周囲を囲んでいたゴブリンやオークたちは解散し始めている。
「お前いったい何度言ったらわかるんだ?ボォクが部下に言いつけたことは徹底させろって。ルクレティアちゃんにだけは手を触れるなって最初に言っただろ?」
ノクスとその部下らしき竜人は、鱗だらけの顔ながら明らかに困惑した表情だ。だがノクスは答えた。
「若様、お言葉ながら、その娘の処刑はお父上も許可されてのことでございます」
「パパが?バカ言うな。パパがいいって言ったからってボォクの許可なしにやる奴があるか。彼女は捕虜じゃなくてボォクのゲストなんだぞ」
青年は面倒くさそうに手を振った。
「とにかくお前はこの子を置いてさっさと消えろ。ボォクはナンバーツー、お前はナンバースリーなんだからな。立場ってモノをわきまえろ、立場を。ん?」
「若様、その件についてですが、先ほど変動がございましてな」
ノクスは自信ありげな笑みを浮かべながら前に進み出た。
「残念ながら、若様は軍ナンバーツーの座から外されてございます」
「外された?」
「さよう。このノクス、ヴァルグ様ご自身の口から直接聞きましてござる。さすれば必然的にこの私がナンバーツーとなるかと」
「へえ...あ....そっか。ボォクが家出したからってパパ怒ってるってわけだね」
青年はちょっと悪びれた顔をして頭を掻いた。
「そういうことですな。若様もお遊びはお止めになって早めにお父上に謝罪されてはいかがですかな?」
ノクスは満足そうに頷くと、手を差し出した。
「...これは差し出がましいことを申しました。お詫びいたします。しかし、その娘はそのようなわけで私に引き渡して頂けますな?」
「はぁ?何でだよ」
青年は眉をしかめて問い返した。これにはノクスも狼狽したようだった。
「いや....な...何で、と申されましても」
「別にボォクが軍のナンバーツーを外されたからって、パパの息子だっていう立場は一ミリも変わらないだろ?パパは『勘当した』とも『縁を切った』とも言ってないんだろ?だったらお前の言う事を聞く義理なんて何もないじゃんか。そうだろ?」
「い...いやしかし....いかにヴァルグ様のご子息と言えども軍の規律については...」
ノクスは額に汗をかいている。青年は本格的に機嫌を損ね始めたのか、その声音がだんだん意地悪くなってきた。
「じゃあなにか?この子はもともとお前のものなのか?違うよな?忘れたのか?この子と庶務騎士団とかいう連中三人を捕まえたのはこのボォクなんだぜ?お前じゃないよな?それなのに引き渡せっておかしくないか?おかしいよな?」
「た...確かにそうですが....しかし....」
「フン。勘違いに気づいたんなら勘弁してやるよ。話は終わりだ。行ってよし」
青年は一方的にそう言って会話を打ち切ると、ルクレティアを顧みた。
「さあ、ルクレティアちゃん。もう安心だからね。バカな手下たちがやっとわかっ.....」
その瞬間、青年が固まった。
青年はルクレティアの顔をまじまじと見つめていたが、やがて痛々しい痣のついた彼女の頬に手を伸ばした。だが触れはしなかった。
「……おいノクス.....」
彼は小さな声で呟くとゆっくりと振り向いた。
「誰がやった?」
ノクスは目を見開いて一歩後ろに下がった。もう一人の竜人もまた恐怖に顔を引き攣らせ始めている。
「お前らか?」
ディオ青年は、ルクレティアを連れてきたゴブリンたちに尋ねた。彼らは一斉に首を横に振った。
「ゼラフィス、お前か?」
青年が、ノクスでないほうの竜人に尋ねる。だが彼も慌てて首を振った。
「ノクス......まさか.......お前じゃないよな?」
ディオ青年は上目遣いでノクスをねめつけている。その声がいっそう低くなっていった。
その途端、ノクスの顔が絶望に歪んだ。
「も....申し訳ございません、若さ.....」
