「悪いな、お兄さん。俺らは、手を引くぜ」
「ま、待ってくれ。それでは配当も元本の補填もできん」
とある富裕な商家に招かれた煽動者は、狼狽していた。利に聡い富商が、投資を捨て去るとは考えてなかったからだ。
ミリオッツイを始めとする、大商会も金を出している。その事実が、この商法の肝であるだけに。
「まぁよ。俺も悪い話じゃねぇとは思うんだが、『奥方様』が止める方向だろ? あの方に逆らって、化け物を送られても堪らないからな」
また、これだ。これで七件目になると、煽動者は拳を握りしめた。
あの、喪服を纏う女が商売を邪魔している。それも、暴力という理不尽な「悪」を背にして。
「ふ、不当な暴力に屈するのですか?」
「俺にゃわからんが、あの方が『やめとけ』って言うもんは、大概間違えねーからな。お薦めは、道楽みてーなもんだけどよ」
そう。それはこの男、煽動者も知っている。
教育、医療、一次産業。彼女自ら率先して資産を溶かし、回収を度外視した事業の数々。
領主代行が薦める事業は、それ程利益を運ばないというのは有名な話だった。
されど、「やめておけ」としたものも、大抵が破綻している。
「あの女性の事業はな、先を見越したもんだ。俺達の商売じゃ届かない場所を、埋めてくれてんだよ」
そう語る態度には、憧憬だか信仰だかという、煽動者にはあまりにも無意味な情感が乗っていた。
「そんな事業に誘うのは、内実が苦しいからではないですか? 道連れを、求められているのでは?」
「んーな言い方するなって。俺達おっさんにとってはよ、美人からの誘いは嬉しいもんだしな」
軽口で返される。だから、悪いなと。
だがしかし、煽動者は諦めない。
「だからって、手を引いても元本は……。それに、まだ配当がありますよ」
それを分け与えるだけの、余裕があった。この商法はそういう構造をしている。
「そんくれぇ、くれてやるよ。だが、お前さんは逃げんじゃねぇぞ?」
この対応は、これまでの全てと同じであった。
信用を担保する商人達が、離れていっている。
「『奥方様』の介入は、間違いです」
煽動者の腑が煮えくり返るが、平静な声が出る。
この特性だけは、「生みの親」への感謝をしなければならないと、彼は思っていた。
「そんなに間違いはしないぜ、あの方は」
ここまでの誰もが、同じ事を言った。
「何故だ」と、煽動者は想う。
「そんな事はないっ!」
商家の主人は、驚いた顔をした。
「……失礼。いずれにせよ、当主代行の方針は、中央の進める『余滴の法』と噛み合いません」
口調を改め告げると、商家の主人は確かめる様に尋ねる。
「持ってかれる割合が減るってんなら、俺らにゃ恩恵があるけどよ、ありがたい話なんだけども、大丈夫なのか?」
余滴の法は消費による経済振興を目的として、財務省により打ち出されていた。
「問題はないでしょう。国が、進めているのです」
問題があるとすれば税収減であるが、その対策も同時に進められていると知っていた。
「とは言っても、地方への王国調整財源を減額するのだろう? 元々、俺らの街には問題ないが、割を食う他所の不満とかはよ」
一代で成功を収めた商人が、不安顔をする。
「多少の不満があれども、容易に暴発する様な脆弱な社会ではありませんよ」
「だ、だよな。ちっとビビり過ぎてたか」
落ち着いた声で告げてやれば、安心した様に酒盃を傾ける。
——他愛ない。
求める言葉を与えてやれば、簡単に人は踊った。
既に社会は、野蛮な武力からの脱却を果たしている。不満があるからと、暴力へ訴えて赦される事はない。
「今は、武力よりも経済力ですよ。貴族なぞという生産性のない連中よりも、常に情報の最前線に立つ商人が輝く時代です」
それを担保するのは、武芸などではない。
心理を読む観察と、言葉の力であると煽動者は信じている。
こうして大商人も、満足気に頷いていた。
杯をチンと合わせながら、力強く頷き返した煽動者であった。
酒器の触れ合う乾いた音や、魚を摘む咀嚼音。
たった二人しかいないのに、機嫌良く話し続ける大商人。
言葉が止まる僅かな間でも、心地よい音韻は響き続ける。
それも、調整する煽動者の手管であった。
こうして親しく接していれば、不信感さえも溶けるもの。それを彼は知っている。
だからこそ、歩みは遅くとも確実に、こういった関係を構築してきたのだ。
