フオリエ・ナスコシテ   作:カズあっと

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14話 「記録」と「記憶」の狭間で。

 

 夫の死——当主の喪失は、急ぎ家へと持ち帰らねばならない。

 しかし、帰るはずだった場所は燃えていた。

 

 茜よりも紅く、凶悪な光が揺らぐ。

 炎に包まれた屋敷。赤い舌は木の壁を舐め、屋根を黒く焦がしていた。

 焼けた木材の匂いが鼻を突き、割れる窓の音が耳を刺す。黒煙が熱を纏って立ち昇った。

 

 あの子は……オルトはどこ?

 

 身をよじる——動こうにも動けない。

 腕の中に封じられている。

 武を持たぬアウグスタの鎧は、感情を切り離しての記録だけだった。

 

 飛び込む光景が、頭の中で冷たく刻まれ始める。

 

 門前に立ち、盾を構える騎士たちが、白刃を抜いた粗暴な男達——恐らくは傭兵か。肩に赤い刺繍を入れた襲撃者たちを迎え撃っている。

 砲弾へ盾を張り、怒号と罵声が叫ばれる。それは、どちら側からも。

 

 ——違う。ここではない。

 

 鎮火に走る家人の叫び。そこへ次々と矢弾を射掛けていく男たちの笑い声。

 風に煽られ、黒煙が視界を押し潰す。喉が咽せる。唇は開かない。

 

 ——ここも違う。

 

 響くは悲鳴に怨嗟の声。そして、武器同士がぶつかり合う金属音。

 生と死の境界が揺らぎ、秩序を溶けてゆく。

 

 その光景を目にするアウグスタは、己の眼球の動きさえも認識している。呼吸が、早く浅くなっていることも。

 それは、ただ一つの対象を捉えるためのもの。

 

 視界に飛び込む無数の赤と黒。飛び散る肉片、倒れ伏す騎士、弾け飛ぶ傭兵。知る顔も、知らない顔も。

 情報の渦が流れ込む。誰が敵で、誰が味方かの判別すらも難しい。

 

 あの子は、何処に……きっと、無事でいてくれる。

 

 記録に混じる祈り。

 視界は血と煙に染まり、鮮明だった色彩が、感覚に混じり合う。鼻腔を突く刺激と肌を灼く熱が重なる。

 

 何かが震えている——ああ、それは私の身体か。だが、震え、埋もれている暇なぞない。

 恐怖。願い。違う。それは今必要なものではない。

 感情を切り離す。思考は冷たく、正確に。

 

 望みは一つ——探すこと。情報は、そのための道具に過ぎない。

 

 奥か。違う。炎に巻かれたそこであっては、無事にすまない。

 

 義父か、義母か。誰かが、救ってくれる——そんな淡い期待が胸を掠める。

 

 騒乱の中、最短の動線、危険の度合い、回避すべき位置を記録する。刻々と動く全てを、遍く。

 小さな悲鳴。怒声の中に混ざる悲痛な子供の声。違う、あれではない。

 

 切り捨てた「何か」が記録された。それでも——

 

 探し続ける。

 炎の向こう、盾を構える騎士の後ろ、傭兵の一団に囲まれた中で、奇妙な人影が揺れた。

 

 ——オルト? 見つけた……無事で、いてくれた。

 

 炎の光に揺られ、眩く視えるは、眠る息子の姿。その安らかな吐息までもが視界に刻まれる。

 

 安堵。だが、それを掴みきる前に、戦場の熱と轟音が現実を叩きつける。再び身をよじる。動かない。

 駆けるための脚も、抱き上げるための腕も、戒められたままだった。男の強い力によって。

 

 同時に「何故」という疑問が湧き上がる。

 ここは矢弾飛び交い、炎渦巻く戦場。無事でいられる理由はない。唯一にのみ絞られた焦点に、認識が追いついていった。

 

 ——抱かれている? いや、違う。抱きかかえる者がいる。

 

