フオリエ・ナスコシテ   作:カズあっと

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40話 正義の道楽。

 

「悪いな、お兄さん。俺らは、手を引くぜ」

「ま、待ってくれ。それでは配当も元本の補填もできん」

 

 とある富裕な商家に招かれた煽動者は、狼狽していた。利に聡い富商が、投資を捨て去るとは考えてなかったからだ。

 ミリオッツイを始めとする、大商会も金を出している。その事実が、この商法の肝であるだけに。

 

「まぁよ。俺も悪い話じゃねぇとは思うんだが、『奥方様』が止める方向だろ? あの方に逆らって、化け物を送られても堪らないからな」

 

 また、これだ。これで七件目になると、煽動者は拳を握りしめた。

 あの、喪服を纏う女が商売を邪魔している。それも、暴力という理不尽な「悪」を背にして。

 

「ふ、不当な暴力に屈するのですか?」

「俺にゃわからんが、あの方が『やめとけ』って言うもんは、大概間違えねーからな。お薦めは、道楽みてーなもんだけどよ」

 

 そう。それはこの男、煽動者も知っている。

 

 教育、医療、一次産業。彼女自ら率先して資産を溶かし、回収を度外視した事業の数々。

 領主代行が薦める事業は、それ程利益を運ばないというのは有名な話だった。

 されど、「やめておけ」としたものも、大抵が破綻している。

 

「あの女性の事業はな、先を見越したもんだ。俺達の商売じゃ届かない場所を、埋めてくれてんだよ」

 

 そう語る態度には、憧憬だか信仰だかという、煽動者にはあまりにも無意味な情感が乗っていた。

 

「そんな事業に誘うのは、内実が苦しいからではないですか? 道連れを、求められているのでは?」

「んーな言い方するなって。俺達おっさんにとってはよ、美人からの誘いは嬉しいもんだしな」

 

 軽口で返される。だから、悪いなと。

 だがしかし、煽動者は諦めない。

 

「だからって、手を引いても元本は……。それに、まだ配当がありますよ」

 

 それを分け与えるだけの、余裕があった。この商法はそういう構造をしている。

 

「そんくれぇ、くれてやるよ。だが、お前さんは逃げんじゃねぇぞ?」

 

 この対応は、これまでの全てと同じであった。

 信用を担保する商人達が、離れていっている。

 

「『奥方様』の介入は、間違いです」

 

 煽動者の腑が煮えくり返るが、平静な声が出る。

 この特性だけは、「生みの親」への感謝をしなければならないと、彼は思っていた。

 

「そんなに間違いはしないぜ、あの方は」

 

 ここまでの誰もが、同じ事を言った。

 「何故だ」と、煽動者は想う。

 

「そんな事はないっ!」

 

 商家の主人は、驚いた顔をした。

 

「……失礼。いずれにせよ、当主代行の方針は、中央の進める『余滴の法』と噛み合いません」

 

 口調を改め告げると、商家の主人は確かめる様に尋ねる。

 

「持ってかれる割合が減るってんなら、俺らにゃ恩恵があるけどよ、ありがたい話なんだけども、大丈夫なのか?」

 

 余滴の法は消費による経済振興を目的として、財務省により打ち出されていた。

 

「問題はないでしょう。国が、進めているのです」

 

 問題があるとすれば税収減であるが、その対策も同時に進められていると知っていた。

 

「とは言っても、地方への王国調整財源を減額するのだろう? 元々、俺らの街には問題ないが、割を食う他所の不満とかはよ」

 

 一代で成功を収めた商人が、不安顔をする。

 

「多少の不満があれども、容易に暴発する様な脆弱な社会ではありませんよ」

「だ、だよな。ちっとビビり過ぎてたか」

 

 落ち着いた声で告げてやれば、安心した様に酒盃を傾ける。

 

 ——他愛ない。

 

 求める言葉を与えてやれば、簡単に人は踊った。

 既に社会は、野蛮な武力からの脱却を果たしている。不満があるからと、暴力へ訴えて赦される事はない。

 

