吹き入った、少しだけ強い潮風。
湿り気のある風が、アウグスタの肌を撫でる。
汗ばんだ肌からは、僅かに熱が引いてゆく。
「天にまします、我らが主よ——」
静謐な祈りの言葉が重なってゆく。
鼻腔を擽ぐるのは、少しだけ生臭い風の匂い。
茉莉花や杏仁の芳しさとは異なり、強く生活の臭いを感じさせた。
「日々の苦楽を分かち合い、我等は歩みます——」
祝詞を口にしながらも、アウグスタの視線は開け放たれた扉、遠いその先へと向かう。
青い空、陽光を受けて煌めく蒼い海。
変わらず見える水平線が、なだらかな弧を描く。
「愛すべき故郷よ。豊かな恵みに感謝します——」
漂う白い雲に、空を遊ぶ海鳥達。煙を上げる船影までもが見えた。
愛を謳う主の教えを、心からは信じられていないアウグスタであったが、この景色だけは信じられた。
もう一度、潮風が鼻腔を擽ぐる。ベタつく肌は気にならない。そんなものを気にする不粋者は、どこにもいなかった。
「——私達と貴方の行く先に、幸あれ。主と海と空の御名において。そうあれかし」
こうして愛すべき故郷、トラーパニの地において、「礼拝」が結ばれる。
本来の意味での、「誓いの儀」が始まった。
「続いて、佩剣の儀へと移ります」
訛りのない、厳粛な婆やの言葉。こうして司会進行を務める彼女は、キエッリーニの錨でもあった。
アウグスタ達は、その横顔を見ている。
主催側の立ち位置は、奥。
場においての上座にあたる。中央に、演台が設けられていた。
この立ち位置、受ける側の背中しか見えないが、誓いを捧げる方はよく見えた。
僅かな、勾配もついている。
貴族の家は軍事拠点であり、式場も兼ねた。古くからの伝統だった。
誰の視線も、伝統を体現する老婆へと注がれたままでいる。
「宣誓代表者二名、前へ」
響く声。視線の先が切り替わる。
ガチャと、鳴ったものへと。
——カチリ、カチリ、カチリ。
花道を通り、足音も立てず中央へと向かってくる巨漢。纏った騎士鎧から、小さくも硬い音が鳴る。
息子の、オルトであった。
石灰色にも似た重厚な鎧は、無骨ながらも陽を受けて、瑠璃にも似た煌めきを放つ。
来年へは兵役へと向かうオルトが、あつらえたばかりの鎧を纏い、演台へと立った。
いつもの半裸でも、お仕着せのような礼服でもなく、島の、そして街の戦士の正装で。
とてもしっかりとした顔付きで、息子は一度だけ「此方側」へと頭を下げて、背中を見せる。
広い、背中であった。
——本当に、大きくなって。
その背中に、夫の面影が重なる。
逞しく、前向きで、勇敢。そして不器用に優しい。
常に皆の先頭に立ち、希望を燃やし続けた、お日様みたいなあの人。
——背丈はもう、追い抜いていたかしら? 顔付きも、身体付きも、本当に似てきて。
夫を亡くしたあの日、片腕でも抱えられた息子は、もうこんなにも大きくなっている。
「兄貴……」
隣から聴こえた小さな呟きを、アウグスタは逃さなかった。
だが、彼女は僅かに視線を動かしただけで、ほうと息を吐く。
アントニオは特に、あの人のことを慕っていた。主君というだけでなく、兄としても。
隣に立ったアントニオが、無表情のま満足気に泣いている。
「ふふっ……」
思わず、笑みが漏れる。
アウグスタとて、母親だ。そんな彼の漏らした言葉に、満足感を覚えぬはずもなかった。
誇らしく、喜ばしい。同時にどこか、寂しかった。
「ほら、アントニオ。愛する娘の晴れ姿ですよ。ちゃんと、見ていなさい」
そんな気持ちに蓋をする。
本来、晴れ姿などと呼べるものではない。
