フオリエ・ナスコシテ   作:カズあっと

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32話 英雄の胃袋、只人たちの林檎。

 

 

「立てるか?」

「ヒィッ!」

 

 差し伸べた大きな手が、空を仰ぐ。

 オルトに「軽く撫でられた」者たちは、怯えた顔で走り去っていった。

 

「んーだよ。失礼な奴らだな。母ちゃん、俺、ちっと組合に顔出してくんわ」

 

 少しだけ眉を下げ、後頭部を掻きながら、巨躯を揺らして去っていく背中。

 アウグスタはその背を見送りながら、隣に立つフィオナの肩へそっと手を置いた。

 

「……法で縛らざるを得ないのは、心苦しいわね」

「どうしたって、ルールの明文化は必要となります」

 

 力無く、笑い合う二人。

 この状況は、まったくの想定外ではなかった。

 古くからある手口で、国によっては法規制も敷かれている。だが、ビタロサはそうではなかった。

 

「徴税にせよ、保険にせよ、同じ事。理屈はわからなくもないけどね……」

 

 資金を集め、事業を起こす。その見返りとして利益を分配するのは、自他共栄への手段でもあった。

 

「偉い人達って、正しすぎるんですよ……」

「英雄には、人の心がわからない」

 

 アウグスタが呟いたそれは、王や統治者といった為政者たちへの、最大級の皮肉だった。

 彼らは例外なく知勇に優れ、高潔な「強者」だ。

 

 彼らにとっての『生きる』とは、飢えれば異界に潜り、霊獣の肉を食らってでも生き延びるなどの、能動的な闘争を指す。

 だが、誰もが獣の生肉を消化できる、頑強な胃袋を持っているわけではない。

 

「只人に、大いなる御心がわからないのと同じでね」

 

 清廉な瞳は、泥水の中で足掻く姿を見ても、その醜さを理解できない。

 資金の流入が止まれば破綻する商法を「生業」とする弱者の存在すら、彼らは「懸命に生きている」と信じるだけだ。

 

「人を、信頼し過ぎているんですもん。……帰ったら、規制案の草稿を作りますよ」

 

 大きく嘆息したフィオナが言う。

 

「そのくらいなら、私でも出来るわ。ルカを、お願いするわね」

 

 苦労性なフィオナへは、やんわりと断りを入れる。

 優秀でしっかり者だからこそ、この娘にあまりにも多くを背負いさせ過ぎていた。

 

「地味な仕事なんて、大人に任せておきなさいな。今はまだ、信用を積み上げてゆく時期なんだから」

 

 英雄でない只の女である二人には、社会の安定こそが望ましい。

 空の上で、ミャオミャオとウミネコが鳴いている。

 

 青い空、白い雲。紺碧の海に、白亜の石畳。緑が繁る、美しい港街。

 それらを維持するのは、大変に気苦労の多い事だった。

 

 

 

 ——そんな気苦労の際たるものが、屋敷の自室では待っていた。

 無言で見つめ合う親子。アントニオとルカである。

 傍ではリナが、何故かお行儀よく立っている。

 扉を開けて視界に入った光景に、アウグスタは思わず扉を閉めた。

 バタバタと、足音が鳴る。

 

「ちょっと! 奥方様! フィオナ様! この状況、何とかして下さいよ!」

 

 リナの悲鳴が響いた。

 仕方なくアウグスタは再び扉を開けて、遠慮しながら自室へと入った。

 

「ただいま。リナ」

「戻ったわ」

 

 フィオナと二人して、挨拶をしておく。大事な事だから。

 駆け寄ってきたリナは涙目で、アウグスタへと縋りついてくる。状況は、見ただけで察せられた。

 

「二人とも、何普通に『ただいま』してるんですか! あの二人、『大事ないか?』、『うん』て言ったきり、もうずっと、黙って睨み合っているだけなんですよ! もう私、気が気でなくて……」

「あら、状況説明ありがとね。リナは良い子ねー」

 

 フィオナがリナを引き受けて、褒めながら、よしよしをした。その間に、目顔で語り合う。

 苦笑いをする彼女もまた、アントニオの口の重さを知っている。

 

「ふぇーん! フィオナ様! もっと甘やかして!」

 

 リナはたちまちフィオナへと縋り付く。

 現金な娘であった。

 

 寝台へと視線を向ければ、ルカはプイと顔を背けている。側に立っていたアントニオは、黙って騎士礼をしていた。

 