「良いですか? 私の商法は長期的には確実な利益を保証するもの。途中で止めたら、丸損ですよ」
杯に満ち、滴り落ちた甘露が下流を潤す。
それは実に合理的な幻想だった。胸も懐も痛まずに、利益を得る事が出来る。
「俺は、返せとは言わねぇ。だが、途中で降りる奴らには、誠意を見せてやれ」
「流石、立派な商売人の言葉は重い。僅かでもあやかる為にも、誠心誠意、努めてゆく所存です」
もう、何度繰り返されたのかもわからない「お説教」。それを、全身を耳にする振りをして、阿諛をしている。
この光景を第三者が見れば、さぞ滑稽だろうと考える煽動者であった。
「兄ちゃんは、大したもんだよ。孤児院の出だってのに王都で学んで働いて、こうして故郷に錦を飾ってんだ。それに引き換え、家の倅はよ……」
酔ったのか、それとも所詮若造とでも考えているのだろうか。愚痴ばかりが流れてきている。
この侮りさえも、煽動者にとっては都合が良いものだった。
だからこそ、愛想良く応えていたのだが。
「お前さんも、奥方様には感謝しろよ。あのお方のおかげなんだからな。それが出来たのも」
「そう恩恵を、授かったとは思いませんが」
上機嫌な男に、背中を強い力で叩かれる。
「照れ隠しすんなって! 賢い兄ちゃんが、わかってねー筈ねーだろが!」
笑う酔っ払いには、否定の言葉でさえも、謙遜か何かに映るらしかった。
「いえ。当時は既に十五を迎える年でしたので、それほどは。それにご承知の通り、私は元々孤児でしたからね。十二での誓いの儀も、冒険者組合で済ませましたし」
またもや背中を叩かれて、今度は泣かれる。お前は偉い、頑張ったなという賞賛が、空虚に響く。
酒は知性を低下させる毒物でもあった。
王都の学府で身に付けた「収納」の術式を用い、飲んだ振りをしている。彼は酒を嗜まない。
「なんもかんもが焼けちまって、孤児で溢れちまったこの街をよ。『子供達は、希望です』なんつって、立て直してくれたんだぜ」
まるで武勇伝の如く語られる十四年前の話は、不味い酒の様に、酷く苦い味わいとなる。
「それに、十五の嫁入りの時から孤児院にゃ、世話を焼いていただろう? お前さんも、世話になった口なんじゃねーのか?」
もうずっと、思考を過去へと浸らせている「未来の脱落者」へは、皮肉に唇が歪んでいた。
それを見咎められる事はない。
酒とは実に便利な道具であった。
確かにまだ、彼が「主と国家の間の愛し子」と呼ばれていた時期に、あの女の姿を目にしていた。
「それによ。もう、二十年にもなるのか? 毎年途切れさせずに、孤児院から一人を家で雇用してんだぜ。中々、続けられる事じゃねぇ」
この、酒に酔った商人の言葉は事実だと煽動者も認識している。だが、たった一人だ。
「あの方は、選別しているだけです」
吐き捨てた言葉。
つい一瞬、感情の抑制が剥がれていた。
「んな事ぁ、ねーだろうよ」
すかさず返されるが、そう気にしてはいない様であった。繰り言じみた戯言が、漏れ続けている。
「雇用というものは、公平でないと行き詰まりますのはご存知でしょう?」
「そうは言っても、福祉の一環だろうがよ。もしかしたら、籤かなんかで選んでんのかもしれんが」
自らの言葉に、傑作だとばかりに笑う大商人。
それならば、まだマシだったろう。
領主代行は、何の力もない、ただの子供を引き取り続けていた。
それが、慈善事業の一環だとは知っている。
だからこそ、納得は遠い。
「いいえ。偏りは、明らかでしょう?」
完全なる無作為や、能力により選別されたのなら、納得も出来よう。有用な者を手元に置く事は、立派な資産形成なのだから。
だが、あの女が選ぶのはそうではなかった。
「容姿だか、器量だか。そんなものでしか、救いませんよ? あの方は、女、少女が好きなのです」
言葉は皮肉に漏れる。
無力で頭の働きの悪い女を、特に好んで選んでいる。街角に立つしかない愚鈍な女を、躾や教育だなどと称して。
「哀れな少女達は、『冷たい領主代行』の下で、どの様に扱われているのでしょうな?」
鼻白む商家の代表がいる。だが、一瞬で、朱色に染まった。酒の巡りでないもので。
「おい。下らねぇ噂話に、踊らされるんじゃねぇ」
唸り声にも似た、低い音。
「彼女は、どうやって資金を捻出し、王都の干渉を退けてきたのだか……。そういえば最近は、夜会なぞを開いておりますな?」
