陽射しが強い昼下がり、街を、港を駆け抜けていく青年がいる。
アウグスタの息子、オルトであった。
一糸纏わぬ上半身の姿も、夏の港では別に珍しくもない。海の男衆は大抵がそうなのだ。
潮風が胸に吹きつけ、汗が線を描いて流れている。
けれど、その走りには焦りがあった。
近頃の「母ちゃん」の表情が、どうにも頭から離れなかった。
胸の底にへばりつくそれを形に出来ず、ただ駆けていく。
理由は、はっきりしない。
ただ、賢い奴らの言うことに、どこか引っ掛かりがあった。
考えたところで、答えなんて出ない。
わかっている。だからこそ、走るしかなかった。
「おう、若! 今日も熱心だな!」
「頑張れよ! 小熊の坊主!」
港の男衆から声援が飛ぶ。
オルトは腕を上げ、振って応えた。吐く息が熱い。
それでも、足は止まらない。
やがて浜辺へと辿り着く。砂を蹴り、波打ち際を進んだ。
呼吸を整え、姿勢を崩さず、ただ前へ。その動きには、祈りともつかぬ熱が籠っていた。
——もっと、強くならなけりゃ。
耳の奥で、そんな言葉が何度も響く。
港の若い衆にとって、この砂浜は鍛錬場でもある。
けれどオルトにとって海辺を走ることは、それだけのものではなかった。
もう彼は、ただの若い衆ではない。
キエッリーニの「息子」としてでなく、冒険者たちの纏め役として、話を聞いている。
港では順調に統制が進んでいると、母ちゃんやフィオナは言っていた。
支部長にもお前たちが頑張っているおかげで、「ズル」をする奴がいないぞ。と、褒められてもいる。
けれど、三人とも何かを心配している。――オルトには、そう見えた。
何かを感じていて、それでも信じようとしている。——そんな、祈りにも似た何かが、あるような気がしていた。
俺じゃ、何の相談にもならないのかもしれない。けれど——。
仕事を任された。それに、上手くいっている。
この街の人達は皆、いい奴ばかりで、心配する事なんてない。
……そう言ってやりたかった。けれど、言えなかった。
だからこその、考えをまとめるための時間。
動いていれば、頭が冴える。じっとしていると、心のざわつきが抑えられなくなった。
そうすると、想ってしまう事がある。
——俺たちの街で、悪さをしようって奴らがいた。
——あの大海蛇みたいな災害だって。いつ、また何かが起きるかわからねぇ。
力が足りない。それは理屈でなく、身体でこそ知ること。——あの時も、鱗の一枚が精一杯だった。
もしもあれが、ただの獣じゃなく、人の悪意を宿した存在だったら——。
そんな考えまで浮かんでしまう。
絶え間なく押し寄せる波へと、視線が向かった。
瞼の裏へ浮かぶのは、力強くも流麗な一閃。
だけでなく、見せつけられた現実。それは大きな力量の差というものだ。
……俺たちは、いや俺はこのまま、「兄貴」に頼ってばかりでいいのか?
アントニオの背が幻影として浮かび上がるたび、その肩へ乗せられた重みが、思い起こされた。
彼が守るのはエーリチェと王都を結ぶ海路、それはトラーパニ港の命綱。
海に顕現する異界生物を狩ることで、人々の生活を支える経済、というものを守っている。……らしい。
ガキの頃、もっと「兄貴」に遊んで欲しい。と、癇癪を起こしたらしい「俺」に、「母ちゃん」が教えてくれたことだった。
オルトには、難しい話はわからない。しかし、わからないなりに考えることもある。
アントニオの兄貴は強い。常日頃から大型と呼ばれる、自然災害そのものの霊獣たちを狩っている。
心配はない。ここいらじゃ、最強と言ってもいい存在かもしれない。
けれど、兄貴の身体はひとつしかない。
もしものときに、俺たちが守れなきゃ——。
足が自然と速くなった。砂を蹴る音が重く響く。
海の匂いに、微かに油の臭いが混じる。
風が変わった。潮の香りが薄れ、鉄のような匂いが鼻を刺した。
視線の先、砂浜の果てに黒ずんだ船が乗り上げている。
古い。
塗装は剥げ、帆も裂けている。錆まで浮いていた。