「ペントラ卿? ここは、淑女の寝室なのですが」

「これは、失礼しました」

「待ちなさい、アントニオ。別に構いません。ルカを心配しての事でしょう」

 

 立ち上がり、去ろうとする男を呼び止める。

 椅子を用意してやり座らせると彼は、相変わらずの無表情だった。

 

「貴方ねぇ。少しは気持ちを表情に出しなさいな」

 

 ルカはうんうんと頷いているが、この子もだ。

 

「貴女もよ、ルカ。嬉しいなら嬉しい、寂しいなら寂しいで、顔に出しなさいな。貴女のお父上は、そこまで鈍い人ではないわ。……不器用だけど」

 

 白い肌を赤く染めたルカは首を振るが、姪の気持ちなぞ、お見通しであった。

 賢いだけあって、我慢する。甘えたいのに、やり方がわからない。良く似た父娘なのだ。

 そのせいで、アントニオの再婚だって進まない。

 思考が愚痴へと浸りかけた時、軽やかな声が呼ぶ。

 

「奥方様、お茶にしましょうよ。流石に私も疲れましたし、少しゆっくりして、それから、ね?」

 

 フィオナの提案も悪くなかった。ついでに、どうにも不器用な二人を囲むのも。

 

「リナ、お茶の用意をお願いね」

 

 夜会開催以来、錨を下ろすと言って、本業をサボりがちな侍女へ、アウグスタは仕事を命じた。

 

 

 

 窓の外から射す、強い陽光を羅紗の帷が柔らかなものへと変えている。

 青磁の茶器から立ち昇る白い湯気は、甘く室内を満たしていた。

 遠い海原を渡ってきた風が、瑞々しい花弁の粉を掬い取って運んできたかのような、透き通った芳香。

 

「ルカってば、『収納』も、もう修めたんですよ。オルトは未だに『やっと』なのに」

 

 こないだの夜会以来、フィオナもアントニオの扱いを覚えた様だった。気安く話しかけている。

 

「それに、学問だって、学園で一番なんですからね。私も鼻が高いですよ。ねー、ルカ様ー」

 

 リナも負けじと頑張るが、やはり彼女にはまだ早い。標的が、アントニオよりもルカだし。

 

「リナお姉様に喜んで貰えて、私も嬉しい」

 

 ルカは可愛かった。

 

 喉を通る間に感じる、わずかな渋みと、それを追い越してゆく果実にも似た清涼感。

 良い茶であった。フィオナのミリオッツイ商会でも一級の品である。

 だが、何故リナの鼻が高いのかは、未だにわからない。

 

「……学問が、好きなのか?」

「まぁまぁ」

 

 ルカには以前から、王都の幾つかの学府付属より、勧誘が来ている。いずれもトラーパニの学園とは比べ物にならない教育機関であった。

 

「……行くか?」

「行かない」

 

 あまり、本人にその気はないようであるが。

 良い教育は、無駄にならない。アウグスタとしても伸び盛りのルカには高い教育を受けさせたい気持ちはあるが、本人次第でもあった。

 

 周囲が上手く回そうとはするものの、親子の会話は中々弾まない。わかりきった、結果であった。

 

 ——ままならないわねぇ。

 

 そんな物思いに耽っていると、窓の外から大きな足音が聞こえてくる。

 その音は段々と大きくなっていき——

 

「ルカっ! 起きてるかっ!?」

 

 大きな声と共に、騒々しく扉が開かれ——ることもなく、盛大に弾け飛んだ。

 埃舞う中、堂々と胸を張る巨躯の影。

 一瞬、部屋の中が凍える。

 

「はぁ?」

「何やってるんですか若様!」

 

 だが、まだ若い娘達はそれに気付く事もなく、フィオナはポカンとし、リナが怒鳴る。

 ある意味当然だった。

 

「ただいま」

 

 両手に大量の果物籠を抱え、能天気に帰宅の挨拶をするオルト(クマ)が、扉を開けたのだ。脚で。

 

「お、起きてんなルカ。ちょっと良い霊薬と、果物を組合で集めて来たからよ。元気出せ」

 

 大声で、自慢げに笑う息子。扉だった物が、ドシンと響きを上げて倒れる。

 なぜ、押したのか。それも足で。

 大体、この部屋の扉は必要上、引き扉であるのに。

 

「お、兄貴も来てたんだな」

 

 じゃないわよ。馬鹿息子。

 

