女は昼と夜とで、まったく異なる顔を持つ。
昼間は子らを育み、時には躾ける「お母ちゃん」の顔であったアウグスタだったが、今は違う。
一人、場を俯瞰して見る女主人の貌をしていた。
そんな彼女は気付く。
ふうわりと甘く、漂う香りに。
僅かに首を傾げれば、豊かな黒髪が揺れ、また少しだけ香りが強まった。
——妙ね?
アウグスタは香水をつけない。
また、装飾品も着用しないでいる。喪服を纏う未亡人であるからだ。
唯一の華美な飾りといえば、棺の形を模した、首飾り一つだけだった。
だが、確かに漂う懐かしくも幸福な匂い。
ふと、顎へ指を添える思考の姿勢を取ろうとした時に、彼女は気付いてしまう。
——お菓子作りの残り香ね。
思わず、くすぐったさに口元が緩んでしまった。
とはいえ、あまり緩むのでは威厳がない。
扇の骨が、鼻先に触れる。
さりげなく扇子を掲げて隠したが、誰かに見られやしなかったかと、内心では少々慌てていた。
当然の様な顔をして、夜会を見渡すアウグスタ。
多くは社交を楽しみ、それぞれが好きな事をしている。失態を晒していないと安心出来た。
だが、ただ一人だけ、此方を見ている者がいる。
無駄に造形の良い、美形顔。
それでいて、愛想の一つも浮かべない鉄面皮である。一瞬、二人の視線が交わされた。
フッと微笑むは、アウグスタの騎士にして剣。
プイと顔を背けた未亡人。
——少し、蒸し暑いわね。湿度調整が必要だわ。
そんな事を考えて、場を取り仕切ろうとする喪服の淑女であった。
騎士達の婚活会場と銘打っている夜会とはいえ、場に集うのは若者達ばかりではない。
例えば、近い所に居る三名のご婦人方。
「お聞きになりまして? あの『霊核先物取引』から、続々と手を引く商会が出ているのですって」
彼女達は参加者の両親や、兄弟姉妹達などである。家へと入る者への選別は、家族や保護者として放っておけるものではなかった。
その会話も、バカにはならない。
「あらあら。流石にお耳のお早いこと。宅の主人もまた、手を引くつもりですのよ」
「ウチの人もですわ。ミリオッツイ様も、手を引くそうですしね。利回りが良くても、危ない橋じゃ仕方ありませんし」
中でも年嵩のご婦人が言えば、もう一人も同意する。話題を振った年若い女性は、ハンカチを口元へと当てた。
「でも、そのせいで火傷をされる方々もいらっしゃるでしょう? そこかしこで、騒いでいる方々がいらっしゃるのよ。アタクシ、怖くって」
三人ともに言葉程には切迫していない様子だが、一面では生きた情報だった。
「あらあら、投資は自己責任ですわよ。それに、利益を手放す事で、行政府により元本の補填がされますからね。さっさと降りてしまえばよろしいのに」
優雅に笑い合いながら、彼女達も情報収集に余念がない。相手からも情報を引き出すために、それぞれが持ち寄る情報があった。
「知らないのでしょうね。布告もちゃんと読まないのが庶民ですから。おお、お可哀想な事」
アウグスタは一つ頷く。
届く場所と届かぬ場所が、ある程度まで絞れてきている。
婚活という目的を持った社交の場が、情報の集積所として価値を高め始めていた。
「そういえば奥方様は、またアーモンドクッキーを作られないのかしら? 家の息子も、子供の頃から好きなのよねぇ」
「広く門戸を開くから、過敏反応の出そうな食材は控えておられるそうよ。中々の、やり手ですわね」
こういった、あまり重要でない話題も多いが。
「気を遣い過ぎよね。まぁ、その慎重で堅実な姿勢ですから、信頼も出来るのですけれど」
「そういった事にまで気を回す余裕がない方達は、口さがなくって困りものですわね」
しかも自分への言及であるので、アウグスタには大変こそばゆい。
また、他方へと目を向ければ。
男性達が語り合う。
こちらは壮年の男性と、まだ若い青年、頭も髭も真っ白な老人が、杯を干しながら管を巻く。
「なんなんだ、あの赤布の連中は。冒険者や海の男の誇りはないのか!」
「アイツらって、王都からの流れ者らしいっすよ。港町の風儀ってもんを、叩き込んでやりてぇっす」
巷では、硝煙の臭いを撒き散らし、威圧的に振る舞う者達が増えているそうだった。
この情報は、朧げにしかアウグスタにも拾えていないものである。
つい、聴き耳を立ててしまう。
「血気に逸るなよ。俺達の普段の喧嘩とは、違うんだからな。今更、血を流す事はない」
「けど、アイツらが横暴を働く様なら、オレは『決闘』だって、やってやるっすよ!」
酔っているのか威勢が良いが、まだ若い青年に、あまり危険な真似はして欲しくはない。
「いや、お前さん喧嘩はからっきしじゃないか。そういう荒事は、得意な奴らに任せておきなよ」
