淡き光の下で、筆を持つ指が止まった。
黒衣を纏う女、アウグスタは立ち上がる。
ツカツカと、彼女は窓の元へと。
両手で窓を開け放てば、湿気を孕んだ夜の風が吹き入った。
丘の下、広がるは街の灯り。
その喧騒が潮風に乗って、部屋まで運びこまれてくるようだった。
「百八名。概ねは、片付いた様ですが……」
独り言が漏れる。
その数字は本日催された
アウグスタが筆を執っていたのは、その記録、つまりは行政府へ向けた報告書を纏めるためだった。
反対側、屋敷の中の窓を見る。既に灯火は落ちている。夜も更け、ルカも友人達と共に夢の中にいた。
——思ったよりも多かった。残りはそう多くもないとは思うけど、あの子は大丈夫なのかしら?
アウグスタは、アントニオと共に街へ出たオルトに思いを馳せた。
だが、一瞬で首を振る。
もう十九となった息子だ。来年には兵役に出る事となる。いつまでも、子供扱いをしていてはならないものだろう。
そう考えた彼女は、再び机へと向かった。
——トン、トン、トン。
だが執務机へ辿り着く前に、訪が鳴らされた。そのままアウグスタは扉へと向かう。
「鍵は開いているわ。遠慮せず、入りなさい」
ガチャりと扉が開かれる。
現れたのは、歳若き淑女。
ヘイゼルの瞳に金の髪、白の二つ揃いに紅きケープレットが映える。
「フィオナ・ローサ=ミリオッツィ。ただいま、帰って来ましたよ」
「おかえりなさい、お疲れ様」
フィオナであった。
瀟洒な礼をする予想通りの相手へアウグスタも礼にて返せば、客人の後ろ手により扉が閉められた。
「あ、奥方様。おもてなしは結構ですよ」
「あら、やっぱりお酒が良いの?」
茶を入れようとしたアウグスタだが、フィオナにより制される。微笑みながら、酒棚に向かおうとした彼女であったのだが。
「お酒も、今日はなしで。ちょっと明日は朝から大忙しなんで、早寝しますので」
「もう、こんな時間よ?」
既に日付けは変わっていた。正確には明日という訳ではないだろうが、別にアウグスタも言及しない。
「それでも、しっかり寝ませんと。だから今夜は、報告だけです」
フィオナは自ら椅子を持って来て、執務机の前へ腰掛ける。アウグスタも水差しと氷、二つのグラスだけを手にし、席へと座った。
「水分補給くらいなら、問題ないわよね?」
「いただきます」
そう返したフィオナは、一息にグラスを煽った。
「くぅ、染み渡るわー」
グラスに注がれたのは、ただの水。ただし、レモンで香り付けがされ、僅かに塩を溶かしたものである。
セルツなどと同様に、水分補給用飲料として、島では広く親しまれていた。
「悪いわね。お父様が、やっと目を覚ましたというのに大掃除にまで付き合わせしまって」
ミリオッツィ商会頭は、昨夜目を覚ましたばかりであった。そのせいで、責任感の強いフィオナには負担を強いてしまっている。
「ははっ。あのクソ親父、目覚めた途端に帳簿を見せろとか、商会の様子を根掘り葉掘りで、もっとゆっくり眠っていても、よかったのですけど」
フィオナは軽口を叩くが、彼女の顔には疲労が見える。化粧で巧みに隠そうが、それに気が付かないアウグスタではなかった。
「おかげで、楽しく儀式が終えられたわよ」
朝方に齎された意識不明者覚醒の報せは祝祭の気運を大いに盛り上げ、儀式を翳りないものとした。
死者及び再起不能者=0。
友人の無事を喜ぶ気持ちと共に、数字上でも被害が出なかった事に、街の住民は安堵を覚えている。
勿論、アウグスタもそうだった。
「睡眠時間を削っても仕方がありませんから、本題から行きますね」
姿勢を正したフィオナへ、アウグスタもまた姿勢を正す。彼女へ任せていた仕事は、確認だった。
火種に注がれる油、それへの対処が充分であるかの判断である。
アントニオら数名の儀式参加者を除く騎士達を、街中へと配置していた成果を確認せねばならない。
「それでは、報告をお願いしましょうか。街へ入り込んでいた赤い獅子の尻尾は、どれだけ捕らえられましたか?」
銃規制問題と、治安への不安。民衆の感情を歯止めなく流すのならば、この日に騒動を起こすのだろうと見ていて、手を打っている。
