アウグスタが屋敷へと帰ってみれば、今日も今日とて活気溢れる様相であった。
皿の触れ合う金属音と、包丁がまな板を叩く小気味よい響き。
煮え立つ鍋と焼き物の香りが、立ち込める湯気と混じり合い、熱気となって押し寄せてくる。
怒号と指示が飛び交い、誰もが一瞬も立ち止まらずに働いていた。
夜会ももう、十二日目。変わらない日常が、ここにもあった。
ルカの手を引いたまま、その光景を窓越しに眺めるアウグスタ。彼女は暫し、足を止める。
——この中へ割って入って、焼き菓子を作らせて欲しい、なんて。
とても、言い出せる空気ではなかった。
「厨房は、オルトと一緒によく補給でも訪れる戦場です。謂わば、慣れた庭の様なもの。奥方様。まずは私が先陣を『斬り』ます」
ルカである。何故か物騒な響きであった。
確かに戦場の様だとも思ったが、そんな死地へと赴く騎士にも似た眼差しを、向けるものではない。
「まぁ、今日は諦めましょうか。やっぱり、帰りに買って来ればよかったわね」
「臆すのですか。機を伺えば、隙はあります」
少し、頬を膨らませる姪。指を解こうとする彼女の手を、強く握った。
婆やの口車に乗せられて、焼き菓子を買わなかった結果が悔やまれる。
とはいえ、最近はとんとご無沙汰であるが、アウグスタも料理や菓子作りなどは嫌いでない。任せてはいるが、自身でもやりたいものだ。
こうして、ルカの暴走を招いてしまったのは想定外なのであるが。
「かなり、甘い見通しだったわ……」
が、状況を見るに、そう言うしかなかった。
一言頼めば、彼等は嫌な顔一つせずに受け入れてくれるだろう。だからこそ、余計に入り辛い。
そんな中、サボろうとする
その瞬間。
「こらっ! 手抜きしてんじゃねぇ! 仲間の負担を、自分が背負う気概がなくて、どうする!」
肉を運び入れる時、明らかに手を抜いて相方へ負担を強いていた少年が、怒鳴られた。
「料理は一に時間に、二に分量。三、四がなくて、零には愛情だぜ!」
歳若い下働き達へ、怒鳴り声での指示を出す家付きの
普段よりも増えた部下達を取り仕切る彼は、他の調理人達へも矢継ぎ早に怒鳴りつけていく。
正直、怖い。
「ルカ。明日にしましょうか? 明日ならば、厨房も落ち着いていますしね」
「ヤです」
珍しく、聞き分けのないルカだった。
甘い焼き菓子を買うのは、婆やに止められた。
「婆やも言いました。……父上に、お菓子を差し上げたら喜んでくれると」
材料は余っているのだから、食べたいのなら、ルカと一緒にでも作りなっせと。
最初は、アウグスタも名案だと考えた。女の子らしい趣味を持たせるのも悪くない。
「奥方様。私は女の子の
だが、何故にこうまでヤル気が溢れているのか。それはわかっている。婆やによる口車のせいだ。
「そうよね……」
遠い目をしたアウグスタは、それぞれ調理を行う、
色とりどりの主菜に副菜が、一皿で取り易い様に並んでゆく。
「お菓子を食べると、彼等の料理が入らなくなるのよ。ね? 明日にしましょ?」
「ヤです。私は育ち盛り。この程度の量、食べられぬ事なぞ、ありません」
釘を刺したのだが、これだ。
更には。
「フ……。騎士たる者、たかが一皿に遅れを取る事など、ありえません」
フンス。と、息を吐くルカだった。
アウグスタは思う。
この子、最近は知性が低下しすぎてはいないかと。
そこへ、カツン、カツンと音が鳴る。
「こりゃ、奥方様。どうかいたしましたか? ルカも、また腹でも減ったのか?」
それが止まると厨房の外、窓から覗いていた二人の耳へ、よく通る濁声が響いた。
「減ってはいない……です」
「……こ、こらルカ。あ、あら料理長、お邪魔してしまったかしら?」
