夜明け前。
キエッリーニ邸の裏口で、婆やはすでに起きていた。
東の空はまだ白み切らず、港から流れ込む湿った霧が庭石を濡らしている。
鳥の声もない。
だが——静けさは、眠っているもののそれではなかった。
控えの間で湯を沸かしながら、婆やは数を数えていた。
刻。
足音。
門の開閉。
今朝は多い。
やがて、乾いた音が廊下に響いた。
遠慮のない、急ぎの足取り。
伝令だ。
「……始まりよったか」
受け取った紙束を一瞥し、婆やはそう呟いた。
返事はない。
伝令はすでに踵を返している。
紙には、名が並んでいた。
倉庫。
船。
人。
脳裏では、昨夜の宴で杯を掲げていた顔がいくつか混じっている。
それを見ても表情は変わらない。
——予想通りだ。
厨房では、すでに火が入っていた。
だが今朝の鍋は軽い。
祝宴の残り香を消すための、必要最低限の食事。
廊下の奥、「奥方様」の寝室の扉は、まだ閉じたままだった。
昨夜、あれほどの騒ぎがあったというのに。
いや、あったからこそか。
婆やは知っている。
「お嬢様」が、本当に動くのは——。
人が酔い、油断し、安心したその翌日だ。
遠く、港の方角で低い音がした。
合図の角笛。
街が、目を覚ます。
婆やは布巾で手を拭い、背を正した。
「……さて」
今日からが、本番である。
トラーパニ行政府。
治安維持局の窓口担当である男は、冷めた珈琲を啜りながら、欠伸を噛み殺している。
昨夜はキエッリーニ・トラーパニ子爵邸で大きな宴があった。
その余波で、今朝は二日酔いの酔客が数人、騒ぎを起こして連行されてくるだろうと高を括っていたのだが。
その予測は、夜明けの角笛と共に打ち砕かれる事となる。
「おい、表を見ろ!」
同僚の叫び声に顔を上げ、窓の外を見た男は、珈琲を喉に詰まらせ咽せ返る。
まだ朝靄の深い広場に、巨大な影が連なっていた。
海を這う獣、海雷獣だ。
その背に乗るキエッリーニの騎士たちが、荷車を数台、引きずるようにして庁舎へと向かって来ている。
荷車の上で猿ぐつわを噛まされ、数珠繋ぎにされているのは、街の「裏」を牛耳っていた何名かの顔役たちだった。
「……五号倉庫の親分じゃねえか。それに、あの船主も。一体何が……」
庁舎の扉が蹴破られるように開く。
入ってきたのは、キエッリーニの侍女だった。
彼女は疲労の色も見せず、分厚い書類の束を窓口へと叩きつける。
「当主代行、アウグスタ・ビアンカ=キエッリーニ様よりの預かりものです。密輸、脱税、および禁制品の所持。証拠品は外の荷車に乗せてあります。検収して頂いても?」
確か、屋敷ではそれなりの古株で、旦那はエーリチェの海城に詰める騎士団の……。
「え、ええ!? ちょっと待ってください、こんな数、手続きが……」
「ご心配なく」
慌てた窓口の男へ、彼女が指し示した書類の末尾には、アウグスタの血判に近い鮮やかな朱印。
そして驚くべきことに、昨夜付けでの「調書」が揃っていた。
「昨夜……? 昨夜は、確か邸で宴があったはずでは……」
「ええ。誠心誠意、歓迎いたしましたわ。お楽しみ頂けたと自負しておりますの」
朝には似つかわしくもない、妖艶な微笑。
「……酒と女に酔って、自分が何を喋っているかも忘れるほどにね」
彼女の冷ややかな言葉に、窓口担当は背筋が凍るのを感じた。
これは推察に過ぎない。
だが、アウグスタは敵対勢力を「祝宴」という名の密室に招き入れ、英雄アントニオという巨大な圧力を盾に、酒と香で弛んだ口からすべての情報を掌握した。
そう誰もが察する。流石は盾。とまで。
男たちが朝の光に目を覚ました時、そこはもう天幕の中ではなく、騎士の槍が突きつけられた断罪の場に変わっていたのだろう。
街の通りでは、騎士たちの「清掃」が続いていた。
逃げ遅れた端くれどもが官憲の網に追い込まれていく。
街の人々は、窓を少しだけ開け、その様子を驚愕の目で見守っていた。
「……昨日まで、あんなに威張っていた連中が、まるでゴミみたいだ」
誰かが呟く。
行政府の廊下は、泣き喚く容疑者と、書類を抱えて走り回る公僕たちの怒号で溢れかえった。
昨日まで滞っていた「法」という名の歯車が、アウグスタという強引な潤滑油によって、悲鳴を上げながら高速回転を始めている。
その混乱の最中、行政府職員はふと、書類の一枚に目を止めた。
そこには、今朝の検挙から漏れた「空欄」がいくつかある。
その中には、最も捕らえるべき「獅子」の影が残されていた。
——柳のジーノ。
