フオリエ・ナスコシテ   作:カズあっと

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4話 赤い影。

 

 戦の翌日。

 港はまだ焦げた匂いを残しているが、倒れた船材は片づけられ、瓦礫の間には人々の笑い声も混じっていた。

 犠牲なく「凌げた」という実感が、人々の顔を少し明るくしている。

 アウグスタは机に広げた復興計画へ署名し、羽根筆を置いた。肩が僅かに重く、視界が微かに揺れる。

 それでも、動作に笑みを添えて——気丈に振る舞うことこそ、彼女の責務だった。

 

「奥方様、もうお休みください」

「大丈夫。あと少しだけ」

 

 婆やの視線は鋭い。だが、筆を置いたこの瞬間だけは。

 その静けさを破るように——扉が開き、足音が滑り込んでくる。

 

「……遅れて申し訳ありません、奥方様。フィオナ・ローサ=ミリオッツイ、御前罷り入りました。……王都、少々荒れておりまして」

「大仰な礼は不要ですよ。フィオナ」

「でも、婆やがうるさいですし」

 

 悪戯っぽく笑う少女を、婆やがジロリと睨む。入り口から滑り込んできたばかりの少女は、肩を落としつつも息を切らしていない。

 深紅の上衣にトラーパニ式のレース飾りが映える、細身の身なり。髪は乱れておらず、靴には光沢が走っていた。

 

「いいえ、来てくれて助かりましたわ。何か、変化が?」

 

 アウグスタは、疲労の重さからくる微かな頭の痛みを無視して、背筋を伸ばした。

 目の前のフィオナは、十八歳という若さにもかかわらず、その声には一切の迷いがない。

 

「相場が跳ねました。霊核、特に低位品の流通が、ほぼ蒸発しています。王都の中央倉庫が……もう、空っぽに近いんじゃないかと」

 

 霊核。その単語がアウグスタの聴覚を叩いた瞬間、胃の底が冷えた。夫を失ったあの日も、市井ではこの単語が溢れていた。

 

「また赤い獅子?」

 

 眉を寄せるアウグスタに、フィオナは小さく頷く。

 

「ええ。取りまとめてるのは、中央調達庁。実質、赤い獅子の牙城です」

 

 首の後ろがじりじりと熱を持つ。過労と睡眠不足が、神経を刃物のように鋭敏にしていた。

 卓に置いた自分の手を見れば、微かに指先が震えているのがわかる。

 

「その異常流通、出所は?」

「今朝、手がかりが出ました。先週トラーパニ沖で拿捕された商船。あれ、検査の結果、王都の正規品でした」

 

 落ち着け。これは、事実の確認だ。

 アウグスタは深く息を吸い込み、頭の中で情報を整理した——

 

 ・霊核の流通がほぼ蒸発している。

 ・取りまとめているのは中央調達庁。財務省に根を張る赤い獅子達。

 ・今朝、トラーパニ沖で拿捕された商船は王都正規品。

 

 胸の奥が冷たくなる。記憶が勝手に十四年前の不況と混乱を呼び起こす。

 あの時も帳簿上は平常の供給が記録されていたが、市井には必要なものが届かず、困窮が広がっていた。

 そして——その裏で、王都のある組織が法の隙間を利用して暗躍していたことも思い出す。

 霊核を操り、異界に影響を及ぼす術を用いた者たち。今もなお、同じ道を歩もうとしているのかもしれない。

 

 言葉を選ぼうとしても、喉が固まる。

 口を開けば、あの時の音が漏れてしまいそうで。

 だから彼女は、ただ息を整えることに必死だった。

 

「どういうこと? 王都から横流し……?」

「まだ仮説ですが、正式経路の枠を偽装してます。相場操作のためか、あるいは……」

 

 もしも今回も同じ構図なら——市場で「それ」を握る者たちは、操作を繰り返すつもりなのかもしれない。

 無理に押さえ込めば、また暴走が起きる。

 

 情報が渦を巻く。事実と記憶が重なり、理性が圧迫される。

 それでも考えなければ。指針を立てなければ。

 

 ——なのに、呼吸だけが上手くいかない。

 吸うたびに胸が軋み、吐こうとすれば喉が固まる。

 記憶が、息の隙間に入り込んでくる。

 アウグスタが息を呑む。喉の奥が乾き、視界の端に淡い光景が滲み始めた。

 

 船の甲板、青い空、潮風に揺れる帆。

 その一瞬、胸の奥に温かい記憶が流れ込む——あの日の港町の光景、まだ笑い声が響いていた、あの幸福な日々。

 

 ——「お前が笑えば、俺たちも笑えるぜ!」

 

 賑やかな酒場。あの時、夫は同僚たちと笑い合っていた。硬いパンと安酒ばかりの宴席で、彼は無邪気な少年のように笑っていた。あの笑顔が、アウグスタの全てだった。

 

「……市井に混乱は?」

 

 声は震え、かろうじて一言だけ。胸の奥が圧迫され、呼吸が浅い。

 

「ありません。今は、まだ」

 