 アウグスタは、こめかみに浮き出そうになる青筋を、優雅に茶を啜る動作で押し殺した。

 よりにもよって、引き扉を蹴り倒すとは。

 それも、私の騎士の目の前で。

 

「……オルト」

 

 当然、立ち上がったアントニオは構えている。

 まだ、剣はない。剣は主の意志を待つ。

 

 その声は、地を這うように低かった。

 彼にとってもこの場は愛娘の療養の場であり、淑女である主人の寝室だ。

 そこへ、土足どころか扉を破壊して踏み込んできた不届き者が現れれば、どう思うかなど明らかだった。

 

「お、おう。なんだよ、怖い顔して」

 

 オルトは未だに、自分が何をやらかしたのか、そしてこの部屋の空気の「正体」が何なのかを理解していないようだった。

 ただ、いつものように豪快に笑い、抱えた果物籠をベッドの脇にドサリと置く。

 

「ルカ、これ食え。組合の連中も心配してたぞ。特にあの受付のお姉さんがよ——」

 

 そこで、オルトの言葉が止まった。

 ようやく、思い出したのだろう。

 物音へ驚いて、反射的にアウグスタへしがみついたルカが、女の子だという事に。

 

 彼女は寝巻きだ。室内は適温を保っているが、夏という事もあり、薄着であった。

 薄く、華奢ながらも、きめ細かい柔らかな肌。

 身体も僅かにだが、丸みを帯び始めている。

 

「オルト、うるさい」

「あ……。あ、あああ……っ!」

 

 突如として、オルトの顔が熟れた林檎のように赤く染まった。

 差し出したままの果物籠が、その太い指の間でみしりと悲鳴を上げる。

 これまでは、どれだけ距離が近くても、どれだけ肌が触れ合っていても、「鍛え方の足りない弟分」としか思っていなかったのだろう。

 だが、一度「女」だと認識してしまえば。

 

「オルト、貴方ねぇ。女の子の寝巻き姿を、いつまでも眺めてるんじゃないわよ」

 

 細い肩、寝巻き越しに透ける鎖骨、そして何より、あどけない、けれど冷ややかな瞳。

 

「お、お母様っ? ……お、お、伯父上……っ。……その、ル、ルカ……お嬢、様……?」

 

 今更すぎる、そして相当に錯乱している様だった。

 壊滅的に似合わない敬称がオルトの口から漏れた。

 アントニオの拳が、静かに、けれど確実に震えている。

 ルカを横たえて、寝具を被せたアウグスタは茶を一口含んだ。ゆっくりと、嚥下してゆく。

 

「オルト」

 

 アウグスタが、最後通牒のようにカップをソーサーに置いた。硬質な音が室内に響く。

 

「……はい」

「今すぐ、その扉を直しなさい。その後、リナに新しいお茶を淹れてもらう間、庭で頭を冷やしてくること。いいわね?」

「……ハイ」

 

 オルトは壊れた扉を抱え上げ、逃げるように部屋を飛び出していった。

 静寂が戻った室内で、ルカがふぅ、と小さな息を吐く。アウグスタも、同じ吐息を漏らした。

 

「……オルトは浅慮」

「そうね。でも、あれでも心配だけは人一倍だったみたいよ」

 

 アウグスタは、ベッド脇に残された山のような果物籠を見やった。

 中には果物だけでなく、一般流通品ながら、高価な霊薬までもが入っている。

 

「オルトは、これを態々買って来たのかしら?」

 

 覗き込んだフィオナも、呆れて溜息を漏らした。

 

「若様、薬を使わないから、見ないですし……」

 

 リナも全く同じ吐息を溢している。

 果物はともかく、生命力回復用の霊薬は、屋敷にも置かれている常備薬だった。つまり、無駄足である。

 

「さて、お茶を飲み直しましょうか。せっかくだから、林檎でも切ろうかしらね」

 

 一番瑞々しく、立派に実った物を手に取った。

 考えが浅く、空回りする息子。

 それでもその優しさは、誇らしいものだった。

 

「リナ、お茶をお願いするわ。先に食べちゃいましょう。……あの子が戻る前に、ね」

 

 貴方もよ。アントニオ。そうアウグスタが微笑むと、ようやく剣は肩の力を抜き、再び「無言の置物」へと戻っていった。

 

 だが、アウグスタは覚えている。

 あの、恐らくは工作員だった男の、耳に残る言葉を。

 

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