王都でも売り出し中の無頼漢。魔銀位階の冒険者の名は、この完璧な包囲網の中に、不気味な空白として残されている。
一夜明けたキエッリーニ邸では、迎賓室や中庭などの至る所において、華達がひしめきあっていた。
「さっすが、奥方様よね。私達の気持ち、わかってるぅ!」
「最近は出会いの場なんて、限られてっかんね」
華とは、トラーパニのみならず近隣から集った妙齢のご婦人達である。
どういう訳だかこの宴、婚活会場として伝わっていた。
もっとも、出会いの場など限られたものであるの以上、文句を言うなどある筈もない。
「ほら、貴女達もいらっしゃいな」
だからこそ、淑女達も鷹揚だ。彼女達は「給仕」に徹する侍女達にも分け隔てがない。
当然だ。侍女とは、侍る女。主人へと近い格がなければ、成立し得ない。
「私達は同志よ。よくってよ? 遠慮なく、牙を突き立てなさいな」
「では、遠慮なく。後悔先に立たず。とも言いますが」
だからこその寛容、懐柔。
彼女達にとってもこの硬直に対する反抗は、実に小気味良いものであった。
「よりどりみどり。でも、狙うのなら一番の大物よね?」
「将を射らんとすれば、まず馬を射よ。とも言うわね」
「英雄と一緒に王子様までなんて、最高だわ」
女達は戦意を燃やす。婚活という戦場にて。
というこの現状に際して。
アウグスタは大層満足している。
正に、多士済々。女の顔で、闘う戦士達だ。
彼女は思う。理と利、そして情による結束こそが力であった、
「奥方様。なんか、不穏な空気があるんですけど……」
「好きにさせなさい。貴女達を阻む法はないわ」
不敵に微笑んだアウグスタだったが、ふと、リナの幼い顔立ちに目が止まる。
煤だらけのままだった。仕方なく顔を拭ってやれば、くすぐったそうに笑う。
そんな二人を尻目に、高笑いが響いた。
「オーホッホッホ! ここで英雄殿を射止めれば、もう学園にも通わなくても済むわ!」
それは、どこぞから来ていた令嬢。どうやらこの催し、多感な少女達にも届いていた様だった。
「……いや、学問は積みましょうよ。もったいない事なんてしないで」
小声でリナが毒付く。クスリと笑ってしまうアウグスタだが、再び周囲へ目を向ける。
能天気な高笑いをする
「……いえ、待ち受なさい。訂正します」
アウグスタは冷徹な「代行」の顔で、リナにだけでなく、周囲へと告げた。
「此度の催し。参加できるのは、十八歳以上の、成人した女性のみとします」
「えっ、奥方様!? 私、十五ですよ? もうお嫁に行ける歳なのに!」
「アタクシもですわっ!」
驚きに反論するリナだが、若き淑女もまた、同じ事を叫んでいた。
ならば、大人として言わない訳にはいかない。
「学業、あるいは職能の修行期間は、心身を守るための『律』の範疇です。十五歳はまだ、保護されるべき種子。……リナ、
有無を言わさぬ宣告。リナ、だけでなく年若い娘達は皆、頬を膨らませる。
「そうですな。私も、我が子と然程変わらぬ歳のご令嬢のあしらいは、難しいですからな」
当然、ここにはアントニオもいた。
昨夜からずっと魂の抜けた様な顔をしていた彼だが、初めて真面名な発言をしている。
歳若いお嬢様方は歓声を上げていた。
アントニオは苦い顔付きで、首を振りっぱなしでもあった。
「当人の意向は、尊重しなくてはならないわね」
「ならば、この催し自体を収めて頂けると……」
情けない提案をする「我が剣」を、当主代行は鼻で笑う。
「アントニオ。何を言うのです。まだ幼いルカには母親の温もりが必要ですし、貴方も気の利かない武辺者。「英雄」を慕う騎士達の世話を焼く、内助が必要でしょう」
「いえ。ルカも、もう十二。
しどろもどろになりながら、返すは英雄。
「理屈を捏ねないで。貴方が霊獣の相手をしている間、あの子がどれだけ不安で、寂しかったか。今も1人寝の寂しさから、時折私の所へ来るのですよ。埋め合わせは、必要です」
アウグスタは胸を張り、アントニオは項垂れた。哀愁漂う横顔に、苦笑が浮かんでいる。
見目が佳いので女たちからの歓声が上がるも、勢いに押し切られただけだった。
「お集まりの皆様、お覚悟なさって」
立ち上がったアウグスタは周囲へ告げる。
「英雄殿を射止めんとするならば、妻だけでなく母、そして将として在らねばなりません。半端な気持ちでは、務まりませんよ」
それは、覚悟と苦難を説くもの。その先は甘い恋愛話でなく、女の戦場だという宣告。
「誇りを賭けて、励みなさい」
それは後世において「女達の後添い戦争」と呼ばれる逸話の、端緒となった。