フィオナは遊撃、リナも緊急治療隊に協力者として組み込まれ、この日を迎えていた。
「百四十二名。ここ最近で島へ訪れた者ならば、ほぼ全て。と言っても良いでしょう。とはいえ、誓いの儀が前倒しされてから、入って来た連中だけですが」
流石に、ついさっきまで現場に出ていたフィオナである。非常に話が早かった。
そのつい最近、入り込んだ連中を確認するのも、頼み事の一つ。
不穏分子を一掃出来たか、それを知らねば、警戒は続く。その意味ではフィオナの回答は、アウグスタを満足させるものだった。
「行政府への報告書は、修正が必要ね」
「それはとても、面倒ですね」
別に面倒でもなかった。だが、アウグスタは思わず息を吐く。
こうして十八の娘に、実に多くの仕事を押し付けてしまっているのは、やはり気が重くもなるものだ。
「目先の稼ぎで来た奴らなんて、こんなものですか」
安心よりも、拍子抜けが強いのだろう。フィオナは少し憮然としている。だからこそ、アウグスタは伝えてやる。
「甘いわね。こんなものこそが、最も厄介なのよ」
膨れっ面をするフィオナに、それ以上語る必要はない。経験を積んで肌で知る。
そうして身に付く感覚だ。
そうならなくとも済むように、やってきていた。
ゆっくりと身に付けて、社会に出る。その余裕を作ることこそが、領主代行の仕事であった。
「また甘いって、婆やじゃないんですから。難しい顔ばかりしていると、皺増えますよ。婆やみたいに」
「随分な言い草ね。忠告、受け取っておくわ」
微笑を返してやれば、フィオナは軽く肩を竦める。
飄々として熟してくれるのだが、アウグスタとしては頼り過ぎている自覚もあるし、もっと若者達には自由を謳歌していて貰いたいとも思っている。
そのために、この十四年間。働いてきたのだから。
「ありがとう、充分だわ。下がって結構よ」
本当は、もっと聴くべき話もある。
街の細かな様子であるとか、煽動に同調した住民の数だとかも、知っておきたいことだった。
だが、やはりフィオナの負担を思えば、最低限で構わない。そう考えたアウグスタであったのだが——。
「何ですか。私の息抜きを、取り上げようと?」
むくれるフィオナがいる。つい、「息抜きって?」などと、問い返してしまう。
「クソ親父の相手に街のお掃除と、今日は結構疲れたんだから、自慢くらい、マンマに聴いて貰っても良いでしょう?」
悪戯に微笑む娘。猫の様に目を細め、「くたびれたもの」と言いながら頬杖をついた。
そんな仕草に現金なもので、アウグスタもつい気持ちが軽くなってしまう。
「あらあら。大人になったと思っていたけどフィオナは、相変わらずの甘えん坊さんなのね」
十四年前の乱、その時期に母を亡くした彼女は、その前から、とても話好きな女の子であった。
強い子で、優しい子なのだと、アウグスタは知っている。
フィオナは一時期は塞ぎ込んでいたものの、やがて立ち直り、オルトと共に街に出て、色々な土産話をしてくれる様になった。
「オルトが張り切りましてね。手当たり次第に、『お前、何処のもんよ?』だなんて因縁付けるので、捗りましたよ」
こういった、息子達のどうしようもないお話を。
とても嬉しそうに、報告をしてくれるのだ。
「あの、バカ息子……。乱暴は、してないわよね?」
「あの大声は暴力ですね。手は、出してないけれど」
母としては少しだけ、こめかみに青筋が浮かんだ自覚まである。
「ならば、まだ我慢しましょうか。悪いわね、巻き込んで」
「いやー。アントニオ様もいたし、効率よく捕まえられたんですから、心配なさらずにー」
ケラケラと笑うフィオナとは裏腹に、もう一度アウグスタは息を吐く。
「まぁ、付き合って差し上げましょう。街の様子は、どうでしたか?」
オルトのことは置いておき、どうせなら聞いておこうと思う。フィオナによる観察は、頼りになった。
「オルトとルカが街を駆ける度、そりゃ凄い声援で。人気者ですよねー」
「前言撤回。そういった話ではなくね」
渋い顔をしてみせるアウグスタ。興味はなくもないが、知っていることだ。今更であった。