古い小型船だった。周囲では、何人もの男たちが積荷を降ろしている。
男たちは鍛えられた良い筋肉をしていた。
甲板を行き来する足取りに迷いなく、熱暑の中でも働きは手慣れている。
海と港で日々働く水夫たち。そんな印象を受けた。
漂着船にしては、手際が良過ぎる。
「おーい。災難だな。手伝うか?」
かといって、放っておくことなど出来なかった。声をかけると、何人かが顔を上げる。
やはり疲労はあるのだろう。どこか、嬉しそうにする男達。
「助っ人か? ありがてぇ!」
返ってきた声は陽気で、笑みすら浮かんでいる。
そのとき、積荷の一つが崩れた。
空気が変わる。
何かが、静まった。
笑い声も、波の音さえも、どこか遠くに引いていく。
男たちが、一斉に視線を落とした。
誰も、動かない。
オルトも足を止める。
距離があっても、わかった。
崩れた木箱——違う。全ての積荷に施された封印を示す刻印。
その意匠は「赤い獅子」。
港や倉庫でもよく目にする、王国財務省の紋章。
ありふれたものだった。なのに、オルトはその名を思い出せないでいる。
ただ、胸の奥がざらついた。
箱の隙間から零れ落ちたのは、光を吸い、また吐き出すように瞬く、無数の小粒。
それは霊核だった。
ほんの少し前まで、値もつかず、誰も見向きもしなかったはずの「屑霊核」と呼ばれる代物だ。
だが、今は違う。陽光を受けたその輝きに、浜の熱気が一瞬、凍った。
浜風が、一瞬止んだ気がした。
オルトは思わず、指を指している。
霊核と赤い獅子。
この取り合わせを見た後に、大海蛇の顕現が起こっている。それは偶然に過ぎないのだろう。
だが、この組み合わせを見た後から、母ちゃんの様子がおかしいとオルトは感じている。
「おい、お前ら。それって……」
らしくもなく、声が掠れていた。
そうでなくとも、霊核はトラーパニ行政府による流通統制中なのだ。確かめねばならなかった。
「……霊核、だよな?——もしかして、密輸か?」
一言に、男たちの笑みが崩れる。
剣呑な、暴の気配。
彼らの視線がオルトを囲んだ。
ジャリと鳴る砂の音が、やけに耳に響いた。
オルトはその場に立ったまま、深く息を吸い込んだ。胸の奥に溜まった熱が、ゆっくりと静まり返っていく。
逃げる気はない。けれど、戦う気もなかった。
「今なら見逃してやる。密輸なんてやめて、帰れよ」
「坊主、密輸って言ったかよ?」
男たちの一人が問い返す。彼らの手には、凶々しく陽光を受ける白刃が握られていた。
「ああ、言ったぞ。霊核は行政府を通して下せ。議会が決めた法だ。……だから、この場は見逃してやる」
「見逃すってかよ? 裸の坊主が一人で? この人数相手にか?」
せせら笑う男たち。無謀への揶揄がある。だが。
実の所、オルトは人数も刃物も問題としていない。
気持ちとしては、叩きのめして官憲へ突き出してやりたい.しかし、そうしないのは教えがあるからだ。
「人が法を犯すのにも、それなりの事情がある」
母ちゃんは、いつもそう言っている。そうする必要がなくなるようにする事が、統治者の役目だとも。
だからこそ、穏便に済まそうとしている。
「俺も、五月蝿いことは言わねぇよ。けど、放っておく訳にもいかねぇんだ。出直せよ。今日は、見なかったことにしてやる」
悪戯に暴力を用いれば、火種を残す。人と人とが欲望のままに争えば、悲しむのは力無き人々だ。
それだけは、やっちゃならない。
力ではなく、相互理解での解決。母ちゃんに叩き込まれた理屈だ。
「おいおい。この紋章が見えねーのか、小僧。コイツぁ、王国財務省の荷物だぜ」
「トラーパニの霊核は統制中だと言っただろ。必要な場所に渡らないと、困る奴らがいるんだ」
「田舎者の小僧が、一端の口を利きやがる」
オルトは両手を軽く上げて、ゆっくりと首を振った。挑発ではなく、止めようとしたのだ。
なのに何も伝わっていないようで、男たちの口調には明らかな嘲りが含まれている。
すると段々と、腹が立ってきていた。
