喜べば良いのか、嘆けば良いのかわからない。
アウグスタはそんな複雑な思いを抱えながらも、市長への手紙を書いている。
「残念ながら、ご期待に添えず、誠に申し訳ございません——と。はぁ……」
所謂、お祈り返信であった。
不景気な溜息が漏れるのも仕方がないことだ。
市長と同じくアウグスタも現在の状況について、明確な指針を持てずにいる。
「婆や、今日の霊核輸出事業の出納記録を持ってきて。それから——」
引き継ぎを終えるまで、そちらの業務はアウグスタが埋めることとなっていた。
そういった事務仕事は慣れたものであり、それほど苦でもない。
「それにしても、王都の霊核はどこに隠しているのだか」
「どうせ、碌でもなかとこばい」
そうだろうと、アウグスタも思う。
シシリアから大量の霊核を流しているというのに、王都の相場があまり下がらない。一定の価格推移をしていた。
「隠しているにせよ、流しているにせよ、いずれ限界はくるわ。長期戦になるわね」
資源危機による高騰は収まったにせよ、予断を許さない状況だ。霊核相場は物価に直結している。
価格というものは、共通する信頼で担保するもので、その醸成には長い時間を要した。
「確かあと、三十日と少しだったわね」
「三十四日たい」
監査期限という期間制限のあるものと異なり、商品相場は終わりのない闘争だった。
そして二人が言及したのが、今回の監査における残日数についてである。
「もうそんなに、心配はないと思うけど」
監査に関しては、打てる手を打ち、また精神的にも優位を取れている。
フィオナの爆発からという偶然の幸運に過ぎないのだが、今後はそれ程の面倒はないだろうとアウグスタは楽観していた。
「甘か」
「あらあら、婆やは心配性ね」
以前と同じく鋭い婆やの声だが、今回に限っては容易に頷けない。
「監査の方はどうとでもなるわよ。まぁ、問題がないではないけど……」
もうそろそろ、帳簿上の瑕疵がないことも明らかとなっている頃だろう。
赤い獅子のやり口として、監査そのものは領有貴族を領地に留めるための方便だと、アウグスタは見切っていた。
「まぁ、別の問題がないとは言えないけども」
だからこそ、監査官殿たちは副業に精出しているのだと彼女は考えている。
その商品に問題があるのだが。
「それにしても、王都の武器というのは人気があるものね」
「当然。ばってん、人殺しんためん道具ばい」
王都では神聖障壁により術式の制限がされる。そのおかげで現代兵器が発展していた。
「異界の脅威への対抗策だわ」
「そうなんやろうね」
目的と手段は別である。婆やは特に何も言わない。
「さて、私はどうするべきかしら?」
「なんもゆわんのが今は正解ばい」
事件の、後始末についてであった。
犯人への処遇も、再発防止案も一旦棚上げし、状況を注視する。有効な対応手段が浮かばない以上、それが最善ではあるのだが——。
「坊が勝手に動きよる。おんなじ意見やて思われたら、意見が割るるごたる」
少しだけ問い詰めたところ、銃規制派の喧嘩騒動はオルトに原因がある様だと発覚していた。
本人はまったく無自覚であったのだが、それは関係がない。人がどう見て、考えるかが真実と言えた。
「一応、釘も刺してお説教はしているけれど……」
「弱かね」
でしょうね。とアウグスタは頷く。
公的な声明を出していない以上、立ち位置は明らかになっていない。貴族や行政府は理解するだろうが、庶民は別の理屈を持っていた。
「中立ば声明でん出せば良かんやなかと?」
「そういう訳にも、まだいかないのよね」
立ち位置を明らかにすることは、支持者となった。
だが、こういった二元となると中立の分は悪い。
どちらかを、選ぶ議題であるからだ。
中立も保留も結果的に似たものであるが、今は機会を伺うしかない場面でもある。
——苦しいわね。
平等に数の論理が決め手となる民主主義において、消極的な姿勢は発言権を失うこととも同義であった。
手詰まりともなると、余計な感傷が浮き上がる。
「『あの子』のご両親は、どうしているのかしら?」
「雀がせからしく鳴きよるけん」