五十を超えた料理長が、悪戯小僧の様に、にかりと笑う。
「なんの、なんの。今日も、ばっちり最高の飯を出してやりまさぁ。でーんと、構えていて下せぇや」
「ええ。頼りにしてるわ。……ごめんなさいね。晴れ舞台が、こんなにも遅くなってしまって」
ガッハッハ。と、また笑う料理長。
勤続十年超にも及ぶ彼の腕は、子爵家の料理長としても充分である。
豪放磊落な人柄で、部下達への面倒見も良かった。
「ちょいとボケた若いヤツらに、キエッリーニの『夜会』ってヤツを、楽しませてやりましょうぜ」
厨房の喧騒が、また一段と高くなった気がする。
「何かあるようでしたら、
そう言って彼は、またカツン、カツンと魔銀の足音を鳴らし、厨房の中央へと戻っていった。
料理長の膝から下はない。十二年前の「復讐戦」で置いて来たものだ。
失ったのは、足だけである。
以来、料理人として腕を振るっている。
「そうは、言われてもねぇ……」
目当ての場所にある、
手を引っ張られた。
「行きましょう」
「こ、こら。待ちなさい」
手を繋いだままに迷いなく進むルカに、引き摺られていた。
普段から騎士として鍛えている少女の脚力には、書類仕事くらいしか知らぬ伯母の腕力は、あまりにも貧弱だった。
ズンズンと進むルカのお陰で、長いスカートの裾が、乱れてしまっている。
今は歩き辛い、踵の高い靴ではないのだ。
裾を摘んでもいない。
このまま厨房へと入ってしまえば、長い裾が床の汚れを掃いてしまう。
——せめて、着替えてから来るべきだったわ。
ルカの勢いに押され、ほいほい連れて来た己の浅慮が恨めしい。少しでも、被害は抑えねば。
「待って! 裾が!」
思わず悲鳴を上げる、当主代行。
ルカの足取りは変わらない。
アウグスタは諦め、空いた片手で長いスカートの裾をたくし上げる。
慎みも何もあったものではないが、背に腹は代えられないものだった。
なんとか一拍の猶予を得て、手頃な大きさの竈門がある区画へと辿り着く。副料理長の一人が、菓子職人達と共に立ち働いている。
「あら、奥方様。ルカもいるのね。摘み食いなら、ご自由にどうぞ。ごめんね、手が離せなくてさ」
軽口を叩く彼女は、料理長の娘さんであった。
年代の近い彼女とは、アウグスタも話し易い方なのだが、彼女が監督する夜会の菓子作りは、鉄火場とも呼べる様相を呈している。
「お菓子」
「余ってるのを、適当にお皿から取んなよ」
彼女は、そこへ掛かり切りとなっていた。ルカは首を振る。どうにも言葉の足りない子であった。
「とても、美味しそうだわ。でも、その、ね。邪魔になってしまい申し訳ないのだけれど。いえ、その、ね……」
忙しなく働く菓子職人達に、少しだけ場所を借りたいとは中々言い出せないアウグスタなのだが。
「違う。作りたい……です」
迷わずぶっ込んだルカの言葉に、一瞬時が止まった。だがやがて、明るい声が響く。
「こりゃ、ありがたいねぇ。お手伝い、してくれるのかい。助かるよ。偉い、偉い」
少しだけ、どうしましょうと問いたげに此方を見る副料理長。アウグスタは訂正しようと口を開き掛けたのだが——。
「違う。ど素人の私が手伝ったところで、邪魔になるだけ。お客様に出す料理にもしもがあったら、皆が困る」
いつもと変わらぬ口調で、淡々と告げるルカだった。その視線は、空いた竈門を見ている。
副料理長達の視線が集った。
「……それ」
指差すのは、火力調節が難しい旧式のもの。また小ささが為に、今回は空けられていたものである。
「貸して欲しい。大丈夫。一人でも出来る」
この子もまた、言葉が足りない。職人達の手が止まっていた。ならば、押し切るのみ。