これでも、オルトは言葉を尽くしたつもりでいる。
だが、理屈の通じる場ではなかった。
大怪我をさせないようにすれば、問題ないだろう。そんな気持ちが強くなる。
「数と武器だけ揃えた雑魚どもが、上等じゃねぇか。かかってこいよ。『現実』ってヤツを見せてやんよ」
だからつい、言ってしまう。
男たちは視線を交わし、無言のまま動いた。
二人が笑いながら刃物を弄び、もう二人が背後に回る。残る六人は構えた。数は十。
だが、数だけだ。そうオルトは見切っている。
先に動いたのは、相手方だった。
前後左右、四人が同時に切り込んでくる。
考えるより先に、体が動いた。
真正面の男。剣を振り上げている。
踏み込む。足元で砂が爆ぜた。
顎へ拳を叩き込む。骨のぶつかりあう硬い音。
脳を揺らした。
一撃で膝は折れ、身体は沈んだ。
反転し、勢いのままに一人の背中へ回し蹴り。
体格は良い。が、ウシよりは軽い。
重い打撃音を伴い、もう一人諸共に吹き飛ばす。
ぶつかり合う二人。そのまま倒れ込んでいる。
背中側にいた男とは、まだ少し距離があった。
突きの構えのまま、突っ込んで来ている。
オルトの膝が沈み、足裏が砂浜を蹴った。
半身の捻りで切先を躱し、背後へと回り込む。
男の肩へと手を置き、
鈍い音がして、落ちる剣。
絶叫が響いた。
「おいおい。肩が外れたくらいで、大袈裟だぜ。残りは六人か。……まだ、やるか?」
四人、倒れている。一人は気絶、二人は呻きながら立ち上がれもしない。残る一人は——オルトの言葉通りに、肩を押さえて転がっていた。
息も乱さず、余裕たっぷりのオルトであった。一瞬の出来事に、男たちは呆然としている。
「見逃してやるから、出直してこい」
「くそっ! ガキがっ! ぶっ殺してやる!」
だが、それもまた一瞬の事だった。
オルトの声に激昂し、一人が懐に手を入れる。他の者たちも弾かれたように、次々と動く。
懐から取り出されたのは拳銃だった。六挺の銃口がオルトへ向けられる。
「ちったぁやるようだが、鉛の弾に勝てるかな?」
形勢逆転を確信したらしい。倒れた仲間は放置され、男たちは嗜虐的な嘲笑を浮かべた。
——甘ぇよ。それに、救えねぇ。
脅しだと、すぐにわかった。
護身用の抜剣まではともかく、発砲は認められていない。
それに、銃の管理は国がしている。使えば、どうしたって足が付いた。流石に、そこまでバカではないだろうとオルトは思う。それに——
「そんなチャチな玩具で、やれると思ってんのか?」
これでもオルトは「鉄位階」の冒険者。
拳銃如きで傷付くようでは、一人前の冒険者だと認められる筈もなかった。
それでも発砲は阻止したい。官憲による追及も、目撃者としての面倒も避けたいからだ。
脅しは通じない。
男たちの動揺と焦燥が見て取れた。そして、カチリと安全装置を外した一人の姿も。
足指で砂を掴み、蹴り上げる。
砂粒が飛礫となって放たれ、発砲を試みた男の顔を叩いた。
砂煙が舞い上がり、一人が倒れ伏している。残るは五名。
しかし、男たちは恐怖にでも駆られたのか、慌ただしくも次々に安全装置を外していった。
そんな彼らに、オルトは冷たく告げる。
「撃ったら、『喧嘩』じゃ済まねぇぞ。——ま、暴発するだろうがな」
未だ大量の砂塵が舞っている。
男たちの持つ銃は都会向け、それも
護身用ながら、精度と速度、そして威力は狙撃銃にも匹敵する。
「なぁ。仲間を連れて一旦帰れよ。都会者には、島の自然はちっと荷が重い。ちゃんと港を通すなら、悪いようにはならないさ」
精巧に造られた火器は、性能こそ高くとも、過酷な環境下においての信頼性が低かった。
男たちもわかっているのだろう。苛立たしげに顔を歪めるが、次の一手、引き金を弾けないでいる。
こんなもんだろう。力の差は見せた。これ以上追い詰めても、良い事はない。
オルトはそんなことを考えている。
負傷者に肩を貸し、引き上げようと動き出した男たちを見ながら。
正直に言えば、彼も別に密輸が悪事とは思っていない。それを違法だと定めたのは、自分達の都合だ。
