帰って来た屋敷は、賑やかな喧騒に彩られている。
迎えに出た侍女の一人からの報告に寄れば、大過なく夜会は続いているらしい。
そちらに関しては婆やとフィオナが仕切っているので、心配をしていないが。
「お部屋を、整えてあります」
「ありがとう。……心配はいらないわ」
不安を隠しきれない視線。釣られるように、腕の中のルカを見る。
その身体は熱く、呼吸も浅いままだった。
リナが治療を施している。予断の許されぬ状況であるが、今、打てる手はなかった。
「この子の強さを、信じてあげておやりなさい」
どれだけ便利な世の中となっても、奇跡や魔法なんていう都合の良いものなんて、ない。
だから結局は、祈るしかなかった。
「……俺は、どうしようもないケダモノなんだ……」
呟きが聴こえる。大きな身体で項垂れて、ずっと繰り返しているオルトのものだった。
誰も、そんな息子へは声を掛けない。怖いというよりも、関わりになりたくないからだった。
「リナ、ルカを任せましたよ」
「お任せください」
落ち着きを取り戻した彼女は、力強く頷いた。
オルトもリナも、信じているからだ。
ルカは、負けないと。
言葉にしなくとも、アウグスタも同じであった。
穏やかな寝息が、朝焼けの中へと吸い込まれてゆく。胸に抱いたままの、二人の「娘」の安らかな吐息だった。
傷からの痙攣と高熱。破傷風に似た症状を見せていた「姪」、ルカであるが、既に峠は超えている。
リナと共に施した生命力の譲渡術——分身活性は、期待以上の効果である様だった。
強い子達だった。孤児であるリナと、孤児でないからこその不自由に苦しんでいたルカ。
どちらも、実の娘の様に想っている。
特にルカは、アントニオと、亡夫の姉であるあの方の娘だ。
それが二人の美点を受け継いで、強く、逞しく育ってくれた事に、アウグスタは安堵していた。
かといって、昨晩の己の態度に思う所がないでもない。
例え必要であっても、冷徹な振る舞いは気が引けるものなのだ。
胸に抱いていたルカの呟きが、耳を離れないでいる。
「……お母さん。ね……」
あの子は産まれ落ちると共に、母を失っている。
元々、出産に身体が耐えられないとされていた義姉だった。本人だけでなく、義両親もまた、彼女が行かず後家となる事を受け入れていた。筈だった。
後悔はないわ。と言ったあの方。
娘を抱く事もなく、夫に看取られる事もなく、凪の様に静かに逝ってしまった義姉。
彼女が遺した、守りたかった小さな日常を、私は護れているのだろうか。
そう、自問自答してしまう。
争う理由を失くす為、経済成長を第一としてきた、この十二年間。
身を包む清潔な衣類や寝具は、そのお陰であった。
生活の安定と教育の振興を軸に、安全と、誰もが富を持つ権利を得ている。税収は増して、社会保障制度にも厚みを増した。上手く、回っている筈だ。
だが——。
その歪みが、ここに来て表れている気がした。
富を得る事が、目的となってしまっていないか。
自由な競争や、正当な権利という名の大義名分が、互いに手を取り合う為にでなく、傷付ける為の武器として、使われてしまっているのではないか。
そうも考えてしまうのだ。
「……奥方様?」
寝息の一つが止まり、言葉を口にする。
もう一人はまだスヤスヤと、赤みの差し始めた頬で眠っていた。心地良く耳へと届く、安らかな吐息。
それでも、気の抜けた欠伸混じりの声を嗜める。
「……朝の挨拶は、大昔から決まっているの」
「……あ」
目を瞬かす「娘」の寝起き姿を見て、一旦思考を棚上げとする事とした。
今日も良き一日を過ごすなら、先祖代々、始め方は決まっている。
「「おはようございます」」
二人の唇から、忍び笑いと共に、全く同じ挨拶が紡がれた。
アウグスタは、起き上がらせたルカの背中を支えながら、温かな一皿から掬い取った一匙を、口元へ差し出している。
白い湯気。立ち昇る香り。
ふーふーと息を吹きかけた少女が、一度上目遣いに匙の持ち手を伺いながら、あむりと咥えた。
港町特有の、白身魚の出汁をたっぷりと吸わせたパン粥だ。
昨晩から煮込まれ、形を失った白パンは、今のルカの弱った胃腑にも障らない、優しい滋養だった。
匙を差し出せば、一口、また一口と啄むルカ。リナはいない。侍女達の朝は忙しいからだ。まだ心配だろうに、あの子は日常の仕事へと戻っていった。
ルカもまだ立つのは難しそうなので、アウグスタは朝食の用意を部屋まで運ばせている。
部屋の隅ではその運び手が、小さくなりながら佇んでいた。
「……美味しい?」
「……はい。とっても」