「今は、武力よりも経済力ですよ。貴族なぞという生産性のない連中よりも、常に情報の最前線に立つ商人が輝く時代です」

 

 それを担保するのは、武芸などではない。

 心理を読む観察と、言葉の力であると煽動者は信じている。

 こうして大商人も、満足気に頷いていた。

 

 杯をチンと合わせながら、力強く頷き返した煽動者であった。

 

 

 

 酒器の触れ合う乾いた音や、魚を摘む咀嚼音。

 たった二人しかいないのに、機嫌良く話し続ける大商人。

 

 言葉が止まる僅かな間でも、心地よい音韻は響き続ける。

 それも、調整する煽動者の手管であった。

 

 こうして親しく接していれば、不信感さえも溶けるもの。それを彼は知っている。

 だからこそ、歩みは遅くとも確実に、こういった関係を構築してきたのだ。

 

「良いですか? 私の商法は長期的には確実な利益を保証するもの。途中で止めたら、丸損ですよ」

 

 杯に満ち、滴り落ちた甘露が下流を潤す。

 それは実に合理的な幻想だった。胸も懐も痛まずに、利益を得る事が出来る。

 

「俺は、返せとは言わねぇ。だが、途中で降りる奴らには、誠意を見せてやれ」

「流石、立派な商売人の言葉は重い。僅かでもあやかる為にも、誠心誠意、努めてゆく所存です」

 

 もう、何度繰り返されたのかもわからない「お説教」。それを、全身を耳にする振りをして、阿諛をしている。

 この光景を第三者が見れば、さぞ滑稽だろうと考える煽動者であった。

 

「兄ちゃんは、大したもんだよ。孤児院の出だってのに王都で学んで働いて、こうして故郷に錦を飾ってんだ。それに引き換え、家の倅はよ……」

 

 酔ったのか、それとも所詮若造とでも考えているのだろうか。愚痴ばかりが流れてきている。

 この侮りさえも、煽動者にとっては都合が良いものだった。

 だからこそ、愛想良く応えていたのだが。

 

「お前さんも、奥方様には感謝しろよ。あのお方のおかげなんだからな。それが出来たのも」

「そう恩恵を、授かったとは思いませんが」

 

 上機嫌な男に、背中を強い力で叩かれる。

 

「照れ隠しすんなって! 賢い兄ちゃんが、わかってねー筈ねーだろが!」

 

 笑う酔っ払いには、否定の言葉でさえも、謙遜か何かに映るらしかった。

 

「いえ。当時は既に十五を迎える年でしたので、それほどは。それにご承知の通り、私は元々孤児でしたからね。十二での誓いの儀も、冒険者組合で済ませましたし」

 

 またもや背中を叩かれて、今度は泣かれる。お前は偉い、頑張ったなという賞賛が、空虚に響く。

 酒は知性を低下させる毒物でもあった。

 王都の学府で身に付けた「収納」の術式を用い、飲んだ振りをしている。彼は酒を嗜まない。

 

「なんもかんもが焼けちまって、孤児で溢れちまったこの街をよ。『子供達は、希望です』なんつって、立て直してくれたんだぜ」

 

 まるで武勇伝の如く語られる十四年前の話は、不味い酒の様に、酷く苦い味わいとなる。

 

「それに、十五の嫁入りの時から孤児院にゃ、世話を焼いていただろう? お前さんも、世話になった口なんじゃねーのか?」

 

 もうずっと、思考を過去へと浸らせている「未来の脱落者」へは、皮肉に唇が歪んでいた。

 それを見咎められる事はない。

 酒とは実に便利な道具であった。

 

 確かにまだ、彼が「主と国家の間の愛し子」と呼ばれていた時期に、あの女の姿を目にしていた。

 

「それによ。もう、二十年にもなるのか? 毎年途切れさせずに、孤児院から一人を家で雇用してんだぜ。中々、続けられる事じゃねぇ」

 

 この、酒に酔った商人の言葉は事実だと煽動者も認識している。だが、たった一人だ。

 