統制を敷く事で、無用の混乱を抑える。
それが母ちゃんの方針で、皆その為に動いていた。
それはいい。いいのだが、そういった物事を利用して儲けようとする者や、悪事を働こうとする者は存外に多かった。
だからこそ、力に訴えてでも、「割に合わない仕事だ」と、思わせねばならない。そう彼は考えている。
だからこそ、もっと強く——
「……いかんなぁ。仕事をせんと、飯が食えん」
思いかけた瞬間、悪寒が走った。船からゆらりと現れた声に、総毛立つ。
背は高くない。痩せている。
蒼白い肌、無精髭。
どこにでもいる、街の男——そう見えた。
「兄貴っ……!」
「す、すいやせん。俺ら……」
残った連中が、安堵とも恐怖ともつかぬ声を漏らす。
「騒ぎすぎだ。お前ら、魚みてぇに暴れるな。……こちとら、稼ぎに来てるんだ。遊んでんじゃねぇ」
男は静かに砂を踏みしめ、オルトの方へと向き直った。眩しいのか眉間に皺を寄せ、目を瞬いている。
「アンタが親玉か? 悪いが荷物は港を通してくれ」
オルトの声はデカい。それに、張りがある。
「……親玉? 親玉ねぇ……。んなご大層なもんじゃねぇよ。雇い主は、別にいる」
「そうか。だが、纏め役みたいなものだろう? 雇い主に伝えてくれ。積荷は港を通す。当たり前の法だ」
対して男の声は静かだが、よく通った。
ククッと笑い、首を軽く鳴らす。
「……法ねぇ。別に触れたつもりはないが」
「つい最近、定められた事なんだ」
男の痩躯はゆらゆらと揺れていた。まるで、誰も知らぬ火のように。
「まぁなんだ。若いの。ともかく、うちの碌でなしどもが世話になった。礼をしなくちゃならねぇな」
「……礼?」
問い返した瞬間、男の重心が一歩、滑るように前へ出た。
砂音はない。それは陽炎が揺らめくように。
——距離が、消える。
オルトは動きを目で追うが、捉えた瞬間には既に懐へ入られていた。
男の指先が、オルトの顎の下を探るように触れる。
冷たい指先。怜悧で、威嚇でも暴力でもない。
ただ、喉の奥を押し込まれた瞬間、息が詰まった。
オルトは拳を振る——おうとした。
が、視界が逆転する。
足元は空の青さへ、頭上は砂浜の白さへと。
反射的に背を丸め、顎を引く。
次の瞬間、背中へ重い衝撃。
それは、大地の重さだった。
「受け身を取れたか。感心なこった。お前さん、ただの脳筋じゃねぇなぁ。悪くねぇぜ」
またもや、ククッと笑う男。その足は、オルトの肩に当てられた。
ひどく息が詰まっている。投げられたときに、鳩尾を強く押され、肩の後ろを強く打たれていた。
男は軽い。だが、体勢は悪い。このままでは踏み抜かれる——そう判断する。左腕も取られていた。
腹筋の力を用い、起きあがろうとする。
「力はあるがなぁ。まだまだ甘ぇよ」
「ぐっ! くそっ!」
だが、叶わない。
単純な動きさえも封じられている。
「強化」の術式を用いていてもだ。
「これで、お相子だぜ」
軽い声。だがその瞬間、男の足が僅かにずれた。
男の踵が僅かに滑る。
そのまま体重を残し、腕を極めたまま軸を捻った。
——踏み抜く、というより、肩を支点に捻じるように。
置かれた足が沈み、掴まれた腕が逆方向へと引かれる。
肩の内側で、骨が擦れ合うような音がした。
「——ッ!」
湿った衝撃が内側から弾け、視界が白く跳ねた。
声も息も出せない。ただ、肩が抜けた感覚だけが焼きつくように残った。
「……な、に……」
掠れた声が洩れる。だが、痛みくらい、何するものぞと立ち上がる。
男は既に離れていた。パチンと指を鳴らす。
「悪いな、小僧。こいつは礼だ。とっときな」
ふらつく視界。右拳を握るも、間合いが読めなかった。
……勝てねぇ。そう悟った。
思ったときには既に、また懐に入られている。
「小僧、名は?」
「……オルトだ」
「俺ぁ、ジーノ。
掌が、顔へと迫る。
風が、止んだ。
——音も、光も、そこで途切れた。
ただ、陽光と波音だけは、何も変わらずにいる。