 自信溢れる声が遠く聴こえた。フィオナの輪郭が、目の前の明るい光の中でわずかに滲む。アウグスタは深く息を吸い込もうとしたが、胸郭がひどく窮屈で、空気がうまく入らない。

 

「……よもや、異界化の準備を?」

 

 呟きが溢れる。言葉を発するたび、心臓が大きく跳ねている。

 

「かもしれません」

 

 答えは簡潔。だが、その一言が重すぎた。

 

 シンと静寂に包まれる執務室。左胸からはうるさいくらいに規則正しい旋律。速い。速すぎる。その鼓動が、冷たい水が流れ込むように耳の奥で響き始めた。

 

 沈黙を破ったのは、部屋の隅で茶器を片付けるリナの軽い声だった。

 

「でも不思議だよね」

 

 首を傾げながら続ける。

 

「流通減ってるのに、発術所とかじゃ霊核不足って言ってないし。街も全然普通だよ?」

 

 ——「分けろ。皆で食えば、それは十杯分の力になる」

 

 遠征先の簡素な野営地。夫は、わずかな麦粥を躊躇なく四つに分けた。彼が分け与える光景を見るたびに、アウグスタは彼がただの同僚ではない、皆の兄のような存在だと感じた。あの時の、湯気の温かさ。

 

「そう。帳簿上の供給は、平常通りなの。でも、市場からは霊核が消えてる。使われてる形跡もないのに」

 

 アウグスタは、無意識に左手を胸元に押し当てた。このままではだめだ。息を吐かねば。

 しかし、吐くことが怖くて、吸い込むことしか考えられない。喉が痙攣している。

 そんなことより、情報を整理しなくては——

 

「溜め込んでるの?」

 

 頬を焼き菓子で膨らませて答えるリナだった。。その軽やかな声が、現実と過去の記憶を結びつける。

 

「だったら、そろそろ爆発する頃。密封を解けば受肉も起きるし、最悪は異界化するわ。危ないって教えたでしょ?」

 

 フィオナは椅子に深く腰を下ろす。眉間に僅かな影をおとし。

 

 ——危ない。

 

 胸の奥に刺さる冷たい予感。意識の隅で過去の断片が重なる。

 アウグスタの視界が、急激に狭まった。息を吸い過ぎたせいで、脳が痺れ始めている。

 

「でも一番怖いのは、市場が既に操作されてること。今朝の王都、マジでひどかったのよ。お抱え術師たちも泣いてたし、投資部門はみんな教会走ってた」

 

 フィオナの声が水中で聴くような、ぼやけた音になる。

 王都の市場、崩壊寸前の信用、疲弊した仲間たち、あの雄叫びと笑顔。すべてが、いま目の前の異常流通と結びつく。

 指先がしびれ、寒気を感じるのに、額には冷や汗が噴き出している。呼吸を、呼吸を整えなくては。

 

「教会って……お祈り?」

「いや、宝石相場を見に。……暗黒の安息日よ、もうこれ。債券なんて最初に落ちたし」

 

 債券。その単語が、決定的な引き金だった。夫が崩壊した債券と共に、全てをやり直すのだと誓ったあの日の記憶。

 

 ——「島に帰れば、飯の心配はいらない。トラーパニが、皆の腹を満たしてやる!」

 

 王都を立つ時の、夫の雄叫び。疲弊しきった仲間たちの顔に、その言葉が希望の光を灯した。

 彼が言えば、誰もが信じた。あの、自信に満ちた温かく力強い声。幸福の在処。

 

「……ッ、は、は、ひゅ……」

 

 体が震え、卓に伸ばした手が茶器の縁を打つ。

 フィオナが立ち上がりかけた瞬間、アウグスタの視界は真っ白な光に覆われた。

 意識が、闇の底へと滑り落ちていく。

 

「お嬢様っ!」

 

 婆やの叫びが響く中、アウグスタは床に倒れ伏した。朝に届けられた領有貴族の行方不明報告が、赤い獅子の影を濃くする。

 

 

 彼女の知らぬところで、トラーパニの夜は静かに腐敗を孕んでいた。

霊核の流通が止まった陰で、赤き印章を掲げる者たちが集う。

 

 静かなる屋敷の中で、彼らは蠢く。

 悲願を、望みを、陰謀を叶えるために。

 赤い獅子(レオーネ・ロッソ)の旗の下、密使たちは霊核を運び、トラーパニの海を越えていく。

 

「不幸な事故でしたな」

「なんの。ティレニア海を渡るなら、想定内だろう」

 

 紅のガウンを纏う男たちが、長卓の影で嗤う。

 彼らは官僚派閥——王都の中央集権を支える「功労者」たち。

 領有貴族を廃し、富を王の下に集めることを正義と称する者たちだ。

 

「キエッリーニの後家め、厄介な女よ」

「大義を掲げれば、何もかも赦される。議会の覇権こそ正義じゃ」

 

 闇の中で、杯が静かに打ち鳴らされた。

 その音は、理をも喰らう野心の響き。

 そして——ビタロサ王都ロウムの夜が、静かに紅き陰を宿していった。

 

 

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