 息子の小さな身体。

 薄く震える腕に、慎ましくも確かな力で抱かれている。

 視界の中心には、儚げな女性の姿。

 

 引き延ばされた時間の中で、アウグスタの「機能」は「記録」でなく「記憶」を始めていた。

 

 細い肩、青白い頬、荒い息。

 そんな体で——それでも折れない背筋。

 見間違えようがない。あれは——義姉。夫の姉だ。

 

 私にはできなかったことを、彼女は平然とやっている——

 肺を患う病弱な体は戦場に晒されているのに、軸はぶれない。動きは最小限に抑えつつ、確実に胸に抱いた私の息子を守っていた。

 

 視線の端、義姉のすぐ傍らに、炎の熱で煤けた木箱が四つ、静かに寄り添っているのが見えた。

 木蓋は閉じられて、黒煙の中で妙に動かない。その異様な静止が、記録の奥で微かな刺を残す——棺かもしれない。

 

 しかし、そこまで考える余裕はない。騒乱の只中で義姉の動きだけが異様に鮮烈に映る。

 

 汗と煤で髪は湿り、肌は火の熱で赤く染まる。それでも、彼女の眼差しは鋭く、揺らぐことがない。

 腕の中の幼子を守りながら、盾を構える騎士に命を送り、矢の軌道を読み、危険となる地点を指し示す。

 生者に逃げる筋を示し、死にそうな者には手を差し伸べる。

 

 必要ならば自ら盾となり、子へ向かう矢をその身体で受け止める。小さく震える手首をきつく固め、抱きかかえた体勢をわずかに変えるその指先の所作に、守る決意が刻まれている。

 

 周囲で人が倒れる。襲い来る敵が押し寄せる。炎に呑まれた屋敷が吐き出す悲鳴と熱。だが彼女はそれらを瞬時に把握し、次の危険を断定する。戦場の中で、彼女だけが「凪いで」いるように見えた。

 

 矢が空を裂き、火柱が吹き上がるたびに、彼女は体勢を調え、幼子の受ける衝撃を最小にする。腕と肩の細かな動きの一つひとつが、命を守るための工夫で満ちている。

 

 その姿に、アウグスタの胸の奥で、かすかな震えが生じた。弱く儚いはずの女性が、ここで全力を尽くしている——その矛盾が強烈に胸に刺さる。

 

 ここにあるのは、ただ守る意思である。生き延びることの意味、家族を守るという力、冷静さ。炎と混乱の中で、彼女は確実に、世界の中心を私の息子に据えて回している。

 自分の子でもないのに。夫の姉でありながら。

 戦場の只中で、誰よりも静かに、誰よりも強く。

 

 何事にも限界があった。

 義姉の肩がわずかに震え、呼吸は浅く、喉の奥で掻きむしるような短い咳が漏れた。

 唇の端に黒い粒が滲む。それが血だと認識するまで、一瞬を要した。

 

 なのに、彼女は体を固め、抱きかかえた息子の位置を僅かにずらして守ろうとする。

 その儚さが露になるたび、アウグスタの胸の中で何かが煮えたぎった。

 

「死なせない」

 

 我知らず、そんな言葉が溢れた。

 ただ眺めていただけの自分。あの淡い記録が、今になって重く胸にのしかかる。

 だからこそ、今、目の前で息子を守る義姉を見ている自分にできることは何かを探さねばならない。

 

 視線が自然と、抱かれたオルトから、己を掻き抱く男へ。

 そして戦場全体へと巡る。傭兵たちの足音、盾を構える騎士、炎の熱。それら全てが、判断材料であり道具であった。

 

 胸の奥から弱く震えていた何かが、少しずつ静まり、代わりに理性と意志が立ち上がる。

 ここで傍観している道理はない——守るべき者が目の前にいる限り、行動せねばならない。

 

 私には、剣がある。夫から受け継いだ、キエッリーニの、否、トラーパニの剣が。

 