最初に怒鳴った壮年の男性が最も冷静なのは意外だが、彼等は銃器談義へと移っていった。
アウグスタとて知っている。男性は武器とか銃などの話になると、盛り上がるのだと。
だが、悲しいかな、口径がどう、薬室がどう……。などという話題は頭に入らない。
男たちの熱狂も、アウグスタの脳内においては「要・専門家への照会」という一行に変換される。
そう、例えば。
アウグスタ最大の支援者でもある、ミリオッツイ商会頭の様な。
形式番号や製造元の固有名詞に記憶を割くほど、彼女は浪漫派ではなかった。
情報は断片的な走り書きに、留まる事となる。
「奥方様、ちょっと」
「あら、フィオナ。今日は遅かったわね? アントニオも、貴女が来るのを首を長くして待っているわよ」
アウグスタの側へと寄ってきて、そっと袖を引いたのはミリオッツイ商会の一人娘、フィオナであった。アウグスタはつい、誘う様な軽口をかけてしまう。
「いえ。そういった話ではありません」
随分と、憔悴している。
霊核の輸出事業が軌道に乗った事により、フィオナへの負担も増したかとアウグスタは判断する。
まだ、十八なのだ。そろそろ負担を肩代わり出来る人選を、しなければならない時期に来ていた。
「どうしたの? 何か、ありましたか?」
アウグスタが尋ねてしまうのも無理はない。
普段は明るく理知的なフィオナの顔色が、すこぶる悪かった。疲労か、重圧か。そう考えた矢先に、若い娘の唇が力無く動いた。
「父が、父が……」
啜り泣きにも似た、掠れ声。
ミリオッツイ会頭の身に、何かがあったのか。
子供の様に繰り返すだけのフィオナは、尋常な様子ではなかった。
アウグスタはその手を握り、頭を抱き寄せる。
ほんの少しだけ、気丈な娘は杏仁の香りに瞳を細めた。
「……いえ、ここよりも、こちらに来なさいな」
どちらにせよ、話を聴かない訳にはいかない。
抵抗なく身体を預けてくる娘を、奥の休憩室まで連れて行こうとしたその時に。
夜会の喧騒を裂く様な、脂ぎった音声。
「失礼する。儂は王国財務省より派遣された、監査官である。キエッリーニの奥方様はおられるか」
キエッリーニの屋敷、白き屋敷の門へ、酒焼けした怒鳴り声が響いていた。
騎士達が、腰へ手をやる仕草が見えた。
アントニオへ、視線を送る。
彼が片手を上げると、膨れかけていた剣呑な気配は霧散した。
アウグスタはフィオナの細い指から手を離す。
一人にするのも不安だが、この屋敷を預かる者として、対応を人任せにする訳にはいかない。
「私が対応します。せっかくのご指名ですからね」
——せめて、リナかルカでも居れば。
アウグスタは、子供達の参加を認めなかった事を悔いつつも、そっとフィオナの背中を押しておく。
「行きなさい。少し休んで、それからね」
だが、立ち止まったフィオナは首を振る。否定の意味でであった。
仕方なく、息を吐き出すアウグスタ。
あまり、あの方は若い娘さんには「良くない」。彼女は、そう考えていた。
ズカズカと響く足音。
叩き付ける様に、足裏を鳴らしている。
淑女は高い踵を鳴らして歩むもの。だが、紳士は音を立てずに歩む事が美徳とされた。
人波を抜け、迎賓室の扉のまえに立つ。
従僕として見習う青年達が、扉の左右に着いた。
女世帯であるキエッリーニの屋敷には、男性である執事はいない。
動きかけていた「アントニオ」の騎士達は、ピタリと止まった。
「客人を、迎えなさい」
「「はっ!」」
ゆっくりと、重い扉が開かれてゆく。
——さて、監査官殿は今日の今日にて、どの様なご用件をお持ち寄りでしょうか。
女でなく「当主代行」としての微笑の仮面を貼り付けたアウグスタは、恭しく淑女の礼をとった。
「お邪魔いたしますぞ。キエッリーニ・トラーパニの「代行」殿」
大仰な、紳士礼。粗暴な歩法や昼間に見えた横柄さは鳴りを顰め、仕草は中々板についている。
「いらっしゃいませ。王都よりお越しの、監査官閣下。夜会への、ご参加かしら?」
淑女らしく、嫋やかに。アウグスタもまた、社会性という名の仮面を被った。
「なんの、なんの。儂の子供達は、既に一家を立てておりますれば。孫も、適齢期にゃ、まだ早い」
ガハハと、豪快に似せて笑う、老獪な男。
流石にものを知っており、度胸もある。
「それでも、態々お一人でのご足労、歓迎いたしますわ。誠心誠意、おもてなしいたしますわよ」
此方には騎士という武の背景があった。
扱いを誤ってはいけないと、アウグスタは気を引き締める。
——招かれざる客であると、わかっていて来たか。
アウグスタは恭しく彼の手を取り、顔を上げた。
「これは、これは。美人のエスコート・サービスとは、痛み入りますぞ。つい、奮ってしまいます」