「材料の心配はないわ。道具も、大丈夫そうね。失敗したら、私が片付けるわよ。だから、少しだけ場所をお借りしたいの。皆の邪魔はしないから」
副料理長の彼女は、ややポカンとした顔をする。
やがて、プッと吹き出した。
「ウン。邪魔しない。だから、気にしない」
聡い女性である。ちゃんと伝わった事だろう。
「あっは。奥方様、ルカ。それって、場所取りがしたいって事かい?」
つまりはそういう事だ。アウグスタとて、直向きな職人達の負担を増やすのを、良しとしていない。
「まったく気にしないのも大変でしょうけど、期待していますからね」
「任せておき! ……と、言いたい所だけど、さ」
そう。彼女の言いたい事はわかる。
かつて、キエッリーニが王によりトラーパニの全てを任された様に、そして、領有貴族の全てがそうである様に。
場所には場所の、王がいる。
それは、侵さざるべき権威であった。
全てを任せた、厨房の主。
ここは、彼の国。
カツン、カツン。高い音が響く。
その権威が、この厨房の王が、やって来る。
「悪くねぇなぁ」
腹に響く癖に、軽い一言。
「え?」
全員が、同じ一言を漏らした。
だが、彼は、王は。
「いいじゃねぇか。別に、オメーラにゃ問題ねーだろ? 俺らは、最高の料理を作るだけだぜ」
目的を確認させるに留めた。
だが、「あの頃」の騎士が、そんなに物分かりの良い、年寄りの筈もない。
「ふふっ。条件が、あるのですよね? 料理長」
「流石は、お嬢だぜ。良くわかってんじゃねーか」
破顔する彼は、やはり祖父の騎士である。
「厨房を使うなら、料理人の流儀に従ってもらうぜ。そいっぁ、奥方様。アンタもだぜ」
また笑い出す彼は、やはり意地も性格も悪い。
アウグスタは迷いなく、調理台の端に置かれた肉縛り用の綿糸を手に取った。
裾を膝上までたくし上げると、その丈夫な糸で無造作に、だが緩まぬよう固く縛り上げる。
「借りるわよ」
共に炊き出しを行っていた戦友、副料理長が目を細めた。
「随分と、懐かしい格好よね」
仕上げに予備のエプロンを上から重ねれば、かつて復興のために炊き出しを行っていた頃の、女の姿があった。
「んで、何を作る気だ? 下働きのお二人さん」
「
ルカの答えに、ガヤガヤと騒ぎ出す調理人達。彼等は手足を動かしたままだった。
「悪くねぇ。五十五、余計に作っとけよ」
下働きの仕事には、賄い作りも含まれる。随分と段階を飛ばしているけれども。これは遊戯に過ぎない。厨房へ向かい、アウグスタは頭を下げた。
「ルカ。戦略的撤退だとかで、逃げんなよ」
「フン。頬っぺた落ちても知らないよ」
髭面の料理長が、ルカへ宣戦布告する。
すかさず返したルカに、アウグスタ以外からは歓声があがった。
人気者よねぇ。と思いながら、改めて手を洗うアウグスタ。
直接膝へと触れる外気が、どこか懐かしいものを運んで来る様だった。
「ルカ、皮を剥くときは、こうして指の腹で……」
「……あ」
ツルン、と勢いよく飛び出した白い扁桃——アーモンドの粒が、対面で渋皮を剥くアウグスタの胸の谷間へ飛び込んだ。
苦笑と共に摘み上げ、口に含む。
甘い。独特の香りが、鼻腔の奥へと広がった。
「優しくね。赤ちゃんの手を握るつもりで」
真剣な顔付きで、渋皮を剥いてゆくルカ。大人数分ともなれば、結構な重労働だった。
彼女は時折り失敗もするが、やはり筋は良い。
その視線は、手元のアーモンドの粒と此方を行き来していた。とても、わかりやすい顔付きをしている。
「はい。味見ね」
剥いた一粒を、ルカの口へと入れてやる。コリッと、軽い音が鳴る。
「甘い」
頬を綻ばせる姪だった。
昔はよく、大勢がこの作業をしていた。