「何をしているのです。アントニオ」

 

 低く、しかし有無を言わさぬ声。アントニオの腕が、わずかに震える。

 

「奥方様……」

「降ろしなさい」

 

 短い沈黙。そして、彼は従った。地に足がつき、身体が自由となる。対照的に、剣は跪いた。

 アウグスタは今、自らの意思の力で立っている。

 

 視線を、戦場に向けていた。傭兵の配置。騎士の疲弊。義姉の位置。息子の安全。全てが、頭の中で整理される。

 思考が明晰となって、状況も明瞭となっている。

 

 攻め手は五百。いや、実働は三百程か。屋敷は三十にも満たぬ寡兵でよく耐えていた。

 

「赤い肩、先程と同じく財務省、いえ、赤い獅子の息が掛かる者ですね」

 

 積極的に襲撃を行う者達に心当たりがついている。夫に導かれ、移民として島に渡ってきた一団の中にも彼らはいた。そして、あの人に刃を向けた中にも。禍根を断つために、殺す。

 

「わかりますね?」

「はっ」

 

 屋敷を囲む暴徒の群れに、知った顔も混じる。トラーパニの領民だ。彼らも熱に浮かされたような興奮をしているが、襲撃に加わる訳でもない。戸惑いと恐怖の方が大きく見えた。彼らは生かす。

 

「ならば、私の剣よ。『敵』を余さず殲滅なさい」

 

 アントニオはまだ顔を上げない。トラーパニにおいて、号令の言葉は決まっている。

 

インヴァデーレ・ミエイ・カルヴァリーエ(侵略せよ、私の騎士)

 

スイ・ミア・シニョーラ(はい、我が夫人)

 

 剣の貌には覚悟が浮かぶ。守るため、救うため。

 ただそれだけを目的して、静謐に刃は振るわれた。

 

 

 

 ——そして、戦いは終わった。

 

 煙が晴れ、戦場の熱は冷めてゆく。炎の紅ではない、空の茜が戦場跡を照らしていた。

 

 その時、義姉が庭の方からゆっくりと姿を現した。疲れた足取りながらも、オルトをしっかり抱き、アウグスタの方へと向かってくる。

 

 義姉はアウグスタにそっと幼子を渡す。腕の中で小さな体がくるりと収まり、その温もりがアウグスタの掌に残った。

 ——ああ、無事でいてくれた。胸の奥から、安堵の息が漏れる。

 

 だが、胸の片隅には微かな引っかかりがあった。義両親は……まだ戻っていないのか。

 消耗した義姉の姿。居るのなら、あの方たちが無茶をさせるはずはない。

 それでも今は、この瞬間の安らぎを噛みしめるしかなかった。

 

 「ありがとう」と言うべき——そう思ったが、言葉は喉に貼りついて出てこなかった。

 代わりに義姉は短く頷き、目を細めてオルトの額を撫でる。その仕草には、安堵だけでなく張り詰めた疲労が混じっていた。

 

 周囲の人々は傷を確かめ、死者の傍らで息をついたり唸ったりする。誰も歓声を上げない。

 婆やは別方面からの生き残りをまとめ、戦場の整理に奔走していた。義姉とアウグスタの間に立つのではなく、秩序を保つために動いている。

 

 アウグスタは胸の中で、遺された幸福を掻き抱く。

 その暖かさと共に、まだ吐きだしていない言葉の重みを感じた。

 夫の死を伝えねばならない——義姉に、義両親に。

 その義務は変わらない。けれども、明るく優しい人たちに、伝えるのが怖かった。手が震える。言葉を纏めようとして、息が細くなる。

 

 義姉が先に口を開いた。

 

「アウグスタ。報告があるのでしょう?」

 

 いつもの淡い調子で促す声。それは優しさでもあり、命令にも似た力を含んでいた。気持ちを整えなければ、と思い直す。

 

「義姉様……」

 

 声が宙を彷徨う。言葉が見つからないまま、アウグスタはただ一つを選んだ。

 