「あっは、お付き合いお願いしますよ。で、飛び出したルカとオルトですけど、二人からは何と?」
アウグスタは首を振る。
実の所、帰って来た二人から、何の話も聞けていない。まだ日のあるうちに、帰って来たにも関わらず。
「儀式の主役ですし、人気者ですからね。『お母様』といたしましては、鼻がお高いのではなくって?」
「揶揄わないでよ」
何が楽しいのか、また笑い出すフィオナ。
別に悪い気分にはならないが、アウグスタは少しだけ、居心地が悪い気がしている。
「揶揄ってなんかいませんけど、オルトはともかく、ルカからも、何も?」
どころか、ルカは帰って来たと共に連れて行かれてしまった。
「嵐みたいな四人組にね……」
「ああ。あの子達、元気が凄いから……」
泊まりに来ているルカの友達だという四人組。
一人は、あの赤い屋根の家の子であるのだが。
だからこそ、アウグスタは改めて、真面目な顔をした。
「あの子には可哀想な事となりますけれど、ご両親とお祖父様は、追訴される事でしょう」
決まった事である。現状、行政府にも彼らを逮捕拘束する理由はない。
架空の投資による金銭の回収や、霊核の溜め込みでは現状法にない以上、罪には問えなかった。
「死体は出てこなくとも、血痕からですか?」
「重要参考人としてになるわね。偽証と共に、情報共有の義務違反を用いますわ」
そういった事においては整備されている。黙秘や冤罪の主張があるだろうが、アウグスタも逃すつもりはない。そろそろ投資に纏わる問題も、制度化しなくてはならない時期に来ていた。
「……なら、ますます大事な情報となりますか。ルカも、まだまだですね」
「そう言うのなら、フィオナが教えてあげなさいな」
言っては何だが、ルカはアントニオの様に剣とは成れない。例え成れたとして、それが幸せな事ともアウグスタには思えずにいる。
だからこそ、剣でない生き方を身に付けて欲しい。そう望んでもいた。
「ご承知でしょうけど、アントニオ様が捕らえたのは王都から来た冒険者。裏も取れていますけど、赤い獅子の尻尾です」
想定していた者達だ。そして、アントニオによる尋問により、簡単に口を割った。
流石に、何の力も待たない女を暗殺しようなどという狙いは、想定外であったのだが。
「考えてみれば、そのくらいはやりかねないのよね。介入の良い口実になるし。何故か、あまり実感はないのですけどね」
眉間も揉みしだいたアウグスタの認識は、甘かったのかもしれない。
平和であるからこそ富を産み、成り立ったのがこの街だと彼女は知る。騒乱は、経済の前提を崩した。
まさか、財務省の役人達が利害計算を度外視するとは思えずにもいる。
「まぁ、そこらは調べなきゃいけませんけど。けれど、オルト達二人が捕えたのは、そういった、連中ではありません。しかも、何人も」
数字として、報告は受けている。だが詳細ともなると、まだだった。
公的な身元の洗い出しや照会。それらの個人情報取り扱いは、行政府の権限にて行われる。
「そういうことね……。知り合いかしら?」
街の状況や情勢を知るからこそ、思い至ったアウグスタの吐き出す溜息は重い。
「……残念ながら、一人は。そういうことです」
だが、軽やかに答えたフィオナの吐息も重かった。アウグスタは返さない。他だ、続く言葉を待つ。
「あの発砲は、ウチの傘下企業、その代表によるものです。騎士達の捕物を見て、怯えた市民のね」
フィオナによる情報は、アウグスタの予測ともそう違いがない。だからこそ、重い気分を運んだ。
「やはり、地獄を編む事になったわね……。騎士達を用いた弊害かしら」
領主代行の名で、提言した法案がある。
「強制執行を劇場的に見せるには、悪い手ではありませんでしたよ。効き過ぎたみたいですけど」
拡散型先物取引事業における、事業者破綻による被害弁済の特別条項。受益者への遡及的回収だ。
これを速やかに行うために、アウグスタはアントニオから騎士達を、武力そのものを借り受けている。
「……やはり、強引だったのかしら?」
勿論、弁済には猶予期間も設けられている。だが、中には隠蔽や改竄を行い、敷かれた義務から逃れようと企てる者達もあった。