一言で、婆やはプイと視線を逸らしてしまった。
今日の民間広報では、号外が数多く出ている。
公報で犯人の素性に関しては伏せられていた。
「ご両親の嘆きが、見える様だわ……」
公平な情報、平等な機会。
それを重視した結果、好奇心を煽ることとなった。
民間広報の需要はそこにある。
——少年の心情はわからない。けれど、ご両親の心痛を思えば。
親だから、どうしても己の身として考えてしまう。
重く沈みゆく気持ちに、アウグスタはそっと蓋をして。
「さて、婆や。鉄鋼と化学に高値がついたわ。そろそろ利食いでもしましょうか」
「よかね」
深く息を吐き、手元の帳簿に視線を落とす。積み上がった金融資産の一覧が見えた。
「ここのところ支出も多いし、現物を少し補充しておきましょ」
「腕ば鳴ると」
感情の制御された理と利による数字の闘いに挑む母にして、当主代行であった。
「……なんね?」
「?」
静かな
執務室はアウグスタの自室であるが、些細な変化に気付いたのは、婆やの方が早かった。
「……ああ、よか」
交信を用いている様なので、侍女の誰かだろう。
人前で交信を用いる時は声に出し、それを暗に伝えるのはマナーであった。
「奥方様に手紙ば届いとるばってん、どぎゃんすっとね?」
「私に? ……手紙なら、読みますけど」
珍しいことである。立場の割に、アウグスタ宛の便りは少ない。
代行という正式でない身分もあった。
政策意見や陳情の類いならば行政府へ送られる。
悲しいかな寡婦の彼女は長らく社交を断っており、私信を用いるのも限られた身内であった。
「よかと? 恋文たい」
婆やは意地悪く、瞳を細めている。
「もう、冗談は止して」
それはないと断言出来た。
便りの全ては婆やを始めとした侍女たち——家臣団により検閲される。
家中結束を重んじた初代、祖父の治世より続く習わしだった。
「冗談じゃなか」
とても不本意そうにして、吐き捨てる婆やがいた。
アウグスタはそれに構わずに、ククッと笑いながら呼びかける。
「良いわ。入って頂戴」
侍女の一人が扉を開いた。その手には、封書が摘まれている。
「……冗談じゃなか。あん男からたい」
吐息の様に長く吐き出された婆やの声。
——あの男?
そんな疑問を浮かべる余裕など、アウグスタにはなかった。視線は封書に施された封印に、吸い込まれている。
その封印には、見覚えがあった。
忘れるはずもない意匠、消えることなき呪いの絵図。
「赤い獅子……」
思わず漏れた呟き。
王冠を抱いた紅き獅子が咆哮をあげるそれは、王国財務省最大派閥を示す紋章だった。
「……」
思わず、息が止まる。
この紋章自体に意味はなく、また人を害する力があるではない。なのに、圧迫感が押し寄せる。
顔の見えない象徴は、「英雄」を殺す。
「……ヒュッ、はぁ、はぁ、はぁ……」
短く、か細くなってゆく呼吸。
——ああ、私はまだ。
「……しっかりしなっせ、あん小物ばい」
矍鑠とした婆やの声に、我へと帰る。皺くちゃの手に、背中を摩られていた。
ふっと意識が
「……監査官殿?」
封印の隣には、差し出し人として彼の姓名が大書されている。
アウグスタにとり最も恐ろしいのは、「知っていながら」も「貌の見えない」意思だった。
凶行を犯した少年の様に、かつて夫と共に海を渡った彼等の様に。
「何故彼が? 一体、何の用件で?」
「知らんて」
思わず疑問を口にするアウグスタ。婆やはつまらなそうに吐き捨てた。
「とても、個性的な筆なのね」
「下手くそなだけや」
監査官殿の筆致は、随分と自己主張が強く、個性的なものである。筆一つにも、あまりにも我が出ている様に感じられた。
「……なんか、損した気分だわ」
つい、溢れてしまうのは無理もない。
赤い獅子たちには、「わからない」、「見えない」といった貌のない悪意であるからこそ、神秘的な恐ろしさがあった。
「あんボンクラからのもんなんて、損しかなか」
そこに野卑な笑い声が混ざってしまえば、そんな印象も薄れる。
「冴えないは言い過ぎよ。アレはアレで多分、貫禄を出しているつもりなのでしょうし」