含みを持たせてやれば、心に描いたものがあるのだろう。何も、言えないでいる。
そう、それで良い。
事実よりも、その者が求める真実の方が、飲み込み易いものなのだ。
「下世話な噂話ですがね。王都では、大いに囁かれておりますよ。あの、白い屋敷の中では、毎夜何が起こされているのかと。情報に聡い辣腕の旦那様ならば、お耳にされた事もあるでしょうな」
青黒く染まる顔色。
信じられない話だとでも思っているのだろう。
あの彼女が、色と欲を用いているとは、煽動者とて信じていなかった。
——これで、いい。
だが、穢れは残される。疑念は燻った。
流石に、これで足りるとは煽動者とて考えてはいない。
それでも楔を打てるならば、充分だった。
「いや、別にそういうんではないかと……」
重苦しく、吐き出された言葉。
この反応も、七件目であった。誰もが期待をしながら否定する。
そこへ流し込むのは、事実と推測という名の毒。
「少なくとも、能力よりも、性別が先にあるのが、おわかりでないと? ずっと選ばれているのは少女ですよ。能力ではない。あの方の専横を許すなら、いずれ首が落ちるのは我々です」
誰もが顔色を変えた。そして、この男も。
短くはない、沈黙が流れる。
商家特有の喧騒が、耳に遠い。
何へ想いを馳せているのだろう。
見知った少女達へか、それともあの女へか。
それさえも、彼にはどちらでも良かった。
だからこそ、助け舟を出してやる。
「失礼しました。些か品性に欠ける話題でしたな。ですが、そういった目で見る者もいると、ご理解ください」
ゴシゴシと顔を拭う商人がいた。大きく息を吐いている。それなりに割り切った、顔色だった。
「これ以上の投資をするつもりはねーが、飯くらいは食わせてやろう。それで、手を打てや」
そして、言葉は紡がれる。皆が同じ事を言う。
また、だ。
煽動者は屈辱を感じていた。
孤児院上がりの男は、飯でも食わせれば手懐けられるとでも、思われているのだろうか。
この街の者は、いつもそうだった。
だからこそ、十五の彼は街を出た。
酒宴の締めとして注がれた紅茶を口へ含みつつ、煽動者は鋭く眼差しを細める。
「飯くらいならば、自分の力で食えますので」
冷たく言い放つ。滑稽な程に大仰な、紳士の礼を見せてやる。
「ご馳走になりました。また情報がご入用でありますれば、お呼び出しください。失礼いたします」
やがて男は外へ出る。
眩しい陽射しに、瞳を眇めていた。
「水は高きから低きへ流れる。それこそが、世界の理です。清き流れは私達の喉を潤し、畑を繁らせ、清潔を保つもの。万民に遍く届けられる、世界の恵みであります!」
煽動者の声が、広場に響いていた。
聴衆のざわめきを、彼は肌で感じている。
一人、また一人。足を止める者が増えるたび、その密度が増した。
言葉を届けるべき民衆の、顔が見えている。
「この水は、あなたが茶を楽しむのにも、食事で満ちるにも、入浴で安らぐにも使われる、まさに我々にとっての命の水です!」
ざわめきは、どよめきへと変わった。
青年、中年、老人。男女の区別なく、口を開いている。幼子を抱いた女がいた。疲れた目をしていたが、今は食い入る様に煽動者を見ている。
身近な例えに言い換えるだけで、面白いくらいに反響があった。
「この命の水が、今、届かなくなっている」
群衆の中の、身形だけは繕った破落戸共が驚愕の声を上げる。
その片隅には、中肉中背の頬のこけた冴えない、だが目付きの鋭い無言の男。
柳のジーノ。王都の無頼であった。
「何故か!? 改めて、言うまでもないだろう!」
最初の一つを皮切りに、口々に疑問の声が上がる。誰もが、聞かせてくれと望んだ。
そう、最初の一声。彼等は仕込みである。
魔銀位階という暴力の裏付けが、駒としても機能していた。
護衛という鬱陶しい存在であるが、煽動者は利用し尽くしている。
「上流にて、清らかな水が淀んでいるのだ。誰もが等しく受け取るべき慈悲が、滞っている」
僅かに音を落とせば、一瞬の静寂が訪れる。煽動者は、この場に居る者の心理を、ほぼ操っている。
誰かが喉を鳴らし、誰かが——女だ。幼子を抱えた母親が、カサつきひび割れた唇を舐めていた。
「……誰もが手にすべき『当たり前』。恵み豊かな清流なのにな」
呟く様にして、だがしっかりと声を届かせる。