十二を迎えた子供達は、主よりの加護を失う。
もう、御使達に救われることはない。
その代わりとなるために、人々は手を取った。
親子、主君、親方、師匠、あるいは後見人。
十二の子供は、まだ一人では生きられない。だから大人が誓うのだ。
誰かが、その居場所となるために。
そのために人々は誓いを交わした。
誰が責任を持ち、誰が護り、誰が育てるのか。
十五での成人を迎え、人として主との契約を結ぶまでのもの。
だからこそ、大切な誓いなのだ。
——カツン、カツン、カツン。
踵を鳴らす、高い音が響く。淑女の歩法。
凪のように静かに、そして確かに。
長い銀の髪を靡かせて、真っ白なドレスを纏ったルカが、向かってきている。
——私にじゃなく、オルトにね。もう、身に付けたのね。随分と、女の子らしくなっちゃって。
やはり寂しさを上回るほど、誇らしくも喜ばしい。
ずっと男の子みたいな服装を好んでいた姪に、義姉の面影が見える。
「愛し子」という優しい不自由の中で、何者かでありたいと望み続けたルカが、世に出る時がきた。
彼女自身が真に、選び、選ばれる時がくる。
やがてオルトの前に立ったルカは、淑女の礼にて衣擦れを奏で、恭しく跪いた。
二つの剣を手にするオルト。どちらも息子の身体には、細く小さなものだった。
「汝、ルカ。我はトラーパニの大熊の息子オルト。いずれキエッリーニを継いで、港町の守護者へと至る者だ。我に忠義を捧げる騎士となり、病めるときも、健やかなるときも、共に歩み続けることを誓うか」
朗々と響く声。太く、大きなものだ。
あの人によく似た息子による、誘いの言葉だった。
古き伝統、人々の歴史。
責任を持つ者が呼びかけ、望む者が四つの誓いを返す。
己の庇護下に入ることを認めた主君が証を渡すことで、約束は結ばれた。
証を用いた技量を見せることこそが、披露目だ。
それぞれに、その形態は異なる。
騎士によるお披露目は、伝統により剣捌きで行われた。
「誓います—-—」
そして返る、澄んだ声。
四つの言葉、四つの約束。
少女は主君の誘いに、誓約を紡いだ。
オルトが双剣にてルカの肩を叩き、下げ渡す。
受け取った姪は、静かに納刀を行った。
双剣は、オルトが自ら用意した業物だ。
やっと公的に身を護るための牙、帯剣を認められたルカのために。
抜刀。
シャランと響く、澄んだ音。
彼女はもう、護られるだけの子供ではいられない。
自らの力で立ち、自らの意思で選ぶ、残酷な、だからこそ、強く優しい人生の門出。
けれど、一人ではなかった。
納刀。
オルトがいて、家の者がいて、こうして見守る人々が
いる。会場の視線は全て、美しき少女の元へ。
きっと、大丈夫。ルカだけでなく、この場にいる全ての加護なき人々は皆——。
二刀を操るルカの剣捌き。
アウグスタの目では、とても追えたものではない。
一瞬の静止で産まれる、光と音としてしか、認識出来ないものだった。
それでも、見事なものだと思っている。
綺麗な姿勢に、培ってきた日々を感じてしまう。
ふと、ルカの遥か後ろに、光が見えた気がした。
「あら?」
涼しい風が横から抜けた。視線が横へと逸れる。
アントニオは、いなかった。
——ああ、そういうこと。
思い至ったアウグスタは、悩ましく息を吐く。
騎士による三度の納刀、お披露目は、既に終わってしまっていた。
——奥方様、掃除は終わりましたよ。まだ、間に合いそう?
——お披露目まで終わったわ。早く戻ってらっしゃいな。貴女なら、宣誓には間に合うかもね?