消え入りそうな声。けれど、その瞳には確かな生の色が戻っている。
港町の朝の匂い。海がもたらす慈愛。
手が動かせば、返ってくる感触に、頬が緩んだ。
「……けほっ」
咽せたルカへ水を飲ませる。その視線を追えば、部屋の隅へと。
そこにあるのは、朝食を載せた
視線に気付いたのか、静かな寝室に車輪がタイルを噛む、重苦しい音が軋んだ。
「……いつもの、オレンジがいい」
掠れ声で言った彼女の視線の先には、鮮やかな真紅の液体で満たされた、大きなデキャンタ。
「少し酸味が強いわよ?」
「大丈夫。さっぱりしたい……です」
搾りたての、ブラッドオレンジジュース。シシリアの夏の定番で、ルカの好物。彼女は毎日自ら絞って一杯のオレンジジュースを飲む事を好んだ。
「ですってよ、オルト。そんな隅っこで震えてないで、用意しなさいな。王子様——ではなくて、『お姫様』が、ご所望よ」
「震えてねーって!」
部屋の隅っこにいる息子へは、笑って声を掛けてやる。さっきから、ビクビクしながら突っ立っていたオルトが、ようやく「らしい」反応を見せた。
「貴方が絞ったのでしょう? ルカの為に」
「別に、そんなんじゃ……」
頭の痛い事に、年明けから共に過ごしていながら、オルトはルカを、男の子だと思い込んでいた様だ。
そうでなくとも、ルカが六つになるまでは共に過ごしていた。なのにである。
もう良い大人であるのに、事実の衝撃からか、魂が抜けた様にしていた息子。
応急手当てなのは、判る。だが、昨晩の絵面の酷さには、アウグスタもまた面食らった。
当事者であるオルトとしては、アレだけでなく自らのこれまでの振る舞いにも、思う所があるのだろう。
だが、それはこの子自身の浅慮が招いた自爆。
もう良い大人である息子の脳筋節穴ぶりには、アウグスタも、思わず溜息が漏れてしまう。もう少し、考えながら日々を送って欲しい。
「オルトは、鈍間」
「お、おいっ! ルカてめぇ……」
言い掛けて、止めるオルト。いつもの遣り取りの筈なのに、動揺している。
「さっさとジュースを持ってくる。味は期待しない」
「お前さぁ……」
いつもの毒舌、いつもの軽口。
ルカの方が、余程に大人であった。
オルトはグラスへブラッドオレンジジュースを注いだ。近付いてくる、足音。
大きなものでなく、慎重な、静かな調べ。
オルトが側に寄る。大きな手で、ルカの好物を捧げ持ちながら。
今朝も、走って来たのだろう。だが汗でなく、石鹸の匂いがしていた。
「……珍しい」
「何がだよ」
「いつも、汗臭いのに」
くっくっと、つい笑いが漏れてしまう。いつも通りのルカと、明らかに動揺している
ルカは受け取ったグラスへと口を付け、喉を鳴らした。
「……ごちそうさま。まだまだだね」
またもや何かを言い返そうとしたオルトだが、言葉を飲み下し、眉を下げている。
ルカとは、顔を見合わせてしまう。
瞳に映るのは、いつも通りに可愛らしい姪の顔。息子には生意気に見える様だが。
「
頑張ってはいるが、まったく板についていない。
どうやら、そろそろ本格的に女性の扱いを学ばせねばならない様だった。
穏やかな朝食の時間は、扉を叩く切迫した音により唐突に終わりを告げた。
許可を出す前に滑り込んできたのは、婆やだった。
「奥方様、急ぎ、お耳に入れにゃならんことが……。昨晩、検挙しちょう欲深か連中の残党が、港で喚いとります。不当逮捕だなん言いくるめて、群衆ば、煽りよっとです」
その情報は、寝耳に水と呼べるものである。
「その数、五百は下らんごだ。だけん、そいば止むっ為に、フィオナお嬢が外に出なはったとですたい!」
そして、到底見過ごせないものだった。
「あの馬鹿……」
オルトの吐息。
アウグスタは手に持っていた匙を静かに置いた。
その僅かな金属音だけで、部屋の空気が凍りつく。
「騎士団は?」
「色男めが抑えちゅうばってん、留まっとりますたい」
アウグスタの瞳から、つい先ほどまであった穏やかな母としての微かな熱が、氷のような冷徹さへと塗り替えられる。
「婆や、ルカを任せます。私が出るわ。オルト、エプロンを脱いで、着いて来なさい。帯剣を認めます」
だが、その貌もまた母のもの。
正義感が強く、道理を通そうとする「娘」を、危地へと晒しておく訳にはいかない。
予感は、確信に変わっている。
これも、十四年前に経験した「赤い獅子」の手管であった。
ならば、トラーパニ領主代行として、出なくてはならない。
優雅に、されど迅速にアウグスタは、いつもの喪服を身に纏ってゆく。
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