その対策に騎士達を用いたものだが、悪手であったのだろうかと、アウグスタは自省をし始める。
「そうは思いませんけど、効き過ぎました」
フィオナの声は乾いていた。
劇場型である騎士を用いての捕物は、武威を示しての抑止の意味も持つ。破綻が約束された投資話に乗らせず、損をさせない為の、采配であったのだが——。
「そうね……」
アウグスタの声も、また乾く。
意図的な暴力行使を行ったのは、政治的な意図を持つ赤い獅子の尻尾ではなく、共に生きる街の者。
「潔い人ばかりじゃありませんしね。それに、手元でお金を遊ばせておく商人も、そうはおりませんので」
フィオナの言葉に頷いて、アウグスタは切り替える。
それぞれに事情があり、対応もそれぞれだった。
だからこそ、強引な手段であっても選んでいる。
「幸いに、怪我人が出なかったことだけが救いね」
それだけが、彼女にとっての慰めだった。
例え、幸運に過ぎなくとも。
「結果論に過ぎませんけどね。この前と同じで、監査官の流した銃が使われた。たまたま、向けた先が問題としなかっただけです。アイツさ、あと三日で戻りますけど」
トラーパニだけでなく、各地で当然の自衛権として流通しているのが、銃を始めとする武器だ。
単純に規制してしまえば、銃による被害は減るだろう。だが、それだけでは別の問題が起こった。
「監査期間の終わりね。尤も、流れた武器はどうしようもないけど。規制も、現実的ではないのよね……」
実の所、トラーパニの平和は薄氷の上にある。
貿易都市という性格上、人の出入りが多く、複雑に利権が絡み合っていた。
「調子に乗った破落戸が、やりたい放題を始めかねませんし? 規制をしたら、治安も最悪になりそうですから。その前に不穏分子を一掃しないとなりません。そして、その後も永遠に。出来ますか? 奥方様」
フィオナの問いは、アウグスタを抉る。そうする事に迷いがあるから、踏み込めない。
人は倫理や道徳にだけ従って、生きられるものではないと彼女は知っている。
「……厳しいわね」
寧ろ、欲望や恐怖といった生々しい渇望こそが、生きる動機となっている。
アウグスタによる理と利による統治は、その行先を調整することで、なんとか成り立っていた。
十四年前の夫の同僚達も、十二年前の祖父達も。
つい最近の不満の捌け口として銃を手に取った少年や、今日恐怖により発砲を行った、フィオナの知人を含む何名もの人達だって。
その手段を選ばなくとも済む道を選べたと、信じたかった。だが、その願いは裏切られ続けている。
「ただ、今日の捕物は楔となるでしょう。暫くなら、時間を稼げるのではありませんか?」
その読みも、共通している。だが、根本的な解決とはならない。具体的な解決案が見つからないので、踏み込めずにいる問題だった。
「時間稼ぎだけで、負債を残してしまいそうね」
出来る事ならば、未来への負債は軽い方が良い。そう考えるアウグスタであるのだが——。
「そういった遺産は、私達若者の課題ですのでお気になさらず。時間稼ぎだけで充分ですよ。代行様」
自信満々に笑うフィオナに、アウグスタは瞳を細めた。あくまでも代行でしかない彼女では、全てを背負う事はできない。
歴史も、文化も、未来も。
「そ。なら、期待しておくわ。そろそろ寝なさいな。明日も、早いのでしょう?」
だからこそ、考え続ける必要があった。今、やれる事を。片手で扉を指し示す。
「では、ご機嫌麗しゅう奥方様。おやすみなさい」
瀟洒な礼を見せるフィオナへ、優雅に礼を返す。
——フィオナも。いいえ、オルトも、ルカも、リナも、もう小さな雛鳥ではないのね。
遠ざかってゆく、背筋の伸びた背中。扉が閉じられる。やがてアウグスタの視線は、机上に置かれたままの、書き掛けの報告書へと。
——まずは、あと三日。
問題は、簡単に解決するものではない。
だからこそ、せめて中央による監査期間が終わるまで、この街を揺らさせるつもりもなかった。
いずれ訪れる未来を守るために。
まだ、アウグスタも立ち止まれはしなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。