フィオナによる更新は、慌てた心情そのままに慌ただい気配により打ち切られる。
「早くしないと、見逃しちゃうわよ」
呟いたアウグスタは交信をしていても、オルトとルカから視線を逸らしていない。
オルトで見えのは、背中だけでしかないが。
可愛らしい顔でルカは胸を張り、彼女が向き合うオルトへと、剣を捧げている。
——ごめんなさいね。
アントニオは、既に隣にいた。
感じるのは、僅かに上がった体温。
そして、精悍な男の匂いに混じる、微かなもの。
それは火薬の臭いであった。
「殺してはおりません」
声が、アウグスタの耳を打つ。彼女は僅かによろめいた。ぐらりと、揺れる足元。
逞しい男の肉体に、身体が包まれていた。
支えられてる。
「気を、確かに」
熱いもので、身が包まれている。もう火薬の匂いは遠い。男の匂いが身体の芯へと、溶け込んでゆくようだった。
「大丈夫です。離しなさい」
顔も見ず、そう冷静に返したものの、大きく鼓動が跳ねている。呼吸も僅かに浅かった。
近頃は、どうも身体の調子が安定していない。体調が悪い自覚はないが、どうにも不安定だった。
「はっ」
男の身体は離れたが、身体の芯に熱を持つ。鼓動の速さも変わらない。
恐らくは、身の危険からの過剰反応によるものだろう。アウグスタは演台へ視線を戻す。
「……?」
何故だか、ルカと目が合った。随分と嬉しそうなので、微笑みを返しておいた。
婆やが、小休憩の合図を告げる。
「奥方様、お気を付けください」
アントニオが、またもや囁く。
澄ました声が何故だか、無性に腹立たしい。
オルトが産まれる前までは、そうルカとも変わらぬ大きさだったのに、生意気だと思ってしまう。
「何を言っているの? アントニオ」
少しだけ、昔みたいにやり込めてやりたくもなるものだ。しかしもう、あの頃みたいに頭には手が届かない。
「いつまでも、守ってくれるのでしょう? 貴方が」
なので仕方なく、礼服の腹の辺りを摘み、顔を見上げる。アントニオは僅かに表情を綻ばし——。
「
直視してしまう。見慣れた顔の、今は見慣れぬ表情を、
夫と二人で、昔から可愛がっていた少年であるにも関わらず、やけに顔が熱い。
「可愛くないわねぇ……」
アントニオから身体を離し、再び視線は演台へ。
ルカは相変わらずニコニコとしている。父親とは違い、とても可愛らし子であった。
そういえば、まだアントニオの後添いも見つかっていないことを思い出す。
ルカの母親となるのだ。良い人が、見つかれば安心出来るのだがと、アウグスタは頬に手を当てていた。
「皆様、お戻りには——まだのようですな」
演台の横から、再び婆やが仕切る。
「もう少しばかり待つばい。よかね? 二人とも」
オルトとルカ、頷く姿が見えた。
そう。まだ、終わりではない。
主従、あるいはそれ以外の形。
最後は、二人が互いに、そして人々と世界へと向ける宣誓により、「誓いの儀」は結ばれた。
「それでは、宣誓の儀へと移る。証人達よ、立ち上がれ」
婆やが再開を告げる。誰も、立ち上がる者はなかった。最初から立っている。
リナを連れてきたフィオナも、どうやら間に合ったようだった。
オルトとルカ。
重厚な鎧の男と、煌びやかなドレスの少女。
二人は対等に立っている。
顔が、見えた。
上座と下座の区別なく、アウグスタ達主催側からも、参加者である側からも、横顔が見えるように二人は立っている。
向き合った新たな主従に、会場全ての視線が注がれる。心地よい緊張が、場を満たした。
——オルトはルカに、そして私達に、何を誓ってくれるのかしら。
アウグスタも宣誓の内容までは知らない。
だがここのところ毎日、いつもは早寝早起きのオルトが、夜中まで唸っていたことを知っている。
普段は口煩く、もっと考えなさい、頭を使いなさいなどと息子を叱るアウグスタだが、オルトがちゃんと考えている事も知っていた。
苦手を克服しようとし、自分の強みも伸ばす。
努力が、出来る子だ。
まるで、あの人の様に。
幼馴染の彼は、王国法には疎く、計算が苦手な生粋の冒険者だった。
婚約の決まったアウグスタが十二の年、十七だった夫は猛勉強をして、十九で王国財務省へと入省している。父に、商売が出来ない男に娘をやれんと怒られた為だ。
その時、まだ幼かったアウグスタは泣いた。
ずっと一緒にいたお兄ちゃん、一緒になるなら彼だと思っていた。何も知らない子供の我儘を叶えてくれようとする、優しい人だった。
苦手があっても、誰かの為に努力が出来る。
それは得難い資質であり、祖父、父、夫。三代に渡りキエッリーニ当主達が、最も重く見たもの。