「あの方は、選別しているだけです」

 

 吐き捨てた言葉。

 つい一瞬、感情の抑制が剥がれていた。

 

「んな事ぁ、ねーだろうよ」

 

 すかさず返されるが、そう気にしてはいない様であった。繰り言じみた戯言が、漏れ続けている。

 

「雇用というものは、公平でないと行き詰まりますのはご存知でしょう?」

「そうは言っても、福祉の一環だろうがよ。もしかしたら、籤かなんかで選んでんのかもしれんが」

 

 自らの言葉に、傑作だとばかりに笑う大商人。

 それならば、まだマシだったろう。

 

 領主代行は、何の力もない、ただの子供を引き取り続けていた。

 それが、慈善事業の一環だとは知っている。

 だからこそ、納得は遠い。

 

「いいえ。偏りは、明らかでしょう?」

 

 完全なる無作為や、能力により選別されたのなら、納得も出来よう。有用な者を手元に置く事は、立派な資産形成なのだから。

 だが、あの女が選ぶのはそうではなかった。

 

「容姿だか、器量だか。そんなものでしか、救いませんよ? あの方は、女、少女が好きなのです」

 

 言葉は皮肉に漏れる。

 無力で頭の働きの悪い女を、特に好んで選んでいる。街角に立つしかない愚鈍な女を、躾や教育だなどと称して。

 

「哀れな少女達は、『冷たい領主代行』の下で、どの様に扱われているのでしょうな?」

 

 鼻白む商家の代表がいる。だが、一瞬で、朱色に染まった。酒の巡りでないもので。

 

「おい。下らねぇ噂話に、踊らされるんじゃねぇ」

 

 唸り声にも似た、低い音。

 

「彼女は、どうやって資金を捻出し、王都の干渉を退けてきたのだか……。そういえば最近は、夜会なぞを開いておりますな?」

 

 含みを持たせてやれば、心に描いたものがあるのだろう。何も、言えないでいる。

 そう、それで良い。

 事実よりも、その者が求める真実の方が、飲み込み易いものなのだ。

 

「下世話な噂話ですがね。王都では、大いに囁かれておりますよ。あの、白い屋敷の中では、毎夜何が起こされているのかと。情報に聡い辣腕の旦那様ならば、お耳にされた事もあるでしょうな」

 

 青黒く染まる顔色。

 信じられない話だとでも思っているのだろう。

 あの彼女が、色と欲を用いているとは、煽動者とて信じていなかった。

 

 ——これで、いい。

 

 だが、穢れは残される。疑念は燻った。

 流石に、これで足りるとは煽動者とて考えてはいない。

 それでも楔を打てるならば、充分だった。

 

「いや、別にそういうんではないかと……」

 

 重苦しく、吐き出された言葉。

 この反応も、七件目であった。誰もが期待をしながら否定する。

 そこへ流し込むのは、事実と推測という名の毒。

 

「少なくとも、能力よりも、性別が先にあるのが、おわかりでないと? ずっと選ばれているのは少女ですよ。能力ではない。あの方の専横を許すなら、いずれ首が落ちるのは我々です」

 

 誰もが顔色を変えた。そして、この男も。

 短くはない、沈黙が流れる。

 商家特有の喧騒が、耳に遠い。

 

 何へ想いを馳せているのだろう。

 見知った少女達へか、それともあの女へか。

 それさえも、彼にはどちらでも良かった。

 だからこそ、助け舟を出してやる。

 

「失礼しました。些か品性に欠ける話題でしたな。ですが、そういった目で見る者もいると、ご理解ください」

 

 ゴシゴシと顔を拭う商人がいた。大きく息を吐いている。それなりに割り切った、顔色だった。

 

「これ以上の投資をするつもりはねーが、飯くらいは食わせてやろう。それで、手を打てや」

 

 そして、言葉は紡がれる。皆が同じ事を言う。

 

 また、だ。

 煽動者は屈辱を感じていた。

 