これにより、困惑とも悲憤ともつかぬざわめきが、再び静かに広がっていった。
それが何かへと変わる前の、僅かな間。
「しかして、その潤沢な水源を堰き止める者がいる。あなた方の灼けつく様な喉の渇きは、誰により作られた!?」
そこへ叩きつけるのは、言葉だ。
誰かの喉が鳴る。くぐもった、あるいは押し殺した声も聞こえた。
群衆の間へ、躊躇う様な緊張が膨れ上がる。
物価の高騰、霊核の物流統制、自由な商売への規制。上がらない報酬に、不自由な生活。
ありありと、そんなものへの怒りが見える。
誰が、それを導いたのか。
煽動者は知っている。
そして、彼等、彼女達もだ。
ふと、あの女の声が、脳裏に蘇る。
——ですが、それが法です。
責任は取ると宣った彼女に、その機会を与えてやろう。
自由な商都を覆う、現状への不満。
それを向けるべき矛先を、教えてやれば良い。
煽動者は、目の前で爛々と瞳を輝かす女と同じ様にして、己の唇を舐める。
カサつきともひび割れとも、程遠い感触だった。
充分な、努力の成果であると、彼は誇る。
——ああ、幼子を連れたこの女にならば、この言葉こそが
躊躇いを、吹き飛ばす事。信頼への一歩は、常にそこから始まる。そう信じる男は、唇を開いた。
「今更言うまでもないだろう? 母を騙る姦婦。正当な権利なく専横を振るう、僭主だよ」
まだ、足りない。だが、それを埋める役者は用意されていた。
「僭主を引き摺り下ろせ!」
酒焼けした濁声である。
仕込みの破落戸。
柳を恐れる情けない下衆であっても、煽動者にとり、そう悪い仕事ではなかった。
「俺の稼ぎを返してくれ!」
その柳にしても顔を背け、掌をヒラヒラと振りながら、歩み出す。
その姿は、嵐も炎も受け流す、枯れた柳の様でいて。
演説の時間は終わっている。次の目的地、市場へと向かったのだろう。
あの男に与えられているのは、演説の間の護衛という仕事だけでしかなかった。
「庶民の生活を優先しろよ!」
ただの無頼には、どうする事も出来やしない。
降り積もる不満は烈火となり、虚飾も真実も、一切合切を燃やし尽くす事となる。
「選ばれてもいない者が、政治に関わるな!」
背広姿の男が、胸を叩いている。
「民主議会にあるべき姿を!」
眼鏡を曇らせた、学者風の男が叫んだ。
制度における正論が聴こえる。それは社会的正義ですら、あるのだろう。
だが、彼はそんなものに興味はなかった。
「我々の苦境を、清流を堰き止める者達に、知って貰おうではないか!」
再び叫んでやれば、怒号が返る。
この夏の日に、暑苦しくも思想を表明する手合いこそが、最も燃え易い薪だった。
そして今、最も燃え難い薪もまた。
「私の子よ!」
初めて女が叫ぶ。感情的な、支離滅裂なもの。
ククッと、思わず声が出た。
言葉とは裏腹に、子を見てはいない。
状況への不満だけでなく、別の何かも女は見ている。そう思ったからこそ、焚き付けた。
「誰にも、誰にも奪わせはしないわ!」
結果はこの通り、成功だった。
子供が大声で泣いている。されど、その嘆きは更なる怒号により掻き消える。
——情など、実に他愛なきもの。
子を慰める筈の母の貌は、醜く歪んでいた。
「諸君の気持ちは受け取った。だが、暫し時を待て!」
群衆が、ピタリと止まった。
当然だ。冷や水を浴びせる様な言葉なのだから。
だが彼等は皆、聴く姿勢が出来ている。
「志を共にする者達は、まだまだいるぞ!」
実に、実に楽しい遊戯であると、煽動者は嗤う。
「決起の時は近い! 同胞と共に、不当なる支配者達から、真の独立を勝ち取るのだ!」
まだまだ、数は少なかった。
もっと多くを、焚き付けねばならない。
数こそが、正義で力であるからだ。
無視する事は、何人たりとも出来やしない。
「我々の想いを、民意という正しき理を、偽りの代理人へと知らしめようではないか!」
同意が叫ばれる。
こんな無意味な言葉でさえ、群衆は踊る。
いつだって、そうだった。
信頼と承認の入り混じる視線が、心地よい。
誰が持って来ていたものか、潮風と汗との臭いの入り混じる中に、焼き菓子の甘い香りが匂った。
酒を嗜まない男には、甘味は数少ない好ましい道楽だった。
——いかんな。道楽なぞ、正義の前では余計なものだ。
煽動者は、蒼き空にて真っ白に燃ゆる太陽を、瞳を逸らす事なく真っ直ぐに見ていた。