それが今は結晶となって、ここにいた。
母には、期待しかなかった。
「汝、支える者よ。新たなる騎士に、そして世に、何を誓う?」
婆やが問い掛ける。お前は背負った者に、何を望むのかと。
宣誓の言葉も、主君からのもの。背負う者こそが、初めの誓いを口にすることとなる。
隣で、喉の鳴る音。アウグスタも同じものを奏でていた。
「——」
「——」
隣の男と、息がまたもや重なる。
口を開き掛けた息子。だが、声はまだ発されていない。そのまま腕を上げ、ボリボリと頭を掻き出した。
そして——。
「あのよ。ルカにも、皆にも悪いんだけどよ」
これまでやっていた、儀式用の言葉を止めた。
「ずっと考えてたんだわ。俺の言葉でなく、格好つけて、責任なんて果たせんのかって。なぁ、良いか?」
声は大きく、そして言葉遣いも良くはなかった。
だが、息子は姪を見つめていた。
「問題ない。オルトは愚か」
静かに。やけに遠く聴こえる、いつもの遣り取り。
「つーか、俺が簡単に難しい事なんざ、出来るはずもねーよな? 精々が一人で突っ込んで、『行ける』って思わせるだけだよな?」
問い掛ける。誰もがに。
そして誰も、返さない。返せない。返しはしない。
誓約の、儀式であるからだ。
「おう、おう、おう! いやよ、俺も頭悪ぃなって、思ってんだよ。つーかよ、お前らって、俺が格好良く頭なんか使えると思ってた?」
誰も思ってはいないだろう。だが、それでも慣習に合わせ、形を作るのが礼儀であった。
それが出来ないのは、恥知らず。社会の中には入らない、身勝手な無頼。
膝が崩れた。視線が揺れる。
堕ちる。奈落へと、落ちてゆく。
アウグスタは、羞恥の沼に飲み込まれ——。
何も、考えられない気がしていた。
——私が、悪かったの? 育て方を間違えた? もしかして、辛かったの? 反抗期が今——。
その肩が掴まれる。横に立つ男の腕で。
「思ってねーよな? 俺だぜ? だからよ……」
オルトは顔を回し、会場を見渡す。
「俺は、いつでも突っ込むぜ。文句があるなら言ってくれ。止まるかもしれねーが、俺は、俺の正義に従って、バカをやる」
響き続ける声。
「自分の心に従って、俺に着いてきたけりゃ、着いてこい。俺の身体は、後ろを護るためにある。——誰も、死なせねぇ」
街の、どの船乗りよりも。熊よりも、そして誰よりも、強い声。
あの人が、最期まで響かせていた声が重なった。
「幾らでも、前で身体を張ってやんよ。だからよ、ルカ」
ルカを見詰めたままのオルト。
アウグスタの膝が崩れる。
この十四年間、財政危機にも、資源不足にも屈する事のなかった彼女の膝が。
腰が落ちてゆく。
それでも、力強く響き続ける声は。
「俺の背中は、任せたぜ」
望んだ。
粗暴な息子が、華奢で真面目なルカを、まだ十二歳の少女を挑発的に見下ろしている。
もう滅茶苦茶だ。きっと、怒っているのだろう。
そう思いながら、アウグスタはルカを見ていた。
「あなたが背中に背負う荷は、とても重いもの。私の一歩が遅れることはありません。……ですが、どうか。心のままにお進みください。安心して、前へ」
だが、なんとか取り繕ってくれる姪に、彼女は大きく息を吐く。
冷静な子で、よかった。宣誓を上手く結べれば、なんとかなるのかもしれない。
そう立ち直ったアウグスタは、姿勢を正そうと試みる。だが、地に足が着いていなかった。
アントニオに、抱えられている。
そんな事にも気付かぬ程に、取り乱していたのか。
そう思いつつ身を捩るも、戒めは解かれない。
一瞬、叱責の言葉が漏れそうになった。だが、アウグスタは、なんとかそれを飲み込んだ。
誓いに余人の言葉は不要だ。行う者以外、言葉を用いてはならない。
ルカが、軽く腰を落とし始める、
淑女の礼の、予備動作。丁寧に、優雅に行なうことこそが、至上とされていた。
一礼の後、宣誓を行えば、儀式は完了となる。
アウグスタはただ、見ていることしかできない。
益々強く、抱きすくめられていた。
彼女には、わからない。
息子のことも、騎士のことも。
男のことを、何一つわからないでいる。
それでも、ルカによる誓いは、彼女を安心させるものだった。綺麗な所作。それなのに——。
——破裂音。
上がる顔、泳ぐ視線、息を飲む声。
それが形となる前に、軽やかな声が響く。
「行けると思った? 私の前に出たいなら、もっと機敏に動く。置いてくよ、鈍間なオルト」
顔を上げ、身を翻すルカ。
彼女は既に駆け出している。
普段通りでない長い銀髪を靡かせ、白のドレスを翻し。いつもと変わらぬ軽口を添えて。