 孤児院上がりの男は、飯でも食わせれば手懐けられるとでも、思われているのだろうか。

 この街の者は、いつもそうだった。

 だからこそ、十五の彼は街を出た。

 

 酒宴の締めとして注がれた紅茶を口へ含みつつ、煽動者は鋭く眼差しを細める。

 

「飯くらいならば、自分の力で食えますので」

 

 冷たく言い放つ。滑稽な程に大仰な、紳士の礼を見せてやる。

 

「ご馳走になりました。また情報がご入用でありますれば、お呼び出しください。失礼いたします」

 

 やがて男は外へ出る。

 眩しい陽射しに、瞳を眇めていた。

 

 

 

「水は高きから低きへ流れる。それこそが、世界の理です。清き流れは私達の喉を潤し、畑を繁らせ、清潔を保つもの。万民に遍く届けられる、世界の恵みであります!」

 

 煽動者の声が、広場に響いていた。

 聴衆のざわめきを、彼は肌で感じている。

 一人、また一人。足を止める者が増えるたび、その密度が増した。

 言葉を届けるべき民衆の、顔が見えている。

 

「この水は、あなたが茶を楽しむのにも、食事で満ちるにも、入浴で安らぐにも使われる、まさに我々にとっての命の水です!」

 

 ざわめきは、どよめきへと変わった。

 青年、中年、老人。男女の区別なく、口を開いている。幼子を抱いた女がいた。疲れた目をしていたが、今は食い入る様に煽動者を見ている。

 

 身近な例えに言い換えるだけで、面白いくらいに反響があった。

 

「この命の水が、今、届かなくなっている」

 

 群衆の中の、身形だけは繕った破落戸共が驚愕の声を上げる。

 その片隅には、中肉中背の頬のこけた冴えない、だが目付きの鋭い無言の男。

 柳のジーノ。王都の無頼であった。

 

「何故か!? 改めて、言うまでもないだろう!」

 

 最初の一つを皮切りに、口々に疑問の声が上がる。誰もが、聞かせてくれと望んだ。

 そう、最初の一声。彼等は仕込みである。

 魔銀位階という暴力の裏付けが、駒としても機能していた。

 護衛という鬱陶しい存在であるが、煽動者は利用し尽くしている。

 

「上流にて、清らかな水が淀んでいるのだ。誰もが等しく受け取るべき慈悲が、滞っている」

 

 僅かに音を落とせば、一瞬の静寂が訪れる。煽動者は、この場に居る者の心理を、ほぼ操っている。

 

 誰かが喉を鳴らし、誰かが——女だ。幼子を抱えた母親が、カサつきひび割れた唇を舐めていた。

 

「……誰もが手にすべき『当たり前』。恵み豊かな清流なのにな」

 

 呟く様にして、だがしっかりと声を届かせる。

 これにより、困惑とも悲憤ともつかぬざわめきが、再び静かに広がっていった。

 それが何かへと変わる前の、僅かな間。

 

「しかして、その潤沢な水源を堰き止める者がいる。あなた方の灼けつく様な喉の渇きは、誰により作られた!?」

 

 そこへ叩きつけるのは、言葉だ。

 

 誰かの喉が鳴る。くぐもった、あるいは押し殺した声も聞こえた。

 群衆の間へ、躊躇う様な緊張が膨れ上がる。

 

 物価の高騰、霊核の物流統制、自由な商売への規制。上がらない報酬に、不自由な生活。

 

 ありありと、そんなものへの怒りが見える。

 誰が、それを導いたのか。

 

 煽動者は知っている。

 そして、彼等、彼女達もだ。

 ふと、あの女の声が、脳裏に蘇る。

 

 ——ですが、それが法です。

 

 責任は取ると宣った彼女に、その機会を与えてやろう。

 

 自由な商都を覆う、現状への不満。

 それを向けるべき矛先を、教えてやれば良い。

 

 煽動者は、目の前で爛々と瞳を輝かす女と同じ様にして、己の唇を舐める。

 