焦土と化した港町は、アグリジェントの名産品として知られるアーモンドや、首都カターニアの特産であるオリーブを島外へと喧伝する事で、再生の足掛かりとしていた。
現在の繁栄は、何もトラーパニの住民だけの力ではない。島の民達にも、支えられている。
島の玄関口として、現在の繁栄が誇らしい。
だが——。
「奥方様?」
「……あら。剥き終えたわね。鍋に、火をかけましょうか?」
首を振る。こんな時に、考え事などは余計だ。
剥き終えたなら、次は炒り、砕かねばならない。
ここからが、このお菓子作りのポイントだった。
「ルカには深煎りを任すわね。仕上げの肝なの。貴女の腕が、魔法をかけるのよ」
「頑張る」
割り振られた分量の偏りに、不満顔なのは見通している。
だが、こうやって言ってやれば、七に三という比率にも納得してくれるものなのだ。
アウグスタの担当は、水分を飛ばすだけの軽い炒め。対して、ルカに任せたものは深煎り。
やがて雪のように白く、柔らかな香りと、褐色の鎧を纏い、荒々しくも香ばしい匂いが混じり合う。
「結構、硬い」
白大理石の重い乳鉢を蹂躙するのは、飴色のペストル、オリーブウッド製のもの。
言葉とは裏腹に、昔から使い込んだ調理具が、ルカの手によりアーモンドを砕いてゆく。
砕ける音が、軽い
対して、アウグスタの扱う華やかなマヨルカ焼きの中では、しっとりとして滑らかな、象牙色。
粘りのある水気を含んだ音が、小さく響いた。
黙々と、作業は進んでゆく。やはり、ルカは筋が良い。口を酸っぱく挟まなくとも、自然に遊ぶ。
「お菓子作りって、楽しい」
そう言って貰えれば、甲斐もあるというものだ。
「とっても楽しいわよ。女の子の嗜みで技だしね」
「業……。でも皆、男の人なんですけど」
菓子職人には男性が多い。というよりも、働く女性で普段から嗜む調理を、職とする者はそう多くもなかった。
「結構な重労働ですしね。それに、家で料理をして職場でもだと、どうしてもね? 多分だけど」
曖昧な返答になってしまうが、仕方ない。アウグスタにも、わからない事は多かった。
アウグスタが、滑らかな象牙色へ、粉砂糖と泡立てた卵白、そしてレモンの果汁を加えてゆく。
今では当たり前に使える食材も、確かな復興の証であった。
「こちらは、終わりました」
「なら、そろそろ混ぜ合わせましょうか」
アーモンドペーストの内、幾らかを別のボウルへ取り分けて、アウグスタは額から流れる汗を拭う。ルカも白い肌を上気させていた。
量を作るのは、割と大変なのだ。
「あ、涼しい」
冷気を送る術式を唱えれば、ルカも人心地ついたのか、顔を上げる。その瞳に映るのは。
厨房の中には、二人とは比べ物にならない量を、事もなげに調理する職人達がいる。
「……皆、凄い」
そう感じて貰えれば、何よりだ。いつだって、他人の営みを感じられる子でいて欲しい。
「さ、ルカの育てた『伏兵』の投入よ」
ルカが丹念に砕いた褐色の粒が、泥状の象牙色へと注がれていく。
「混ぜます。……なんだか、粘りますね」
「それが美味しさの種よ。しっかり、けれど優しくね」
白と褐色が混ざり合い、しっとりとした重みを帯びた生地へと変わっていった。
これを手で丸め、粉砂糖をまぶす。
ルカは指先で、とても繊細な壊れ物でも扱うようにして、均一な球体を作っていく。
「そんなに綺麗に整えなくていいわ。このお菓子はね、焼けて膨らんで、勝手に表面が割れるのが美しいのよ」
「不完全が、正解……。奥が深い」
頷いたルカが竈門へ目を向ける。途端、怪訝な顔をした。
「火、消えてる」
アウグスタは調理を始める前に、竈門へ火を入れている。二人して扁桃を煎っていた時には、まだ炎が上がっていたのだが、今はもうない。