婆やは口が悪かった。アウグスタも嗜める。
それでも彼女もなんとなく、緊張も恐怖も返して貰いたいと、思ってしまっていた。
「奥方様は、考え過ぎだけんね」
肩を竦める婆やに、そうかもしれないとも思う。
だが、それは性分なのだ。
今更変わるものではないと、アウグスタは開き直っている。
彼女は一つ咳払いをすると取り繕い、侍女から封書を受け取った。
淑女の礼を一つ見せ、下がってゆく家人。
執務室には、二人だけが残る。
「さて、監査官殿は、どんなご用件なのかしら」
自らの手指で、赤い獅子の封印を破った。
綺麗に折り畳まれた手紙が入っている。
開けば、「明日、面会を希望する」との文言が、ご機嫌伺いの長い口上の後に記されていた。
「どうやら先方も、膠着を良しとしないみたいね?」
感想を婆やへと告げる。
文面から、そう推測するしかなかった。
取って付けた様な、定型文の並ぶ長い美辞麗句は響かない。そういった、女であった。
目的は、落とし所の模索といったところか、とアウグスタは考えている。
「しょんなか男たい」
手紙の文面へ、視線を這わせた婆や。
彼女は呆れた様に言う。長々と綴られる女性宛の美辞麗句から目を逸らして。
「まぁまぁ、そう言わないの。男の人には面子とかが大切でしょうし、社交辞令は大切よ。此方もあまり余裕はないしね?」
アウグスタに人的余裕がない様に、監査官殿には時間がなかった。
会計監査には、一定の期限がある。
渡した大量の帳簿に、瑕疵はない。
加え、精査だけでも監査期間が終わりかねない情報量だった。
「そぎゃん暇があるとなら、仕事ばすりゃよかろ」
その通りであった。そしてそれこそが、アウグスタの見出した勝ち筋でもある。
余計な真似をさせないため、監査に専念出来る様にと敢えて、詳細に纏めたものを差し出している。
難癖程度ならあり得るが、会計監査である以上、何処を突かれても問題はない。そういった正攻法を選んでいた。
精査や裏取りをやり切る頃には、何の問題もないと太鼓判を押させる出来にもなっている。
それを察したからこそ、夜会には心理的重圧を掛けに来たのだと、キエッリーニ家当主代行は見抜いていた。
「難癖かしらね?」
「知らんたい」
見て取れた監査官殿の性情は、わかりやすい程に小物であった。
危ない橋を渡る気はないが、目先の手柄も惜しい。そういった、よく見る普通の人である。
——そうなると、思い付く可能性としては。
「落とし所の探り合いが妥当か」
彼に得るものがない以上、傷を負わずに引くしかない。そう仕込んでもいる。
懸念は逆恨みなどの感情的な破綻だが、幸いにも彼はフィオナに「わからせ」られていた。
「そげなタマかよ」
婆やには別の感想がある様だが、相手は王都の官僚を長く務める人である。アウグスタにとっては、まだやり易い部類だとも考えていた。
「返事を書きます。婆や、悪いけど届けてくれる?」
決断は速やかに、されど優雅に。
「御意」
婆やが恭しく頷いた。アウグスタは筆を取る。
——少しだけ、明日は苦言を呈しましょうか。あの方も、事件には心苦しさがあるでしょうし、少しは自重して貰いたいですしね。
十四年もの間、キエッリーニ子爵の未亡人として、そしてトラーパニの母として。
彼女は、民たちの指導者であり続けてきた。
理と利による共生は、可能なのだと信じている。
アウグスタは会談が実りあるものとなる事を、疑っていなかった。
その背中を、初代からキエッリーニに仕える老婆が立ったまま見ている。
酸いも甘いも知る、百戦錬磨の老女だ。
彼女は世の中に、「どうしようもない連中」がいることを知っていた。
だがそれを伝えて、どうなる問題でもない。
もはや世は、若かりし頃の彼女が駆け抜けた、排除による統制の時代ではなかった。
婆やは信じるしかない。
かつて乳を与えて育んだ少女を。やがて幸福を知り、妻となり母となった女性を。
幸福を奪われて、なお立ち上がって歩む「アウグスタお嬢様」の強さを
理に従って、いずれ世を去り行く老婆はただ見ている。女らしく実りながらも、なお細い背中を。