 カサつきともひび割れとも、程遠い感触だった。

 充分な、努力の成果であると、彼は誇る。

 

 ——ああ、幼子を連れたこの女にならば、この言葉こそが覿面(てきめん)だろう。

 

 躊躇いを、吹き飛ばす事。信頼への一歩は、常にそこから始まる。そう信じる男は、唇を開いた。

 

「今更言うまでもないだろう? 母を騙る姦婦。正当な権利なく専横を振るう、僭主だよ」

 

 まだ、足りない。だが、それを埋める役者は用意されていた。

 

「僭主を引き摺り下ろせ!」

 

 酒焼けした濁声である。

 仕込みの破落戸。

 柳を恐れる情けない下衆であっても、煽動者にとり、そう悪い仕事ではなかった。

 

「俺の稼ぎを返してくれ!」

 

 その柳にしても顔を背け、掌をヒラヒラと振りながら、歩み出す。

 その姿は、嵐も炎も受け流す、枯れた柳の様でいて。

 演説の時間は終わっている。次の目的地、市場へと向かったのだろう。

 あの男に与えられているのは、演説の間の護衛という仕事だけでしかなかった。

 

「庶民の生活を優先しろよ!」

 

 ただの無頼には、どうする事も出来やしない。

 降り積もる不満は烈火となり、虚飾も真実も、一切合切を燃やし尽くす事となる。

 

「選ばれてもいない者が、政治に関わるな!」

 

 背広姿の男が、胸を叩いている。

 

「民主議会にあるべき姿を!」

 

 眼鏡を曇らせた、学者風の男が叫んだ。

 

 制度における正論が聴こえる。それは社会的正義ですら、あるのだろう。

 だが、彼はそんなものに興味はなかった。

 

「我々の苦境を、清流を堰き止める者達に、知って貰おうではないか!」

 

 再び叫んでやれば、怒号が返る。

 この夏の日に、暑苦しくも思想を表明する手合いこそが、最も燃え易い薪だった。

 

 そして今、最も燃え難い薪もまた。

 

「私の子よ!」

 

 初めて女が叫ぶ。感情的な、支離滅裂なもの。

 ククッと、思わず声が出た。

 言葉とは裏腹に、子を見てはいない。

 状況への不満だけでなく、別の何かも女は見ている。そう思ったからこそ、焚き付けた。

 

「誰にも、誰にも奪わせはしないわ!」

 

 結果はこの通り、成功だった。

 子供が大声で泣いている。されど、その嘆きは更なる怒号により掻き消える。

 

 ——情など、実に他愛なきもの。

 

 子を慰める筈の母の貌は、醜く歪んでいた。

 

「諸君の気持ちは受け取った。だが、暫し時を待て!」

 

 群衆が、ピタリと止まった。

 当然だ。冷や水を浴びせる様な言葉なのだから。

 

 だが彼等は皆、聴く姿勢が出来ている。

 

「志を共にする者達は、まだまだいるぞ!」

 

 実に、実に楽しい遊戯であると、煽動者は嗤う。

 

「決起の時は近い! 同胞と共に、不当なる支配者達から、真の独立を勝ち取るのだ!」

 

 まだまだ、数は少なかった。

 もっと多くを、焚き付けねばならない。

 数こそが、正義で力であるからだ。

 無視する事は、何人たりとも出来やしない。

 

「我々の想いを、民意という正しき理を、偽りの代理人へと知らしめようではないか!」

 

 同意が叫ばれる。

 こんな無意味な言葉でさえ、群衆は踊る。

 いつだって、そうだった。

 

 信頼と承認の入り混じる視線が、心地よい。

 誰が持って来ていたものか、潮風と汗との臭いの入り混じる中に、焼き菓子の甘い香りが匂った。

 酒を嗜まない男には、甘味は数少ない好ましい道楽だった。

 

 ——いかんな。道楽なぞ、正義の前では余計なものだ。

 

 煽動者は、蒼き空にて真っ白に燃ゆる太陽を、瞳を逸らす事なく真っ直ぐに見ていた。

 

 

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