「いいのよ。これで」
術式を唱えようとしたルカの唇を、アウグスタは慌てて塞いでいた。危ないところであった。
「火力の調整がコツなのよ。あまり強いと、香りが飛んでしまうの。……まだ、強そうね」
烈しくも眩い炎の残滓は、黒と灰の中で眠っていた。アウグスタは慣れた手付きで灰を寄せ、熱の通りを調節する。
単に焼くのではない。中から温めるのだ。
外はカリッと、中は柔らかく。焦げ色の付く前の白さを残すのが、コツだった。
「それじゃ、焼き上げましょうか。お願いね」
「いきます」
鉄板に並べた、粉砂糖を纏った白銀の球体達。それらはルカの手により、竈門の闇の中へと飲み込まれていった。
「落とすまで、もう少し」
「頬っぺたかしら?」
余程楽しみなのか、竈門の小窓を覗き込んでいるルカだ。勿論アウグスタも楽しみにしていて、一緒になって覗き込んでいる。
やがて厨房に満ちる肉の脂や香辛料の匂いを、力強く、それでいて優しく押し除ける様にして、華やかに甘い香りが強まった。
「今よ。せーの」
「せーの」
二人がかりで鉄板を引き抜けば、焼けた砂糖の香ばしさと、アーモンド特有の繊細な香りが、熱を孕んだ風となり、二人の顔を撫でる。
「いい匂い」
「成功ね。この割れ目……中にはまだ、生の扁桃の瑞々しさが閉じ込められているはずよ」
焼き上がったばかりの、ビスコッティ・ディ・マンドルラ。
表面の粉砂糖がひび割れて、複雑な結晶を思わせた。まだ白い生地から覗く褐色の輝きは、まるで宝石の様だった。
アウグスタが満足げに頷き、ルカが我慢出来ず、熱々の欠片を一つ、指先で摘まみ上げる。
そこで、止まる。少し恥ずかしそうだった。
「いいわよ。作成者の特権ね」
フーフーと息を吹き掛けたルカがやがて、あむっとクッキーを啄む。
蕩ける様に頬が綻んだ。
普段は無表情なルカだが、顔いっぱいに、「幸せ」という言葉が描いてある。
「熱々のも、良いのよね」
そんな姿を見せられれば、アウグスタだって口元が緩んでしまう。見られない様に、一粒を同じく口にしていた。
「奥方様、嬉しそう」
「あら、そう? 美味しいお菓子には、魔法が掛けてあるものね。でもね、ビスコッティ・ディ・マンドルラには、もっともっと素敵な、魔法どころか秘蹟みたいな食べ方があるのよ」
不覚にも、見られてしまったか。
だが、困るものでもない。それに、例え賢かろうが口先ならば遥かに年の功がある。
益々、期待に瞳を輝かせるルカ。とびっきりの美少女だ。
「冷ました後なんだけどね、アイスやソルベに合わせる前にね」
口先で丸め込むなぞ、造作もない。落ち着きなぞ放り捨てて、首をブンブンと振っている。
生のアーモンドペーストを挟むのだ。その為に、取り分けてボウルに入れて冷やしている。
娘時代からのアウグスタの好物で、夫やオルトだけでなく、今は亡きキエッリーニの家族達にも、大層喜ばれたものだ。
「父上にも、持って行く」
ウズウズとするルカに、幼き日のアントニオの姿を思い出す。
嫁入りしたばかりの頃、おやつにと焼いていたアウグスタの側へ、よく摘み食いに来ていたものだ。
お夕飯が入らなくなるから、食べ過ぎちゃダメよ。などと言って叱っていたのが懐かしい。
「だからね。最高にするには、もう少しだけ忍耐が必要なの」
熱いままでは、せっかくの香りも飛んでしまう。
既にルカは言葉を失って、クッキーを袋に詰めている。
職人達は、仕事中では手間のかかる食べ方を避ける為、このままでもいいわ。という、アウグスタからの提案が為だった。
厨房の中では、料理長の濁声が変わらず鳴り響いている。
「行きましょう、奥方様。あの髭モジャに、一発喰らわせてやるのです」