彼が呟くように自白した言葉が終わるか終わらないかの瞬間に、
ディオ青年は仁王立ちになり手にした杖を掲げた。
その髪の毛は怒りに逆立ち、その目は完全に据わっていた。
「上等じゃねえか....てめえ.....」
「退避しろ!退避!」
ノクスが自分の翼を広げながら叫んだ。もう一人の竜人もそれに倣う。
「フライドチキンにしてやる!!!」
ディオ青年は絞り出すような怒りの絶叫を上げた。
その途端、その杖の先端に炎の球が形成されみるみるうちに巨大化していった。
「し゛ね゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛い゛!」
青年が叫びながら杖を振り下ろすと、直径五メートルほどの炎の球がノクスたちに向かって転がる。
竜人たちは辛うじて飛び立ち、その足の下を火球が通り過ぎる。地面にワンバウンドした火球が、折り重なって倒れたゴブリンたちの頭上を通過していった。だがゴブリンの一匹の頭髪が炎上した。彼は熱さに悲鳴を上げながら立ち上がって逃げていった。
「し゛ね゛ッ゛!し゛ね゛ッ゛!し゛ね゛ッ゛!し゛ね゛ッ゛!」
青年は顔を真っ赤にして怒声を上げながら、今度は空中にいる竜人たちに向けて杖の先端から雷を発射し始めた。竜人たちは全速力でジグザグに飛行し、城壁の向こうに飛んでいった。
周囲に残っていたゴブリンやオークたちも蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
ディオ青年はしばらく肩で息をしていた。
私とフレデリコとルクレティアは、ただ茫然と彼の背中を見つめるだけだった。
だが一つわかったことがあった。
危機を脱したのだ。
「.....ディオ殿。ディオ殿」
私は彼に呼びかけた。
「危ないところを助けて頂いた。このディアナ、礼を申す」
すると彼は振り向いて微笑んだ。
「ああ、すみません、取り乱したところをお見せして。何しろあの手下ども、頭が悪いものだから厳しく躾けてやらないとダメなんですよォ。ハハハ。お父様もわかるでしょ?」
お父様?
その言い方に違和感を感じ私とフレデリコは思わず顔を見合わせた。ディオ青年は構わず話し続ける。
「さ、お父様は安心してお嬢様を連れてお戻りください。ボォクはいずれご挨拶に参りますから。その...エヘッ....。結婚の申し込みに、ということですけど」
「はぁ...。け....っこ....」
ディオ青年の言葉に私は絶句してしまった。
「あ...突然のことでびっくりさせてすみません、お父様。でも、ボォクはルクレティアさんを心から愛してます」
ディオ青年は照れ臭そうにそう言ったあと顔を上げた。
「自信はあります。ボォクは彼女を幸せにしてみせま....」
「待てよ!何を勝手なことを言ってるんだ」
今まで黙っていたフレデリコが突然声を上げた。
「お前、ヴァルグの息子なんだろ?魔物側の人間じゃないか。ルクレティアちゃんと一緒になれるわけがないだろ!」
ディオ青年はやや驚いた顔でフレデリコを見た。だが彼は気を悪くしたふうもなく、鷹揚にこう答えた。
「そうさ、ボォクは確かにヴァルグ家の人間だよ。だけどね少年、結婚は家どうしのものだなんていう古臭い価値観をボォクはもう信じてないんだよ」
彼は両手を広げると続けた。
「ルクレティアちゃんに出会って気づいたのさ。そう、ボォクらは似た者どうし。社会の型に嵌まらない存在なのさ。だからボォクは家から自立して自由に生きようと思ってる。だとしたらキミが文句言う筋合いは何もないだろ?」
ディオ青年は得意そうに腕を組んだ。だがフレデリコはそれでも納得いかない様子で拳を握ると、言い返した。
「わかったふうなことを言うなよ。大体お前ルクレティアちゃんの何を知ってるっていうんだ?」
「へえ、キミは知ってるのかい?貴族でもないのに?」