「あらあら、不吉な喪服の女相手に、大変お上手ですのね」
コイツ、と思ったアウグスタであったが、如才なく返している。
柔らかに握った掌は、だらしなく肥えている。汗ばんでもおり、ヌメッとした感触だった。
だらしなく鼻の下を伸ばし、嫌らしく笑む、もう老人にも差し掛かろうとする男。
例え経験により取り繕おうとも、その品性までは隠せない。
強く注がれる視線への嫌悪感を隠し、アウグスタは再び微笑む。
「さぁ、いらっしゃって。お寛ぎくださいな」
一歩、二歩と丁重に、ゆっくりと奥へと誘う。
表情だけは誘う様にして、あくまでも賓客への歓迎として。
静かに絨毯の毛足が踏まれる。粗野な男性も、足音を立てていなかった。
ふと、斜めに傾げた視線の端に、アントニオの姿が見える。
アウグスタにはわかる。あの顔は、不機嫌な時のものだ。
だが、なんとか抑えてくれている様だった。
「ガッハッハ! 不肖、儂とて男ですからな。公務とはいえ、麗しのご婦人のエスコートとあらば、一肌でも、二肌でも脱ぎますぞ!」
さも楽し気な笑い声。
この態度、知ってか知らずか。
それはもう、どちらでも良かった。
アウグスタはそんなものなぞ無視し、アントニオを睨みつけた。
いつもと変わらぬ鉄面皮。
だが硬く、白くなる程に拳を握り締めている。
——抑えなさい。
ブリテンの言語において、同行者や案内人などを指す、エスコートという呼び名。
ビタロサの紳士、淑女であるならば、その言葉が示す隠された意味を、察する者も少なくなかった。
「まぁ、まぁ。『代行』殿? 儂も公務として来ておるのでな。少々お尋ねしたい事がありまして」
監査官は、法の網として来ているのだと、声高に宣った。
力は法を支える為のもの。
個人の感情で暴発せるものではない。
「あら、流石ですのね。帳簿のどこかに、何か問題でもありまして?」
ならば、アウグスタは肌に纏わり付く不快感を捨て去って、阿諛する様に返す。
男の視線が一瞬外れる。その向かう先は奥。
機嫌良く笑い、監査官は足を止める。
「いやいや、あれだけしっかりしておれば、問題なぞ、ございませんですぞ。……おっと」
肩越しに、おべんちゃらに付け加えられた、態とらしい驚き。
同時に、軽く添えられていただけのアウグスタの手は離れた。
「これは、これは。お探しいたしましたぞ、
再びの、形だけは恭しい礼。
フィオナが楚々とした礼を返した。
深く腰を折ったまま、監査官は顔だけを上げ、ニヤリと笑った。
「失礼。単にシニョリーナ呼びとは、些か無礼でしたなぁ。少々、商会の事業につきましてのご質問がありまして。よろしいですかな? 『ミリオッツイ商会、次期会頭』殿」
この男は、一体何を言っている? アウグスタはそう思ったが、顔を青褪めさせ、震えるフィオナに声を掛ける事が出来ない。
「いやー、実に素晴らしい。『拡散型先物取引事業における、事業者破綻による被害弁済の特別条項。受益者への遡及的回収』でしたかな?」
破綻した事業による被害者の損失補填を、遡って関わる者の得た利益で埋める。アウグスタが打ち出した法案だ。
「儲けた者から奪い取り、落伍者への施しとする。何とも『慈悲深い』法案ですな」
哄笑が意味するものは、嘲りだった。
自由経済に、差し込んだ楔。
それは、アウグスタが編んだ地獄の一つである。
「驚いた事に、実際の運用をしていなかった事業者がおるのですよ。それで、幾つかの事業が再建の見込みなしとなりましてな。……おっと、これはまだ確か、審議中だったか」
態とらしく、笑う監査官。
「ま、そこで会頭へお話を伺おうとしたら、見つからぬ。被害者保護の為に、一刻も早くの解決が求められるのでな」
血の気の引いたフィオナの顔と同じくして、アウグスタの頭からも熱が引いている。
断片的な情報。土台となる様々な情報が、頭の中で巡った。見つからないとはどういうことか。
商業倫理の強い会頭が、逃げたとは思えない。
大体、富裕層の投資は余剰資金でやっている。受益分を収めた所で、屋台骨は揺らがない筈だ。
多くの富裕層が、まやかしの事業に乗っていた。
被害を抑える法案だ。
利益の再分配。理屈の上では、それだけでしかない。
筈なのに。
何かが、おかしい。
——会頭の性格からして、逃げる選択はない。ならば、追い込まれている。誰かに、あるいは何かに。
一体何が、とアウグスタはフィオナを見やる。
「そこで、商会の経営にも深く関わるというシニョリーナからも、お話を聞けんかとな」
男は頭を上げぬまま、笑った。
華奢な少女へ視線を据えて。
それは、獲物を捉えた狩人のものだった。
不穏と緊張が、膨れてゆく。
調整が施され、適温を維持する迎賓室の中。
アウグスタの額からは、一雫の汗が滴った。