「ルカ、お口」
何故この子は饒舌になると口が悪くなるのか。
騎士達の悪影響よね。と、アウグスタは思う。
料理長は子供好きなので、きっと喜んでくれるだろうし。とも。
詰め終えたばかりのルカは気が急く様だが、まだ青い。残されたお菓子には守護がいる。
木枠に薄く繊細な
「羽虫や埃なんかの天敵から、守ってくれるのよ。快適な、コテージみたいなものね」
——カポッと被せれば、熱を逃すもそういった天敵から守護する砦となった。
「カバー・モスキート隊長、私は敵大将の頬っぺたを落としてくる。いってきます。後は頼んだ」
世迷言を呟くルカが可笑しい。
好戦的な言動は、オルトが悪影響を与えているのかもとも危惧してしまうが。
それでも、可愛らしいものである。
何せ、行きますよ。と勇ましく歩き出したのに、幾度も立ち止まり、振り返りしているのだから。
「はいはい。ビスコッティ・ディ・マンドルラは、どこにも逃げたりしませんからね。ルカの力作を、厨房の皆様に届けてあげましょ」
「違う。奥方様と私の作品。……です」
ムキになる子も、可愛らしいものだ。
最初厨房へ入って来た時とはまるで反対で、ルカはアウグスタに手を引かれ、厨房という王国へと挑むのだった。
「初めての癖に、良く出来てんよ。ルカは流石に筋が良いね」
「奥方様のお陰だし……」
珍しいくらいに、消え入りそうなルカの声。
「謙遜しなさんな! アンタの作ったお菓子だよ」
「私の、作った……」
勇んで「厨房の王」へと挑んだルカは、にべもなく追い返されている。
そこで、ドルチェを担当する副料理長へと標的を定めたのだが、大層甘やかされていた。
「楽しかったろ?」
「えへへ……」
包みだけを受け取った料理長に「今は忙しい、休憩中の奴らに配ってやれ」などと言われた時には愕然としていたが、今はもう随分と元気を取り戻している様だった。
「懐かしいなぁ。どうよ? 俺達も少し作って出すか?」
「お、良いねぇ。ちょいと練るか?」
そんな嬉しい事を言ってくれるかつての少年達だが、副料理長がやんわりと否定する。
「残念だけど、原料や予算の都合もあるしね。それに過敏反応が出るかもしれない食材は、アタシ達キエッリーニ子爵家の夜会には馴染まないよ」
今回の夜会、招待状を送る事なく広く門戸を開いていた。婚活の名目である以上、当然であった。
「万が一があっても、マズイしな」
「チェー」
そういった意味でも、負担を強いている。
だが、それはそれとして、喜んで貰えるならば、アウグスタにも嬉しい話であった。
その後もルカと共に包みを渡し歩く。
約束の五十五を配り終えれば、まずまずの好評を得られていた。
過敏反応についても問題はない。それを抱える者はないと、元より確認をしている。
「皆、喜んでくれたわね? 私達も、少しだけお楽しみをしましょうね」
ブンブンと頷くルカは、セルツの小瓶を二つ持っている。
料理人の一人に、クッキーは喉が渇くからな。と渡されたものだった。
「いっぱい焼いたから、後で皆にも配る」
「そうね。ルカの初めてのお菓子だものね。皆にもお裾分けしなきゃね」
その前に、作成者二人だけで楽しむ事になっている。
焼き菓子を部屋へ持ち帰るのも悪くなかったが、ルカの表情は、もう待ちきれないというものだったからだ。
二人して、厨房の端にある、クッキーを冷ましている棚へと向かった。
サク、サク、サク。
モシャ、モシャ、モシャ。
厨房の喧騒とは離れた片隅から、その音は聞こえてきていた。
アウグスタの足が、ピタリと止まる。手を繋いだ隣のルカも、同じく身動きを止めていた。
「この音は……」
息を飲んだルカと、顔を見合わせている。