「——あの人は、もう……戻りません」

 

 言い切ると胸の中がすっと冷えた。空気が薄くなる感触。義姉は表情を動かさない。ただ、細く息を吐いただけだった。

 

「わかっています」

 

 義姉は低くつぶやいた。声には、驚きも悲鳴も入らない。そこにあったのは、むしろ確信だった。

 

 アウグスタの頭の中が慌ただしく働く。どう伝えれば良いのか、どれだけの言葉が必要なのか。

 だが、義姉の瞳は言葉からすっと逸れ、庭のほうへと視線を落とした。

 アウグスタもそちらを見た――その時、改めて認識した。

 

 義姉の脇に、四つの黒い木箱が並んでいる。煤けた布で覆われ、蓋は閉ざされている。

 黒煙の残り香が箱の周りに漂い、静寂をさらに重くしていた。人々の足が自然とその周辺で止まり、声はそこで微かに細くなっている。

 

 箱は──棺だ、と理解が滑り落ちるように遅れて届いた。

 

 四つ──。

 

 「……なに?」と、誰かが掠れた声を漏らす。アウグスタはその声が、自分のものだとさえ気付けない。

 力なく、ただ四つの蓋を見ている。

 

 婆やが近寄って来て、低い声で告げた。

 

「……大旦那様と大奥様ば、なんとか運んできたとよ……お嬢様は、見んでよか」

 

 その声には、怒りと悲しみかが籠っていた。黒煙の残り香に混じり、静寂がさらに重くなる。

 

 婆やの声が遠く、重く響いた。

 アウグスタはしばし、腕の中の小さな体に意識を集中する。オルトの柔らかさ、温もり、寝息。

 

 ——無事でいてくれた。

 

 それだけが、支えだった。

 だが、視界の片隅に、黒煙をまとった四つの木箱が揺らぎもせず並んでいるのが見えた。

 

 大旦那様、大奥様。どの?

 

 疑問は、感情に押し潰される。四。()()()()()()()()

 問題は、それじゃない。どち——

 

 握りしめたオルトの体だけは暖かい。胸が締め付けられ、呼吸は浅く、思考の一部が凍りつく。

 逃避。かもしれない。

 涙が一瞬、目の奥で滲む。だがその感覚を飲み込み、息を整えようとする自分がいた。

 

 涙は既に枯れている。そんなものを流す暇はない。

 

 声をあげず、ただ世界の重みだけが押し寄せる。

 

 抱きかかえたオルトの体温が、かすかな灯のように胸に残る。

 ゴクリと、音が鳴っていた。

 安堵と否認が混ざり合い、心の奥で微かに波打ったその瞬間——義姉の声が落ちた。

 

 ……息を吸う。とても、静かに。

 義姉の震える指が、棺の上を這った。

 

「……ごめんなさい。……この中にいるのは、お父様と、お母様よ。……貴女と、私の」

 

 世界が壊れる。

 そう思うまでもなく、熱いもの。

 オルトを抱いたまま、駆け出そうとしていた。

 

 ——投げ出して、しまいそうだった。

 

 それを押し留めたのは二人。義姉と婆やだ。

 腕と腰に縋りつき、止めている。留めている。

 

 ——まだ、この場所へ。

 

 茜の残光が、瓦礫の向こうに沈んでいく。

 燃えさしの空が、灰のように褪せていった。

 

 風が吹いた。

 焦げた布がはためき、瓦礫の隙間で鈴のような音が鳴った。

 それが、誰の祈りだったのかも、もう分からない。

 

 アウグスタは立ち上がらなかった。

 ただ、腕の中の息子を、少しだけ強く抱きしめた。

 ——これが、終わりではない。

 そう思うしか、もう残っていなかった。

 

 やがて、街の灯がひとつ、またひとつとともりはじめる。

 宵の帳が落ちるころ、彼女の影は夜に溶け、静かに消えていった。

 

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