余裕たっぷりでディオ青年が問いかけると、フレデリコは言葉に詰まった。
「ぼ...ボクは確かに平民さ。だけどわかることだってある。ルクレティアちゃんは誰よりも高い理想を持ってるんだ。ボクは知っている。それを知ったからこそ、ボクは料理人として立派になろうって決心したんだ」
「料理人?」
ディオ青年はいかにも可笑しそうに声を上げた。
「なぁんだ。キィミ従者ですらなかったんだね。アハハ。そっか、料理人ね。フゥン。料理人....」
「料理人をバカにするな!」
フレデリコは人差し指を突きつけた。
「料理は人を元気にするんだ。疲れた人でも落ち込んだ人でも、ホッと一息ついて、『明日から頑張ろう』と思える。そんな力が料理にはあるのを知らないのか?」
「あれ....どっかで聞いたことあるセリフだなぁ?」
ディオはひと指し指を立てて自分の顎に当てながら考え込むジェスチャーをした。だがすぐに彼はそのポーズを解くと続けた。
「まあいいや。思い出せないや。でもねぇ少年。キミも美しいルクレティアちゃんに横恋慕してるのかも知れないけど、キミとボォクには決定的な違いがある。それは身分でも教養でもない。何かわかるかァい?」
そう言ってディオ青年は自分のひと差し指を立てた。
「力さ。チ・カ・ラ。見ただろ?ボォクにとってゴブリンやオークの百匹やそこら追い散らすのは訳ないことさ。ボォクはルクレティアちゃんを守ってあげられる。だがキミはどうなんだい?」
そう言われたフレデリコは悔しそうに下を向いた。
「キミの気持ちは尊いものかも知れない。だが気持ちだけじゃあ人は守れないんだ。わかったろ?」
ディオ青年は追い打ちをかけるようにフレデリコの肩をポンっと叩いた。
だが、ようやく驚きから立ち直った私はそこで口を開いた。
「ディオ殿。本日の助力については礼を申すが、結婚についてはまた別の話。了承するわけには.....」
「皆さま。あの..........」
ルクレティアが立ち上がり、手を上げた。我々は一斉に彼女を見た。
「わたくしが修道女だということ、お忘れになってません?」
それを聞いたディオ青年とフレデリコはハッとした表情をし、次いでバツの悪そうな顔で下を向いた。
「わたくし、折角ですが結婚する意志はございませんわ。ディオさん、貴方とだけではなく、誰ともです」
それを聞いたディオ青年は流石に意気を挫かれた様子だった。
「わ....わかったよ...でもさ。もし気が変わったら.....」
「わたくし一度決めたことを変えたことはありませんの。嘘だとお思いでしたら父にお聞きになって?」
ルクレティアは微笑むと私を見た。私は頷くしかなかった。
「ディオさん、今朝は乱暴なことをしてしまって...このルクレティアを許してくださいね」
彼女はすっかり大人しくなってしまったディオ青年に対して膝を曲げて頭を下げた。フレデリコは気まずい様子で押し黙ると、ルクレティアを馬車に向けて先導する。私もまた、ディオ青年に軽く頭を下げると、皆に続いて馬車に向かった。
我々全員が馬車に乗ると、御者のアントニーオが向きを変えて発車させた。
先ほどの修羅場が嘘のように、馬車は快速に走り続けた。
ルクレティアは私の胸に頭をもたせ掛けながら眠った。フレデリコがハンカチを水で濡らしたものを差し出す。私はそれを娘の頬にあててやった。
彼女は眠りながら、時々悪夢を見ているかのようにビクリと身体を震わせ、私の腕にしがみついた。
だがルクレティアは時折目を覚ますと、何度も繰り返し私に言った。
「お父様、まだジョバンニさんが牢に残されていますわ。ジョバンニさんを助けるよう陛下に....」
「わかった。必ず言う。今は眠れ」
私は彼女を抱きしめるとそう請け合った。
帰りの旅は短いようで長かった。ようやく王都を見た私は心から安堵したものだ。
だが、私は知らなかった。王都では、貴族会議が再び紛糾し始めていたのだ。