「ウメー、ウメー」
不穏な咆哮が聴こえていた。握られた手から僅かな震えが伝わる。
「……は、羽虫の鳴る音でしょうか?」
ルカの問いに、アウグスタは答えられない。
羽虫が、あれほどの音を立てる事はなかった。
「あそこの守りは、『カバー・モスキート隊長』に任せてあります。隊長ならば、羽虫なぞには遅れを取りません。……無事、ですよね?」
急に饒舌となるルカだった。けれども、アウグスタはまたもや応えられないでいる。
「しょ、小動物などかもしれません。隊長といえども、苦戦は必至。急いで援軍へ向かいましょう」
まるで、自らに言い聞かせるが如く喋るルカ。
またもや言葉を返せないアウグスタは、再び歩みを進め始めた。
その歩調は先程よりも早くなっている。ルカのもだ。
二人とも、不吉な予感を振り払う様にして進む。
一歩、また一歩。
——モシャ、クチャ、ゴクン。
二人で作った「聖域」へと近付くにつれ、厚かましい音は高くなり、より鮮明になっていく。
明らかな咀嚼音が聴こえている。
まるでそれは、小熊の喉鳴りにも似ていて。
伯母と姪。角を曲がるその前に、二人は一度頷きあう。ルカの手が離れた。
「行くわよ」
「はい」
そして、角を曲がった二人の目に飛び込んできたのは、無残にひっくり返された薄布の残骸と、主を失った空っぽの皿。
そして。
「昔は、これ良く母ちゃんも作ってくれたよな。んでも、これって喉渇くんだよなー」
変わらず大きな咀嚼音を奏でたままの、ケダモノの背中が見えた。
「お……! これ、最高にうめぇな! 中のしっとりしたのが特にさぁ、もう一個——」
言いながら、振り返るケダモノ。
口の周りを粉砂糖で真っ白に染め上げている、見慣れた顔。
「お? 母ちゃんとルカも摘み食いか? 残念だけど、こいつでお終いなんだ」
「ま……」
アウグスタは、叫びかけて手を伸ばす。
だが、届く筈もない。
サク、サク、サク。
モシャ、モシャ、モシャ。
クチャ、クチャ。
非情にもも、虚しく咀嚼音が奏でられていく。
口にモノを含んだまま、喋らない様に躾けてあった。無言のまま、時は過ぎた。
隣の震えるルカからは、僅かな術力のうねり。
——ゴックン。
満足気に、喉がなった。
「ごちそうさん。俺は満足したから、料理長にタカリに行けよ。二人なら、副料理長の方が良いか?」
口の周りに付着した粉砂糖をペロリと舐めながらの、あまりにも無神経な言葉。
周囲の温度が一段下がった。
「……オルト」
平坦な声が漏れる。鍛錬帰りなのだろう。服も手も汚れたままの、息子へと向けて。
隣のルカは、既に構えをとっていた。
「なんか、機嫌悪くね? ルカも、そんなに食いたかったのか?」
首を傾げるオルトだが、場の空気から、ようやく何かを察した様だった。
口の周りの粉砂糖を拭い、少しだけ真面目な顔をする。そして、ポンと手を打った。
「あれ? もしかして俺、また何かやっちゃいましたか?」
それがわかっているなら、充分だった。
「
「
オルトへ向かい、突っ込んでゆくルカ。
騎士ではなくとも、想いは一つになっている。
「野獣死すべし。慈悲はない」
ルカによる毒舌が冴える。辛辣な言葉だが、まったくの同感であった。
「程々にね。厨房だから」
アウグスタはそう釘を刺しただけで、グエッという、息子の断末魔の悲鳴を聴いている。
目の前で、楽しみを奪われた徒労感はあるが、既にアウグスタは切り替えていた。
——ほんの少しだけなら、ペーストから作れるわね。復興よ。ルカにもまた、作って貰わなきゃね。
そんな事を考えている、逞しい当主代行である。
この日以来、ルカの趣味にはお菓子作りが加わる事となった。