「あっ! テメェ、ルカ! 抜け駆けすんなよ!」
その背を追って、オルトもまた駆け出した。
瞬く間もなく、姪と並んだ息子。
「まだまだ」
「てめ! 生意気な!」
ところが、ルカは加速する。
小さな背中は、更に遠くへ。
オルトもまた加速する。そしてルカもまた。
追い抜け、追い越せと二人は駆ける。
「行ってこい」
待ちなさい、と叫ぼうとしたアウグスタ。
だが、それは叶わない。唇を塞がれている。ボソリと呟いた男の手によって。
瞬く間に、二人の背中は見えなくなっていた。
「な、何が!?」
「だ、大丈夫なの?」
式場内はどよめく。困惑する者、混乱する者。
「ありゃ、銃声じゃないか? 何があった?」
「逸れでも出たのか? ああ、だから若様達が……」
状況を把握しようとする者、考察する者。
どよめきが、広がってゆく。
「……チッ、暴発かよ」
舌打ちを響かせたのは、監査官の護衛。
——アントニオは動かない。
それだけで、充分な判断材料だった。
——ならば、私のすべき事は。
フィオナとリナの姿も見えないでいる。
アウグスタは声を出そうとし、それが叶わぬことを思い出す。
見上げれば、涼しい顔をした男。彼女は己の騎士を睨みつけてやる。
「ご無礼」
軽い声。男の手のひらが、唇から離れていった。
地に足が着く。離れてゆく、男の体温。
見下ろせば、男は既に足元へ。硬い音を立て、片膝をついていた。
「手落ちがありましたか、アントニオ」
「面目もございません。されど、別口でしてな」
顔を上げ、涼やかに微笑む男。叱責が唇に登りかけたが、彼女は止めた。
それは、今必要でないことだ。
「うぇーん!」
「マンマー!」
「だ、大丈夫だから! ここなら!」
泣き出す子供達がいて、駆け寄る大人達がいる。
一度火のついた混乱と混沌はまだ、収まらない。どころか、益々膨れ上がってゆく。
ならば領主代行には、やるべきことがあった。
「泣くなって! お祝いだぞ!」
「だってー」
不安を拭うのも、指導者の役目。
彼女が見るのは、キエッリーニ開祖から仕え続ける古老の姿。
アウグスタは呼び掛ける。
「婆や」
真っ直ぐに立つ、皺だらけの老婆。
瞳を閉じた彼女は、細く、長く息を吐き出した。やがて鋭く、息を吸う。
カシャンと、杖を突く音が鳴る。
儀礼用の錫杖が、地に打たれた音は軽い。それでも、幾つかの視線は老婆へと集まった。
街と共に、歳を重ね続けてきた女へと。
その瞳が、開かれる。
「者共、静まれっ!」
大喝が、響き渡った。
声量が、途方もなく大きい訳ではない。
戦士や船乗り達の様に、その響きは烈しくも、強くもなかった。それでも——。
高らかな声が止み、騒めく音も、無秩序な動きでさえも、途切れる。
——流石は婆やね。
彼女の言葉には、重みがあった。
数多の惨劇も悲劇も超えて立つ、生き残り。
「そして、聞け」
そんな先達の声は、常に新しき風が吹く自由都市、貿易港トラーパニにおいてでさえも、確かな錨となっている。
「ここに、誓約は結ばれた。人々よ、新たなる主従の前途を見守りたまへ。そうあれかし」
静かなる結びの言葉。
「同胞の行く先を、我々も末長く見守ると誓おう。父と子と精霊の御名により。そうあれかし」
それへ返すはアウグスタ。
呼び水も、主催の責任であった。場の意思は、一つに結ばれる。
「未来に幸あれ!」
「子供達に祝福を!」
「そうあれかし!」
口々に叫ばれる祝いの言葉。大人達は子供達の手を取りながら、祈った。
「アタシもやるよ!」
「目指せ、貿易王!」
「がんばるよー」
子供たちからも、歓声が湧き上がる。見守られ、見上げながらも子らは願った。
未来を。
「奥方様ー」
「楽しかったよー」
一緒に、アウグスタにも注がれる声援。
楽しければ笑い、時には間違える、英雄でない普通の人々。
自由で活気があり、連帯により手を取り合うトラーパニの民達を、眩しく見ている。
「ルカ様戻ってこないのー?」
「ふふっ。皆様方、お楽しみ頂けたようで、何よりですわ」
式場である白の街、白の家。貿易港トラーパニを預かる子爵家、キエッリーニ邸。
その最奥に立つ、「奥方様」、喪服の未亡人アウグスタは微笑む。
「けれど、宴はまだまだ続きますわよ」
再び歓声が湧き上がった。
料理、お菓子、酒。山程に用意してある。
幸福の記憶、仲間達との絆を、刻み付けるためだ。
「本日は楽しんで、お腹いっぱいになって、明日からもまた、楽しみましょう!」
誓いの儀における余興、ルカとオルトによる誓約の儀式は、これにて終わりとなった。
お読みいただきありがとうございます。